校長室からの風(メッセージ)

魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡

魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡    


 「錦町の高原(たかんばる)に戦争中、海軍の基地があった。」と4年前に球磨郡に赴任した時に郷土史家の方から話を聞きました。調べてみると、戦局が激しさを増した昭和18年(1943年)11月に球磨川と川辺川に挟まれた丘陵地帯に建造が始められ、翌年2月に人吉海軍航空基地が発足しました。飛行機の搭乗員や整備士の養成が主目的の基地でした。今も残る2基の堅牢な石造りの隊門や慰霊碑等を巡り、往時を想像したものです。

 終戦から73年目の夏、この人吉海軍航空基地跡に資料館が開館しました。「ひみつの基地ミュージアム 錦町立人吉海軍航空基地資料館」(錦町木上西)です。昨日(日曜)見学に行きました。館内の展示では、昭和20年に地元の山中に墜落した零戦(ゼロ戦)の部品残骸が目を引きました。写真パネルでは、航空燃料不足を補うための松根油(しょうこんゆ)の製造の様子が印象に残りました。

 また、館外の戦争遺跡への見学会が実施されており、台地の縁の崖に穿たれた巨大な地下魚雷調整場に入ることができました。9万年前に噴火した阿蘇の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の崖を人力で掘削し造られた地下トンネルです。縦5m、横5mのトンネル入り口の前に立つと、向こうに広がる大きな闇が戦争を象徴しているかのような迫力を覚えます。この「魚雷」は、航空機の胴体に括り付け敵艦目がけて発射するものでした。昭和20年(1945年)に入るとアメリカ軍の空襲を受けるようになり、作戦室、兵舎、武器弾薬庫等の多くの施設を地下に設け、まさに秘密の地下基地の様相を呈したようです。

 昭和20年8月15日、終戦。結局、2年足らずの短い実働の基地でした。当時の滑走路跡の東端にミュージアムは建てられており、西に向かって伸びる狭い農道を展望できます。多くの古写真が残されていますが、今となっては海軍航空基地がここにあったことは幻のようです。しかし、だからこそ残存する戦争遺跡を直視する意義は大きいと思います。

 今日は平成30年(2018年)8月6日。広島に人類史上初めての原子爆弾が落とされて73年目を迎えました。


             今に残る地下魚雷調整場跡


 
            飛行場滑走路跡に当たる農道