校長室からの風(メッセージ)

西郷どんの面影を探して ~ 人吉市の永国寺

西郷どんの面影を探して ~ 人吉市の永国寺  

 人吉市に(えい)(こく)寺(曹洞宗)という名刹があります。創建は室町時代に遡り、「幽霊の掛け軸」があることで知られています。広い境内には、幽霊の伝承がある蓮池が今に残ります。これまで幾度も訪ねたことがありますが、先日、近くの人吉市立人吉一中で会議があり、早く同校に着いたため、久しぶりに永国寺まで足をのばしました。

 今年は、西郷隆盛ゆかりの寺として永国寺は脚光を浴びています。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の放映により、改めて維新の英雄の西郷隆盛に関心が高まっていますが、実は人吉は西郷とは深い縁がある所なのです。

 江戸時代、人吉城を拠点とした相良藩(2万2千石)は、北に肥後藩(細川家54万石)、南に薩摩藩(島津家77万石)の両大藩に挟まれ、政治的に難しい立場にありました。明治10年(1877年)2月、明治新政府へ反旗を翻し、鹿児島から攻め上る西郷軍の主力は人吉を通って熊本へ進軍していきます。しかし、熊本城攻防、田原坂の戦いで敗れた西郷軍は4月下旬に人吉に撤退してきました。それからおよそ一か月の間、人吉を根拠としますが、その間、総大将である西郷隆盛が本営として滞在したのがこの永国寺なのです。江戸時代以来の関係を重んじ、西郷軍に味方する人吉の士族も少なくありませんでした。一族の中でも、政府軍と西郷軍に分かれて戦った例もあります。

 結局、軍事力で優勢な政府軍が人吉に迫り、5月末に西郷隆盛は加久藤峠を越え宮崎へ敗走していきます。この時の戦火で永国寺はじめ人吉の街の多くが焼失しました。

 明治維新の最大の功労者でありながら、10年後には無謀な反乱を起こして世を去った西郷隆盛という人物には多くの謎が残されています。まず西郷の写真が一枚も残っていません。私たちがよく知る西郷さんのお顔は肖像画によるものです。人吉滞在中、西郷隆盛は愛犬を連れて付近を散策していたという言い伝えが残っていますが、実像はどんな人物だったのでしょうか。

 永国寺の北側を球磨川が流れています。往時と変わらないこの流れだけが、歴史を目撃しています。

                


人吉市の永国寺(曹洞宗)