校長室からの風(メッセージ)
風がやむ時 ~ 「校長室からの風」最終章
多良木高校の校長を拝命した時、「任重くして道遠し」(『論語』)の言葉が思い浮かびました。あの日から4年が立ち、閉校式を終えました。振り返ると充実した4年間だったと思います。
この「校長室からの風」は、多良木高校長に就任して始めました。私の思いや考えについて、生徒をはじめ職員、保護者の方、地域の皆さんなどに広く伝えると共に、閉校に向かう多良木高校が最後まで活気ある学び舎であることを発信し続けようという目的からでした。なぜ「校長室からの風」という名前にしたのか。それは、学校がいつも風通しの良いところであってほしいという願いがあったからです。たとえ微風であっても、校長室からいつも風が吹いていれば、その風は廊下を通り、職員室や教室や図書室等を巡り、窓から出てグラウンドや体育館等にも出て、そして球磨盆地へも広がっていくでしょう。そのような願いと期待を込め、4年間、「校長室からの風」を送り続けました。
しかし、その風もやむ時が来たようです。最後の学年の67人の生徒たちはそれぞれの進路先に旅立っていきました。閉校式を終えた学校では、日々、職員が整理と片付けに取り組み、膨大なモノの搬出作業を行っています。多くの県立学校が様々な備品や物品を受け取りに来ています。
生徒のいない学校を毎日歩きます。椅子も机もない教室はなぜか小さく見えます。反対に、掲示物もないがらんとした廊下は妙に長く見えます。生徒と言う主人公のいない学校の寂しさは言いようのないものです。そして、生徒がいないということは、私たち教職員の居場所もないことを意味します。「校長室から風」を送る使命も終わったようです。
来週には、私たちの専用の仕事机や業務用パソコンも運び出される予定です。時間は無情に過ぎ、気持ちは追い付きません。若人たちが笑顔で未来に向かって旅立ちました。それを見送った私たちにも、新しい旅が始まります。
「校長室からの風」をお読みいただき、誠にありがとうございました。
生徒の笑顔 ~ 「97年間の末っ子たち」
3月1日(金)の卒業式では涙を見せる生徒もいましたが、翌日の閉校式では生徒に涙はありませんでした。皆、明るく、笑顔でした。
閉校式で生徒代表挨拶を務めたのは古堀廉大君でした。ご両親が多良木高校卒業生である彼は、東京の中学校を卒業し入学してきました。そして、野球部と勉強の両立に取り組み、3年間自らを厳しく律し生活してきました。千人近い聴衆を前にしても、野球部のエースだった古堀君は動じることなく、立派な態度でした。挨拶の中で、多良木高校最後の学年として注目され続けたことへのプレッシャー(重圧感)に言及しながら、「全力を尽くしました」と述べたところが印象的でした。
生徒合唱『いつまでも』は、まさに閉校式の圧巻の場面でした。遠く離れても故郷を想う気持ちを、伸びのある声で生徒たちは心を込めて歌いました。その歌声に、会場では目頭を押さえる人の姿が多く見られました。ステージ上の67人の生徒たちは輝いて見えました。そして、歌い終わりピアノの後奏の間に、白い晒し布で「一生多高生」の文字をつくり、「私たちは、一生、多高生!」と力強く宣誓し、会場から惜しみない拍手が沸きました。閉校式においても生徒たちが主役となった瞬間でした。
歌『いつまでも』の作者である音楽家のタイチジャングルさんが閉校式に出席してくださいました。学校としては誠に有難いサプライズ(驚き)の出来事でした。式終了後、タイチジャングルさんから生徒たちに声を掛けていただき、一緒に記念撮影を撮ることができました。
閉校式後、生徒達はより明るく、元気で、お互い笑い合っていました。恐らく、彼らは「やっと多良木高校のアンカーとしてゴールテープを切った」という達成感に満たされていたのだと思います。そして、自分たちの言葉、歌声、立ち居振る舞いに、多くの同窓生や地元住民の方が感動されたことを実感していたのでしょう。彼らは「多良木高校97年間の末っ子たち」です。
愛すべき「末っ子たち」の皆さん、多良木高校に忘れ物はありませんか?
学校は最後の春休み中です。もう忘れ物を取りに行けない時が近づいています。
閉校式を終えて ~ ピアノの上の一輪のバラ
千人近い人々が集い開催した多良木高校閉校式から一夜明けての3月3日(日)は朝から雨でした。この日は、半世紀にわたって人吉球磨地区から初の甲子園出場の夢を追い続けた多良木高校野球部の閉部式が行われました。最後の学年の選手たちとOBとの送別試合は中止され、閉部式だけを午後1時から第一体育館で実施しました。最後のチームの選手及び保護者、OB、歴代の監督やコーチ、そして野球部応援隊の皆さん等、150人ほどの参加がありました。
多良木高校は体育系部活動が盛んだったことで知られます。昭和43年に現在地に移転し、広大な敷地と充実したスポーツ環境が整備されていくに伴い、陸上競技部のオレンジ旋風、女子剣道部の全国大会優勝、バレーボール部の躍進など輝かしい成果が相次ぎました。そして、近年では、甲子園出場に挑戦し続けた野球部は地域社会に元気と希望を与える存在として注目の的でした。地域の小規模校野球部の果敢な戦いを、多くの高校野球ファンが応援してくれました。永年、監督として指揮をとってこられた齋藤健二郎監督も感無量の様子で、閉部式において熱く思い出を語られました。
この日は、学校を訪ねる同窓生の姿も目立ちました。3月2日(土)の閉校式に合わせて、学年同窓会や部活動の集まりが多良木町や近隣で幾つも開かれており、改めて懐かしの校舎に別れを告げに来られたのでしょう。
また、学校の閉校業務の一環として、音楽室と第一体育館にあるグランドピアノの運び出し作業もこの日に行われました。卒業式と閉校式が終わるまで二台のグラウンドピアノは必要なものでした。音楽室は教室棟3階にあり、専門の運搬業者に委託し、小型の重機で吊り下げトラックに乗せるという大掛かりな作業となりました。体育館のピアノは老朽化が著しく廃棄され、音楽室のピアノは球磨支援学校へ移管され、そこで活用されることになっています。
運び出し作業の立ち会いで音楽室へ行ったところ、グランドピアノの上に、一輪のピンクのバラと「ありがとうございました」と記された紙が置かれていました。10年間、このピアノを弾き、音楽の授業や文化祭・式典で合唱指導に当たってきた本校音楽教師の惜別の思いに胸が打たれました。
バラが置かれた音楽室のグランドピアノ
閉校式
自動車が次々に正門から入ってきます。保護者と職員が協力して、駐車する車は野球場に、送りの車は乗客を降ろしたあと出口へ誘導します。旧職員、同窓生、そして地元住民の皆さんが続々と会場の第一体育館に集まってこられました。
平成31年3月2日(土)、多良木高校閉校式の日です。午後2時の開会時点で出席者は九百人を超え、最終的には960人に達し、1階フロアに用意した800の席では足りず、2階にも席をつくり、さらには立ち見状態の人も出ました。97年間の歴史を閉じる学校へ寄せる思いの強さ、深さを感じずにはいられませんでした。
創立50年に当たる昭和47年度には全校生徒数1150人を数え、最大規模を誇りました。同年、水上分校(水上村)も開校しました。昭和40年代から50年代にかけて、在校生が千人規模でした。その後、人吉球磨地域の急速な少子化に伴い、生徒数が減少し、平成2年には水上分校も閉校、ついには本校まで閉校するに至ったのです。久しぶりに全盛期に匹敵する人数が集い、体育館をはじめ校舎、グラウンドなど学校全体が喜んでいるようにも見えました。本来、学校は人が集い、活気あふれる場所なのです。
閉校式は、多良木高校の伝統と精神を十分に発揮した内容であったと思います。女学校時代の卒業生の東キヨ子さん(90歳)は、戦争中の学徒勤労動員の思い出を張りのある声で朗々と語られ、聴衆を引き付けられました。近年の卒業生で地元の郵便局で働く椎葉響弥君(22歳)の簡潔で力強い言葉は、次代の球磨郡を担う頼もしさが感じられました。また、在校生代表の古堀廉大君は、最後の多良木高校生として全力を尽くしたと述べ、会場から惜しみない拍手を受けました。そして、最終学年の67人の生徒全員がステージに立ち、生徒合唱曲「いつまでも」を歌い、「一生多高生」と白の晒し布を使ってメッセージをつくって「ありがとうございました!」と挨拶し、多くの人の涙を誘いました。クライマックスは、会場全員での校歌斉唱でした。
多良木高校の集大成の場となった閉校式は、そこに立ち会った人々の記憶に永く留まることでしょう。その記憶と共に私たちはこれから生きていきます。
最後の卒業式
若人の旅立ちに立ち会えることは、教職員冥利に尽きると思います。毎年3月1日の卒業式では心が震えるような感動を覚えます。しかし、今年の卒業式はさらに特別なものとなりました。
平成31年3月1日(金)、多良木高等学校最後の卒業式を行いました。多良木高校97年の最終学年の生徒であり、言わば最終走者(アンカー)として先輩方がつないできた襷を受け、この3年間走ってきました。そして、私たち教職員も伴走してきたことになり、感慨もひとしおです。「97年の末っ子」に当たり、最後まで甘えたところがあり、愛すべき生徒達でした。
昨年までの卒業式では見送る在校生がいましたが、今年は地域の住民の方々が大勢出席され、席を埋めていただきました。そして、保護者、職員と一緒に「蛍の光」を合唱し、卒業生を送ることができました。閉式後、退場する生徒を住民の方たちが両側から囲み、一人一人に花束を渡される光景は胸に迫るものがありました。また、今年の卒業式には15人の社会人聴講生の方にもご出席いただきました。科目「情報処理」を生徒と一緒に1年間学ばれました。人生経験豊富な社会人の方々と共に学んだことは、生徒にとって貴重な経験となったはずです。
卒業生へ贈る式辞で、特に私が気持ちを込めて伝えたかったのは次の部分です。
「来月で平成の世が終わります。平成に代わる新しい元号の時代は、皆さんが主人公です。多良木高校は明日九十七年のゴールを迎えますが、皆さんの未来はそのゴールの先に広がっています。未来に向かって新たな挑戦が始まるのです。」
最後の卒業式では、バイオリン、チェロの弦楽器の演奏が響き、例年にない格調が漂いました。人生の新たな段階へと進む卒業生の姿を見送り、喜びと感傷に浸り、少しの間、時間がとまったような感覚になりました。
私たち教職員一同、この生徒たちに出会えたことに深く感謝しています。
アンカーの皆さんへ
「新入生の皆さん、皆さんは多良木高校の期待と注目のアンカー(最終走者)です。アンカーを走ることで他の学校ではできない特別な体験ができ、同窓会や地域の方々の熱い応援をうけることでしょう。皆さん、一緒に走り、三年後に感動のテープを切りましょう。」(平成28年度多良木高校入学式)
平成28年4月の入学式で私はこう呼びかけました。閉校する学校と承知していながら、敢えて本校を志望してくれた生徒の皆さんの思いを重く受けとめ、「多良木高校だからできる教育」、「多良木高校でしかできない教育」を私たちは目指しました。あの日から3年。予想していた以上の大勢の方のご支援を受け、地域と一体となって行事を創り、生徒の皆さんは多高生としての元気を発信してきました。アンカーとしての使命を立派に果たしたと思います。
アンカーの皆さんは、母校が閉校するという切実な体験をしました。平成に入って人吉球磨地域の少子化が急速に進み、入学者数が減少したことが多良木高校閉校の要因です。人吉球磨地域だけでなく、この状況は全国を覆っています。少子高齢化そして人口減少という大きな社会構造の転換に我が国は直面しています。平成の三十年間の社会を担ってきたのは私たち大人ですが、平成の先の時代の主人公は皆さんです。人口が急激に減少する社会が待ち受けています。この国に明るい展望はないのでしょうか?
そんなことはないと私は思います。生徒数が減少する多良木高校はどんな学校づくりを進めてきたでしょうか?近隣の高校や支援学校と積極的に連携すると共に、地域に開かれた学校として社会人聴講生を受け入れ、地域住民の方と一緒になって学校行事を創り、保育園児から高齢者の方まで幅広い交流をしてきました。そのことで学校の活力は維持され、地域の人々の拠り所としての学校の存在価値を発揮してきました。この多良木高校での高校生活はきっと人口減少社会を打開するヒントになると思います。
子どもから大人まで世代を超えた結びつき、外国人の方や障害のある方とも自然体での共生、このようなことがこれからの社会では益々重要になるでしょう。地域の皆さんに励まされ、見守られ成長してきた多良木高校のアンカーの皆さんこそ新しい社会の担い手になる資質を豊かに持っていると信じます。
生徒合唱「いつまでも」
「思い出している 川に映った夕日
あふれる水の 音とやさしい風
思い出している グラウンドに咲いた花
どこまでも延びる 緑と山の陰
忘れたくない 涙でもう何も見えない
もどかしい 何もできない
だから伝えたい それでも変わらない ふるさとの広い空を
どんなに離れていても いつも想ってます」
(原詞:タイチジャングル)
歌「いつまでも」は、熊本地震復興支援ソングとして、シンガーソングライターのタイチジャングルさんが創られました。故郷への思いが込められた美しいバラードのこの曲に本校の音楽教師が惹かれ、多良木高校最終年度の生徒合唱曲に選びました。歌詞の一部を多良木高校に合わせてアレンジすることをタイチジャングルさんからご諒解を得て、昨年12月に開催した最後の文化祭において生徒・職員の全員で合唱しました。そして、来る3月2日の閉校式においても、生徒が合唱します。
タイチジャングルさんの原詞も、山々に囲まれた人吉盆地、そして球磨川と豊かな自然と温かい風土に育まれてきた多良木高校の情景を彷彿させる世界です。抒情的な旋律の中に、故郷へ寄せる瑞々しい心性が表現されています。熊本地震からの一日も早い復興を願って創られたこの歌には、固有の場所を超えた普遍性があるように思います。
2月に入って二日登校日があり、生徒は体育館のステージで「いつまでも」の合唱練習をしました。まだまだの出来ですが、練習の歌声を聴いているだけで胸が熱くなりました。3月2日(土)の多良木高校閉校式において、この「いつまでも」の生徒合唱と全員による校歌斉唱がクライマックスとなるでしょう。
「いつまでも」の合唱練習風景
最後の大掃除
「ただ今から、地域の皆さんと一緒に大掃除を始めます!」との私の挨拶で、2月19日(火)の午後、多良木高校最後の大掃除を行いました。家庭学習期間に入り2回目の登校日であった生徒達を中心に、教職員、保護者有志の方、そして本校所在の多良木町6区と近隣の7区、8区の住民の皆様にもご参加頂いての大掃除となりました。生憎の雨のため、外庭の掃除はできず、卒業式及び閉校式の会場となる第一体育館を中心に、校舎のトイレや廊下、正面玄関の清掃に取り組みました。
近年、生徒数が減少する中、本校はより開かれた学校として、地域と連携した学校行事作りに努めてきました。体育大会や文化祭には大勢の地元の住民の方が足を運ばれ、生徒に熱い声援を送ってくださいました。また、生徒達も福祉の実習やボランティア活動等で積極的に地域社会に出て、公民館でのレクレーション活動、グラウンドゴルフ、郷土料理と様々な交流を重ねました。多高生は、地域の方々に見守られ、励まされ、成長してきたのです。
欧米では、教会が中心となりコミュニティーが形成されています。一方、わが国では明治以来、学校が人々の拠り所として町の中心にあると言われます。「学校と共に」という人々の気持ちが反映しているのだと思います。多良木高校は創立以来97年間、いつの時も地域と共にありました。大掃除のお話を地域の区長さん達にお願いしたところ、「声をかけてくれてうれしい」とまで言ってくださいました。地域の皆さんの学校だと意識してくださっていることを誠に有難く思います。
約一時間の大掃除終了後、第一体育館に全員集まり、記念写真を撮りました。
体育館を出ると、雨が上がり薄日が射していました。この日は、二十四節気の一つの「雨水」(うすい)に当たるそうです。水がぬるみ、草木の芽が出始める頃と言われます。雨上がりの校庭に立つと、温かい土の匂いが漂っていました。来週は弥生三月です。
大掃除の後の集合写真
閉校記念誌の完成
多良木高等学校閉校記念誌が完成して、2月14日(木)の午後、印刷会社から本校へ納品されました。サブタイトル「人生(よ)の幸福(さち)やがて茲(ここ)に生れん」は校歌の一節から取ったもので、表紙の墨書は本校書道担当の土肥先生にお願いしました。表紙写真は、学校正面玄関を斜めの角度から撮り、裏表紙は九州山地を背景に二棟の体育館と校舎が写っています。どちらも爽やかな白雲と広い青空が印象的な明るい仕上がりになっています。
この閉校記念誌は昨年の1学期から同窓職員を中心にチームをつくり作成に取り掛かりました。同窓会とPTAからも担当の方が編集作業に加わっていただきました。そして、編集方針として「写真集」を目指そうということになりました。本校には戦前の女学校時代の古い写真が少なかったため、同窓生や地域の方に御協力を呼び掛けたところ、貴重な写真や資料の御寄贈、御寄託が相次ぎました。現存する最古の卒業アルバムは昭和8年「熊本縣立多良木實科高等女學校」卒業のものです。卒業生は47人。針やミシンでの裁縫や調理の実習、そして農作業、修学旅行などセピア色の写真から昭和初期の青春が伝わります。
大正11年(1922年)に上球磨地域の九ケ村組合立の女学校として創立、戦後の学制改革で男女共学の高等学校として再出発、施設拡充のため昭和43年に現校地に移転、平成に入って生徒数が減少するも地域にとって大きな役割を果たしてきた学校でした。平成31年(2019年)に閉校となり、97年間の歴史に幕を下ろしますが、いつの時代も地域と共に在った学校でした。
閉校記念誌の冒頭部分では、県教育委員会の宮尾教育長、歴代の校長先生方の玉稿が並びます。そして20頁から185頁まで「多良木高等学校思い出の97年」として、主に卒業アルバムからの生徒写真が卒業年次ごとに続きます。ページをめくりながら、写真の中の女学生、高校生の視線の先には何があるのだろうと考えました。それはやはり「未来」だったのだろうと思い至りました。多良木高校は、若人たちが未来に向かって夢を育んだ学び舎だったのです。
卒業を間近に控え ~ 学校評議員会
学校評議員とは、開かれた学校づくりのため、学校運営について意見や助言をお願いする方たちです。本校では、町の教育委員、中学校長、元PTA会長、地域の商工会代表、同窓会代表と5人の方が務められ、年間を通して授業や学校行事を参観していただいています。そして、年度末の2月に学校評価をお願いしているところです。
多良木高校最終年度の学校評議員会を2月13日(水)に校長室で開催しました。前半は、代表生徒と評議員さんとの懇談の時間です。毎年恒例となっているもので、生徒は、1組の体育コースから畑野君、福祉教養コースから税所さん、2組から森屋さんの3人です。
高校3年間を振り返り最も印象に残ることを話してほしいとの評議員さんからの要望がありました。畑野君は、体育コースとして2年次に挑んだ市房山キャンプ(2泊3日)を挙げました。体育コース24人の団結力が強まった行事だったと述べました。税所さんは、校外での実習体験(保育園、老人ホーム等)を挙げました。そして、実習先の施設で「多良木高校がなくなるのはさびしかねえ」と多くのお年寄りから声を掛けられたと話しました。森屋さんは、2年次に出場した県高校英語スピーチコンテストを挙げ、語学においては伝える気持ちが大切であることを学んだと語りました。
三人とも、学年が上がるにつれ先輩たちが卒業して生徒数が減り、空き教室が増えていく状況には寂しいものがあったと述べました。評議員さん達からは、「閉校するとわかっていて、多良木高校に入学してくれて本当に有難う。」と感謝の言葉があり、最後は涙ぐまれる方もいらっしゃいました。
「最終学年」、「多良木高校のアンカー」と3年間注目されてきた67人の生徒達です。きっと内心は、そのことが重荷になったこともあったでしょう。後輩もいる、普通の高校生でありたいと思ったこともあったでしょう。しかし、地域の方々から見守られ、励まされ、ここまで来ました。3月1日(金)の卒業式では、畑野君、税所さん、森屋さんの3人が卒業生を代表して「決意の言葉」を述べることになります。彼らの晴れ姿が今から楽しみです。
学校評議員さんと代表生徒との懇談
18歳選挙権への期待
2月8日(金)は生徒の登校日でした。2月に入り生徒は家庭学習期間となり、教職員の大人だけの学校でしたが、やはり生徒が登校してくると校内の活気が違います。生徒が存在してこその教職員であり、学校であると改めて認識します。卒業式及び閉校式の予行も実施する一方、主権者教育として18歳選挙権に係る出前授業(多良木町選挙管理委員会)を開催しました。
公職選挙法が70年ぶりに改正され、選挙権年齢が満20歳以上から「満18歳以上」に引き下げられたのは平成27年6月でした。翌年施行されて以来、2年半余りとなります。本校においても、2年生の3学期に多良木町議会傍聴を行うなど力を入れて取り組んできました。特に2年前の多良木町町長選挙では二人の候補者に正門前まで来ていただき、選挙権のある3年生に公約に係る演説を聴かせる企画で注目されました。お蔭で、この町長選挙やその前年夏の参議院選挙における本校生の投票率は85%を超える高いものでした。
卒業する最後の3年生67人にとっては、4月の統一地方選挙が初めての選挙となるでしょう。卒業前、登校日に町選挙管理委員会の方に来ていただき、特別にセミナーを行うことで、主権者としての意識を高める狙いがありました。選挙が近いという理由だけではありません。機会ある毎に生徒達には伝えてきましたが、平成の次の新しい元号の世は、間違いなく彼らの時代だからです。人口減少そして少子化という我が国が直面している大きな変化によって多良木高校は閉校していきます。この社会構造の転換期に、新しい社会を創っていくのは彼らなのです。
多良木高校前身の女学校が創立された大正11年(1922年)は、男性の多額納税者しか選挙権を有していない時代でした。男子普通選挙(満25歳以上)が実現したのは大正14年です。戦前、女性は選挙権を得ることはありませんでした。男女普通選挙(満20歳以上)が実現したのは昭和20年12月でした。選挙権には先輩方の願いが込められていることを、平成最後で本校最後の卒業生に伝えたいのです。
18歳選挙権に係る出前授業の様子
「卒業考査」が終わる
3年生67人しか在籍していない本校にとって、1月29日(火)から31日(木)にかけ3日間行われた卒業考査は、通常の教育課程の最後となるものでした。3年生は明日2月1日から家庭学習期間に入り、3日間の登校日を経て、3月1日の卒業式を迎えます。
卒業考査の最終日の午後、地域の税理士さんを講師として招き、「租税教室」を開催しました。高校卒業に当たり、社会の仕組みを支える税について改めて学ぶセミナーであり、例年実施しています。高校生にとっては、身近な消費税以外、税への関心は低いものです。しかし、卒業生のうち四割は就職することになります。また、進学する生徒にとっても社会の当事者意識を持つ意味で、税の重要性を具体的に理解することは意義が大きいと考えます。高校でも「現代社会」(全員必修)や「政治・経済」(選択履修)の科目で学習してはいますが、税のプロである税理士さんによるセミナーは生徒たちに強い印象を植え付けるようです。
卒業考査が始まる前日、福祉教養コースの生徒14人が調理室でクッキーを作り、それぞれ包装して全職員へ贈ってくれました。校長室にも担当の生徒が持ってきてくれました。クッキーが入った小箱には生徒たちによる手書きのメッセージの紙が添えられていました。「先生方にはたくさん迷惑をかけました。立派な大人になります。」と書かれていました。
14人という少人数での福祉の専門の授業や校外での実習(保育園・介護福祉施設等)が多かったため、濃密な人間関係でした。絆が強まる一方、意見の対立や誤解から衝突することもあったようです。職員と放課後遅くまで話し合う光景も見られました。しかし、そのような人間関係のトラブルを経験することも高校時代は必要だと思います。トラブルを学びに変えることが大切です。異なる自我の存在である他者同士がどうすれば協働して学び、作業できるのか? この3年間で学んだことは大きな財産になるでしょう。
一か月後、卒業証書を手渡す日が待ち遠しくなります。
租税教室の様子
永遠瑠マリールイズさんのお話
1月19日(土)、大学入試センター試験を受験する多良木高校生7人を会場の東海大学(熊本市)で励ました後、日本教育会熊本県支部の講演会(ホテル熊本テルサ)に参加しました。講師は、ルワンダ人として波乱の体験を経て、日本国籍を取得された永遠瑠(とわり)マリールイズさん(53歳)です。
ルワンダで洋裁の教師として働いていたマリールイズさんは、日本から派遣された青年海外協力隊員と出会い、その協力者として活動したため、1993年に来日してJICA(国際協力機構)の研修を福島県で受けることになります。その時、彼女のホームステイ先の80歳を超えた老婦人が新聞を毎日読む姿を見て、日本という国の識字率の高さに驚きます。さらに日本語の学習をとおして、丁寧に読み書きを繰り返して上達していく教育過程の大切さを知ります。この日本との出会いは、帰国後の1994年に起こったルワンダ内戦に巻き込まれたマリールイズさんを救うことになるのです。日本の知人たちの応援もあり、マリールイズさん家族は「難民」ではなく「留学生」としての来日が認められたのです。
マリールイズさんは2000年に「ルワンダの教育を考える会」を立ち上げ、ルワンダに初等教育の学校を設けて日本式教育の導入に取り組まれています。講演の中で、江戸時代以来、「読み・書き・計算」の習得に力を入れてきた日本の初等教育の素晴らしさを称えられ、100年以上も続いている小学校があることを絶賛されました。そして、子どもたちの健康を支える「給食制度」、全員で楽しむ「運動会」などをルワンダの学校においても実現されています。
「社会の平和」と「教育の普及」がいかに尊いものか、マリールイズさんは流暢な日本語で私たちに熱く語られました。学校教育に携わる私たちは、改めて先人の見識に敬意を表すると共に、教育の原点に立ち戻る大切さを認識しました。そして、内戦を克服したルワンダが女性の社会参加を促進し、女性政治家が日本よりもはるかに多いという事実を知り、他国からもっと学ばなければならないと反省したのです。
大学入試センター試験に臨む7人
平成31年度大学入試センター試験に多良木高校から7人の生徒諸君が挑みます。1月19日(土)、20日(日)、東海大学校舎(熊本市)で受験します。受験を前に、17日(木)の昼休みに校長室で激励会を行いました。その時の校長の励ましの言葉を次に掲げます。
「大学入試センター試験は全国で約57万人が受ける大規模なもので、高校3年間の学力の到達度を評価する、教育的意義がとても大きいものです。普通科の高校生には大学入試センター試験の受験を私は勧めています。たとえ秋に推薦入試で合格が決まっていても、冬まで受験勉強を続けて学力を充実させ、春の進学につなげて欲しいのです。
マーク式の選択問題ですが、勘で当たるような生易しいものではありません。思考力が問われます。限られた時間で、問題に取り組み、解答を考えることは、思考力を鍛える最上のトレーニングです。情報や知識の量だけならインターネットに人は叶いません。限られたパターンの中での最適解を求める作業力ではAI(Artificial intelligence)に遠く及ばないでしょう。チェスや囲碁の名人がAIに敗れるくらいです。
しかし、皆さんはその上をいかなければならない。インターネットの膨大な情報やAIの驚異的な演算能力を活用できるようにならなければならない。そのために、自らの思考力を鍛えるのです。皆さんはこれから上級学校へ進学して、答えのない学問の世界へ入っていきます。答えのあるものはAIに任せればよいのです。けれども、学問とは問いを立てることを学ぶものです。自分で学ぶ目的を創りだして、「こうなっているのだろうか」と仮説を立て追求することが学問です。これは人間にしかできないことです。インターネットやAIは責任を取りません。やはり、人が責任をもって考え、問題を追求していくことが必要です。
7人の皆さんを多良木高校の代表としてセンター試験に送り出します。試験に臨む以上は、本番が最も良い結果となるよう、これまで勉強してきた力を十分に発揮してください。」
「箱根駅伝」を走った先輩
「多良木高校が僕の原点です」。
上武大学4年生、駅伝部主将の太田黒卓君(20歳)は高校時代を振り返って語りました。1月2日の箱根駅伝往路の2区(23㎞)を上武大駅伝部のエースとして力走した太田黒君が1月10日に多良木高校を訪問してくれ、校長室にて握手で迎えました。
高校時代、太田黒君は陸上の中・長距離選手として活躍し、3年次では熊本県高校総体の800mと1500mのチャンピオンに輝き、全国高校総体(インターハイ)の800mでは8位に入賞しました。穏やかで実直な人柄は皆から慕われる一方、陸上にかける並々ならぬ情熱と強い意志を持ち、朝夕、グラウンドを黙々と走る姿が印象的で、今も私の目に焼き付いています。そして、「箱根駅伝を走りたい」という夢を掲げ、上武大学(群馬県)に進学し、2年次から3年連続で箱根駅伝に出場を果たしました。
4年生で主将という重責を担い、10月に東京で開催された箱根駅伝予選会ではぎりぎりの11位で通過して本大会に臨むことになりました。結果は、自分自身の2区での設定記録及びチームの目標のシード権獲得(総合10位以内)に届かなかったのですが、やり切ったという満足感が強く悔いはないと語りました。
毎年、箱根駅伝が終わると帰省し、母校に挨拶に来てくれる律儀な青年です。大学の競技生活に区切りがついたため、この度の帰省は長くなりそうで、1月20日(日)の奥球磨ロードレース大会に出場すると聞きました。そして、4月からの社会人生活に向けて、今、自動車学校にも通っていると笑って話してくれました。ひたすら走り続けた大学4年間、自動車学校へ行く余裕はなかったのでしょう。一つのことにひたむきに取り組んだ証と言えるかもしれません。青春を箱根駅伝に賭けたかけがえのない4年間だったと思います。
「母校の閉校はやはりさびしいことです。しかし、春から社会人となり実業団で走り続けます。」と太田黒君は目を輝かせて語ってくれました。
未来に向かって走る青年をこれからも応援したいと思います。
箱根駅伝2区を走る太田黒選手(本人提供)
未来へ ~ 3学期始業式の校長挨拶
「平成31年、西暦2019年が始まりました。時代は転換期を迎えています。
4月30日に天皇陛下は譲位され、30年続いた平成の世は終わります。翌5月1日に新しい元号に改元され、皇太子殿下が新天皇として即位されます。明治維新以来、天皇陛下が亡くなられること(崩御と言いますが)、これをもって元号が変わっていたため、天皇陛下が譲位され上皇となられるのは江戸時代後期以来、実に200年ぶりのことです。
そして、私たちの多良木高校は3月2日に閉校式を迎えます。前日に卒業式を終えた皆さんは、この閉校式において本校最終学年、アンカーとしての最後の使命を果たし、ゴールテープを切ることになるでしょう。
さて、皆さんの2学年上の先輩たちが新成人となり、1月4日の午後、本校で「成人の集い」を開き、40人を超える参加者がありました。高校を卒業し、就職して働いている人、進学して学び続けている人と進路はそれぞれですが、社会という広い世界を旅して、久しぶりに母校に帰ってきてくれた新成人の皆さんは頼もしく見えました。当時の担任の境先生、本田先生も駆け付けられ、時間が2年前に遡ったような懐かしく温かい再会の場となりました。
けれども、その時、皆さん達が新成人となる日のことを私は想像し、切ない気持ちになりました。2年後に多良木高校はありません。皆さんをはじめ全ての同窓生にとって帰る母校はなくなります。最後の校長として、そのことを大変申し訳なく、無念に思います。
しかし、皆さんには未来があります。多良木高校のゴールは3月ですが、そのゴールの先に皆さんの未来は広がっています。未来へ向かってください。多良木高校はやがて記憶の中の風景となるでしょう。けれども、皆さんの心にその記憶をいつまでもとどめていて欲しいと思います。
残り少ない高校生活を大切に過ごし、多良木高校生としての日々を心に焼き付けてほしいと願い、3学期始業式の挨拶とします。」
3学期始業式での生徒表彰
新成人の集い
新成人の集い
新年明けましておめでとうございます。
1月4日(金)の午後、多良木高校において、平成28年度卒業生の「新成人の集い」を開催しました。2年前の卒業生64人のうち40人を超える参加があり、晴れ着姿の女性も多く、学校は華やかさと活気に包まれました。この「新成人の集い」における校長挨拶を次に掲げます。
「成人式を迎えられたことを心から祝福します。誠におめでとうございます。高校卒業後、就職し働いている人、進学し学び続けている人と進路はそれぞれですが、社会は如何ですか。未知の仲間や物語があなた達一人一人を待っていたことと思います。社会という大海原を航海し大人に成長した皆さんが、こうして母校(港)に帰ってきてくれたことを私たち教職員一同心から歓迎します。皆さんの来校を、教室が、廊下が、そして校舎全体、グラウンドが喜んでいるように私には思えます。
平成28年度卒業の皆さんは、本校にとって3学年そろった最後の卒業生でした。皆さんは、閉校の寂しさや後輩のいない心細さを感じることなく高校3年間を送ったと思います。皆さんが卒業する時点で、閉校と皆さんの新成人の時が重なることがわかっていましたから、2年後に母校に集まってもらうよう、卒業の時に私から案内状を渡しました。こうして多くの卒業生が来校してくれ、新成人の輝く姿を見せてくれたことを感謝します。また、教育的愛情と情熱でもって皆さんを励まし、支え、導かれた担任の本田優美先生、境亜希先生も来てくださり、時が2年前に遡ったようで感無量です。
来る3月をもって本校は閉校しますが、その1か月後には平成の次の新しい元号の時代が始まります。皆さん達の時代です。少子高齢化をはじめ我が国は様々な課題に直面していますが、それらに取り組むのは皆さん達です。誰かヒーローが現れて問題を解決してくれるだろうと待ってはいけません。皆さん達一人一人が新しい時代の主人公であり、日々の生活の中で少しでも良い社会を創り上げていってください。
多良木高校は96年で閉校しますが、皆さんは百年生き抜いてください。そして、できることなら22世紀の世界も見てください。皆さんの人生はこれからです。前途洋洋の新成人の未来を祝福し、挨拶といたします。」
地域の皆さんと一緒に大掃除
地域の皆さんと一緒に大掃除
最後の学年の2学期が終了しました。12月21日(金)の終業式の前に生徒と職員で大掃除をしたのですが、改めて25日(火)の午後4時から再度、第1体育館や図書室の大掃除を行いました。本校の最大規模は昭和47年度で、この時は24学級(1学年8クラス)、生徒数1150人を数えました。この規模の校舎と校地を維持しながら、生徒数は急速に減少し、今年度は最終学年67人が学校生活を送っています。従って、普段の掃除活動は日常使う教室や廊下、生徒用トイレ等が対象で、体育館や特別教室、校庭まで手が回りません。そこで、冬季休業初日の25日に、職員をはじめ生徒と保護者の有志、そして地元多良木町6区と8区の皆さんに呼びかけて、大掃除を計画したのです。
学校の勝手なお願いにも関わらず、年の瀬の慌ただしい中、6区と8区の住民の皆さんが大勢集まっていただき、胸が熱くなりました。これまでも防災訓練や体育大会での合同競技、そして公民館活動での交流等、本校の教育活動に献身的にご協力頂いた地域の方々の学校へ寄せる思いに頭が下がります。また、球磨郡のオートバイ愛好団体の方がサンタクロース姿に扮してバイクで駆け付けられ、生徒達を激励されるサプライズもありました。
大掃除は、第1体育館の清掃、そしてパイプ椅子の選別、さらに図書室の廃棄書籍の運び出し等に全員で当たり、約1時間で終了しました。お蔭で、来る3月1日の卒業式及び翌日の閉校式の会場となる第1体育館の片付けが済み、すっきりしました。地域に開かれた学校として歩んできた本校は、最後まで地域の方々に助けられていると思います。
多良木町6区、8区の皆様、そして多良木高校をご支援いただいた多くの皆様、どうか良いお年をお迎えください。
「一年の心の煤(すす)を払はばや」(正岡子規)
海軍少将の高木惣吉のこと ~ 望(忘)年会
海軍少将の高木惣吉のこと ~ 望(忘)年会にて
12月21日(金)に多良木高校は2学期終業式を行いました。残暑厳しい8月28日(火)の始業式以来4か月の期間、67人の生徒たちの高校卒業後の進路は決まりました。終業式の校長講話では、改めて多良木高校96年の歴史を振り返り、先輩たちから襷が継承されてきた結果、「最終走者として皆さんが今ここにいる」ことを意識させ、アンカーとしての使命感を訴えました。
その夜、人吉市の旅館で職員の忘年会を催しました。本校の忘年会は、敢えて字を変え、「望年会」としており、新年を望むという気持ちを込めています。望年会の場所は、人吉市出身の海軍軍人の高木惣吉ゆかりの旅館で、離れに記念室が設けてあります。本校の職員をはじめ地元の人吉市、球磨郡においても高木惣吉のことを知らない人が多いため、敢えて、望年会冒頭の校長挨拶で紹介しました。
高木惣吉(1893~1979)は人吉市西瀬の出身で、小学校卒業後、苦学して海軍兵学校、海軍大学校で学び、知性派の海軍軍人として最後は海軍少将にまでなりました。しかし、よくある立志伝の軍人ではありません。彼の真骨頂は、太平洋戦争の絶望的な戦局の中、身を挺して終戦工作に奔走したことにあります。海軍首脳の米内光正、井上成美らの密命を受け、このまま戦争を継続すれば我が国は滅亡するとの危機感から、危険な終戦工作に当たります。軍人でありながら、戦争をやめることに命を懸けた少数の良識ある人物がいたことは後に知られるようになります。戦後、高木は公職には就かず、大戦中の実相について著述に取り組み、湘南で穏やかな晩年を過ごしました。熊本県教育委員会は平成27年度「熊本県近代文化功労者」として高木惣吉を顕彰しています。
高木惣吉と比較することはまことに気が引けますが、私たち多良木高校教職員も、最終学年の生徒の教育に全力を尽くす一方、学校を閉じる業務に努めるという相反することを両立させなければならない立場にあります。「難しい仕事ではありますが、使命感をもって全員で事に当たっていきましょう」と望年会で職員を励ましました。
2学期終業式での生徒表彰
「体力向上優秀実践校」受賞
「体力向上優秀実践校」受賞 ~ 最後のクラスマッチ・駅伝大会
12月19日に百人一首とバレーボールのクラスマッチ、そして翌20日に駅伝大会を開催しました。駅伝は、男子が1区間4.2㎞、女子が1区間3.5㎞を走り、男女混合5人編成で1チームつくります。全体で12チームが参加し、学校及びその周辺道路のコースで競いました。体育の授業で冬季は持久走があり、その成果発表の場として毎年駅伝大会を行っています。多くの保護者の方が大会に協力され、コースの各ポイントに立っての交通指導、そして競技後に全員で楽しむ豚汁作りに取り組まれました。
持久走を苦手とする生徒は少なくありません(特に女子)。しかし、生徒達は苦しい表情を浮かべながらも自分の役割を果たして次の走者に襷を渡し、最終走者のアンカーをチーム全員で迎える光景は誠に爽やかでした。日頃から交流のある近隣の保育園児も応援に駆け付け、歓声が響き渡りました。
出場した選手全員が走りぬき、達成感を覚えながら全員での豚汁の昼食となりました。私たち職員も頂いたのですが、肉や野菜など豊富な具材に加え、お母さん方の「愛情」という調味料が入った味は絶品で、身体が温まりました。
さて、先月、熊本県教育委員会から「体力向上優秀実践校」表彰を本校は受けました。2年前に続いての受賞です。この賞は、生徒達が毎年1学期に受ける8項目の体力・運動能力テストの記録が良好であること、そして学年進行に伴い順調に伸びていることが評価されます。現在の3年生は、男子が8項目全て、女子も5項目で県平均・全国平均の記録を上回っています。
「体力向上優秀実践校」受賞の理由は大きく三つあると思います。一つは、体育の授業及びその成果発表の場である体育的行事が充実していること。二つ目は、体育系部活動への生徒の加入率が高いこと。そして三つ目は、生徒一人一人が健康を意識し自己管理できていることだと考えます。
多良木高校最後の学年の生徒達は平均の高校生よりはるかに体力・運動能力を有しています。高校3年間、いや学校生活12年間で彼らは人生の土台を築き上げたのです。そのことをとても頼もしく思います。
校内駅伝大会 走り出す1区の選手
ゴルフ場への感謝状
ゴルフ場への感謝状 ~ 体育コースのゴルフコースラウンド実習
あさぎり町深田に「熊本クラウンゴルフ倶楽部」があります。本格的チャンピオンコースを有する会員制ゴルフ倶楽部です。ここで12月14日(金)に本校体育コースのゴルフラウンド実習を実施しました。実習に先立ち、長年のゴルフ実習に対する同倶楽部のご支援に対し多良木高校から感謝状を贈りました。
体育コースの3年次2学期の体育の授業でゴルフを行います。学校のグラウンドでボールを打つ練習を繰り返し、その集大成として最後は実際に18ホールのコースを回るラウンド実習に挑みます。整備されたゴルフコースをまわる体験はゴルフの醍醐味を知る貴重な機会となります。本来、ゴルフコースを利用することは料金が発生するものですが、「熊本クラウンゴルフ倶楽部」の格別なご配慮により、無償で生徒たちはラウンド実習をできるのです。同ゴルフ倶楽部が平成6年にオープンして以来、24年間継続してコースラウンド実習を支えていただきました。このことに対して、最後の実習に際し感謝状を贈り、学校として深い謝意をお伝えした次第です。
「これも私たちゴルフ倶楽部の地域貢献だと思っています。」と櫻井大治郎代表取締役はおっしゃいました。誠に有難い言葉です。3年前校長に就任した時、同倶楽部のご厚意で無償のコースラウンド実習が実現できていることを知った時は大変驚きました。恐らく県内の高校では類を見ないと思います。多良木高校の教育活動がいかに地域社会の皆様にご理解いただき、ご支援を受けてきたかを示す典型だと思います。
ゴルフはフェアプレイ精神を養うに適したスポーツと言われます。なぜなら、他のスポーツと異なり、プレイする場に審判(レフリー)はいません。スコアの申告やルールを守ることはゴルファー個人に委ねられているからです。多良木高校体育コース24人の生徒たちは、恵まれた環境の中で、ゴルフラウンド実習を満喫しました。これまでの先輩たちのように、彼らもきっと近い将来、社会人としてプレイするために「熊本クラウンゴルフ倶楽部」に行くことでしょう。
全員ステージ ~ 最後の文化祭(その3)
全員ステージ ~ 最後の文化祭(その3)
在籍生徒数が千人を超える高校にかつて勤務したことがあります。9割の生徒は一度も体育館のステージ上で脚光を浴びることなく卒業していきました。大規模校の定めです。しかし多良木高校は違います。最終学年67人の学校です。閉校するとわかっていて敢えて入学してきた生徒たちの気持ちを重く受けとめ、他の学校では得られない特別な体験を積み重ねてやりたいと私たち教職員はこの3年間努めてきました。そして、最後の文化祭「木綿葉フェスタ」では、全員がステージに立つことになったのです。
「あの日に帰ろう、歌と共に! ~歌で振り返る多良木高校96年の青春~」のテーマを掲げ、午後の2時間半、手作りの歌謡祭を開きました。67人全員が歌、またはダンスなどのパフォーマンスに挑戦しました。脇を固めるのはプロの音響・照明、伴奏が音楽教師と地域の音楽愛好者の方、そして午前中にライブを開かれたORANGEの岩男さんもバイオリンを弾かれました。スポットライトを浴び、五百人の観衆とテレビ局のカメラに囲まれ、生徒達は物怖じすることなく力を発揮し、若さいっぱいの自己表現でした。
赤いリンゴを手に背筋を伸ばし「リンゴの唄」を歌った女子生徒、五人のバックダンサーの男子を従え着物姿で「お祭りマンボ」を歌い踊った女子生徒、着物姿で女装し「365歩のマーチ」を熱唱しながら観客席を回った男子生徒、派手な衣装に包まれ笑顔いっぱいでキャンディーズやピンクレディを演じた女子生徒達などなど。普段はおとなしい性格であっても、ステージ上で堂々とした姿を見せ、改めて高校生の無限の可能性を思い知らされました。
入れ替わり立ち替わり生徒たちが大正から昭和の戦前、戦後、そして平成とヒット歌謡を歌い継ぎ、最後は今年2018年に大ヒットした「USA」の生徒全員のダンスは圧巻でした。そして職員も合流し、「いつまでも」(熊本地震復興支援ソング)と校歌を全員で合唱し、フィナーレを迎えました。
同窓生及び地域の方々、そして保護者など大勢の観客の熱い思いが生徒たちの熱意に火をつけ、生徒一人一人が輝き、最後の文化祭は幕を下ろしたのです。
書の力 ~ 最後の文化祭(その2)
書の力 ~ 最後の文化祭(その2)
多良木高校の文化祭は、書道選択者による書のパフォーマンスから始まることになっています。少なくとも私が校長就任以来4年間はこのオープニングを続けています。デジタル全盛の時代、書道はその対極のアナログな存在でしょう。しかし、だからこそ価値があるのです。コンピュータで均一な文字を早く作成しても、それは味わいも情緒もなく、個性もありません。一方、自ら筆で墨書した文字は、その人自身を雄弁に物語ります。書は人なり、です。
最後の多良木高校文化祭「木綿葉フェスタ」においても、3年生書道選択者の書道パフォーマンスが幕開けとなりました。本校では芸術教科として書道と音楽があり選択科目ですが、1組は38人中11人、2組は29人中4人と書道選択者は少数派です。彼らが自分たちで言葉も考え、練習し、本番を迎えました。美しい文字ではありません。整ってもいません。しかし、彼らの思いが骨太に熱く表されているようで、観る者に生き物のように迫ってきます。
1組の生徒の作品は、第1体育館のステージ中央正面に吊り下げられました。そして、相対する観客席に生徒のメッセージとして力強く届きます。2組の生徒の作品は立て板に張られた紙に墨書され、同じく第1体育館の入り口付近に観客席を背後から見守るかの如く立てられました。ステージ上の書と呼応するような立ち姿です。文化祭が終了し、会場の撤収作業が行われましたが、この二つの書の作品はそのまま残しました。本日、第1体育館で集会を開きましたが、生徒達の力作は強い気を発したままです。
パソコンで作成された文字は何年持つのでしょうか。心細くなります。一方、墨の力が千年以上も永く持続されることを私たちは知っています。8世紀の奈良時代、いや7世紀後半の藤原時代の木簡(木札に墨で書かれた記録史料)が今に伝わり、墨痕が鮮やかに残っていることが何よりの証明です。舞台芸術に比べると地味ではありますが、書道作品は多良木高校文化祭の誇るべき成果と言えます。
多良木高校に「マルシェ」出現
多良木高校に「マルシェ」出現 ~ 最後の文化祭(その1)
「マルシェ」という言葉はもともとフランス語で「市場」という意味ですが、最近日本でも馴染みのものとなりました。屋外の広場や公園に小規模の店舗が集まり、観光客や地域の人がコミュニケーションを楽しむ場として、各種イベントで開かれるようになりました。
12月8日(土)に開催した多良木高校最後の文化祭「木綿葉(ゆうば)フェスタ」において、初めての企画「多良木高校スペシャルマルシェ」が実現しました。昨年まではクラス(学級)やPTAのバザー(模擬店)が行われていたのですが、3年生のみの文化祭では生徒や保護者のバザー実施までは困難ということから、地域のご協力をお願いしました。くま川鉄道フェスタをはじめ各種イベントでマルシェの企画運営をされている西希さん(多良木町)にコーディネートを依頼したところ、「最後の文化祭を一緒に盛り上げましょう」と快諾されました。そして、持ち前の行動力で、店舗や諸団体に声を掛けまとめられ、最終的に11のお店で成るマルシェが本校中庭に出現しました。これに、県立南稜高校による「シクラメン」の友情販売も加わり、これまでの文化祭にない賑わいとなりました。
ハンドメイド雑貨やアクセサリーのお店もありますが、ほとんどは飲食店舗で、メニューも多彩です。多良木町で「こども食堂」(地域の子どもに無料もしくは低額で食事を提供する場)を開設されている方たちは自慢のカレーライス。地域のグリーンツーリズム団体による地産のもち麦ご飯、豚汁。地域の婦人会の手作りお菓子。中華料理店による餃子、小龍包。そして、かつての多良木高校生が愛した懐かしのハム入りパンを復活販売したパン屋さん等いずれも個性が光りました。
たった一日、それも2時間余りの短いスペシャルマルシェでしたが、多くの同窓生や地域の方々が買い物と飲食、そして交流を楽しまれました。日中の最高気温が10度に届かない冷え込んだ天候でしたが、マルシェは温かな特別な空間を創り上げたのです
「あの日に帰ろう、歌と共に!」
「あの日に帰ろう、歌と共に!」
~歌で振り返る多良木高校96年の青春~
今年度で閉校する多良木高校の最後の文化祭「木綿葉(ゆうば)フェスタ」を明日12月8日(土)に開催します。3年生しか在籍していないため、昨年までのような文化祭はできません。また、9月から11月にかけ就職や推薦進学の試験が続き、例年より実施時期が遅くなりました。
異例の文化祭ですが、大きな特色が二つあります。一つは、地域の店舗のご協力で、マルシェ(青空市場)が実現することです。十の店舗の皆さんが出店予定で、食事、お菓子、アクセサリー小物類等の販売が中庭で予定されています。最後の文化祭を一緒に盛り上げようとの業者の方々の御好意に厚く感謝申し上げます。
もう一つは、フィナーレ歌謡祭です。午後の2時間半、生徒を中心に職員有志、保護者、同窓生、地域の合唱グループの方たちが歌いまくります。テーマは「あの日に帰ろう、歌と共に!」~歌で振り返る多良木高校96年の青春~です。本校創立の大正11年に生まれた曲「シャボン玉」からスタートし、戦前、戦後の懐メロ歌謡曲から昭和後期、そして平成のヒットソングと30曲が歌い継がれます。その時代の多良木女学校生、多良木高校生が口ずさんだであろう青春ソングを歌うことで、96年を振り返ろうという試みです。
2学期の音楽の授業はこの歌の練習に充てられてきました。生徒たちにとっては生まれる遥か前の歌を担当することもあります。「リンゴの唄」、「憧れのハワイ航路」、「青い山脈」、「高校三年生」などなど。しかし、生徒たちにとってはこれも新しい出会いです。なかには衣装も往時のものに着替えて登場する生徒もいます。高校生の豊かな表現力を期待してください。
そして、この歌謡祭の最後、職員と生徒全員で熊本地震復興支援ソング「いつまでも」(作詞作曲:タイチジャングル)を合唱します。離れていても変わらない故郷を思う歌詞が、閉校する多良木高校に寄せる思いと重なり、練習していて胸が熱くなります。
明日は、多良木高校最後の学年67人の歌声が体育館に響きわたり、きっと同窓生の方たちの胸を揺さぶることでしょう。
前日のリハーサル風景
「ボッチャ」を楽しむ ~ 球磨支援学校高等部との交流会
「ボッチャ」を楽しむ ~ 球磨支援学校高等部との交流会
「ボッチャ」という障がいのある人のために考案されたスポーツを知っていますか? 目標球である白いボールに、赤・青のそれぞれ6球ずつのボールを投げたり転がしたり他のボールに当てたりして、いかに近づけるかを競う競技で、パラリンピックの正式種目です。ボールの大きさはソフトボールよりやや小さく、柔らかい素材でできています。
11月26日(月)午前、多良木町内にある県立球磨支援学校高等部の皆さんと多良木高校3年生とのスポーツ交流会を開催しました。昨年までは支援学校の方から本校を訪問され、グラウンドでティーボールを行ったのですが、今年は本校生が支援学校を訪ね、同校の体育館でボッチャを行いました。球磨支援学校高等部1年から3年までの43人と多良木高校最後の学年67人が混合で20チームをつくり、四つのコートに分かれてチーム対抗で実施しました。
多良木高校の生徒にとってボッチャは初体験だったようです。運動機能に障がいがあっても楽しむことができるため、支援学校高等部の生徒の皆さんと一緒にできる軽スポーツとしては最適で、ボールの転がり方によって形勢が逆転する面白さに多高生も熱中していました。戸外は曇った冬空でしたが、体育館は笑顔と歓声があふれていました。
2020年には東京パラリンピックが控えており、障がいのある人が楽しむスポーツへの関心が高まっています。その軽スポーツを共に楽しむことで、心の壁を取り払い、親睦を深めることが今日の交流会の目的でした。障がいのあるなしに関わらず、この球磨郡で学ぶ同じ世代の仲間です。自然体で交流する生徒たちの姿は実に爽やかで、心温まるものがありました。ただ一つ寂しく感じたのは、この交流会が今回で最後であるという事実です。閉会式で、これまでの交流への感謝の思いを多良木高校代表の西野君が述べました。
人々の多様な在り方を相互に認め合える共生社会は、球磨支援学校及び多良木高校の生徒たちによって創られていくと期待しています。
嗚呼、甲子園球場 ~ マスターズ甲子園2018応援2
嗚呼、甲子園球場 ~ マスターズ甲子園2018応援2
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)は、ホームベースからセンター奥まで115m、レフトとライトの両翼が95mの規模を誇り、スタンド(観客席)の収容人員は4万7千人余りの巨大なスタジアムです。大正13年(1924年)に竣工し、夏の全国高等学校野球選手権大会、春の選抜高等学校野球大会の会場として今日に至っており、高校野球の聖地と称されます。この夏の第100回記念大会では、秋田県立金足農業高校の健闘が大きな話題となりました。また、プロ野球の阪神タイガースの本拠地であり、熱狂的タイガースファンの応援で知られます。この甲子園球場で試合ができることは、野球を愛する人々にとって夢のようなことでしょう。マスターズ甲子園2018のキャッチフレーズは「いくつになっても甲子園球児はカッコいい」です。
熊本県代表の座を勝ち取り、初出場を成し遂げた多良木高校野球部OBチームは、11月10日(土)の開会式直後の8時35分から、福島県代表の日大東北OBチームとの試合に臨みました。マスターズ甲子園大会は、ボランティア応援の仕組みがあり、地元の西宮市や神戸市の中学、高校の吹奏楽部が演奏してくれることになっています。多良木高校OBチームを応援してくれたのは、神戸市立本山南中学校吹奏楽部の皆さんでした。力強い演奏で選手を元気づけてくれ、球場の雰囲気も盛り上がりました。
多良木高校OBチームはマネージャーも含め50人がベンチに入りました。前半は34歳以下の若手選手が出場します。私もよく知っている近年卒業した7人の選手たちが甲子園のグラウンドで溌剌とプレイする姿を見ていると、こちらも気持ちが明るくなります。後半は35歳以上のシニア選手の出番です。7月まで多良木高校野球部のコーチをしてくださった尾方さんが捕手としてプレイされました。その姿は眩しく映りました。
マスターズ甲子園は優勝を決める大会ではなく、各チームひと試合です。甲子園球場で試合をすることが目的なのです。高校野球の聖地である甲子園球場は、かつて甲子園を目指した大人たちも温かく迎え入れてくれました。
「嗚呼、甲子園」 ~ マスターズ甲子園2018(その1)
「嗚呼、甲子園」 ~ マスターズ甲子園2018応援(その1)
甲子園球場のスタンドに一歩足を踏み入れた瞬間、内野から外野、そしてスコアボードと全体が迫ってきて、「ああ、ここが甲子園球場かあ」という感慨にしばし包まれました。巨大ですが、何か「美しい」と感じる空間であり、高校野球やプロ野球のテレビ中継でお馴染みの同じ場所に自分が立っているということが不思議な感覚でした。
高校野球OBたちの「大人の甲子園野球大会」であるマスターズ甲子園2018に多良木高校野球部OBチームが熊本県代表として出場を果たしました。その開会式及び試合が11月10日(土)に行われました。OBの快挙は、今年度で閉校を迎える多良木高校を大いに勇気づけてくれました。多良木高校野球部が半世紀挑み続けながら実現できなかった夢をOBが代わって達成してくれたのです。
甲子園球場のスコアボードに「多良木高校」の名前が記されるのを、この目で見たいと思い、私も甲子園球場まで向かいました。前日の金曜日の夜、鹿児島空港最終便で大阪へ飛び、梅田のホテルに泊まり、当日は阪神電鉄を利用して甲子園球場(兵庫県西宮市)へ朝7時半には到着しました。阪神甲子園駅を降りるとすぐ目の前に威容を誇るスタジアムがあり、その距離の近さに驚きました。
マスターズ甲子園2018の開会式は午前8時に始まり、全国各地域の代表16校が行進します。行進の先頭の多良木高校について、今年度で閉校する学校にとって悲願の甲子園初出場という紹介アナウンスがありました。地元多良木町をはじめ関西、その他各地から出場選手の家族、友人、野球部関係者等が応援に駆け付けていて、その数は百人近くに達したと思います。
選手宣誓も多良木高校OBチームの山村さん親子が行いました。「多良木高校は閉校しますが、高校野球への思いや地域への感謝の気持ちは次の100年に引き継がれます。」という言葉が甲子園球場に響き渡りました。
いよいよ午前8時35分から試合開始です。相手は福島県代表の日大東北OBチームです。試合については引き続き次号で。
最後の強歩会
11月9日(金)、最後の強歩会
「みんなで歩く、ひたすら歩く、多良木高校最後の強歩会、出発!」と声を掛け、私がスタートの号砲を撃ちました。朝7時50分、正門から65人の生徒が歩き出しました。体調不良で二人の生徒が出場を見送りましたが、チェックポイントの補助を務めることになりましたので、最後の学年67人全員が強歩会に参加したことになります。私も最後尾から歩き始めました。
学校を出て北の多良木町黒肥地方面へ向かいます。出発した頃は小雨が降っていましたが、次第に雨はやみ、天候は回復傾向です。六百年前に建造された茅葺きの楼門(県指定文化財)のある第1チェックポイントの王宮神社(2.3㎞、多良木町黒肥地)では、氏子さんによって秋祭りの準備が行われていました。里城大橋で球磨川を右岸に渡り、多良木町から県道33号を人吉方面へ進みます。第2チェックポイント覚井観音堂(7.2㎞、あさぎり町須恵)では、地元の方の御好意でお堂を開けてあり、檜の一木造の十一面観音像が私たちを迎えてくれました。第3チェックポイント植深田観音堂(10.2㎞、あさぎり町深田)は高台にあり、球磨川のきらめく水面を眼下に眺められました。
めいはた橋で球磨川を左岸に渡り、橋の下の芝生広場が第4チェックポイント(10.7㎞、あさぎり町深田)です。ここで昼食。保護者の方々が給水のお手伝いに来ていただき感謝です。生徒はまだ元気で、男子は走り回るほどです。昼食休憩後、午前11時30分に出発し、球磨川の土手沿いの道を多良木町方向へ帰っていきます。後半は次第に先頭と後尾の距離が離れていきます。女子生徒の中には弱音を吐く者も見られました。第5チェックポイントの中島橋(15㎞、あさぎり町須恵)を過ぎると、遠くに多良木高校の体育館が見えてきました。なかなか近づいてきませんが、止まらない限り一歩一歩に近づいているのです。
さすがは3年生。最後尾の女子生徒2人も一度も止まることなく、想定時間より早い午後2時15分には多良木高校正門にゴール。私も一緒にゴール、達成感に満たされました。沿道の住民の方や交通整理の保護者の方の温かい応援を受け、一件の怪我も事故もない最後の強歩会となりました。
多良木高校のゴール(閉校)も近いことを改めて実感します。
最後の強歩会に向けて
最後の強歩会に向けて
多良木高校伝統の鍛錬行事である「強歩会」を11月9日(金)に行います。来年3月に閉校する本校にとって最後の強歩会です。三つのコースを3年間かけて歩き、人吉球磨地域の自然や風土を体感する行事です。今年のコースは多良木町黒肥地地区を巡り、あさぎり町の須恵、深田地区を回って、球磨川沿いに帰ってくる行程です。3年前は広域農道(通称フルーティーロード)を歩いたのですが、スピードを出し走行するトラック等の運送車が多く危険を感じたため、県道に変更し距離は大幅に短縮されました。それでも20㎞余り歩くことになります。
過去3年、私も参加しましたが、秋の球磨郡の豊かで穏やかな風景の中、歴史や人情に触れることができ、何と平和で心地よい地域なのだろうとしみじみ感じました。人吉球磨地域をかつて訪問した司馬遼太郎が「日本でもっとも豊かな隠れ里」と形容したことが思い出されます。
今回のコースの見所を紹介します。第一チェックポイントの王宮(おうぐう)神社(多良木町黒肥地)では、室町時代中期(応永23年、1416年)に建立された楼門(県指定文化財)に注目しましょう。そして、あさぎり町に入ると県道33号沿いに観音堂が次々と出迎えてくれます。江戸時代中期から人吉球磨地域で「相良(さがら)三十三観音巡り」の風習が始まり、今に至っています。春と秋の彼岸の時期に観音堂は一斉開帳され、普段は閉まっているお堂が多いのですが、今回は地区の方の御好意で観音様を拝観できる予定です。第2チェックポイントの覚井(かくい)十一面観音堂(二十二番)、永峰(ながみね)如意輪観音堂(二十一番)、第3チェックポイントの植深田(うえふかだ)聖観音堂(二十番)とまさに巡礼の道です。観音様の慈愛の眼差しに見守られながら、歩きます。
あさぎり町深田の「めいはた橋」で球磨川を渡り、帰路は川沿いの土手道を辿ります。鷺が遊ぶ川面を左手に見ながら進み、薄(すすき)の群生や色づいた柿の実に行く秋の風情を感じることでしょう。
多良木高校最後の強歩会。みんなで歩く。ひたすら歩く。ただそれだけのことですが、きっと特別な一日となることでしょう。
王宮神社の楼門
覚井観音堂
正門前の銀杏並木
正門前の銀杏並木
「正門前の銀杏並木が綺麗ですね。」と来校者の方からよく言われる季節になりました。先日は、朝、アマチュアカメラマンの方が撮影されている姿が見られました。多良木高校の正門前には銀杏並木があります。町道から分かれ正門までの80mほどの道に片側十本の銀杏樹が立ち並んでおり、今、黄緑色から鮮やかな黄金色に染まってきて、先週から落葉も始まりました。
正門までのこの奥行の道がとても意味があると私は思っています。朝、登校する時、正門及びその先の校舎や体育館が見え、「さあ学校だ」と自然に意識が学校生活に切り替わる場所となります。夕方、下校する時、正門を出て心地よい疲れに包まれながら「さあ家に帰ろう」と気持ちが解放される場所になるでしょう。銀杏並木の道は、学校と外界をつなぐ不思議な空間と言えます。
春夏秋冬、登下校の生徒を見守り続ける銀杏並木です。そして、この銀杏並木が最も華やかな装いを見せるのが秋です。毎年、大量の銀杏の落葉があります。一本の銀杏の樹木にいかにたくさんの葉がついているのかに驚きます。昨年まではサッカー部の生徒たちが自主的に朝掃除に出てきて、銀杏の落葉を掃き集めてくれていました。しかし、今年はサッカー部も活動を終えたため、時折、私たち職員有志で清掃を行っています。肌寒くなった朝、銀杏を竹箒で掃き集める感触は秋の風情を感じます。
現校地に移転して50年、銀杏並木は生徒をはじめ来校者を出迎えてくれました。日が高くなり、銀杏並木の入り口側から正門の方を眺めると、「平和・勤労・進取」の校訓が大きく掲げられた第一体育館、そしてその背景には球磨盆地を囲む九州山地の山並みも遠望できます。この風景こそ、多良木高校を象徴するものではないかと思います。
しかし、来年の秋はこの風景は見られないでしょう。閉校まであと5か月です。秋はゆっくりと深まっていきます。この秋は、銀杏並木が一層愛おしく、美しく思えます。
様々な世代の人と共に在る学校
様々な世代の人と共に在る学校
本校ほど保育園と交流している高校は稀ではないかと思います。近隣にある光台寺保育園の園児たちは、しばしば本校まで「散歩」にきて、広いグラウンドを駆け回ります。毎年の体育大会では園児に特別参加してもらい、高校生と一緒にダンスを踊ります。本校玄関には園児たちの絵画や工作品を展示する専用スペースを設けています。園児たちとの交流は日常的です。昨日の10月23日(火)も、同園の12人の2歳児さんが保育士の方々に引率され「秋の遠足」で来校しました。玄関で出迎えた担当の生徒たちが、プレゼントのキャラクターシールを手渡し、歓迎しました。
保育園児と交流する高校生の表情はいつも柔らかく優しいものです。兄弟が少なくなり、身近に幼児がいない環境の生徒も多い中、幼く小さき者と触れ合うことは、高校生に大切なものを思い出させる機会になっています。保育園児が来校する度に、清少納言の次の言葉を思い出します。
「なにもなにも ちひさきものは みなうつくし」(枕草子151段)
また、23日(火)午後には、本校福祉教養コース及び家庭クラブの生徒15人があさぎり町深田にある高齢者介護施設の「翠光園」を訪問しました。「翠光園」と本校の交流は長く、およそ40年続いてきました。福祉教養コースの生徒の介護実習、または2年次での職場体験実習(インターンシップ)で毎年お世話になってきましたし、同園に就職している卒業生が幾人もいます。
昨日は、生徒達の軽快なダンス披露から始まり、用意してきた紙芝居やクイズ等で80人近い入所者の方々と交流しました。最後、生徒達が手作りのカラフルな紙製メダルをお年寄りの首にかけて回ると、握手してその手を離さない方もいらっしゃり、生徒の中には感極まり涙を流す者もいました。交流会の閉式で入所者代表として御挨拶された方は百一歳のご婦人で、ひ孫のような高校生に対して感謝の思いを力強い言葉で述べられました。
多良木高校は3年生67人の小さな学校です。しかし、地域の保育園児からお年寄りまで様々な世代の人々と共に在る学校であることを誇りに思います。
最後の神輿 ~ 多良木町恵比須祭りへの参加
最後の神輿 ~ 多良木町恵比須祭りへの参加
「せいやー、せいやー」と勇ましい掛け声をあげ、神輿(みこし)をかつぐ多良木高校3年生。沿道から「高校生がんばれー」の声援や拍手、そして時にはバケツやホースで水をかけられます。揃いの法被姿の生徒たちは肩の痛みに耐え、汗を流しながら、笑顔で威勢よく神輿を担ぎます。秋晴れの10月20日(土)の午後、多良木町恵比須神社の秋の大祭の神輿が国道219号を練り歩きました。
我が国には八百万の神様がいらっしゃると云いますが、恵比須神は私たち庶民に最も親しまれる神様ではないでしょうか。恵比須神は生業守護の福神とされ、特に漁民、商人に広く信仰されています。多良木町の中心地、役場の近くに恵比須神社があります。明治時代後期に商人たちによって創られたと言われます。近年、多良木町ではこの恵比須神(地元では「えべっさん」の愛称)を町の活性化と商売繁盛のシンボルと定め、町内各所に様々な「えびす像」が設置されています。その数は十基を超え、いずれも福々しい笑顔満面の像であり、思わず和やかな気持ちになり、多良木町の名所となっています。
多良木町恵比須神社の秋の大祭は例年10月20日から21日にかけて賑やかに行われます。10月9日を中心に開催される人吉市の青井阿蘇神社の「おくんち祭り」には、歴史、規模、格式等で遠く及びませんが、上球磨地域では毎年、多くの人が楽しみにされているお祭りです。毎年こども神輿4基、大人神輿10基が参加しますが、恵比須神社奉賛会の特別の計らいで商工会、町役場、公立病院等に交じって、多良木高校の男女がそれぞれ神輿を担ぐのです。
今年度末で閉校を迎える本校にとって、最後の神輿となりました。生徒の神輿を中心に例年になく保護者や同窓会の方も数多く歩かれました。味岡建設本社を出発し、およそ1時間半かけて2㎞を練り歩き、終着の「石倉の広場」に到達しました。ここで、来年度から新たに神輿を担ぐことになる多良木中学校の生徒に、多良木高校の生徒から法被や足袋の一式を渡す「引き継ぎ式」を行いました。地域の伝統行事に中学生が主体的に関わることは郷土愛を育むことにつながると思います。本校にとって後顧の憂えが一つなくなりました。
俳優の中原丈雄さんからのメッセージ
「良い仕事をするために、つらい経験がある」
~ 俳優の中原丈雄さんからのメッセージ ~
高い演技力と重厚な存在感を発揮し、多くの映画、テレビドラマ等に出演されている俳優の中原丈雄さんは人吉市のご出身です。強い郷土愛の持ち主で、球磨郡の観光大使を務めておられ、しばしば帰省され地域の行事に登場されます。実は、中原さんの御母堂は多良木高等女学校を卒業されており、本校に対して特別な親近感を抱いておられます。この度、多良木町役場の御尽力を得て、本校最後の生徒たちに中原さんからエールを送って頂く場が実現しました。
10月20日(土)の午前、本校第1体育館において、「これからの時を生きる」の演題でトーク&ライブが開かれました。本校の生徒・教職員に加え、保護者や地域の方々も参加されました。前半のトークでは、若い劇団員としての下積み生活の中でも、俳優になるという夢を持ち持ち続けたことを語られました。印象に残った言葉を二つ紹介します。
「これから、つらいことにたくさん出会う。けれども、良い仕事をするために、つらい経験をしていると考えてほしい。」
「昨日負けても、今日勝つと思えばいい。今日負けても、明日は勝とうと思えばいい。」
後半のライブでは、音楽仲間の方と結成しているバンドで再登場され、中原さんはエレキギターを奏で、1950年から1960年代に英米でヒットしたポピュラーソングを軽快に披露されました。中原さんは俳優が本業ですが、絵画も個展を開くほどの腕前で、音楽の才能も豊かな方です。
あふれんばかりの能力に恵まれた方ではありますが、40代までアルバイトをしなければ俳優だけでは生活ができなかったという長く厳しい体験が土台となり、現在のベテラン俳優ができあがったという真実は、来春に巣立っていく生徒たちにとって何よりの励ましになったでしょう。
多良木高校の剣道部物語
多良木高校の剣道部物語
今年度末に閉校が迫り、同窓生や旧職員の方が学校を訪問されることが増えてきました。先日は、旧職員の武井章先生(体育)が来校されました。「剣道の武井」と人吉球磨地域では令名が高く、かつて多良木高校に16年間在職され、剣道部の黄金時代を築かれた方です。御年80歳を迎えられていますが、今も人吉球磨剣道連盟会長職を務め、小学生相手に剣道の手ほどきをされる日々を送られており、背筋がぴんと伸び古武士然のたたずまいです。
武井先生の多良木高校での思い出話は、多良木高校剣道部全盛期のことに及ぶと一段と熱っぽくなり、その白眉が昭和55年(1980年)の女子剣道部の玉竜旗大会での全国優勝でした。前年、同大会で3位に入りながら、この年の県高校総体県予選では阿蘇高校(現阿蘇中央高校)に惜しくも敗れ全国高校総体(インターハイ)出場を逃していました。それだけに、玉竜旗大会にかける気持ちが強かったそうです。部員たちが日々の厳しい稽古を貫き、部のモットーの「平常心是道」を心がけた結果、優勝を果たすことができたと武井先生は往時を懐かしみ愉快に語られました。
戦国時代後半から江戸時代初期にかけての剣豪、丸目蔵人(まるめくらんど)は人吉藩相良家に仕え、タイ捨流を創始しました。晩年は一武村(現 錦町一武)に隠棲してお墓も残っています。そして古武道の一派としてタイ捨流は今も伝わっています。丸目蔵人の影響が多分にあるのでしょう、人吉球磨地域は剣道が盛んな土地柄です。その中で、まさしく剣道一筋に武井先生は生きて来られたのです。そして、多良木高校剣道部を鍛え、多くのたくましい人材を世に送られたのでした。
けれども、多良木高校剣道部は6年前に部員がいなくなり活動を止めました。4年前に私が赴任した時はすでに剣道部はありませんでした。これも時代の流れでしょうか。
しかし、女子剣道部の玉竜旗優勝は多良木高校96年の歴史の中でも燦然と輝いています。地域の普通の高校が全国大会で優勝したことは永く語り草となっています。現在も本校の玄関展示ケースに優勝記念の旗が飾られています。
最後の部活動 ~ サッカー、バスケットボール、駅伝
最後の部活動 ~ サッカー、バスケットボール、駅伝
7月の甲子園大会県予選で野球部が敗退した後、多良木高校のグラウンド及び体育館における部活動は休止状態となりました。しかし、10月に入り、部活動が再開されました。この時期、各競技の秋の県大会が開催されるため、本校から三つの部が出場することになったのです。今年度で閉校する本校には3年生しか在籍しておらず、3年生で単独チームが結成できるのは10人の部員がいる男子バスケットボールだけです。男子サッカーと駅伝(陸上部)は南稜高校と合同チームとなります。就職の内定、上級学校の合格と進路が決まった生徒を中心に練習を再び始めました。
多良木高校サッカー部は部員5人ですが、南稜高校と合同チームを組んでもぎりぎりの11人の状況です。しかし、6月の県高校総体1回戦での逆転負けの雪辱に燃え、10月6日の1回戦(会場:鹿本農高)に大勝しました。そして、13日の2回戦(会場:鹿本商工高)では天草工業高校相手に互角の試合を展開し、2対2のまま延長でも決着せずPK戦で勝つという劇的な幕切れとなりました。合同チームながら、人吉球磨地域で小・中学校からサッカーをしてきた仲間であり、絆は強く、最後まであきらめないたくましさを見せてくれました。
また、男子バスケットボールも13日に大会(会場:熊本市)に臨み、1回戦は快勝しました。生き生きと躍動し、出場した選手全員がシュートを決める圧巻の内容でした。2回戦では強豪のシード校に敗れましたが、多良木高校単独チームとして輝きを放ったと思います。試合後、バスケットボールをやりきったという達成感漂う選手たちの表情が爽やかでした。
サッカーの合同チームは20日の3回戦に挑みます。そして、同じく南稜高校と合同チームを組む男女の駅伝は27日に県高校駅伝大会に挑みます。それぞれ自分が選んで続けてきたスポーツで完全燃焼をしてほしいと期待します。
今月、束の間ですが、放課後、グラウンド・体育館で生徒たちが汗を流して活動し、元気ある声が響きました。多良木高校は最後まで活力を失いません。
2回戦を勝利した南稜・多良木サッカーチーム
最後まで地域と共に ~ 地区の交流会、防災ヘリの離発着場
最後まで地域と共に ~ 地区の交流会、防災ヘリの離発着場
昨日、多良木町六区の公民館で高齢者の方々の集まり「いきいきサロン」が開かれました。毎年、9月の「いきいきサロン」には同じ区にある多良木高校にもご案内があります。木曜日の午前中ということで、既に進路が内定した生徒4人(男子3、女子1)、引率教諭と私の6人で参加しました。多良木中学校からも12人の生徒が参加し、およそ30人の高齢者の方々と約1時間半の和やかな交流のひと時を過ごすことができました。
六区の区長の長田さんは多良木高校卒業生で御年80歳。しかし、いつも元気溌剌、陽気でいらして献身的にお世話に奔走されています。近年、地元六区の方々には学校をいつも支えていただき、感謝の言葉もありません。体育大会での一緒の競技、合同の防災訓練、そして郷土料理やグラウンドゴルフを通しての交流会などの行事はもちろんですが、日常において、生徒達を温かく見守ってくださっています。このことは生徒自身が一番わかっています。
昨日の交流会で、4人の生徒達がそれぞれ感謝の言葉を地区の皆さんに述べました。どれも心のこもったもので、聞いていて生徒の人間的成長を私も実感しました。地域の方々の眼差しや声掛けが最後の学年の生徒達をどれだけ励まし育ててくれたことでしょう。
閉校まで半年となりました。「地域に恩返しをしたい」と職員、生徒にはいつも呼び掛けています。できることは限られています。可能な限り、地域の行事や催し物に進路が内定した生徒を参加させたいと思っています。
実は9月から、多良木高校は緊急時のドクターヘリや防災ヘリの臨時の離発着場の役割を担っています。近隣の上球磨消防署の改築工事のため、代替の場所を引き受けました。広いグラウンドを有し、生徒は少なく、放課後の部活動もなくなったため、体育の授業時など以外は原則受け入れることにしています。既に2度、ヘリの離発着が行われました。地域の防災拠点になることも県立高等学校の役割だと思います。そして、少しでも地域の方々への恩返しになればと願っています。
上)多良木町6区の高齢者の方との交流会(6区公民館)
下)多良木高校グラウンドで離発着する防災ヘリコプター
塀の向こうには彼岸花が咲いていた ~ ブロック塀撤去完了
塀の向こうには彼岸花が咲いていた ~ ブロック塀撤去完了
多良木高校の正門から南側にかけて長さ約15m、高さ1.5mのブロック塀が立っていましたが、9月18日~19日の工事で撤去されました。去る6月、大阪府北部を震源地とし最大震度6を記録した地震で、高槻市の小学校のプール脇のコンクリートブロックが倒壊し女子児童が亡くなるという事故が起きました。この痛ましい事故の発生を受け、熊本県教育委員会(施設課)による全ての県立学校のブロック塀緊急点検が行われました。その結果、本校においても正門から南側にかけてのブロック塀と、多良木町迫田の職員住宅を囲むブロック塀が撤去対象に該当することが判明し、今回の工事に至りました。
ブロック塀は、約20年で鉄筋にさびが認められるようになり、抵抗力が弱くなるそうです。日本建築学会の調査によるとブロック塀に期待できる耐久年数は約30年とされています。また、高さが1.2mを超える塀は、安定性を確保するため構造も複雑で、劣化の影響を受けやすく、倒壊した場合の被害も大きいことを緊急調査の際に配布された資料で知りました。本校のブロック塀は高さが1.5mあり、現在地に移転して数年内に築造されたと推定され、すでに40年を超えていました。内側から支える控壁(ひかえかべ)は付いていましたが、経年劣化していると判断されたのです。
学校は安全で安心な場所でなければなりません。大阪府高槻市の小学校のブロック塀の危険性が見逃されていたために悲劇が起きました。この事故が起きなければ、私たちも多良木高校のブロック塀の危険性を意識することがありませんでした。日常見ていても、意識しないと危険性を見出すことはできません。2年前の熊本地震において球磨郡は最大震度4を記録しましたが、ブロック塀に異変は生じませんでした。油断があったのです。
ブロック塀がなくなり、今まで塀で遮られていた風景が見通せるようになりました。何かとても風通しが良くなった気がします。撤去されたブロック塀の向こうには、真っ赤な彼岸花と緑から黄色に変色している稲穂の田園風景が広がっています。この夏、記録的な猛暑、台風や地震の自然災害に日本列島は見舞われました。まだその傷跡は癒えておりませんが、ようやく実りの秋を迎えようとしています。
3年生を励ます ~ 3年生進路激励会
3年生を励ます ~ 3年生進路激励会
進路を決める高校3年の2学期を迎えました。
自らの進路達成に挑戦する皆さんに対し、追い風が吹いていると私は思っています。今年度で閉校する多良木高校の最後の学年である皆さんは、入学以来、期待と注目の存在です。96年の歴史のアンカーです。同窓生の方が、地域の方が、そしてメディアまでもが注目し、応援してくれています。そのことは皆さんも実感していることでしょう。
閉校すると分かっていながら多良木高校を志望した皆さんの選択は間違っていなかったと思います。他の学校ではとうてい得ることができない、特別な体験を重ね、多くの方の応援を受けてきたからです。それは皆さんの強みです。
小・中学校、高校とこれまで横並びの歩みでした。しかし、高校卒業後の進路はそれぞれ全く異なります。人それぞれです。「この道より我を活かす道なし この道を歩く」(武者小路実篤)という決意、覚悟が問われます。
「皆さんは豊かな可能性を持っている」と私はよく口にしますが、それは二つの根拠があるからです。高校の教員として32年間、多くの高校生の卒業後の活躍を見てきたこと、そして多良木高校長として4年間、多良木高校の諸先輩たちの活躍を見聞きしていることです。皆さんもきっとできます。
公務員試験はすでに始まり、一般企業の採用試験は9月16日解禁です。専門学校、大学等の推薦試験も近づいています。就職、そして進学の推薦試験において必須となる面接についてのアドバイスを贈ります。多良木高校だから学べたこと、体験できたことを伝えてください。地域に開かれた学校である多良木高校の生徒として、多くのボランティア活動や地域の方との交流活動を展開してきました。また、少子化が要因で閉校となることを同窓生や地域の方がいかに惜しまれているかを皆さんは知っています。これらのことは他校の生徒では決して話せないことです。
多良木高校は3年生67人の小さな学校です。しかし、多良木高校生は小さな高校生ではありません。大きな可能性を持っています。その可能性を発揮し、全員、進路希望を実現しましょう。私たち職員全員で支えていきます。
槻木地区の高齢者の方との交流活動
槻木地区の高齢者の方との交流活動
~ 槻木「希望いきいき学校」 ~
昨年度から児童がいなくなり休校状態にある多良木町立槻木(つきぎ)小学校へ、8月30日(木)、3年生の福祉教養コースの生徒14人を引率して行きました。槻木小は多良木高校から南におよそ20㎞離れたところにあります。槻木は多良木町の南の端に当たり、地図で見るとこの地区だけが宮崎県域にぐいと入り込んでいます。槻木地区は住民が120人ほどで高齢化率は77%に達しています。槻木を訪ねるのは容易ではありません。県道143号を球磨盆地側から上り、曲がりくねった細い道を走行し、標高780mの槻木峠を越えなければなりません。ジャンボタクシー2台を貸切り向かいました。
今年度、休校中の槻木小学校で毎月1回、地域の高齢者の方が集まって「希望いきいき学校」という社会教育プログラム活動が行われています。多良木町教育委員会からの依頼もあり、福祉教養コースの生徒たちはこの活動に参加するため赴きました。会場にはおよそ20人の方が私たちを待っておられ、歓迎してくださいました。
午前10時にプログラム開始。最初に生徒たちがダンスを披露。次に介護予防体操を行いました。そして、身体を動かしながらのゲームに興じました。生徒も交じって二班に分かれ、初めに大きなバレーボール、次に小さい卓球のボールを後ろの人に振り向かずに頭の上で手渡ししてリレーするもので、笑い声が絶えませんでした。休憩をはさんで、後半は福祉教養コースでどんなことを学習してきたかを生徒が発表し、最後は生徒と高齢者の方で協力しながら小物づくり(ピンクッション)に取り組みました。針穴にさっと糸を通される高齢者の方の慣れた手つきに感嘆の声を上げる生徒もいました。
午前11時15分にプログラム終了。皆さんと別れを惜しんだ後、小学校の傍らを流れる槻木川の中にある天然の河川プール(コンクリートで簡単な囲いのみ)に生徒たちは素足で入り、冷たい清流の感触に喜んでいました。日頃は静かな別天地の山里に、高校生の明るく元気な声が響き渡りました。多良木高校所在地より気温が3~4度は低く、秋の気配を感じました。
閉校まで残り半年余りですが、最後まで地域と共に歩みたいと思います。
「永世監督」、「永世指導者」 ~ 野球部指導者の方への感謝状贈呈式
「永世監督」、「永世指導者」
~ 野球部指導者の方々への感謝状贈呈式 ~
8月28日(火)、多良木高校の2学期の始まりです。始業式の後、長年にわたって多良木高校野球部をご指導いただいた齋藤監督、馬場コーチ、尾方コーチに対して、学校として感謝の気持ちをお伝えする場を設けました
本校の教育活動や部活動に対してご支援やご協力をいただいた方はたくさんいらっしゃいます。しかしながら、野球部の齋藤監督、馬場コーチ、尾方コーチは、その期間の長さ、そして関わりの深さが類を見ない特別な存在です。
齋藤健二郎監督は教諭として10年、そして多良木高校校長をお務めの後、多良木町に単身残られて9年、通算19年間、監督としてご指導いただきました。熊本県高校野球界では百戦錬磨の名将として知られる方です。多良木高校をこよなく愛され、その発展、存続にご尽力いただき、心から敬意を表します。
馬場正吾コーチは、本校野球部のOBであり、齋藤監督が若かりし頃の教え子に当たられます。高校時代はキャプテンを務められたそうです。斎藤監督を支えて、この8年間ご指導いただきました。
尾方功一郎コーチも本校野球部のOBです。高校時代はキャッチャーで後にプロ野球で活躍された野田投手とバッテリーを組まれていました。監督、そしてコーチとして16年間ご指導いただきました。
馬場コーチも尾方コーチもそれぞれお忙しい家業の傍ら、ほぼ毎日野球場に足を運んでいただく姿に私はただ頭が下がる思いでした。
齋藤監督に多良木高校野球部の「永世監督」、馬場コーチと尾方コーチには「永世指導者」の称号を記した感謝状を贈呈しました。生徒代表として野球部の平野主将がお礼の言葉を述べ、女子マネージャーが花束を贈りました。
3人の指導者の方々から生徒たちに対して、「社会のルールを守る」、「平坦な道ばかりではない、挫折があっても負けるな」、「しっかり生きていってほしい」等の励ましの言葉を掛けていただきました。3人の指導者の方々は、多良木高校を最後まで支えて頂いたのです。
夢の「甲子園出場!」 ~ マスターズ甲子園出場決定
夢の「甲子園出場!」 ~ マスターズ甲子園出場決定
「甲子園出場の夢が叶いました!」
野球部OBの方から興奮気味の連絡が入ったのはお盆直前の8月12日(日)の夕方でした。私は一瞬何のことかわかりませんでしたが、説明を聞き、それが高校野球OBによる「マスターズ甲子園大会」であることを理解しました。
高校時代に甲子園に出場できる球児は一握りの者です。高校を卒業しても野球を楽しむ「永遠の高校球児たち」のために「マスターズ甲子園」が創設され、今年が第15回を数えます。結束の強い多良木高校野球部OB会はこの「マスターズ甲子園」を目指してきましたが、昨年も県予選大会で準優勝に終わり、出場できずにいました。
しかし、今年は、坂口幸法会長を中心にOBの気合の入り方が違っていたそうです。高校球児が果たせなかった夢を、閉校の年にOBが団結して叶えようと46人がチームに名を連ね、地区予選を勝ち上がり、地区代表の8校で県代表を決めるトーナメント大会(8月11~12日、県営藤崎台球場)に臨み、見事優勝したのでした。マスターズ甲子園大会は11月10日~11日開催です。
マスターズ甲子園の出場選手は社会人野球、大学野球の現役選手及びプロ野球関係者では無いこと。そして試合は最初に34歳以下の選手が制限時間50分、次に35歳以上の選手が1時間10分プレーしての合計で戦います。34歳以下の若手メンバーには近年卒業し人吉球磨地域で仕事をしながら趣味で野球を続けている者が7人も名を連ねています。高校時代に果たせなかった夢を彼らは社会人になって実現したと云えるでしょう。
甲子園出場を目指して半世紀にわたって戦ってきた多良木高校野球部は、その目標を実現することなく先月「終戦」を迎えました。甲子園出場は見果てぬ夢となりました。けれども、OBの方々の熱い思い、強い絆によって、閉校前に、野球の聖地である甲子園球場のスコアボードに「多良木」の名前が載ることになりました。OBの方々からの驚くべき贈り物です。
夢は叶う、諦めなければ。野球部OBのマスターズ甲子園出場を学校あげて祝福したいと思います。
マスターズ甲子園の県予選大会優勝
魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡
魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡
「錦町の高原(たかんばる)に戦争中、海軍の基地があった。」と4年前に球磨郡に赴任した時に郷土史家の方から話を聞きました。調べてみると、戦局が激しさを増した昭和18年(1943年)11月に球磨川と川辺川に挟まれた丘陵地帯に建造が始められ、翌年2月に人吉海軍航空基地が発足しました。飛行機の搭乗員や整備士の養成が主目的の基地でした。今も残る2基の堅牢な石造りの隊門や慰霊碑等を巡り、往時を想像したものです。
終戦から73年目の夏、この人吉海軍航空基地跡に資料館が開館しました。「ひみつの基地ミュージアム 錦町立人吉海軍航空基地資料館」(錦町木上西)です。昨日(日曜)見学に行きました。館内の展示では、昭和20年に地元の山中に墜落した零戦(ゼロ戦)の部品残骸が目を引きました。写真パネルでは、航空燃料不足を補うための松根油(しょうこんゆ)の製造の様子が印象に残りました。
また、館外の戦争遺跡への見学会が実施されており、台地の縁の崖に穿たれた巨大な地下魚雷調整場に入ることができました。9万年前に噴火した阿蘇の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の崖を人力で掘削し造られた地下トンネルです。縦5m、横5mのトンネル入り口の前に立つと、向こうに広がる大きな闇が戦争を象徴しているかのような迫力を覚えます。この「魚雷」は、航空機の胴体に括り付け敵艦目がけて発射するものでした。昭和20年(1945年)に入るとアメリカ軍の空襲を受けるようになり、作戦室、兵舎、武器弾薬庫等の多くの施設を地下に設け、まさに秘密の地下基地の様相を呈したようです。
昭和20年8月15日、終戦。結局、2年足らずの短い実働の基地でした。当時の滑走路跡の東端にミュージアムは建てられており、西に向かって伸びる狭い農道を展望できます。多くの古写真が残されていますが、今となっては海軍航空基地がここにあったことは幻のようです。しかし、だからこそ残存する戦争遺跡を直視する意義は大きいと思います。
今日は平成30年(2018年)8月6日。広島に人類史上初めての原子爆弾が落とされて73年目を迎えました。
今に残る地下魚雷調整場跡
次のステージに進もう ~ 3年生進路ガイダンス実施
次のステージへ進もう ~ 3年生進路ガイダンス実施
7月17日(火)の野球部の「終戦」以来、寂しさに包まれていた多良木高校ですが、7月24日(火)の3年生進路ガイダンスで活気付きました。生徒67人に加え8割を超える保護者の出席を得て開催できました。
全体会では専門学校講師によるマナー講座で面接の心構えや具体的なポイントを学び、就職、公務員、進学の分科会ではそれぞれ各担当から説明がありました。就職については7月1日から求人票の受付を始めており、例年以上に多くの企業から早々に求人があって、進路指導部の整理が追い付かない状況が紹介されました。あまたの企業から一社を選ぶために、就職希望の生徒たちは保護者も交えて担任、進路指導主事との四者面談が始まりました。進学の生徒たちも志望校決定が迫られます。自己の進路を決める夏です。
これから生徒の皆さんが生きていく社会を予測することは困難です。なぜなら社会の変化のスピードがあまりに早いからです。深刻な少子高齢化、急速なAI(人工知能)の普及、経済のグローバル化はとどまることはありません。答えが最初からわかっているような仕事はAIに取って代わられることになるでしょう。一方、ロボットの導入により、単純な労働は職業としては消えていくものと思われます。人間にしかできない仕事は何か、人間にしかできないサービスは何かが求められる新しい時代が到来しています。
将棋や囲碁の名人に勝つAIが出現して社会を驚かせました。多数のパターンから最適解を求める演算能力で人間がAIにかなうわけがありません。しかし、AIは知能であり、身体性は弱い段階にあります。AIを搭載している人型ロボットであっても、その動きはまだぎこちなく、人間には遠く及びません。このような状況から、これから社会へ出ていく高校生の皆さんには、改めて「知、徳、体」のバランスのとれた総合力を養って欲しいと望むのです。
AIを使いこなせる力、ロボットを活用する力、それはより良く課題を解決していく思考力から生まれると思います。思考力の基盤は体系的知識です。未来を生きる基礎を培うために、この夏、大いに学びましょう。
多良木高校3年生が次のステージに進みます。その先に進路実現が待っています。
3年生進路ガイダンス(全体会)
誰もいない野球場 ~ 多良木高校野球部の「終戦」
誰もいない野球場 ~ 多良木高校野球部の「終戦」
入道雲が湧く青空が広がり、真夏の強い日差しが降り注ぐ多良木高校の野球場に人影はありません。7月17日(火)、夏の熊本県大会3回戦で敗れ、最後の夏の多良木高校野球部の挑戦は終わりました。昨年までは、3年生が部活動から引退して下級生の新チームが発足し、秋の大会に向けて練習に汗を流したものです。しかし、来春閉校する多良木高校に2年生以下は在籍していません。選手の掛け声や、打球の音、齋藤監督や馬場コーチ、尾方コーチの叱咤激励などエネルギーに満ち溢れていたグラウンドが今は嘘のように静かです。
「寂しくなりました」と学校周辺にお住いの方々が言われます。「もう野球部の賑やかな声が聞こえないと思うと、さびしくて仕方ありません」と年配のご婦人がため息をつきながら私に語られました。
多良木高校野球部は昭和42年(1972年)に創部されましたが、専用の野球場が創られたのは2年後に現在の新校舎に移転してからです。グラウンドの整備が進み、平成15年には高さ15mのネットが周囲に張り巡らされました。「公立高校の野球場としては日本一」との齋藤監督の言葉が示すとおり、十分な練習環境が整ったのです。
けれども、その施設以上に野球部の練習を支えたのは、学校周辺の地域の皆さんのご理解とご支援でした。練習の際、時々、ボールが防球ネットを超えて住宅の庭に飛び込んだり、屋根に当たって瓦を割ったり、自動車のボンネットに落ちたりとご迷惑をお掛けしました。練習試合の時は休日の早朝から高校生の大きな声が飛び交いました。しかし、生徒や顧問教師が謝りに伺うと、皆さん、笑顔で対応してくださいました。校長として4年目を迎えている私も、野球部の活動に関して周辺の住民の方々から苦情や抗議を受けたことは一度もありません。このことに深く感謝したいと思います。
高校生がひたむきに野球に没頭する姿は、地域の方々に元気を届ける役割を担っていたのでしょう。その姿が消え、野球場には少しずつ夏草が伸び始めました。7月17日は、半世紀戦い続けた多良木高校野球部の「終戦」の日となったのです。この日が来ることを覚悟はしていましたが、やはり言いようのないさびしさに学校全体が包まれています。
人影のない多良木高校野球場
「見果てぬ夢、甲子園」
「見果てぬ夢、甲子園」
来年3月の閉校が迫る多良木高校にとって、初の甲子園出場を目指す最後の夏の挑戦が昨日終わりを告げました。県営八代球場で行われた3回戦で、シード校の有明高校に1対5で敗れました。試合後、平野主将が「地域の皆さんと一緒に甲子園に行きたかった」と涙ながらに挨拶しました。しかし、多くの保護者、同窓生、地域の方々から温かい言葉が掛けられ、最後は爽やかな笑顔で選手、マネージャーは学校に帰ってきました。
閉校が定めの小さな学校の大きな挑戦でした。多良木高校の象徴的存在である野球部は大会前から注目されましたが、7月11日の1回戦(山鹿球場)、7月14日の2回戦(八代球場)、そして17日の3回戦とまさに地域の人々と共に戦い抜き、高校野球の原点を示すことができたと思います。1回戦から野球部員以外の全ての生徒と職員で全力応援しましたが、球場には保護者、同窓生、地域の応援隊、旧職員など驚くほど多くの方々が駆け付けて下さいました。
メディアの方から、応援の人数や構成などをしばしば問われましたが、誰も把握できません。本校への応援は、組織的なものではありません。多良木高校と何かの関係がある方だけでなく、純粋な高校野球ファンや閉校する小さな学校の挑戦に共感を覚える一市民の方など実に多様な方々が自発的に足を運んでくださったものなのです。
夢に向かって果敢に挑んだ野球部員を心から誇りに思うと共に、改めて甲子園という場所が遥か遠いところにあると実感しました。多良木高校は甲子園に出場することなく、来春、96年の歴史を閉じます。1967年(昭和42年)の創部以来、およそ半世紀の挑戦でしたが、「見果てぬ夢」のままとなりました。
願わくは、7月1日の熊本県大会開会式で平野主将が選手宣誓で述べたとおり、多良木高校野球部の思いが高校野球の未来につながっていくことを祈念したいと思います。
7月17日 多良木高校野球部最後の試合
全力応援 ~ 野球部一回戦
全力応援 ~ 高校野球1回戦
先週後半、記録的な豪雨によって広く西日本一帯に甚大な被害が生じました。多数の尊い人命が失われてしまったことは痛恨の極みです。心から哀悼の意を捧げます。
熊本県においても雨が続いたため、第100回全国高等学校野球選手権熊本大会の日程が順延となり、当初7月9日(月)に予定されていた多良木高校の1回戦が11日(水)に変更となりました。最後の夏に挑む多良木高校野球部にとって待ちに待った初戦です。3年生67人のうち野球部員が24人ですから、残り43人の生徒全員と職員で応援に行くことにしました。1回戦から学校あげての全力応援です。
大型バス1台と中型バス1台で午前9時に多良木高校を出発。初戦の会場である山鹿市の球場まで高速道路を利用して2時間15分要しました。到着した私たちを出迎えたのは新聞、テレビ等の多くのメディアの方々でしたが、それ以上に驚いたのは、予想以上に大勢の方が多良木高校の応援に駆け付けてくださったことです。平日、そして球磨郡から遠く離れた県北の山鹿市で行われる1回戦であるにもかかわらず、多良木高校側スタンドは応援で満員状態となりました。保護者、同窓生、旧職員、そして有志の野球部応援隊、さらに直接は多良木高校、球磨郡と関係がなくても、多良木高校の最後の夏を応援したいという高校野球ファンの方がスタンドを埋めてくださり、胸が熱くなりました。
「多良木高校の最後の夏の挑戦」の思いを、多くの人々が共有して下っていることに深く感謝します。閉校の年度にも関わらず、夢に向かって挑戦する高校生の姿勢が共感を呼ぶのだろうと思います。
炎天下の八代工業高校との試合は、天候と同じく熱いものとなりました。応援に後押しされるかのように攻撃する多良木高校。しかし、八代工業高校も反撃し最後まで白熱した好試合でした。結果は10対5で勝ちましたが、試合後、八代工業高校のマネージャーの女子生徒から本校の平野キャプテンに対して折鶴が渡され、八代工業高校の分も勝ち進んでほしいとエールが送られました。
多良木高校野球部の夢への挑戦は続きます。私たちも学校あげて全力応援を続けます。
地域の高齢者の方から野球部に贈られた寄せ書き
西郷どんの面影を探して ~ 人吉市の永国寺
西郷どんの面影を探して ~ 人吉市の永国寺
人吉市に永国寺(曹洞宗)という名刹があります。創建は室町時代に遡り、「幽霊の掛け軸」があることで知られています。広い境内には、幽霊の伝承がある蓮池が今に残ります。これまで幾度も訪ねたことがありますが、先日、近くの人吉市立人吉一中で会議があり、早く同校に着いたため、久しぶりに永国寺まで足をのばしました。
今年は、西郷隆盛ゆかりの寺として永国寺は脚光を浴びています。NHK大河ドラマ「西郷どん」の放映により、改めて維新の英雄の西郷隆盛に関心が高まっていますが、実は人吉は西郷とは深い縁がある所なのです。
江戸時代、人吉城を拠点とした相良藩(2万2千石)は、北に肥後藩(細川家54万石)、南に薩摩藩(島津家77万石)の両大藩に挟まれ、政治的に難しい立場にありました。明治10年(1877年)2月、明治新政府へ反旗を翻し、鹿児島から攻め上る西郷軍の主力は人吉を通って熊本へ進軍していきます。しかし、熊本城攻防、田原坂の戦いで敗れた西郷軍は4月下旬に人吉に撤退してきました。それからおよそ一か月の間、人吉を根拠としますが、その間、総大将である西郷隆盛が本営として滞在したのがこの永国寺なのです。江戸時代以来の関係を重んじ、西郷軍に味方する人吉の士族も少なくありませんでした。一族の中でも、政府軍と西郷軍に分かれて戦った例もあります。
結局、軍事力で優勢な政府軍が人吉に迫り、5月末に西郷隆盛は加久藤峠を越え宮崎へ敗走していきます。この時の戦火で永国寺はじめ人吉の街の多くが焼失しました。
明治維新の最大の功労者でありながら、10年後には無謀な反乱を起こして世を去った西郷隆盛という人物には多くの謎が残されています。まず西郷の写真が一枚も残っていません。私たちがよく知る西郷さんのお顔は肖像画によるものです。人吉滞在中、西郷隆盛は愛犬を連れて付近を散策していたという言い伝えが残っていますが、実像はどんな人物だったのでしょうか。
永国寺の北側を球磨川が流れています。往時と変わらないこの流れだけが、歴史を目撃しています。
始球式
「ボールよ、届け」
第100回全国高等学校野球選手権熊本大会始球式
「ボールよ、届け」と念じて、税所さんは投げたそうです。そのボールは見事にストライクで捕手の井上さんのミットに収まりました。打者役の学園大学付属高校の隈部君が大きく空振りのスイングをしてくれました。スタンドの観衆から湧き起こる歓声と拍手に三人は包まれました。笑顔の税所さんは帽子を脱ぎながらマウンドを駆け下り、井上さんもホームベースから走り寄り、二人が抱き合って喜ぶ光景は輝いて見えました。
7月1日(日)、県営藤崎台球場で第100回全国高等学校野球選手権熊本大会の開会式が行われました。熊本県高等学校野球連盟の指名を受け、名誉ある選手宣誓を多良木高校の平野光主将が務めました。そして、開会式後の第100回記念の始球式の投手と捕手の大役も多良木高校生が担うことになったのです。これは、6月14日の抽選会の際、県高野連の竹下会長による抽選で決まったのです。今年度で閉校を迎える本校にとって、選手宣誓だけでなく始球式もさせて頂けるとは何という幸運でしょうか。「最後の夏」を迎える多良木高校野球部に対して、野球の神様が微笑んでくれたのかもしれません。
始球式は、6人いる本校野球部マネージャーからリーダーの税所愛莉さんとサブリーダーの井上もなみさんに決まりました。二人は、野球部の練習が始まる前、また終わってからグラウンドで特訓に取り組みました。投手と捕手の距離は18.4mと定められていますが、硬球をストライクで投げることがいかに難しいことか二人は痛感する日々でした。捕手役の井上さんは慣れないキャッチャーマスクとプロテクターを装着し、初めは自由に動くことさえできない様子でした。けれども、監督やコーチ、選手たちの指導を受け練習を重ねたのです。
多良木高校野球部の6人のマネージャーは、決して部活動の裏方ではありません。打撃練習ではグローブを着けて外野を守り、白球を追い掛けてきました。18人の選手と一緒に戦ってきた意志と体力を持っています。税所さんと井上さんはその本領を発揮したのです。
それにしても、大観衆が見守り、テレビ中継が行われている緊張感の中、よくぞストライクを投げることができたと驚きます。奇跡はやはり人が起こすものだと改めて高校生が教えてくれました。
選手宣誓 ~ 第100回全国高等学校選手権大会熊本大会
選手宣誓 ~ 第100回全国高等学校野球選手権大会記念熊本大会
「宣誓!」、出場61チーム(参加校63校)の校旗を持つキャプテン達に半円に囲まれ、多良木高校野球部主将の平野光君の選手宣誓が始まりました。
「フレンドシップ・フェアプレイ・ファイトの精神が受け継がれ、高校野球は歴史ある100年を迎えました。今、我々はその檜舞台に立っています。各学校の野球環境はそれぞれ違いますが、家族・仲間・学校・地域への感謝の思いは同じです。
今年度で多良木高校野球部は歴史に幕を閉じます。しかし、高校野球の精神や地域への感謝の思いは、必ず次の100年に繋がっていくものと確信しています。この記念すべき100回大会に参加できる喜びを胸に、私たちは一戦一戦、全力で力一杯戦っていくことを誓います。
平成30年7月1日 選手代表 熊本県立多良木高校野球部主将 平野光 」
県営藤崎台球場全体から大きな拍手が沸き起こりました。落ち着いた態度で、一つひとつの言葉に思いを込めた選手宣誓でした。平野君は、見事に大役を果たしたのです。
夏の青空の下での第100回全国高等学校野球選手権大会記念熊本大会の開会式。今年度で閉校する多良木高校にとって「最後の夏」です。熊本県高等学校野球連盟の格別の計らいによって、多良木高校野球部は第100回記念大会の名誉ある選手宣誓の指名を受けたのです。抽選会でこのことを知った主将の平野君の緊張は最高潮に達したことでしょう。しかし、彼はすぐに「しっかりやろう」と覚悟を決めます。そして、野球部の齋藤監督、高山部長等と相談しながら、「100年の歴史」、「これからの100年」、「感謝」などをキーワードに宣誓文を創り上げていったのです。
6月28日(金)の多良木高校での野球部推戴式においてリハーサルを行いましたが、その堂々とした態度に私は本番でもきっと大丈夫との確信を得ました。その期待通りの誠に立派な宣誓でした。大舞台で輝く平野君の姿をバックネット裏のスタンドから私は眩しく眺め、感無量でした。
竹下文則 熊本県高野連会長の前で宣誓する平野主将
登録機関
管理責任者
校長 粟谷 雅之
運用担当者
本田 朋丈
有薗 真澄