校長室からの風(メッセージ)

2017年1月の記事一覧

明るい海辺の駅伝大会

明るい海辺の駅伝大会

~ 熊本県高等学校城南地区新人駅伝大会(天草大会) ~

 天草に春を呼ぶ高校城南駅伝大会が1月28日(土)に開催され、多良木高校も男女ともに出場しました。会場は、本渡運動公園陸上競技場をスタート・ゴールとし、海沿いに大矢崎、茂木根、そして男子は佐伊津漁港方面まで走って折り返すコースで、女子5区間12㎞、男子6区間20㎞で競います。大会直前まで厳しい寒さが続き、インフルエンザも流行し、前日に天草市に着いた各校の選手の中に発熱する生徒が続出しました。多良木高校も、女子の1年生の選手がインフルエンザの症状を呈し、急きょ保護者に迎えに来てもらうというハプニングがありました。

 しかし、大会当日は雲一つない青空が広がり、気温も上昇し日中は15度を超える温かさに恵まれました。多良木高校は、陸上部の生徒を中心に、サッカー、バレーボール、ソフトテニス、野球の応援選手を加えての「オール多良木」のメンバーで臨み、インフルエンザで欠場した女子選手の分もチームワークで補いました。男子は26チーム中6位(入賞)、女子は18チーム中9位といずれも力強い走りで襷をつないでくれました。

 コース途中に険しい坂があり、この区間を走る生徒の負担は大きく、苦しい表情を見せながら、歯を食いしばって走ります。次の走者に襷を渡し終えた後、倒れこんでしばらくは起き上がれない選手たちの姿には胸を打たれます。

 懸命に走る選手を応援しながら、車で各中継地点を巡りましたが、海の輝きをはじめ明るい風光にすっかり魅了されました。特に、男子第1と第5中継所の茂木根(本渡)海水浴場の眺望は素晴らしく、しばし、生徒たちと共に「藍より青い」と形容される天草の広々とした海を眺めて過ごしました。キリスト教を中心に豊かな南蛮文化はこの海から入ってきて、天草の独特の歴史と風土を創ったのだと感慨に浸りながら、水平線を見つめました。

 天草の眩しい海辺を走ったことは選手たちの記憶に鮮やかに刻まれ、青春の思い出を彩ることになるでしょう。


 


修学旅行団の解団式の言葉

修学旅行団の解団式の言葉

  「皆さん、たくさんのお土産とそれ以上の数多くの思い出と共に故郷に帰ってきました。四泊五日の行程を無事に終え、全員元気に帰ってくることができたことを皆さんと共に喜びたいと思います。

  振り返ると、様々な景色や旅の場面が思い浮かびますが、特に私の印象に残っていることを二つ挙げます。一つは、出発日の1月16日(月)の朝、6時の学校集合に一人の遅刻もなかったことです。まだ暗く、冷え込みの厳しい朝でしたが、全員が見事に集合したことはとても頼もしく思いました。修学旅行に行きたいという生徒の皆さんの意欲と、旅行に行かせたいという保護者の方々の思いが合わさって全員集合が実現したと思います。

  もう一つは、旅行4日目の1月19日(木)の班別の東京自由研修において、19時50分のホテル到着時間までに全ての班が笑顔で帰ってきたことです。列車に乗り間違える、駅の出口に迷う、あるいは路上のキャッチセールスに付きまとわれるなど、小さなトラブルに次々と遭遇したことでしょう。しかし、各班のチームワークを発揮して解決し、大きなトラブルに発展することを防ぎ、限られた時間の中で観光を楽しむことができたのです。皆さんたちのしなやかな行動力を心強く思いました。

  皆さん一人ひとりが旅行を楽しみながら、さり気なく友達を気遣い、団体行動に協力した結果、体調を崩す人もなく充実した修学旅行になったと思います。名前だけの団長でしたが、皆さんと一緒に旅行ができ、私も満ち足りた思いに包まれています。

  結びになりますが、修学旅行の主人公である皆さんに寄り添い支えていただき、安全かつ円滑に導いてくださった旅行のプロであるツアーコンダクターの石井さんに厚く御礼を申し上げます。誠にありがとうございます。

  それでは皆さん、家族の待つ自宅へ、感謝の気持ちを持って笑顔で帰りましょう。」


                   浅草寺境内にて(東京台東区)

 


福島への修学旅行出発

福島への修学旅行出発

  1月16日(月)から2年生67人と修学旅行に行きます。多良木高校の修学旅行は2年前から福島と東京を巡るコースと決めています。多良木高校にとって最後の修学旅行になる来年も福島を訪ねます。どうして福島県を訪れるのでしょうか。スキーは長野県でもできます。しかし、東日本大震災そして福島第一原子力発電所事故という未曽有の困難に見舞われた福島県の今の様子を直接見て、現状を知ることは未来を担う高校生にとって大きな意義があると考えるからです。福島の今、そして未来を見るための修学旅行です。

  昨年4月、熊本県でも大きな地震が発生し、日常のあたり前の生活ができることがいかに幸せであるかを実感しました。東日本大震災発生からやがて6年となり、震災に関する報道に接することも少なくなりました。福島県の人々は、地震、津波に加え、福島第一原子力発電所事故と三重苦に襲われました。沿岸部の双葉町、大熊町、浪江町、富岡町などは未だに放射線量が高く、帰還困難区域となっている所があります。一方、福島県内の多くの地域では復旧・復興が進み、放射線量も九州と変わらず、健やかな日常生活が行われています。しかしながら、風評被害で農林水産業や観光面で苦しんでいると言われます。

  実際に福島県を訪れ、正しく理解し、若い感性でもって共感してほしいと願います。福島県は、全国の都道府県で三番目に面積が広く、沿岸部から内陸、そして山間部と多様で豊かな風土があります。先ずは初日、「浜通り」と言われる沿岸部の拠点のいわき市を訪問し、水族館「アクアマリンふくしま」で環境学習を行います。そして「中通り」の県中央部へ移動し、岩瀬郡天栄村の羽鳥湖スキー場で2日間スキーを楽しむ予定です。

  昨年秋、「群青」という合唱曲を全校生徒で歌いました。福島県南相馬市立の小高中学校で2013年に生まれた歌で、福島第一原発事故によって多くの生徒及びその家族が全国に離散するという悲しい出来事を背景につくられました。今思えば、「群青」を全校合唱したことは、修学旅行の何よりの事前学習となったのではないでしょうか。「群青」の旋律、そして歌詞を思い出しながら、私たちは福島へ旅立ちます。 


           グランディ羽鳥湖スキーリゾート(福島県岩瀬郡天栄村)

エンブリー家族と須恵村の人々との交流から学ぶ

 1月10日(火)、3学期始業式を行いました。新年冒頭の校長挨拶で、「エンブリー家族と須恵村の人々との交流から学ぶ」と題して話しました。校長講話の一部を次に掲げます。

 「1年の始まりということで、グローバルな話を皆さんにお伝えしたいと思います。今からおよそ80年前に当時の球磨郡須恵村を、アメリカ人のジョン・エンブリーとその妻エラ夫人、まだ2歳の娘の3人家族が訪れ、1年間、村人と暮らすことになりました。1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけてのことです。夫のジョン・エンブリーはシカゴ大学の社会人類学研究者で、日本の平均的な小さな農村を対象に、コミュニティ・スタディ(共同体の研究)を行うことが目的でした。家族で暮らし、村人の仕事やお祭り、行事、日常生活などの観察、記録を続けました。欧米人が珍しい時代です。人々から驚きと好奇の眼差しでエンブリー家族の一挙一動が注目されたことでしょう。
  また、
1930年代はアメリカ合衆国と日本が政治的に次第に対立し、日米関係が悪化する時期でした。しかし、村人はとても温かくエンブリー家族に接し、交流が深まっていきました。夫のエンブリーは日本語が離せないため、東京から日本人の通訳を伴ってきていましたが、エラ夫人は子供の頃、日本で暮らした経験を持ち日本語を話すことができ、村の女性たちと井戸端会議を楽しんだそうです。1年の滞在を終え、帰国したエンブリーは須恵村の人々の生活を記録した『Suye mura』という学術書を出版し、人類学の博士学位を取得しました。

  エンブリー家族が帰国して5年後に太平洋戦争が始まります。アメリカは敵国となり、「不倶戴天の敵」「鬼畜米英」などの荒々しいスローガンが戦争中は流行します。けれども、エンブリー家族と交流のあった須恵村をはじめ球磨郡の人々は、アメリカ人が鬼でも獣でもない事がわかっていたと思います。戦後間もなくエンブリーは不幸にも交通事故で42歳の若さで亡くなります。エンブリーがもっと長生きをしていれば、アメリカを代表する日本研究者になったものと惜しまれます。しかし、戦後6年目にエラ夫人が須恵村を訪れ、村人と涙の再会を果たします。須恵村の人々とエンブリー家族の絆は戦争によっても絶たれることはなかったのです。
  (中略)

  2003年(平成15年)に須恵村は免田、上、岡原、深田と合併してあさぎり町が誕生し、村としてはなくなりました。地元でもエンブリー夫妻のことを直接知っている人は少なくなってきています。しかし、国と国との政治的対立、そして戦争が起こっても、やはり人と人との交流がいかに大切かをエンブリー夫妻と須惠村の物語から学びます。インターネットで瞬時に世界のニュースや情報が行き交い、膨大なお金と物が国境を越えて流通し、人も気軽に海外旅行ができるグローバルな社会に私たちは生きていますが、だからこそ、80年前の須恵村の人々が行ったように、国籍や宗教や考え方が異なろうと、相手の立場や価値観など多様性を認め、思いやりをもって対等にコミュニケーションをとることが益々重要になってきていると思います。

  エンブリー一家と須恵村の物語から皆さんが何かを感じ取ってくれれば幸いです。お互い、良い一年にしましょう。」


  

「箱根駅伝」を走った卒業生

「箱根駅伝」を走った卒業生

 1月6日(金)、新春にふさわしい訪問者を多良木高校は迎えました。「箱根駅伝を走る」という夢を実現した2年前の卒業生、太田黒卓君(20歳)です。太田黒君は上武大学(群馬県)の2年生で、同大学駅伝部のメンバーとして、この正月2日3日に行われた箱根駅伝大会の往路3区で力走を見せました。3区を走るという情報を得ていましたので、当日は私も朝からテレビ中継放送を凝視し、上武大学の2区から3区への襷渡しの瞬間に太田黒君の雄姿を見ることができました。その時、「太田黒君は夢を実現したんだ」という熱い思いが込み上げてきたものです。

 多良木高校時代、太田黒君は陸上の中・長距離選手として活躍し、3年次では熊本県高校総体の800mと1500mのチャンピオンに輝き、全国高校総体(インターハイ)の800mでは8位に入賞しました。穏やかで実直な人柄は皆から慕われる一方、陸上にかける並々ならぬ情熱と強い意志を持ち、朝夕、グラウンドを黙々と走る姿が印象的で、今も私の目に焼き付いています。そして、「箱根駅伝を走りたい」という夢を掲げ、上武大学に進学しました。昨年の箱根駅伝では出場が有力視されながら、直前の怪我で涙をのみました。それだけに、今年は期するものがあったと思います。見事、私たちの期待に応え、大舞台で走った太田黒君を私は握手で迎えました。

 「応援していただいた皆さんに感謝します。」と太田黒君らしい感謝の言葉が最初の言葉でした。高校を卒業して2年、大学駅伝で鍛えられ、一段とたくましく頼もしく成長したように見えました。3区21.4㎞の個人目標タイム(1時間4分50秒)を上回り、区間10位の走りで2人を抜き14位で次の走者に襷を渡すことができ、個人としては満足の結果だったと太田黒君は語ってくれました。来季は、エース区間の2区を走り、上武大学としてシード権(10位以内)を獲得することを目標に挙げてくれました。

 「箱根駅伝を走る」という夢を実現し、次の夢に向かって走り続ける新成人のエネルギーに接し、新年早々、大いに希望と元気を得た思いです。前を向いている若人にとって、夢は実現するためにあるのでしょう。