校長室からの風(メッセージ)

校長室からの風(メッセージ)

風がやむ時 ~ 「校長室からの風」最終章

 

 

 多良木高校の校長を拝命した時、「任重くして道遠し」(『論語』)の言葉が思い浮かびました。あの日から4年が立ち、閉校式を終えました。振り返ると充実した4年間だったと思います。

 この「校長室からの風」は、多良木高校長に就任して始めました。私の思いや考えについて、生徒をはじめ職員、保護者の方、地域の皆さんなどに広く伝えると共に、閉校に向かう多良木高校が最後まで活気ある学び舎であることを発信し続けようという目的からでした。なぜ「校長室からの風」という名前にしたのか。それは、学校がいつも風通しの良いところであってほしいという願いがあったからです。たとえ微風であっても、校長室からいつも風が吹いていれば、その風は廊下を通り、職員室や教室や図書室等を巡り、窓から出てグラウンドや体育館等にも出て、そして球磨盆地へも広がっていくでしょう。そのような願いと期待を込め、4年間、「校長室からの風」を送り続けました。

 しかし、その風もやむ時が来たようです。最後の学年の67人の生徒たちはそれぞれの進路先に旅立っていきました。閉校式を終えた学校では、日々、職員が整理と片付けに取り組み、膨大なモノの搬出作業を行っています。多くの県立学校が様々な備品や物品を受け取りに来ています。

 生徒のいない学校を毎日歩きます。椅子も机もない教室はなぜか小さく見えます。反対に、掲示物もないがらんとした廊下は妙に長く見えます。生徒と言う主人公のいない学校の寂しさは言いようのないものです。そして、生徒がいないということは、私たち教職員の居場所もないことを意味します。「校長室から風」を送る使命も終わったようです。

 来週には、私たちの専用の仕事机や業務用パソコンも運び出される予定です。時間は無情に過ぎ、気持ちは追い付きません。若人たちが笑顔で未来に向かって旅立ちました。それを見送った私たちにも、新しい旅が始まります。

 「校長室からの風」をお読みいただき、誠にありがとうございました。

 

生徒の笑顔 ~ 「97年間の末っ子たち」

 

 

 3月1日(金)の卒業式では涙を見せる生徒もいましたが、翌日の閉校式では生徒に涙はありませんでした。皆、明るく、笑顔でした。

 閉校式で生徒代表挨拶を務めたのは古堀廉大君でした。ご両親が多良木高校卒業生である彼は、東京の中学校を卒業し入学してきました。そして、野球部と勉強の両立に取り組み、3年間自らを厳しく律し生活してきました。千人近い聴衆を前にしても、野球部のエースだった古堀君は動じることなく、立派な態度でした。挨拶の中で、多良木高校最後の学年として注目され続けたことへのプレッシャー(重圧感)に言及しながら、「全力を尽くしました」と述べたところが印象的でした。

 生徒合唱『いつまでも』は、まさに閉校式の圧巻の場面でした。遠く離れても故郷を想う気持ちを、伸びのある声で生徒たちは心を込めて歌いました。その歌声に、会場では目頭を押さえる人の姿が多く見られました。ステージ上の67人の生徒たちは輝いて見えました。そして、歌い終わりピアノの後奏の間に、白い晒し布で「一生多高生」の文字をつくり、「私たちは、一生、多高生!」と力強く宣誓し、会場から惜しみない拍手が沸きました。閉校式においても生徒たちが主役となった瞬間でした。

 歌『いつまでも』の作者である音楽家のタイチジャングルさんが閉校式に出席してくださいました。学校としては誠に有難いサプライズ(驚き)の出来事でした。式終了後、タイチジャングルさんから生徒たちに声を掛けていただき、一緒に記念撮影を撮ることができました。

 閉校式後、生徒達はより明るく、元気で、お互い笑い合っていました。恐らく、彼らは「やっと多良木高校のアンカーとしてゴールテープを切った」という達成感に満たされていたのだと思います。そして、自分たちの言葉、歌声、立ち居振る舞いに、多くの同窓生や地元住民の方が感動されたことを実感していたのでしょう。彼らは「多良木高校97年間の末っ子たち」です。

 愛すべき「末っ子たち」の皆さん、多良木高校に忘れ物はありませんか?

 学校は最後の春休み中です。もう忘れ物を取りに行けない時が近づいています。

 

閉校式を終えて ~ ピアノの上の一輪のバラ

 

 千人近い人々が集い開催した多良木高校閉校式から一夜明けての3月3日(日)は朝から雨でした。この日は、半世紀にわたって人吉球磨地区から初の甲子園出場の夢を追い続けた多良木高校野球部の閉部式が行われました。最後の学年の選手たちとOBとの送別試合は中止され、閉部式だけを午後1時から第一体育館で実施しました。最後のチームの選手及び保護者、OB、歴代の監督やコーチ、そして野球部応援隊の皆さん等、150人ほどの参加がありました。

 多良木高校は体育系部活動が盛んだったことで知られます。昭和43年に現在地に移転し、広大な敷地と充実したスポーツ環境が整備されていくに伴い、陸上競技部のオレンジ旋風、女子剣道部の全国大会優勝、バレーボール部の躍進など輝かしい成果が相次ぎました。そして、近年では、甲子園出場に挑戦し続けた野球部は地域社会に元気と希望を与える存在として注目の的でした。地域の小規模校野球部の果敢な戦いを、多くの高校野球ファンが応援してくれました。永年、監督として指揮をとってこられた齋藤健二郎監督も感無量の様子で、閉部式において熱く思い出を語られました。

 この日は、学校を訪ねる同窓生の姿も目立ちました。3月2日(土)の閉校式に合わせて、学年同窓会や部活動の集まりが多良木町や近隣で幾つも開かれており、改めて懐かしの校舎に別れを告げに来られたのでしょう。

 また、学校の閉校業務の一環として、音楽室と第一体育館にあるグランドピアノの運び出し作業もこの日に行われました。卒業式と閉校式が終わるまで二台のグラウンドピアノは必要なものでした。音楽室は教室棟3階にあり、専門の運搬業者に委託し、小型の重機で吊り下げトラックに乗せるという大掛かりな作業となりました。体育館のピアノは老朽化が著しく廃棄され、音楽室のピアノは球磨支援学校へ移管され、そこで活用されることになっています。

 運び出し作業の立ち会いで音楽室へ行ったところ、グランドピアノの上に、一輪のピンクのバラと「ありがとうございました」と記された紙が置かれていました。10年間、このピアノを弾き、音楽の授業や文化祭・式典で合唱指導に当たってきた本校音楽教師の惜別の思いに胸が打たれました。  

               バラが置かれた音楽室のグランドピアノ

閉校式

 

 自動車が次々に正門から入ってきます。保護者と職員が協力して、駐車する車は野球場に、送りの車は乗客を降ろしたあと出口へ誘導します。旧職員、同窓生、そして地元住民の皆さんが続々と会場の第一体育館に集まってこられました。

 平成31年3月2日(土)、多良木高校閉校式の日です。午後2時の開会時点で出席者は九百人を超え、最終的には960人に達し、1階フロアに用意した800の席では足りず、2階にも席をつくり、さらには立ち見状態の人も出ました。97年間の歴史を閉じる学校へ寄せる思いの強さ、深さを感じずにはいられませんでした。

 創立50年に当たる昭和47年度には全校生徒数1150人を数え、最大規模を誇りました。同年、水上分校(水上村)も開校しました。昭和40年代から50年代にかけて、在校生が千人規模でした。その後、人吉球磨地域の急速な少子化に伴い、生徒数が減少し、平成2年には水上分校も閉校、ついには本校まで閉校するに至ったのです。久しぶりに全盛期に匹敵する人数が集い、体育館をはじめ校舎、グラウンドなど学校全体が喜んでいるようにも見えました。本来、学校は人が集い、活気あふれる場所なのです。

 閉校式は、多良木高校の伝統と精神を十分に発揮した内容であったと思います。女学校時代の卒業生の東キヨ子さん(90歳)は、戦争中の学徒勤労動員の思い出を張りのある声で朗々と語られ、聴衆を引き付けられました。近年の卒業生で地元の郵便局で働く椎葉響弥君(22歳)の簡潔で力強い言葉は、次代の球磨郡を担う頼もしさが感じられました。また、在校生代表の古堀廉大君は、最後の多良木高校生として全力を尽くしたと述べ、会場から惜しみない拍手を受けました。そして、最終学年の67人の生徒全員がステージに立ち、生徒合唱曲「いつまでも」を歌い、「一生多高生」と白の晒し布を使ってメッセージをつくって「ありがとうございました!」と挨拶し、多くの人の涙を誘いました。クライマックスは、会場全員での校歌斉唱でした。

 多良木高校の集大成の場となった閉校式は、そこに立ち会った人々の記憶に永く留まることでしょう。その記憶と共に私たちはこれから生きていきます。

 

最後の卒業式

 

 若人の旅立ちに立ち会えることは、教職員冥利に尽きると思います。毎年3月1日の卒業式では心が震えるような感動を覚えます。しかし、今年の卒業式はさらに特別なものとなりました。

 平成31年3月1日(金)、多良木高等学校最後の卒業式を行いました。多良木高校97年の最終学年の生徒であり、言わば最終走者(アンカー)として先輩方がつないできた襷を受け、この3年間走ってきました。そして、私たち教職員も伴走してきたことになり、感慨もひとしおです。「97年の末っ子」に当たり、最後まで甘えたところがあり、愛すべき生徒達でした。

 昨年までの卒業式では見送る在校生がいましたが、今年は地域の住民の方々が大勢出席され、席を埋めていただきました。そして、保護者、職員と一緒に「蛍の光」を合唱し、卒業生を送ることができました。閉式後、退場する生徒を住民の方たちが両側から囲み、一人一人に花束を渡される光景は胸に迫るものがありました。また、今年の卒業式には15人の社会人聴講生の方にもご出席いただきました。科目「情報処理」を生徒と一緒に1年間学ばれました。人生経験豊富な社会人の方々と共に学んだことは、生徒にとって貴重な経験となったはずです。

 卒業生へ贈る式辞で、特に私が気持ちを込めて伝えたかったのは次の部分です。

 「来月で平成の世が終わります。平成に代わる新しい元号の時代は、皆さんが主人公です。多良木高校は明日九十七年のゴールを迎えますが、皆さんの未来はそのゴールの先に広がっています。未来に向かって新たな挑戦が始まるのです。」

 最後の卒業式では、バイオリン、チェロの弦楽器の演奏が響き、例年にない格調が漂いました。人生の新たな段階へと進む卒業生の姿を見送り、喜びと感傷に浸り、少しの間、時間がとまったような感覚になりました。

 私たち教職員一同、この生徒たちに出会えたことに深く感謝しています。

 

アンカーの皆さんへ

 

「新入生の皆さん、皆さんは多良木高校の期待と注目のアンカー(最終走者)です。アンカーを走ることで他の学校ではできない特別な体験ができ、同窓会や地域の方々の熱い応援をうけることでしょう。皆さん、一緒に走り、三年後に感動のテープを切りましょう。」(平成28年度多良木高校入学式)

 平成28年4月の入学式で私はこう呼びかけました。閉校する学校と承知していながら、敢えて本校を志望してくれた生徒の皆さんの思いを重く受けとめ、「多良木高校だからできる教育」、「多良木高校でしかできない教育」を私たちは目指しました。あの日から3年。予想していた以上の大勢の方のご支援を受け、地域と一体となって行事を創り、生徒の皆さんは多高生としての元気を発信してきました。アンカーとしての使命を立派に果たしたと思います。

 アンカーの皆さんは、母校が閉校するという切実な体験をしました。平成に入って人吉球磨地域の少子化が急速に進み、入学者数が減少したことが多良木高校閉校の要因です。人吉球磨地域だけでなく、この状況は全国を覆っています。少子高齢化そして人口減少という大きな社会構造の転換に我が国は直面しています。平成の三十年間の社会を担ってきたのは私たち大人ですが、平成の先の時代の主人公は皆さんです。人口が急激に減少する社会が待ち受けています。この国に明るい展望はないのでしょうか?

 そんなことはないと私は思います。生徒数が減少する多良木高校はどんな学校づくりを進めてきたでしょうか?近隣の高校や支援学校と積極的に連携すると共に、地域に開かれた学校として社会人聴講生を受け入れ、地域住民の方と一緒になって学校行事を創り、保育園児から高齢者の方まで幅広い交流をしてきました。そのことで学校の活力は維持され、地域の人々の拠り所としての学校の存在価値を発揮してきました。この多良木高校での高校生活はきっと人口減少社会を打開するヒントになると思います。

 子どもから大人まで世代を超えた結びつき、外国人の方や障害のある方とも自然体での共生、このようなことがこれからの社会では益々重要になるでしょう。地域の皆さんに励まされ、見守られ成長してきた多良木高校のアンカーの皆さんこそ新しい社会の担い手になる資質を豊かに持っていると信じます。

 

生徒合唱「いつまでも」

 

 「思い出している     川に映った夕日

  あふれる水の      音とやさしい風

  思い出している     グラウンドに咲いた花

  どこまでも延びる    緑と山の陰

  忘れたくない      涙でもう何も見えない

  もどかしい       何もできない

  だから伝えたい     それでも変わらない ふるさとの広い空を

  どんなに離れていても  いつも想ってます」

  (原詞:タイチジャングル) 

 歌「いつまでも」は、熊本地震復興支援ソングとして、シンガーソングライターのタイチジャングルさんが創られました。故郷への思いが込められた美しいバラードのこの曲に本校の音楽教師が惹かれ、多良木高校最終年度の生徒合唱曲に選びました。歌詞の一部を多良木高校に合わせてアレンジすることをタイチジャングルさんからご諒解を得て、昨年12月に開催した最後の文化祭において生徒・職員の全員で合唱しました。そして、来る3月2日の閉校式においても、生徒が合唱します。

 タイチジャングルさんの原詞も、山々に囲まれた人吉盆地、そして球磨川と豊かな自然と温かい風土に育まれてきた多良木高校の情景を彷彿させる世界です。抒情的な旋律の中に、故郷へ寄せる瑞々しい心性が表現されています。熊本地震からの一日も早い復興を願って創られたこの歌には、固有の場所を超えた普遍性があるように思います。

 2月に入って二日登校日があり、生徒は体育館のステージで「いつまでも」の合唱練習をしました。まだまだの出来ですが、練習の歌声を聴いているだけで胸が熱くなりました。3月2日(土)の多良木高校閉校式において、この「いつまでも」の生徒合唱と全員による校歌斉唱がクライマックスとなるでしょう。

                  「いつまでも」の合唱練習風景

最後の大掃除

 

 「ただ今から、地域の皆さんと一緒に大掃除を始めます!」との私の挨拶で、2月19日(火)の午後、多良木高校最後の大掃除を行いました。家庭学習期間に入り2回目の登校日であった生徒達を中心に、教職員、保護者有志の方、そして本校所在の多良木町6区と近隣の7区、8区の住民の皆様にもご参加頂いての大掃除となりました。生憎の雨のため、外庭の掃除はできず、卒業式及び閉校式の会場となる第一体育館を中心に、校舎のトイレや廊下、正面玄関の清掃に取り組みました。

 近年、生徒数が減少する中、本校はより開かれた学校として、地域と連携した学校行事作りに努めてきました。体育大会や文化祭には大勢の地元の住民の方が足を運ばれ、生徒に熱い声援を送ってくださいました。また、生徒達も福祉の実習やボランティア活動等で積極的に地域社会に出て、公民館でのレクレーション活動、グラウンドゴルフ、郷土料理と様々な交流を重ねました。多高生は、地域の方々に見守られ、励まされ、成長してきたのです。

 欧米では、教会が中心となりコミュニティーが形成されています。一方、わが国では明治以来、学校が人々の拠り所として町の中心にあると言われます。「学校と共に」という人々の気持ちが反映しているのだと思います。多良木高校は創立以来97年間、いつの時も地域と共にありました。大掃除のお話を地域の区長さん達にお願いしたところ、「声をかけてくれてうれしい」とまで言ってくださいました。地域の皆さんの学校だと意識してくださっていることを誠に有難く思います。

 約一時間の大掃除終了後、第一体育館に全員集まり、記念写真を撮りました。

 体育館を出ると、雨が上がり薄日が射していました。この日は、二十四節気の一つの「雨水」(うすい)に当たるそうです。水がぬるみ、草木の芽が出始める頃と言われます。雨上がりの校庭に立つと、温かい土の匂いが漂っていました。来週は弥生三月です。

                   大掃除の後の集合写真 

閉校記念誌の完成

 

 多良木高等学校閉校記念誌が完成して、2月14日(木)の午後、印刷会社から本校へ納品されました。サブタイトル「人生(よ)の幸福(さち)やがて茲(ここ)に生れん」は校歌の一節から取ったもので、表紙の墨書は本校書道担当の土肥先生にお願いしました。表紙写真は、学校正面玄関を斜めの角度から撮り、裏表紙は九州山地を背景に二棟の体育館と校舎が写っています。どちらも爽やかな白雲と広い青空が印象的な明るい仕上がりになっています。

 この閉校記念誌は昨年の1学期から同窓職員を中心にチームをつくり作成に取り掛かりました。同窓会とPTAからも担当の方が編集作業に加わっていただきました。そして、編集方針として「写真集」を目指そうということになりました。本校には戦前の女学校時代の古い写真が少なかったため、同窓生や地域の方に御協力を呼び掛けたところ、貴重な写真や資料の御寄贈、御寄託が相次ぎました。現存する最古の卒業アルバムは昭和8年「熊本縣立多良木實科高等女學校」卒業のものです。卒業生は47人。針やミシンでの裁縫や調理の実習、そして農作業、修学旅行などセピア色の写真から昭和初期の青春が伝わります。

 大正11年(1922年)に上球磨地域の九ケ村組合立の女学校として創立、戦後の学制改革で男女共学の高等学校として再出発、施設拡充のため昭和43年に現校地に移転、平成に入って生徒数が減少するも地域にとって大きな役割を果たしてきた学校でした。平成31年(2019年)に閉校となり、97年間の歴史に幕を下ろしますが、いつの時代も地域と共に在った学校でした。

 閉校記念誌の冒頭部分では、県教育委員会の宮尾教育長、歴代の校長先生方の玉稿が並びます。そして20頁から185頁まで「多良木高等学校思い出の97年」として、主に卒業アルバムからの生徒写真が卒業年次ごとに続きます。ページをめくりながら、写真の中の女学生、高校生の視線の先には何があるのだろうと考えました。それはやはり「未来」だったのだろうと思い至りました。多良木高校は、若人たちが未来に向かって夢を育んだ学び舎だったのです。

卒業を間近に控え ~ 学校評議員会

 

 学校評議員とは、開かれた学校づくりのため、学校運営について意見や助言をお願いする方たちです。本校では、町の教育委員、中学校長、元PTA会長、地域の商工会代表、同窓会代表と5人の方が務められ、年間を通して授業や学校行事を参観していただいています。そして、年度末の2月に学校評価をお願いしているところです。

 多良木高校最終年度の学校評議員会を2月13日(水)に校長室で開催しました。前半は、代表生徒と評議員さんとの懇談の時間です。毎年恒例となっているもので、生徒は、1組の体育コースから畑野君、福祉教養コースから税所さん、2組から森屋さんの3人です。

 高校3年間を振り返り最も印象に残ることを話してほしいとの評議員さんからの要望がありました。畑野君は、体育コースとして2年次に挑んだ市房山キャンプ(2泊3日)を挙げました。体育コース24人の団結力が強まった行事だったと述べました。税所さんは、校外での実習体験(保育園、老人ホーム等)を挙げました。そして、実習先の施設で「多良木高校がなくなるのはさびしかねえ」と多くのお年寄りから声を掛けられたと話しました。森屋さんは、2年次に出場した県高校英語スピーチコンテストを挙げ、語学においては伝える気持ちが大切であることを学んだと語りました。

 三人とも、学年が上がるにつれ先輩たちが卒業して生徒数が減り、空き教室が増えていく状況には寂しいものがあったと述べました。評議員さん達からは、「閉校するとわかっていて、多良木高校に入学してくれて本当に有難う。」と感謝の言葉があり、最後は涙ぐまれる方もいらっしゃいました。

 「最終学年」、「多良木高校のアンカー」と3年間注目されてきた67人の生徒達です。きっと内心は、そのことが重荷になったこともあったでしょう。後輩もいる、普通の高校生でありたいと思ったこともあったでしょう。しかし、地域の方々から見守られ、励まされ、ここまで来ました。3月1日(金)の卒業式では、畑野君、税所さん、森屋さんの3人が卒業生を代表して「決意の言葉」を述べることになります。彼らの晴れ姿が今から楽しみです。

              学校評議員さんと代表生徒との懇談 

18歳選挙権への期待

 

 2月8日(金)は生徒の登校日でした。2月に入り生徒は家庭学習期間となり、教職員の大人だけの学校でしたが、やはり生徒が登校してくると校内の活気が違います。生徒が存在してこその教職員であり、学校であると改めて認識します。卒業式及び閉校式の予行も実施する一方、主権者教育として18歳選挙権に係る出前授業(多良木町選挙管理委員会)を開催しました。

 公職選挙法が70年ぶりに改正され、選挙権年齢が満20歳以上から「満18歳以上」に引き下げられたのは平成27年6月でした。翌年施行されて以来、2年半余りとなります。本校においても、2年生の3学期に多良木町議会傍聴を行うなど力を入れて取り組んできました。特に2年前の多良木町町長選挙では二人の候補者に正門前まで来ていただき、選挙権のある3年生に公約に係る演説を聴かせる企画で注目されました。お蔭で、この町長選挙やその前年夏の参議院選挙における本校生の投票率は85%を超える高いものでした。

 卒業する最後の3年生67人にとっては、4月の統一地方選挙が初めての選挙となるでしょう。卒業前、登校日に町選挙管理委員会の方に来ていただき、特別にセミナーを行うことで、主権者としての意識を高める狙いがありました。選挙が近いという理由だけではありません。機会ある毎に生徒達には伝えてきましたが、平成の次の新しい元号の世は、間違いなく彼らの時代だからです。人口減少そして少子化という我が国が直面している大きな変化によって多良木高校は閉校していきます。この社会構造の転換期に、新しい社会を創っていくのは彼らなのです。

 多良木高校前身の女学校が創立された大正11年(1922年)は、男性の多額納税者しか選挙権を有していない時代でした。男子普通選挙(満25歳以上)が実現したのは大正14年です。戦前、女性は選挙権を得ることはありませんでした。男女普通選挙(満20歳以上)が実現したのは昭和20年12月でした。選挙権には先輩方の願いが込められていることを、平成最後で本校最後の卒業生に伝えたいのです。 

                18歳選挙権に係る出前授業の様子

「卒業考査」が終わる

 

 3年生67人しか在籍していない本校にとって、1月29日(火)から31日(木)にかけ3日間行われた卒業考査は、通常の教育課程の最後となるものでした。3年生は明日2月1日から家庭学習期間に入り、3日間の登校日を経て、3月1日の卒業式を迎えます。

 卒業考査の最終日の午後、地域の税理士さんを講師として招き、「租税教室」を開催しました。高校卒業に当たり、社会の仕組みを支える税について改めて学ぶセミナーであり、例年実施しています。高校生にとっては、身近な消費税以外、税への関心は低いものです。しかし、卒業生のうち四割は就職することになります。また、進学する生徒にとっても社会の当事者意識を持つ意味で、税の重要性を具体的に理解することは意義が大きいと考えます。高校でも「現代社会」(全員必修)や「政治・経済」(選択履修)の科目で学習してはいますが、税のプロである税理士さんによるセミナーは生徒たちに強い印象を植え付けるようです。

 卒業考査が始まる前日、福祉教養コースの生徒14人が調理室でクッキーを作り、それぞれ包装して全職員へ贈ってくれました。校長室にも担当の生徒が持ってきてくれました。クッキーが入った小箱には生徒たちによる手書きのメッセージの紙が添えられていました。「先生方にはたくさん迷惑をかけました。立派な大人になります。」と書かれていました。

 14人という少人数での福祉の専門の授業や校外での実習(保育園・介護福祉施設等)が多かったため、濃密な人間関係でした。絆が強まる一方、意見の対立や誤解から衝突することもあったようです。職員と放課後遅くまで話し合う光景も見られました。しかし、そのような人間関係のトラブルを経験することも高校時代は必要だと思います。トラブルを学びに変えることが大切です。異なる自我の存在である他者同士がどうすれば協働して学び、作業できるのか? この3年間で学んだことは大きな財産になるでしょう。

 一か月後、卒業証書を手渡す日が待ち遠しくなります。

                                                           租税教室の様子

永遠瑠マリールイズさんのお話

 

 1月19日(土)、大学入試センター試験を受験する多良木高校生7人を会場の東海大学(熊本市)で励ました後、日本教育会熊本県支部の講演会(ホテル熊本テルサ)に参加しました。講師は、ルワンダ人として波乱の体験を経て、日本国籍を取得された永遠瑠(とわり)マリールイズさん(53歳)です。

 ルワンダで洋裁の教師として働いていたマリールイズさんは、日本から派遣された青年海外協力隊員と出会い、その協力者として活動したため、1993年に来日してJICA(国際協力機構)の研修を福島県で受けることになります。その時、彼女のホームステイ先の80歳を超えた老婦人が新聞を毎日読む姿を見て、日本という国の識字率の高さに驚きます。さらに日本語の学習をとおして、丁寧に読み書きを繰り返して上達していく教育過程の大切さを知ります。この日本との出会いは、帰国後の1994年に起こったルワンダ内戦に巻き込まれたマリールイズさんを救うことになるのです。日本の知人たちの応援もあり、マリールイズさん家族は「難民」ではなく「留学生」としての来日が認められたのです。

 マリールイズさんは2000年に「ルワンダの教育を考える会」を立ち上げ、ルワンダに初等教育の学校を設けて日本式教育の導入に取り組まれています。講演の中で、江戸時代以来、「読み・書き・計算」の習得に力を入れてきた日本の初等教育の素晴らしさを称えられ、100年以上も続いている小学校があることを絶賛されました。そして、子どもたちの健康を支える「給食制度」、全員で楽しむ「運動会」などをルワンダの学校においても実現されています。

 「社会の平和」と「教育の普及」がいかに尊いものか、マリールイズさんは流暢な日本語で私たちに熱く語られました。学校教育に携わる私たちは、改めて先人の見識に敬意を表すると共に、教育の原点に立ち戻る大切さを認識しました。そして、内戦を克服したルワンダが女性の社会参加を促進し、女性政治家が日本よりもはるかに多いという事実を知り、他国からもっと学ばなければならないと反省したのです。

 

大学入試センター試験に臨む7人

 

 平成31年度大学入試センター試験に多良木高校から7人の生徒諸君が挑みます。1月19日(土)、20日(日)、東海大学校舎(熊本市)で受験します。受験を前に、17日(木)の昼休みに校長室で激励会を行いました。その時の校長の励ましの言葉を次に掲げます。

 

 「大学入試センター試験は全国で約57万人が受ける大規模なもので、高校3年間の学力の到達度を評価する、教育的意義がとても大きいものです。普通科の高校生には大学入試センター試験の受験を私は勧めています。たとえ秋に推薦入試で合格が決まっていても、冬まで受験勉強を続けて学力を充実させ、春の進学につなげて欲しいのです。

 マーク式の選択問題ですが、勘で当たるような生易しいものではありません。思考力が問われます。限られた時間で、問題に取り組み、解答を考えることは、思考力を鍛える最上のトレーニングです。情報や知識の量だけならインターネットに人は叶いません。限られたパターンの中での最適解を求める作業力ではAI(Artificial intelligence)に遠く及ばないでしょう。チェスや囲碁の名人がAIに敗れるくらいです。

 しかし、皆さんはその上をいかなければならない。インターネットの膨大な情報やAIの驚異的な演算能力を活用できるようにならなければならない。そのために、自らの思考力を鍛えるのです。皆さんはこれから上級学校へ進学して、答えのない学問の世界へ入っていきます。答えのあるものはAIに任せればよいのです。けれども、学問とは問いを立てることを学ぶものです。自分で学ぶ目的を創りだして、「こうなっているのだろうか」と仮説を立て追求することが学問です。これは人間にしかできないことです。インターネットやAIは責任を取りません。やはり、人が責任をもって考え、問題を追求していくことが必要です。 

 7人の皆さんを多良木高校の代表としてセンター試験に送り出します。試験に臨む以上は、本番が最も良い結果となるよう、これまで勉強してきた力を十分に発揮してください。」

 

「箱根駅伝」を走った先輩

 

 「多良木高校が僕の原点です」。

 上武大学4年生、駅伝部主将の太田黒卓君(20歳)は高校時代を振り返って語りました。1月2日の箱根駅伝往路の2区(23㎞)を上武大駅伝部のエースとして力走した太田黒君が1月10日に多良木高校を訪問してくれ、校長室にて握手で迎えました。

 高校時代、太田黒君は陸上の中・長距離選手として活躍し、3年次では熊本県高校総体の800mと1500mのチャンピオンに輝き、全国高校総体(インターハイ)の800mでは8位に入賞しました。穏やかで実直な人柄は皆から慕われる一方、陸上にかける並々ならぬ情熱と強い意志を持ち、朝夕、グラウンドを黙々と走る姿が印象的で、今も私の目に焼き付いています。そして、「箱根駅伝を走りたい」という夢を掲げ、上武大学(群馬県)に進学し、2年次から3年連続で箱根駅伝に出場を果たしました。

 4年生で主将という重責を担い、10月に東京で開催された箱根駅伝予選会ではぎりぎりの11位で通過して本大会に臨むことになりました。結果は、自分自身の2区での設定記録及びチームの目標のシード権獲得(総合10位以内)に届かなかったのですが、やり切ったという満足感が強く悔いはないと語りました。

 毎年、箱根駅伝が終わると帰省し、母校に挨拶に来てくれる律儀な青年です。大学の競技生活に区切りがついたため、この度の帰省は長くなりそうで、1月20日(日)の奥球磨ロードレース大会に出場すると聞きました。そして、4月からの社会人生活に向けて、今、自動車学校にも通っていると笑って話してくれました。ひたすら走り続けた大学4年間、自動車学校へ行く余裕はなかったのでしょう。一つのことにひたむきに取り組んだ証と言えるかもしれません。青春を箱根駅伝に賭けたかけがえのない4年間だったと思います。

 「母校の閉校はやはりさびしいことです。しかし、春から社会人となり実業団で走り続けます。」と太田黒君は目を輝かせて語ってくれました。

 未来に向かって走る青年をこれからも応援したいと思います。 

 箱根駅伝2区を走る太田黒選手

               箱根駅伝2区を走る太田黒選手(本人提供) 

未来へ ~ 3学期始業式の校長挨拶

 

「平成31年、西暦2019年が始まりました。時代は転換期を迎えています。

 4月30日に天皇陛下は譲位され、30年続いた平成の世は終わります。翌5月1日に新しい元号に改元され、皇太子殿下が新天皇として即位されます。明治維新以来、天皇陛下が亡くなられること(崩御と言いますが)、これをもって元号が変わっていたため、天皇陛下が譲位され上皇となられるのは江戸時代後期以来、実に200年ぶりのことです。

 そして、私たちの多良木高校は3月2日に閉校式を迎えます。前日に卒業式を終えた皆さんは、この閉校式において本校最終学年、アンカーとしての最後の使命を果たし、ゴールテープを切ることになるでしょう。

 さて、皆さんの2学年上の先輩たちが新成人となり、1月4日の午後、本校で「成人の集い」を開き、40人を超える参加者がありました。高校を卒業し、就職して働いている人、進学して学び続けている人と進路はそれぞれですが、社会という広い世界を旅して、久しぶりに母校に帰ってきてくれた新成人の皆さんは頼もしく見えました。当時の担任の境先生、本田先生も駆け付けられ、時間が2年前に遡ったような懐かしく温かい再会の場となりました。

 けれども、その時、皆さん達が新成人となる日のことを私は想像し、切ない気持ちになりました。2年後に多良木高校はありません。皆さんをはじめ全ての同窓生にとって帰る母校はなくなります。最後の校長として、そのことを大変申し訳なく、無念に思います。

 しかし、皆さんには未来があります。多良木高校のゴールは3月ですが、そのゴールの先に皆さんの未来は広がっています。未来へ向かってください。多良木高校はやがて記憶の中の風景となるでしょう。けれども、皆さんの心にその記憶をいつまでもとどめていて欲しいと思います。

 残り少ない高校生活を大切に過ごし、多良木高校生としての日々を心に焼き付けてほしいと願い、3学期始業式の挨拶とします。」

 3学期始業式の生徒表彰

3学期始業式での生徒表彰

新成人の集い

 

新成人の集い 

 新年明けましておめでとうございます。

 1月4日(金)の午後、多良木高校において、平成28年度卒業生の「新成人の集い」を開催しました。2年前の卒業生64人のうち40人を超える参加があり、晴れ着姿の女性も多く、学校は華やかさと活気に包まれました。この「新成人の集い」における校長挨拶を次に掲げます。 

「成人式を迎えられたことを心から祝福します。誠におめでとうございます。高校卒業後、就職し働いている人、進学し学び続けている人と進路はそれぞれですが、社会は如何ですか。未知の仲間や物語があなた達一人一人を待っていたことと思います。社会という大海原を航海し大人に成長した皆さんが、こうして母校(港)に帰ってきてくれたことを私たち教職員一同心から歓迎します。皆さんの来校を、教室が、廊下が、そして校舎全体、グラウンドが喜んでいるように私には思えます。

 平成28年度卒業の皆さんは、本校にとって3学年そろった最後の卒業生でした。皆さんは、閉校の寂しさや後輩のいない心細さを感じることなく高校3年間を送ったと思います。皆さんが卒業する時点で、閉校と皆さんの新成人の時が重なることがわかっていましたから、2年後に母校に集まってもらうよう、卒業の時に私から案内状を渡しました。こうして多くの卒業生が来校してくれ、新成人の輝く姿を見せてくれたことを感謝します。また、教育的愛情と情熱でもって皆さんを励まし、支え、導かれた担任の本田優美先生、境亜希先生も来てくださり、時が2年前に遡ったようで感無量です。

 来る3月をもって本校は閉校しますが、その1か月後には平成の次の新しい元号の時代が始まります。皆さん達の時代です。少子高齢化をはじめ我が国は様々な課題に直面していますが、それらに取り組むのは皆さん達です。誰かヒーローが現れて問題を解決してくれるだろうと待ってはいけません。皆さん達一人一人が新しい時代の主人公であり、日々の生活の中で少しでも良い社会を創り上げていってください。

 多良木高校は96年で閉校しますが、皆さんは百年生き抜いてください。そして、できることなら22世紀の世界も見てください。皆さんの人生はこれからです。前途洋洋の新成人の未来を祝福し、挨拶といたします。」新成人の集い

 

 

地域の皆さんと一緒に大掃除

地域の皆さんと一緒に大掃除 

 最後の学年の2学期が終了しました。1221日(金)の終業式の前に生徒と職員で大掃除をしたのですが、改めて25日(火)の午後4時から再度、第1体育館や図書室の大掃除を行いました。本校の最大規模は昭和47年度で、この時は24学級(1学年8クラス)、生徒数1150人を数えました。この規模の校舎と校地を維持しながら、生徒数は急速に減少し、今年度は最終学年67人が学校生活を送っています。従って、普段の掃除活動は日常使う教室や廊下、生徒用トイレ等が対象で、体育館や特別教室、校庭まで手が回りません。そこで、冬季休業初日の25日に、職員をはじめ生徒と保護者の有志、そして地元多良木町6区と8区の皆さんに呼びかけて、大掃除を計画したのです。

 学校の勝手なお願いにも関わらず、年の瀬の慌ただしい中、6区と8区の住民の皆さんが大勢集まっていただき、胸が熱くなりました。これまでも防災訓練や体育大会での合同競技、そして公民館活動での交流等、本校の教育活動に献身的にご協力頂いた地域の方々の学校へ寄せる思いに頭が下がります。また、球磨郡のオートバイ愛好団体の方がサンタクロース姿に扮してバイクで駆け付けられ、生徒達を激励されるサプライズもありました。

 大掃除は、第1体育館の清掃、そしてパイプ椅子の選別、さらに図書室の廃棄書籍の運び出し等に全員で当たり、約1時間で終了しました。お蔭で、来る3月1日の卒業式及び翌日の閉校式の会場となる第1体育館の片付けが済み、すっきりしました。地域に開かれた学校として歩んできた本校は、最後まで地域の方々に助けられていると思います。

 多良木町6区、8区の皆様、そして多良木高校をご支援いただいた多くの皆様、どうか良いお年をお迎えください。

 

 「一年の心の煤(すす)を払はばや」(正岡子規)




海軍少将の高木惣吉のこと ~ 望(忘)年会

海軍少将の高木惣吉のこと ~ 望(忘)年会にて

 

 1221日(金)に多良木高校は2学期終業式を行いました。残暑厳しい8月28日(火)の始業式以来4か月の期間、67人の生徒たちの高校卒業後の進路は決まりました。終業式の校長講話では、改めて多良木高校96年の歴史を振り返り、先輩たちから襷が継承されてきた結果、「最終走者として皆さんが今ここにいる」ことを意識させ、アンカーとしての使命感を訴えました。

 その夜、人吉市の旅館で職員の忘年会を催しました。本校の忘年会は、敢えて字を変え、「望年会」としており、新年を望むという気持ちを込めています。望年会の場所は、人吉市出身の海軍軍人の高木惣吉ゆかりの旅館で、離れに記念室が設けてあります。本校の職員をはじめ地元の人吉市、球磨郡においても高木惣吉のことを知らない人が多いため、敢えて、望年会冒頭の校長挨拶で紹介しました。

 高木惣吉(18931979)は人吉市西瀬の出身で、小学校卒業後、苦学して海軍兵学校、海軍大学校で学び、知性派の海軍軍人として最後は海軍少将にまでなりました。しかし、よくある立志伝の軍人ではありません。彼の真骨頂は、太平洋戦争の絶望的な戦局の中、身を挺して終戦工作に奔走したことにあります。海軍首脳の米内光正、井上成美らの密命を受け、このまま戦争を継続すれば我が国は滅亡するとの危機感から、危険な終戦工作に当たります。軍人でありながら、戦争をやめることに命を懸けた少数の良識ある人物がいたことは後に知られるようになります。戦後、高木は公職には就かず、大戦中の実相について著述に取り組み、湘南で穏やかな晩年を過ごしました。熊本県教育委員会は平成27年度「熊本県近代文化功労者」として高木惣吉を顕彰しています。

 高木惣吉と比較することはまことに気が引けますが、私たち多良木高校教職員も、最終学年の生徒の教育に全力を尽くす一方、学校を閉じる業務に努めるという相反することを両立させなければならない立場にあります。「難しい仕事ではありますが、使命感をもって全員で事に当たっていきましょう」と望年会で職員を励ましました。

                                   2学期終業式での生徒表彰

「体力向上優秀実践校」受賞

「体力向上優秀実践校」受賞 ~ 最後のクラスマッチ・駅伝大会

 

 1219日に百人一首とバレーボールのクラスマッチ、そして翌20日に駅伝大会を開催しました。駅伝は、男子が1区間4.2㎞、女子が1区間3.5㎞を走り、男女混合5人編成で1チームつくります。全体で12チームが参加し、学校及びその周辺道路のコースで競いました。体育の授業で冬季は持久走があり、その成果発表の場として毎年駅伝大会を行っています。多くの保護者の方が大会に協力され、コースの各ポイントに立っての交通指導、そして競技後に全員で楽しむ豚汁作りに取り組まれました。

 持久走を苦手とする生徒は少なくありません(特に女子)。しかし、生徒達は苦しい表情を浮かべながらも自分の役割を果たして次の走者に襷を渡し、最終走者のアンカーをチーム全員で迎える光景は誠に爽やかでした。日頃から交流のある近隣の保育園児も応援に駆け付け、歓声が響き渡りました。

 出場した選手全員が走りぬき、達成感を覚えながら全員での豚汁の昼食となりました。私たち職員も頂いたのですが、肉や野菜など豊富な具材に加え、お母さん方の「愛情」という調味料が入った味は絶品で、身体が温まりました。

 さて、先月、熊本県教育委員会から「体力向上優秀実践校」表彰を本校は受けました。2年前に続いての受賞です。この賞は、生徒達が毎年1学期に受ける8項目の体力・運動能力テストの記録が良好であること、そして学年進行に伴い順調に伸びていることが評価されます。現在の3年生は、男子が8項目全て、女子も5項目で県平均・全国平均の記録を上回っています。

 「体力向上優秀実践校」受賞の理由は大きく三つあると思います。一つは、体育の授業及びその成果発表の場である体育的行事が充実していること。二つ目は、体育系部活動への生徒の加入率が高いこと。そして三つ目は、生徒一人一人が健康を意識し自己管理できていることだと考えます。

 多良木高校最後の学年の生徒達は平均の高校生よりはるかに体力・運動能力を有しています。高校3年間、いや学校生活12年間で彼らは人生の土台を築き上げたのです。そのことをとても頼もしく思います。 

             校内駅伝大会 走り出す1区の選手