校長室からの風(メッセージ)
エンブリー家族と須恵村の人々との交流から学ぶ
「1年の始まりということで、グローバルな話を皆さんにお伝えしたいと思います。今からおよそ80年前に当時の球磨郡須恵村を、アメリカ人のジョン・エンブリーとその妻エラ夫人、まだ2歳の娘の3人家族が訪れ、1年間、村人と暮らすことになりました。1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけてのことです。夫のジョン・エンブリーはシカゴ大学の社会人類学研究者で、日本の平均的な小さな農村を対象に、コミュニティ・スタディ(共同体の研究)を行うことが目的でした。家族で暮らし、村人の仕事やお祭り、行事、日常生活などの観察、記録を続けました。欧米人が珍しい時代です。人々から驚きと好奇の眼差しでエンブリー家族の一挙一動が注目されたことでしょう。
また、1930年代はアメリカ合衆国と日本が政治的に次第に対立し、日米関係が悪化する時期でした。しかし、村人はとても温かくエンブリー家族に接し、交流が深まっていきました。夫のエンブリーは日本語が離せないため、東京から日本人の通訳を伴ってきていましたが、エラ夫人は子供の頃、日本で暮らした経験を持ち日本語を話すことができ、村の女性たちと井戸端会議を楽しんだそうです。1年の滞在を終え、帰国したエンブリーは須恵村の人々の生活を記録した『Suye mura』という学術書を出版し、人類学の博士学位を取得しました。
エンブリー家族が帰国して5年後に太平洋戦争が始まります。アメリカは敵国となり、「不倶戴天の敵」「鬼畜米英」などの荒々しいスローガンが戦争中は流行します。けれども、エンブリー家族と交流のあった須恵村をはじめ球磨郡の人々は、アメリカ人が鬼でも獣でもない事がわかっていたと思います。戦後間もなくエンブリーは不幸にも交通事故で42歳の若さで亡くなります。エンブリーがもっと長生きをしていれば、アメリカを代表する日本研究者になったものと惜しまれます。しかし、戦後6年目にエラ夫人が須恵村を訪れ、村人と涙の再会を果たします。須恵村の人々とエンブリー家族の絆は戦争によっても絶たれることはなかったのです。
(中略)
2003年(平成15年)に須恵村は免田、上、岡原、深田と合併してあさぎり町が誕生し、村としてはなくなりました。地元でもエンブリー夫妻のことを直接知っている人は少なくなってきています。しかし、国と国との政治的対立、そして戦争が起こっても、やはり人と人との交流がいかに大切かをエンブリー夫妻と須惠村の物語から学びます。インターネットで瞬時に世界のニュースや情報が行き交い、膨大なお金と物が国境を越えて流通し、人も気軽に海外旅行ができるグローバルな社会に私たちは生きていますが、だからこそ、80年前の須恵村の人々が行ったように、国籍や宗教や考え方が異なろうと、相手の立場や価値観など多様性を認め、思いやりをもって対等にコミュニケーションをとることが益々重要になってきていると思います。
エンブリー一家と須恵村の物語から皆さんが何かを感じ取ってくれれば幸いです。お互い、良い一年にしましょう。」
「箱根駅伝」を走った卒業生
「箱根駅伝」を走った卒業生
1月6日(金)、新春にふさわしい訪問者を多良木高校は迎えました。「箱根駅伝を走る」という夢を実現した2年前の卒業生、太田黒卓君(20歳)です。太田黒君は上武大学(群馬県)の2年生で、同大学駅伝部のメンバーとして、この正月2日3日に行われた箱根駅伝大会の往路3区で力走を見せました。3区を走るという情報を得ていましたので、当日は私も朝からテレビ中継放送を凝視し、上武大学の2区から3区への襷渡しの瞬間に太田黒君の雄姿を見ることができました。その時、「太田黒君は夢を実現したんだ」という熱い思いが込み上げてきたものです。
多良木高校時代、太田黒君は陸上の中・長距離選手として活躍し、3年次では熊本県高校総体の800mと1500mのチャンピオンに輝き、全国高校総体(インターハイ)の800mでは8位に入賞しました。穏やかで実直な人柄は皆から慕われる一方、陸上にかける並々ならぬ情熱と強い意志を持ち、朝夕、グラウンドを黙々と走る姿が印象的で、今も私の目に焼き付いています。そして、「箱根駅伝を走りたい」という夢を掲げ、上武大学に進学しました。昨年の箱根駅伝では出場が有力視されながら、直前の怪我で涙をのみました。それだけに、今年は期するものがあったと思います。見事、私たちの期待に応え、大舞台で走った太田黒君を私は握手で迎えました。
「応援していただいた皆さんに感謝します。」と太田黒君らしい感謝の言葉が最初の言葉でした。高校を卒業して2年、大学駅伝で鍛えられ、一段とたくましく頼もしく成長したように見えました。3区21.4㎞の個人目標タイム(1時間4分50秒)を上回り、区間10位の走りで2人を抜き14位で次の走者に襷を渡すことができ、個人としては満足の結果だったと太田黒君は語ってくれました。来季は、エース区間の2区を走り、上武大学としてシード権(10位以内)を獲得することを目標に挙げてくれました。
「箱根駅伝を走る」という夢を実現し、次の夢に向かって走り続ける新成人のエネルギーに接し、新年早々、大いに希望と元気を得た思いです。前を向いている若人にとって、夢は実現するためにあるのでしょう。
女子バレー部の優勝 ~ 球磨郡旗大会
~ 球磨郡バレーボール協会旗大会 ~
エースアタッカ-の加原さん(1年)の高い打点からのスパイクが決まり、25対23。接戦を制し、多良木高校が人吉高Aチームを破って優勝。会場の多良木高校第1体育館は応援に詰めかけた野球部員、保護者等から大きな歓声があがりました。監督の境教諭の目にも涙が光ります。
12月23日(金)、天皇誕生日の祝日に多良木高校体育館で球磨郡バレーボール協会旗大会が開催され、人吉球磨地域の4高校5チームの女子バレーボールチームが参加しました。気温の低い一日でしたが、どの試合も白熱した好ゲームが続き、体育館内は熱気に包まれました。
多良木高校女子バレー部は、キャプテンの高尾さん(2年)を中心にチームワークが抜群で、日頃からひたむきに練習に取り組んでいます。部員は10人(2年3人、1年7人)と少ないのですが、きびきびとした動き、大きな掛け声、そして練習の最後には校歌の合唱と、日々の活動をとおして元気を発信し、学校の活力を生み出してくれる存在です。
一つのボールに集中する姿勢、きらきらとした眼の輝き、お互いを励ましあう連帯と多良木高校女子バレー部の真価が発揮され、この大会での15年ぶりの優勝を勝ち取りました。午前中から陸上部、男子バスケット部、そして午後は野球部と他の部活動の生徒たちも応援に駆け付け、ホームならではの大きな声援が2階席から飛びかい、コートの選手たちと応援団との一体感が醸成され、決勝戦の雰囲気は最高潮でした。
県大会レベルに比べると小さな大会ですが、その勝利を多くの生徒、職員、保護者の方々と分かち合えたという点で大きな喜びを学校にもたらしてくれました。高校生の躍動感とスポーツが持つシナリオのないドラマに引き付けられた一日でした。
2学期表彰式・終業式
「さて、2学期の始業式で、生徒指導主事の上原先生が印象的な呼びかけをされました。「2学期の多良木高校はごみが落ちていない学校にしよう」と。覚えているでしょうか。
ごみは自然に生まれるものではありません。誰かが何かを捨てて、あるいは放置してごみとなります。どんな時にごみを捨てるのでしょうか? 恐らく、周囲に人の目がある時にはごみのポイ捨てはしないはずです。誰も見ていない時にするのでしょう。結局、誰も見ていない時にどんな行動をとるかでその人の人間性は決まるのではないでしょうか。誰も見ていない時に黙々と練習する人、勉強する、掃除をする人は、きっと伸びるでしょう。誰も見ていない時にさぼる人、ごみを捨てる人とは大きな差がつくはずです。皆さん、プライドを持ちましょう。皆さんの行いを誰かが見ています。たとえ誰も見ていなくてもあなた自身は見ています。自分自身に誇りを持つと見苦しいことはできないはずです。そんなことをする自分を自分自身が許せない、という気持ちになってくれることを期待します。お蔭で、2学期は校内のゴミも減り、とても気持ちが良いものです。3学期はさらにすっきりした学校環境になることを望んでいます。
明日が天皇誕生日で祝日、そして明後日24日がクリスマスイブ、25日がクリスマスですね。皆さん、クリスマスとは何を祝う日なのですか? そう、世界で最も信仰する人が多い宗教のキリスト教、その創始者であるイエス・キリストの誕生を祝福する聖なる日です。けれども、イエスキリスト、英語名のジーザス・クライストという人物が12月25日に生まれたという記録はありません。聖書にも書かれていません。では、なぜ12月25日に生まれたことになったのでしょうか? キリスト教が成立し、最初に広まったのはヨーロッパをはじめ北半球です。日本も含む北半球はこの時期が最も昼が短く夜が長くなります。日本では冬至と呼ばれる日がありますね。今年は昨日12月21日が冬至で、1年で最も昼間の時間が短い日でした。夜の暗さに長く支配されていた北半球が光を取り戻し、一日一日、昼間の時間が長くなっていく変化の時期なのです。そのような時に人々に光をもたらす救世主イエスキリストが誕生したのだとヨーロッパの人は考えたのです。
冬来たりなば春遠からじと言われます。これから一日一日、少しずつですが、太陽の時間が長くなります。新しい年、西暦2017年、平成29年を希望をもって迎えましょう。皆さん、良いお年を。」
次の人に襷をつなぐ ~ 校内駅伝大会
「2年1組の皆さん、優勝おめでとう。襷をつないだ5人の懸命の走りは力強さがありました。優勝するぞという気迫が伝わってくる走りでした。2年1組は昨日のクラスマッチでは、女子のバスケット、男子のバレー共に準優勝で悔しい思いをしたので、喜びもひとしおと思います。また、惜しくも2位となった1年2組の皆さんの快走にも驚かされました。昨日の1年1組のバスケットの優勝と合わせて1年生のエネルギーを感じました。
長距離走は多くの人が苦手とするものだと思います。けれども、次の人が待っている、ゴールではみんなが待っていることが走る力となります。多くの熱い声援に支えられ、参加者全員が完走したことを頼もしく思います。さすが多高生です。
この二日間をとおして改めてスポーツの素晴らしさを感じました。私が小学生のころはソフトボールとドッジボールが人気で、友達と夢中になってやっていましたが、エラーしたり、ミスしたりすると、お互いよく「ドンマイ、ドンマイ」と声を掛けあっていました。ドンマイとは気にするなという励ましの言葉だと思い、使っていました。中学校で英語を勉強して初めて、「Dont Mind」の略語として日本人が使う和製英語だと知りました。本来は、「Never Mind」「Don’Worry」、「Switch Your Mind」などと言うべきなのでしょうが、当時は「ドンマイ」でした。しかし、思うのです。スポーツをしている時ほど、ごく自然に「ドンマイ」のような励ましの言葉が出る時はありません。これもスポーツの持つ力でしょう。
スポーツの種目によっては得意、不得意があります。いや、スポーツ全般が苦手という人も少なくないでしょう。けれども応援はできます。また、ふだんとは違うクラスメイトや仲間の頑張る姿に気づきます。自分はレギュラーではないけれども、応援でがんばる、サポートで頑張ると様々な役割があっていいと思います。先週のある日の夕方、夕闇の中を3年生の女子生徒が数人で走っていました。「頑張るね」と声を掛けたら、「私たちは遅いんです。でも、最後の駅伝大会だから、クラスに、チームに少しでも迷惑をかけたくないから走っています」と答えてくれました。苦手でも自分の役割を果たすという姿勢に胸を打たれました。
結びになりますが、この後、正門付近で保護者有志の方と生徒会、野球部の皆さんで門松づくりが行われます。門松は、新しい年の神様が天から降りてこられる目印(「依代(よりしろ)」と言いますが)となるものです。これで学校も新年を迎える準備が整います。来年はさらに私達の学校、多良木高校が輝く年になるという期待がふくらんだ二日間でした。」
エンブリー夫妻と「須恵村」を考える
エンブリー夫妻と「須恵村」を考える
~ エンブリー夫妻来日80周年記念シンポジウムに参加して ~
ジョン・エンブリーとその妻エラ夫人のことを知っていますか?
エンブリー夫妻は、今から80年前に当時の球磨郡須恵村を訪れ、1年間居住して村人と交流を重ねました。夫のエンブリーは、シカゴ大学の社会人類学研究者で、1935年(昭和10)から1936年(昭和11)にかけて夫人と共に須恵村で暮らし、村の日常生活を中心に観察と記録を行いました。外国人が珍しい時代、恐らくエンブリー夫妻は村及び近郷で驚きと好奇の眼差しで注目されたことでしょう。しかし、1930年代、日米関係が険悪化していく背景があったにも関わらず、村人は疑心なくエンブリー夫妻に接し、交流は深まっていったようです。帰国後、ジョン・エンブリーは、須恵村の人々の生活と社会を描き出した民俗誌である『Suye mura』を刊行し人類学の博士学位を取得しました。
エンブリーの『Suye mura』は、正確な場所と時間を背景に一つのコミュニティ(共同体)の事実を集積した記録遺産として学界では高い評価を得ました。しかしながら、エンブリーその人が交通事故で42歳という若さで亡くなったこともあり、一流の知日派であったにもかかわらず次第に忘れられていきました。一方、日本語が堪能だったエラ夫人は、戦後も三度にわたって須恵村を訪問し、村民と旧交を温めました。けれども、2003年(平成15)に須恵村は周辺の町村と合併してあさぎり町が誕生するなど時代は変化し、地元でもエンブリー夫妻のことを知る人は少なくなりました。
12月17日(土)、あさぎり町須恵文化ホールで開催された「エンブリー来日80周年記念シンポジウム」では、韓国ソウル大学名誉教授(文化人類学)の全京秀氏が、「エンブリーの『Suye mura』は他に類を見ない記録遺産であり、残された1608枚の写真資料はかけがえのない貴重な歴史資料で、これをさらに研究し活用していくことが大切」と基調講演で訴えられました。続いて、琉球大学の武井准教授(歴史)と神谷准教授(社会人類学)の個別発表が行われ、会場は熱気に包まれました。
80年前の異国の学者夫妻と須恵村の人々との交流から生まれた遺産を私たちは再認識して、次代に継承していく知恵と行動が求められています。
エンブリー夫妻旧居跡の記念碑
冬到来、市房山の初冠雪
冬到来、市房山の初冠雪
12月16日(金)の朝、多良木高校校庭から仰ぎ見た市房山は頂から7合目付近まで雪に覆われていました。今年の初冠雪です。その山容は神々しいばかりで、しばしの間、見とれました。登校してきた生徒たちも歓声をあげ、眺めていました。8月にイングランドから赴任したALTのジョー先生も「ビューティフル」と声を上げたほどです。
「望みは遠し 雲居の峰の 高き市房 み空に仰ぎ」
犬童球渓作詞の多良木高校校歌にも登場する市房山は標高1722mの九州屈指の高峰であり、球磨郡水上村と宮崎県の境にそびえており、古くから球磨人吉地域では霊峰として信仰されてきました。本校の体育コースでは2年に一度、夏季に登りますが、山頂往復に7~8時間は掛かります。昨夏、生徒たちに助けられ、私も喘ぎながら登りました。
市房山は四季に応じて姿を変え、多良木高校を見守ってくれています。中国の古語にあるように、山容は季節に伴い、春は笑うが如し、夏は緑で滴るが如し、秋は粧(よそお)うが如し、冬は眠るが如しと言われます。しかし、周囲の山々の群を抜き、孤高の存在を見せる市房山の冠雪した威容は、何か崇高な精神の塊のようであり、威厳と共に輝くような美しさを放っていて、魅了されます。校庭に立ち、市房山を眺めるだけで、背筋が伸び、気力が満ちてくる気がします。
今朝も厳しい寒さの中、陸上部や野球部の生徒たちはグラウンドで自主練習をしていました。また、来週に予定されている駅伝大会の練習をしている生徒の姿も見られました。「持久走は得意ではないので、クラスに迷惑かけられないから走っています。」と話しながら走る3年生の女子生徒がいました。3年生にとっては最後のクラスマッチですから、心に期すものがあるのでしょう。このような生徒たちの姿を見ていると、自然と心が温かくなり、寒さよりも爽やかさを覚えました。
冬は空気が澄み、より一層、市房山の秀麗な姿が近くに感じます。この冬も生徒たちが頑張る姿を見守ってくれると思います。
献血ボランティア ~ いのちをつなぐバトン
献血ボランティア活動
~ 命をつなぐバトン ~
12月13日(火)に熊本赤十字血液センターの献血バスと共にスタッフの方々が来校され、多良木高校で献血ボランティア活動を行いました。1限目の献血セミナー冒頭の校長挨拶を次に掲げます。
「赤い十字の赤十字マークは皆さんもよく知っていることと思います。この赤十字マークは、戦争や紛争、災害などで傷ついた人びとと、その人たちを救護する衛生部隊や赤十字の救護員や施設等を保護するためのマークです。たとえ戦場や紛争地域であっても「赤十字マーク」を掲げている病院や救護員などには、絶対に攻撃を加えてはならないと国際法で厳格に定められています。赤十字マークは、いざという時に私たち一人ひとりを守る印なのです。
スイスのアンリ・デュナンという人が提唱して、国際赤十字の組織は19世紀の半ばにつくられました。日本ではおよそ10年後、1877年(明治10年)に西南戦争が起きます。明治政府を樹立した西郷隆盛が、今度は明治政府打倒のために立ち上がり、故郷の鹿児島から東京に向かって攻め上るという、今から考えると無謀な戦いをはじめ、この熊本で政府軍と衝突します。熊本城をめぐる攻防や熊本の街の北にある田原坂で激戦が繰り広げられます。江戸時代までの日本では、味方の兵士は助けても傷ついた敵の兵士は戦場で放置されるのが戦いの慣例だったようです。しかし、西南戦争の時、佐野常民という人がリーダーとなって博愛社という団体をつくり、政府軍、薩摩軍の関係なく戦場で傷ついている負傷兵の救護に当たりました。この博愛社が後に日本赤十字社になります。従って、日本の赤十字活動は熊本で始まった、熊本は日本赤十字発祥の地と言われます。
さて、多良木高校は青少年赤十字活動協力校です。特別なことはできていませんが、毎年12月、こうして全校あげての献血ボランティア活動だけは続けています。今日は、熊本市東区長嶺にある熊本赤十字血液センターから献血バスと共に髙村医務課長をはじめ看護師、スタッフの方々が来校されました。せっかくの機会ですから、1限目に献血の重要性や血液に関わる講話をお願いしました。
講師の髙村政志(せいし)先生をご紹介します。熊本大学大学院医学研究科を修了され、脳神経外科医の道を歩まれ、2000年から熊本赤十字病院に御勤務、2010年に血液センター医務課長に就任されています。一昨年度、昨年度と来校されており、本校の献血ボランティア活動が無事に行われるように細やかなお気遣いを頂きました。髙村先生がいらっしゃるので、生徒の皆さん、安心して献血をしてください。それでは、髙村先生の御講話を受けたいと思います。宜しくお願いします。」
にこにこふれあい大作戦 ~ 地域の方々との交流会
「にこにこふれあい大作戦」
~ 地域の方々との交流会 ~
「にこにこふれあい大作戦」と初めて聞いた時には、何をするんだろうといぶかしく思ったものでした。具体的な活動内容は、多良木町の各地区の高齢者の方々との交流会であり、3年生の体育コースの生徒がグラウンド・ゴルフを、同じく3年福祉教養コースの生徒が郷土料理の調理を一緒になって行うというものです。毎年、交流する地区を輪番に変えて行っており、12月の恒例行事となっています。やや大仰なタイトルは、日頃から本校を温かく見守ってくださる地域のお年寄りの方々と笑顔でふれあいたいとの福祉教養コースの職員の願いから付けられたものです。
12月9日(金)、今年は多良木町6区1~3の地域の方との「にこにこふれあい大作戦」を実施しました。朝霧が残る多良木高校運動場において、午前10時から体育コースの生徒と地区の老人会の方々とのグラウンド・ゴルフが始まりました。同じ時刻に、6区の公民館において、福祉教養コースの生徒が老人会の方々に習いながら郷土料理を作り始めました。グラウンド・ゴルフは1時間半ほどかけて2ラウンド行いましたが、歓声と笑い声が入り混じる和やかな時間でした。グラウンド・ゴルフを終えたお年寄りと生徒は、徒歩で10分ほどの6区公民館へ向かいます。そして、できあがっている郷土料理を全員で会食することになるのです。
お年寄りと生徒たちが協同で作った献立は、混ぜご飯、つぼん汁、ほうれん草の白和えでした。いつも明るくお元気な区長の長田さんのご挨拶の後、和気あいあいとした雰囲気の中、郷土料理を頂きました。ユーモアのある男子生徒が前に出ての自己紹介は、お年寄りから大きな笑い声と拍手を呼びました。会食の終わりには、出席者の方々から、「楽しかったあ」、「来年もやりましょう」とお声かけをいただきました。
球磨郡でも核家族化が進み、日頃は高齢者とふれあう機会がない高校生が増えています。人生のベテランであるお年寄りの方から学ぶものは少なくありません。「にこにこふれあい大作戦」は今年も大成功でした。
新聞を読める社会人になろう
新聞を読める社会人になろう
「新聞を読むことは社会人にとって必要なマナーではないか」という越地真一郎さん(熊本日日新聞社NIE専門委員)のご提言を受け、12月9日(金)、同氏を招聘して3年生対象のステップアップセミナーを開催しました。高校卒業後は実社会で活躍することになる就職内定者の31人に対し、「新聞を読める社会人になろう」というテーマで90分間、充実したセミナーとなりました。
職場や地域社会の中で多様な人々と共に仕事をしていくうえで必要な社会人基礎力を養うために、新聞を読む習慣を身に付けてほしいと越地さんは語り始められました。新聞は多くの社会人に読まれているという現状から、先ず社会(世の中)を知ること、相手が知っているのに自分は知らないでは困るということ、そして自分に引き付けて読み、考えることの大切さを生徒に伝えられました。そして、生徒一人ひとりに新聞を手渡され、見出し、リード、本文という記事の構成、大事なこと(結論)を先に言う「先結後各」(先に結論、後で各論)のスタイルなどを説明されました。
簡潔な講義の次に生徒の主体的な活動です。3~4人のグループごとに、気になる記事を話し合います。また、越地さんからの様々な問い掛けにグループで考え答えます。この問答をとおして、「答えが一つ決まっているもの、いわゆる知識はインターネットで検索すればわかる」が、「仕事上、あるいは世の中の問題は答えがいくつもある、いやひょっとしたら答えはないかもしれない。」と越地さんは生徒の考えを揺さぶられます。後半は、もし自分が多良木町町長になったらどんな大胆な政策を行うかを考えたり、これから出ていく社会(世の中)のイメージを漢字一文字で表現する作業に取り組んだりしました。
「90分が短く感じました。」、「面白く、ためになりました。」とセミナー後の生徒の感想です。メリハリのある巧みな進行で生徒の柔軟な発想を引き出される越地さんの手腕は名人芸の域にあります。新聞に対する生徒の見方、考え方も大きく変わったことでしょう。生徒に新聞を読む習慣を身に付けさせるために、NIE(Newspaper In Education 新聞を教育に取り入れよう)活動を今後も推進していきます。
西米良村を訪ねて
西米良村を訪ねて
宮崎県児湯郡西米良(にしめら)村は私にとって気になる所であり、休日に時折訪ねます。多良木高校から国道219号を東へ走行し、湯前町から横谷峠を越えるとそこが西米良村で、役場のある村の中心地の村所(むらしょ)まで車で30分の距離です。多良木高校から人吉市役所まではおよそ40分かかりますから、県境の村である西米良の方が近いのです。逆に言うならば、西米良村の人にとっても、同じ宮崎県の西都市よりも熊本県の湯前町、多良木町の方が交通アクセスが便利であり、買い物や病院受診(特に多良木町の球磨郡公立多良木病院)で頻繁に往来されています。そして、かつては西米良村の中学生が毎年のように多良木高校に進学してきていたのです。
先日の日曜日の午後、久しぶりに西米良村を訪ねました。村の面積の9割以上を山地が占める典型的な山村であり、人口は千二百人と過疎化が進んでいます。しかし、村の人々はとても親切で、いつも温かいおもてなしを受けて気持ちが和らぎます。今回は村の歴史民俗資料館を訪ねましたが、そこで「うちの娘も十数年前に多良木高校を卒業しました」とおっしゃるご婦人と出会い、お茶を出していただきました。多良木高校が閉校することもご存知でした。
西米良村は山の斜面での焼畑農業が盛んに行われてきた所です。今やこの伝統農耕は姿を消しましたが、焼畑に使われた往時の用具が国重要有形民俗文化財として資料館に一式展示されており、興味深く見学しました。また、この地域を江戸時代に治めた領主の米良氏は、中世(鎌倉・室町時代)の肥後国で威勢をふるった菊池一族の末裔に当たります。西米良村は歴史的にも地理的にも熊本と深い因縁のあるところなのです。
かつて県境の峠を越えて多良木高校に進学してきた生徒たちのことを思うと、西米良村に対してたまらない懐かしさと愛着を覚えるのです。
西米良村の中心地の村所(手前の川は一ツ瀬川)
ハープの音色に耳を傾けて
ハープの音色に耳を傾けて
~ 池田千鶴子さんの音楽講演会 ~
「わあ、大きい」というのがグランドハープを目の前にしての第一印象でした。ステージに据え付けられたグランドハープは高さが約180cmで重さは約30㎏あり、堂々たる存在感です。著名なハープ奏者である池田千鶴子さんの奏でる音色は優雅で奥深く、ジブリの映画音楽をはじめバロック音楽の名曲等に会場の生徒、保護者、職員一同、魅了されました。
池田千鶴子さんの「ハープの音色と語り」の会を11月29日(火)の午後、多良木高校第1体育館にて開催しました。池田さんの永年のファンである本校同窓会副会長の味岡峯子さんのご尽力により、この会は実現に漕ぎ着けることができました。池田千鶴子さんは京都府宇治市を活動の拠点とされ、国の内外で幅広く演奏活動や講演活動を展開されておられます。「多良木高校の閉校までにぜひ生のハープの音色を生徒に聴かせたい」という味岡さんの思いを池田さんが受け入れてくださり、遠路、ご来校頂いたのです。またとない機会と考え、当日は近隣の県立球磨支援学校高等部の生徒さん達にも参加してもらい、一緒になって鑑賞することができました。
池田千鶴子さんはハープの音色が持つ心を癒す力、ケアする力に着目され、内戦の傷跡が残る発展途上国を訪ねたり、阪神淡路大震災や東日本大震災の被災地への支援活動をなさったりと幅広い社会活動をなさっておられます。その体験を基にした命の大切さに係る池田さんのお話が生徒たちの胸を揺さぶりました。一芸に秀でたプロフェッショナルによる演奏と語りは、まさに迫真のライブで生徒たちを感動体験に誘いました。
言葉の力 ~ 書道部のパフォーマンス
言葉の力
~ 多良木町農林商工祭での書道部のパフォーマンス ~
「とても緊張しました。」と言いながらも、ステージを降りてきた書道部員の表情は充実感に満たされていました。11月19日(土)、多良木町総合グラウンドにて、多良木町農林商工祭が始まりました。午前中は強い雨が断続的に振り、雷も鳴る状況でしたが、次第に雨も小降りとなり、本校の書道部のステージ発表の時には雨も上がり、薄日が時折射すところまで回復していました。
初めに、友情出演の吹奏楽部の浅田君がトランペット独奏でオープニングを飾り、「上を向いて歩こう」(歌:坂本九)の曲に合わせ、立板に張り付けた紙に、五人の書道部員(荒木さん、橋口さん、権藤君、小笹さん、高田さん)がそれぞれ気持ちを込め大筆で墨書していきました。
辛い事があっても 空を見上げ笑ってみよう
下を向いても 後ずさりしても
何も進まない
前を向き 一歩ずつ
踏み出そう
多高書道部
司会者のインタビュニーに対し、「今年は熊本地震があり、多良木高校にとっても悲しい事もありましたが、前向きに歩いて行こうという思いを込めて書きました。」と部員が答えました。その思いは痛いほど伝わり、応援に駆け付けていた保護者、職員の中には涙ぐむ人もいました。
ステージの催事はダンスと歌のプログラムが続く中、高校生の若さあふれる力強い墨書メッセージは観衆の方々の気持ちを引き付けたのです。可視化された言葉の力を感じました。
「ブライト企業」に注目
「ブライト企業」に注目
皆さんは「ブライト企業」という言葉を聞いたことはありますか? 最近、新聞やテレビニュース等で目にするようになった新しい用語で、実は熊本県(商工観光労働部)による造語です。従業員を劣悪な労働条件で働かせる「ブラック企業」に対し、働く人がいきいきと輝き、安心して働き続けられる企業が「ブライト企業」です。「ブライト企業」と認定されるには、従業員とその家族の満足度が高い、地域の雇用を大切にしている、地域社会への貢献度が高い等の要件が求められます。「ブライト」(Bright:輝くような明るさ)のネーミングも巧みで、熊本県のみならず広く普及してほしい言葉と思います。
熊本県の「ブライト企業」推進事業の目的の一つとして、若者に県内の企業にもっと注目してほしいという期待があります。県内の工業高校の卒業生の7割が県外の企業に就職しています。また、本校の場合も、例年、就職する生徒のおよそ5割が県外へ出ています。全国的に人口減少が続く中、生産労働人口である若い世代の県外流出は、熊本県の活力低下につながります。県内、そして人吉球磨地域にもキラリと輝く企業があることを私たちはもっと知る必要があります。知名度や規模の大小ではなく、従業員を大切にしている企業が身近にあることを生徒と保護者の皆さんに理解してほしいと思います。
3年生の就職試験のピークは過ぎました。お蔭で、今年度も本校生徒の就職はきわめて順調で、好結果が出ています。これからは2年生と1年生に進路意識を高めてもらうため、2学期の後半は進路ガイダンスに力を入れています。11月2日に職業体験型進路ガイダンス、11月9日には系統・分野別進路ガイダンスを実施しました。いずれも県内外の多くの大学、短大、専門学校等のご協力を得て実現しました。生徒の皆さんの進路意識に火が付く機会となったことと思います。「ここでいい」ではなく、「ここがいい」と自ら決め、目標に向けて努力する高校生は、まさに「ブライト」(Bright)、輝いています
職業体験型進路ガイダンスの風景
みんなで歩く、ひたすら歩く ~ 強歩会
11月11日(金)に強歩会を開催しました。今年は、学校を出発して湯前町、水上村と巡り、学校に帰ってくる約28㎞の行程を全校生徒で歩きました。前日の開会式での校長挨拶を掲げます。
「今回、学校代表の読書感想文で生徒会長の福田君が『夜のピクニック』という小説について書いており、私自身懐かしく読みました。15年ほど前に出版された小説ですが、ベストセラーになり、映画化もされました。作者の恩田陸さんの母校である茨城県立水戸第一高校の強歩会をモデルにした小説です。同校の強歩会は破天荒な伝統行事で知られ、二日間かけて70キロメートルを歩きとおします。一日目は夜12時まで歩き、途中の中学校の体育館で仮眠をとり、また夜明けから歩き出すという大変困難でタフな行事です。『夜のピクニック』は、高校生たちが主人公の青春小説で、きっと皆さんも共感できるでしょう。図書室にありますので一読を勧めます
『夜のピクニック』では、多くの生徒が最初は、とてつもない距離の長さに不安を覚え、なぜこんなに歩かなければならないのか不満を言う者もいます。そして、足の痛みに耐え、体が重くなり、友達と会話するのも億劫になります。ついに夜になり、風景も見えなくなると自分自身との対話が始まります。疲労困憊し、いつしか、不思議な感覚に包まれてきます。ある3年生女子が言います。「しかし、ほんとうにいい時間よね。毎年思うことだけど、こんな時間にこんなところ歩いているのが信じられない。」。そうして、夜中、お互いの顔さえよく見えないのですが、歩きながら、昼間なら絶対に語れないようなことを語り合います。最後、主人公の女子生徒が「みんなで歩く。ただそれだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう。」と感慨に包まれゴールを迎えます。
さて、『夜のピクニック』に比べれば、多良木高校の強歩会はおよそ28㎞と距離も短く、余裕があります。今年のコースは湯前町、水上村を巡るもので、豊かでのどかな里山の風景を楽しみ、五感で秋を受けとめ歩いて欲しいと思います。途中、先人が伝えてきた宝物とも云うべき文化財が点在しています。第1チェックポイントの多良木町の百太郎公園。百太郎溝は、江戸時代の農民たちが球磨川から農業用水として水を引き入れるためにつくったものです。300年前の農業用水路が今も現役で働いています。第2チェックポイントの湯前町の城泉寺阿弥陀堂は、今から800年前の鎌倉時代初期につくられており、県内最古の木造建築物です。お堂の中には品格ある阿弥陀如来像が安置されています。普段、お堂は閉めてあるのですが、明日は湯前町のご厚意で特別に開けてありますから、仏様を拝観できます。第5チェックポイントの水上村の生善院観音堂です。建物は江戸時代初期のものですが、化け猫騒動で知られ、通称「猫寺」で有名です。そして、第6チェックポイントの多良木町の青蓮寺阿弥陀堂。湯前町の城泉寺阿弥陀堂より少し後ですが、それでも鎌倉時代につくられた古いお堂で、15m近くの高い茅葺屋根が印象的です。このように強歩会は歴史を巡る小さな旅でもあります。
結びになりますが、強歩会は競走ではありません。友達と共に、励まし合いながら、しっかりと球磨の地を踏みしめ、一歩一歩を心掛けてください。私も最後尾から、皆さんの背中を追いながら、歩いて行こうと思います。
みんなで歩く、ひたすら歩く、ただそれだけのことですが、きっとみなさんが大人になっても思い出す特別な体験になることを願い、挨拶とします。」
第1チェックポイント(百太郎公園)
1年生の大学訪問
1年生全員で大学を訪ねる ~ 崇城大学・熊本学園大学
人吉球磨地域には日本遺産に認定されるほどの数多くの文化財や豊かな自然、清らかな風景などがあります。しかし、この地域にはないものもあります。その一つが大学です。大学とはいったいどんなところか実際に訪ねて、その研究活動や教育内容を知り、施設・設備を見学するために本校では1年生が毎年秋に大学訪問を行っています。10月26日(水)に1年生70人がバス2台に分乗し、熊本市の崇城大学と熊本学園大学に行きました。
熊本市西区池田にある崇城大学は工学部をはじめ5学部10学科の総合大学で、航空整備や航空操縦を専攻するために熊本空港キャンパスも有しています。本校卒業生の工学部機械工学科3年の元村君から体験談を聴き、入試課の方から英語教育をはじめ学生の自律学修プログラムを重視した教育内容の説明がありました。その後、キャンパスを歩き、ものづくり創造センター等を見学しました。学生の自由な発想で「ものづくり」や「起業」を積極的に進めている進取の精神が学内に満ちていました。
午後からは同市中央区大江にある熊本学園大学を訪問。商学部をはじめ5学部12学科の総合大学で学生数が5千人を数え、キャンパスは活気にあふれています。本校卒業生の外国語学部英米学科2年の尾方さんから体験談を聴き、入試課の方から各学部の特長や就職実績、そして海外の大学とのネットワーク等の説明がありました。その後、図書館をはじめキャンパスを歩き、自由闊達な気風を感じました。
二つの大学を訪問した生徒たちは、「大学はスケールが違う」、「自分で講義の時間割をつくったり、空き時間にアルバイトをしたりと大学は自由だなあ」などの感想を口にし、大学の雰囲気を満喫した様子でした。今回の大学訪問については、崇城大学から交通費のご支援を、熊本学園大学から学生食堂にて昼食のご提供を頂きました。両学の格別のご配慮に厚く御礼申し上げます。
1年生は本校の長い歴史のアンカーを務める生徒たちです。これからも様々な学びを全員で行い、成長していくことと思います。
崇城大学「ものづくり創造センター」にて
保育園児が走り回る高校
保育園児が走り回る高校 ~ 保育園の遠足
先週火曜日の秋晴れの一日、本校のグラウンドを保育園児が嬉々として走り回る光景が見られました。本校と同じ多良木町にある光台寺保育園の園児さんたち40人が秋の遠足で来校されました。園児にとって、本校の一周300mの陸上グラウンドはまことに広く感じると思います。20人ずつ分かれ、半周の150mを全力で駆ける姿には思わず笑みがこぼれます。
光台寺保育園と本校との関係は深いものがあります。春と秋の遠足での来校をはじめ、園外へのお散歩の途中によく本校を訪問してくれます。また、園児たちの工作の作品等を保育士さんたちが定期的に持参され、本校の玄関に飾り付けていただいています。来校者の方々が、「可愛い作品ですね。あれ、保育園児さんのですか?」と驚かれます。本校からも、福祉教養コースの生徒が保育実習で訪ね、また2年生の職場体験(インターンシップ)を園側に受け入れていただいています。このような相互の交流が日常的に行われているため、本校生も自然に園児たちを迎えて接しています。
陸上グラウンドを走り回って空腹を覚えた園児たちは、直射日光を避けて第2体育館1階のピロティエリアで弁当を開きました。休み時間で出てきた多良木高校生は目を細め、笑顔で園児たちと触れ合っています。保育実習で光台寺保育園に行った生徒は、「お姉さんのことを覚えている?」と優しい表情で尋ねています。高校生にとって10歳以上も離れた幼児と接することは特別な時間となるでしょう。
中高連携の重要性が説かれて久しくなりますが、多良木高校は、本の読み聞かせや学習支援で町内の小学校と密な交流を行うと共に、このように保育園とも触れ合う機会を大切にしています。
多良木高校は学校をオープンにしています。保育園児が日常的に遊びに来る高等学校であることを誇りに思います。
図書室へようこそ
ようこそ図書室へ ~ 朝読書が始まります
多良木高校本館2階の図書室の入り口に、先日、思索する宮沢賢治の立ち姿のシルエットポスターが飾られました。司書の松本さんの力作です。松本さんは、専門の司書職以外に音楽、美術にも造詣が深く、その豊かな創造力を発揮して、紙型を切り抜き一気に宮沢賢治のシルエットを創り上げました。また、その脇には図書委員が作成した宮沢賢治の年表と代表作の説明が添えられています。これで図書室入り口がとても魅力的になり、生徒の皆さんが、自ずと入ってみたくなったのではないでしょうか。
本校では、年々、生徒への図書貸し出し数が増えており、昨年度は生徒一人当たり年間14.4冊でした。県内の高校生の平均がおよそ10冊程度といいますから、平均を超えていることになります。今年はさらにその貸し出し数を増やすために、司書の松本さんが図書室内のレイアウトに工夫し、居心地の良い空間づくりに努めています。
読書をしなければと身構えることはありません。今の自分にとって難しいと思えるものを無理して読む必要もありません。「ためになって面白い」のが本来の読書だと思います。自分の興味、関心のある本を手に取ってみましょう。もし、そのような本がなければ、司書の先生に相談してみてください。必ず出会いがあります。デジタル世代の高校生こそ、じっくりと本に向き合って、一人の時間を過ごすことが大切だと私は思っています。
一人でいても好きな本を読んでいる時は、決して孤独ではありません。一人でいても豊かな時間があるのです。いつも友達とLINEで連絡を取り合っている人には、一人で本を読む時間は逆に新鮮ではないでしょうか。
昨年度、ある図書委員の女子生徒がお薦めの本として『忍ぶ川』(三浦哲郎著)を挙げていたのには驚きました。昭和45年に発表され、同年の芥川賞受賞作です。今では古典作品と云ってよい、清らかな純愛物語ですが、平成の高校生にとっても魅力ある小説なのです。いつの時代も高校生の感受性は鋭敏でみずみずしいと私は思います。
10月24日(月)から2週間の朝読書が始まります。「みんなでやる、毎日やる、好きな本でよい、ただ読むだけ」をモットーに朝8時30分から15分間行います。
皆さん、気軽に図書室へ足を運びましょう。
朗読劇「銀河鉄道の夜」
朗読劇「銀河鉄道の夜」
朗読活動家の矢部絹子さんのご指導を受けた生徒有志による朗読劇「銀河鉄道の夜」(原作:宮沢賢治)の発表会を10月8日(土)に第1体育館にて行いました。矢部さんがナレーターを務められ、多良木町出身のプロピアニストの牧光輝さんがピアノ演奏をしてくださるなど、プロの方々に支えていただき、生徒有志6人がそれぞれ登場人物の役を務めました。
振り返れば、7月下旬の夏休みから練習を始めましたが、最初は抑揚を付けることもできない棒読みで、感情を込めて表現する朗読の難しさを生徒たちは痛感したようでした。何度も繰り返し、それでも表現力がなかなか伸びず、目に涙を浮かべる生徒もいました。けれども、矢部さんの教育的情熱に基づくご指導が続きました。
矢部さんは熊本市から鹿児島本線、肥薩線、そしてくま川鉄道と乗り継がれて、8月後半以降は毎週のように土曜日に来校され、多良木町に宿泊されて翌日もご指導に当たられました。その熱意、献身的姿勢に生徒たちは励まされ、次第に変化していきました。初めは戸惑い、そして朗読の難しさで不安に陥っていた生徒たちが、最終段階では進んでやりたいという意欲を見せるようになりました。
学校で疎外感を覚えていた孤独な少年ジョバンニ。彼の唯一の友であるカンパネルラと一緒に不思議な銀河鉄道の旅に出て、みんなのために自分の体を燃やし続け空の目印になっているサソリや船の遭難事故で亡くなり天上へ向かう人々等と出会います。そして、「きっとみんなの本当の幸福(さいわい)を探しに行く。僕たちいっしょに進んでいこう。」とカンパネルラに呼び掛けます。しかし、旅の最後にカンパネルラは車内から忽然と消えるのです。ジョバンニは悲嘆にくれながらも、カンパネルラが人の幸せのために旅立ったことを悟ります。「みんながカンパネルラだ」という考え方に、ジョバンニはたどりつくのです。唯一無二の友達という考えから、出会う人すべてが友達になりえるという考えに転換できる可能性が示されます。
生徒有志6人は役になりきり、感情を込めて朗読しました。かれらが創り上げた、永遠の友情をテーマとした「銀河鉄道の夜」の世界は多良木高校生の胸を大いに揺さぶったと思います。
全校合唱「群青」
全校合唱「群青」
「ああ、あの町で生まれて 君と出会い
たくさんの思い抱いて 一緒に時間(とき)を過ごしたね」
合唱曲「群青」は、福島県南相馬市立の小高(おだか)中学校で2013年に生まれました。その2年前、東日本大震災で同校は被災し、津波で犠牲者が出ました。さらに福島第一原発事故によって校区が警戒区域に指定されたため、学校あげて避難することになりました。生徒たちは全国に散り散りとなり、大震災の時におよそ100人在籍していた1年生が2年次に進級した時には10人以下に減少しました。少なくなった生徒たちと共に、音楽教諭の小田先生が卒業の歌として創られたのです。
「またねと手を振るけど 明日も会えるのかな
遠ざかる君の笑顔 今でも忘れない」
この「群青」を全校合唱しましょう、と本校の音楽担当の石尾先生が提案され、先日、体育館にて全員で歌いました。多良木高校全校生徒およそ200人が気持ちを込めて歌いました。男子の力強い声、女子の優しい声が調和して、体育館に響き渡り、全員の気持ちが大きく一体となったようなハーモニーを創り上げました。聴く私たち教職員の胸に熱くこみ上げてくるものがありました。歌詞の「あたりまえが 幸せと知った」というフレーズには重みがあります。
指揮をされる石尾先生の頬には涙が伝い、最後に生徒たちに「多良木高校はあと2年あまりで閉校となるけれども、その後もみんなで会いましょう。」と涙声で呼び掛けられました。
「きっと また会おう あの町で会おう
僕らの約束は 消えはしない 群青の絆」
* 『群青』福島県南相馬市立小高中学校 平成24年度卒業生 構成 小田美樹
野球部の二人のコーチ
野球部の二人のコーチ ~ 多良木高校野球部を支える地元の力
「多良木高校野球部の試合を見ていると、つい笑顔になり、やがて涙が出てくる」とある高校野球ファンが私に語られました。超高校級の選手は一人もいませんが、心の底から野球が好きという少年たちがひたむきにボールを追いかけ、いつもハラハラ、ドキドキさせる試合を展開します。残り2年で閉校の定めで、今の1年生が多良木高校の歴史のアンカーを務め、次年度以降に新しい部員は入ってきません。しかし、そのような寂しさを感じさせない明るい笑顔と大きな声を出す野球部員の姿は応援する人の胸を打つのでしょう。
多良木高校野球部は本当に地域の力に支えられています。監督は、元多良木高校長で現在は多良木町教育委員会にお勤めの斎藤健二郎先生。67歳という現役の高校野球監督としては県内最年長の百戦錬磨の名将です。そして、この監督を支えるのが、馬場さんと尾方さんの二人のコーチです。馬場さんは50代前半、尾方さんは40代後半の年齢で、お二人とも多良木高校野球部OBであり、それぞれ地元で自営業をなさっておられます。
お二人のコーチはほぼ毎日お仕事の合間を縫ってグラウンドに来られ、生徒たちを指導されます。学校から指導手当ても出すことができていないのですが、お二人は「後輩のために好きな野球を教えられるだから、こんな楽しいことはない」と言われます。長年、多良木高校野球部に関わっていらっしゃるため、多良木高校生の特徴や癖をよく知っておられ、一人ひとりに応じたきめ細かな指導をされます。
馬場コーチは、豊かなユーモアのセンスで生徒たちの意欲を引き出される一方、地道なトレーニングを徹底されます。尾方コーチは、多良木高校時代、後にプロ野球で活躍した野田投手とバッテリーを組んだ方で、ノックが実に巧みで緊張感ある質の高い練習時間を創り上げられます。お二人は斎藤監督の野球の教え子でもあり、三人の息はぴったり合います。この他、近年の野球部OBの方が入れ替わりコーチの手伝いに来られ、まさに地元に支えられています。
今日も放課後にはお二人の姿が野球場に見えることでしょう。そして、お二人の叱咤激励に対し、野球部員が懸命に応える熱い練習が繰り広げられます。
野球部を応援する謎の青年
野球部を応援する謎の青年 ~ なぜ多良木高校野球部を応援するのか
多良木高校野球部の試合会場で、その青年に気付いたのは昨年の春でした。野球部の試合の応援に行くと、スタンドでよく見かけるのです。多良木高校の応援団の近くの席に居る方なので、最初は卒業生だと思っていましたが、野球部の保護者の方たちによると、「卒業生ではない、多良木町や球磨郡出身でもない」、しかし「多良木高校野球部を応援したい大学生」とのことでした。
名前はTさんと云い、県北にある大学に在籍していて、とにかく多良木高校野球部を応援したい一心で熊本市の藤崎台球場、八代球場と駆けつけてくれる奇特な方で、次第に、この学生さんのことは野球部員や保護者の方、そして応援に来られる多良木町民の間で知られるようになりました。今年度に入ると、多良木高校野球部応援隊のシャツを着て、Tさんは野球部保護者の応援の輪に入って声援を送り、共に喜び、悔しがり、多良木高校野球部の応援席にはなくてはならない存在になりました。私も球場スタンドで会うたび、笑顔で挨拶を交わすようになりました。
さて、今、秋の熊本県高校野球選手権大会の開催中です。去る9月25日(日)、県営八代球場で多良木高校野球部は水俣高校と2回戦を戦い、9対2で勝利しました。この試合でも、Tさんはスタンドに来て、私たちと一緒になって熱烈な応援をしてくれました。試合後、Tさんが私に、なぜ多良木高校野球部を応援するのかという理由を語られたのです。Tさんは旧蘇陽町(現山都町)出身で、熊本県立蘇陽高校の卒業生でした。蘇陽高校は生徒数の減少に伴い、「県立高等学校再編整備等基本計画」により、平成24年3月末日をもって61年の歴史に幕を閉じました。この最後の学年19人の一人がTさんでした。母校が閉校となる寂しさ、口惜しさを体験したTさんにとって、同じ定めの多良木高校野球部を心から応援したいとのことでした。「僕もこの秋は就職活動をしなければなりません。神戸で就職するつもりですので、甲子園で待っています。」とTさんが言われました。
閉校まであと2年ですが、多良木高校野球部はTさんの思いも受けて夢の甲子園出場に向けて果敢に進んでいきたいと思います。
県営八代球場
3年生よ狭き門より入れ ~ 3年生進路激励会
3年生よ、狭き門から入れ ~ 3年生進路激励会
高等学校卒業予定者の就職試験が9月16日(金)から始まります。今年度の3年生64人のうち29人が就職を目指しています。進学希望者についても、大学のAO入試(自己推薦型入試)が9月中旬から随時始まります。これまで本校で学んできたことの集大成として、進路実現の時を迎えます。就職試験解禁の一週間前の9月8日(木)の6時間目に3年生全員が視聴覚教室に集合し、進路志望の達成に向けての激励会が行われました。この場で、私は大きく次の三つのことを伝えました。
一 自分のルーティンを大切にしよう
試験が近づいたからといって特別なことをするのではなく、確立された
自分の生活リズムを守り、心身を整えて本番に臨んで欲しいのです。
二 進路実現へのモチベーションを高めよう
だんだん試験が近づくと、不安になったり、他人と比較して焦ったりと
動揺しがちです。しかし、そのような時こそ、志望している企業、学校
のホームページを閲覧して、半年後はここで働いている、学んでいる
自分の姿を思い描き、やるぞという意欲をかき立てて欲しいのです。
三 量は質を高める
進路実現に魔法はありません。勉強も面接も日々の繰り返しの中でコ
ツをつかみ、自分のものになっていきます。絶対的な勉強時間や面接
の練習時間が最後は支えてくれます。量は質を高めてくれると信じ、
試験当日まで地道な努力を続けて欲しいのです。
今の3学年は近年にないほど出席率が高い学年です。ほとんど欠席する者がいません。多少、体調が思わしくなくても学校に来る生徒達です。即ち、自分の生活のルーティンをしっかりと確立しているのです。これは最大の強みでしょう。きっとそれぞれの狭き門をくぐり、自分の進路を切り拓いていってくれることと期待しています。
進路激励会で代表生徒による誓いの言葉
多良木高等女学校の先輩
多良木高等女学校の先輩 ~ 勤労動員の青春
昭和20年3月に多良木高等女学校を卒業された大先輩のお二人が、先日、校長室を訪ねてこられました。湯前町在住の東さんと岩木さんで、御年88歳ですが、かくしゃくとして誠にお元気です。東さんは今でも自動車の運転をなさり、軽自動車を自ら運転し岩木さんを乗せて来校されました。戦争中、沖縄から多良木に疎開され、多良木高等女学校で学ばれた方について琉球大学の歴史の先生が調べておられ、依頼を受けた私が高等女学校時代の思い出話を伺いたいとお願いしたのです。
終戦から71年となり、遙かな歳月の彼方ですが、お二人の記憶は鮮明で、まるで昨日のように高等女学校時代のことを語られました。お二人は小学校を終え、昭和16年4月に多良木高等実科女学校に入学されました。多良木高等実科女学校は裁縫、調理等の家政科を中心とした教育課程で、地域社会における良妻賢母の育成を目指し、4年制、1学年定員は100人でした。昭和18年に実科女学校から高等女学校に名称が変更されました。沖縄から疎開してきた同級生のこともよくおぼえていらっしゃいました。
そして、お二人にとって最も強く印象に残っていることは4年生になって赴いた勤労動員でした。戦局が悪化し、女子学生が軍需工場で働くことになり、多良木高等女学校の4年生は、昭和19年10月から学校を離れ、熊本市健軍にあった三菱航空機製作所で働いたのです。東さんは航空機部品の組み立て、岩木さんは工作機械の旋盤担当で、全員が「神風」の鉢巻きを締め、防空ずきんを着用しての作業の日々でした。昭和20年になると日本の空をアメリカ軍が支配し、連日のようにB29爆撃機の空襲を受けました。軍需工場は特に標的にされ、爆撃により多くの工場の職員、勤労女学生が命を落としました。
昭和20年3月、工場の寮において、勤労動員の女学生合同の卒業式が行われました。終戦後も、多良木高等女学校同級生の絆は強く、定期的に同級会や親睦旅行をされてきたそうです。やはり、生死を共にした勤労動員体験がお互いを強く結びつけていたのだろうと語られました。
戦後の学制改革により高等女学校はなくなり、新制多良木高校も昭和44年に現在の地へ移転しました。その時、高等女学校時代の旧正門も新校舎の野球場入り口に移しました。体験談を語り終えられた東さんと岩木さんは、帰られる際、この旧正門である古い石柱をなでて懐かしがっていらっしゃいました。
多良木高等女学校時代の旧正門
宮沢賢治の故郷を訪ねて
宮沢賢治の故郷を訪ねて ~ 岩手県花巻市
宮沢賢治(1896~1933)の故郷である岩手県花巻市をお盆休みに訪ねてきました。7月に本校で宮沢賢治文学の朗読会(朗読:矢部絹子さん)を開催し、現在は、10月の文化祭での発表に向けて生徒有志が「銀河鉄道の夜」の朗読劇の練習に取り組んでいます。私自身、もっと宮沢賢治のことを深く知りたいと思い、花巻を訪問したのです。
5年前に東日本大震災が発生した後、多くの人が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を改めて声に出して読み、心の拠り所にしたと言われます。今年が生誕120年の節目の年ということもあり、新幹線の新花巻駅の近くにある「宮沢賢治記念館」は駐車場が満車になるほど多くの来館者でにぎわっていました。花巻市は人口が約10万人の都市ですが、緑豊かな平野にあり、市街地の東を北上川が流れ、静かで澄んだ空気に包まれています。宮沢賢治は、自分の文学世界の中で、故郷の花巻を基にして理想郷「イーハトーブ」を創り上げています。
宮沢賢治ゆかりの地を終日かけて巡りましたが、最も印象に残ったのは岩手県立花巻農業高校でした。宮沢賢治は、大正時代に4年余り同校の前身の農学校で教壇に立ち、化学、土壌、肥料等について教えているのです。この教師時代を振り返って次のような断章を残しています。
「この四ヶ年がわたくしにとってどんな楽しかったか
わたくしは毎日を鳥のやうに教室でうたってくらした
誓って云うがわたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない」
宮沢賢治がいかに教師生活を愛していたかわかる言葉です。加えて、教師時代に生徒の愛唱歌を作詞しているのです。この歌は、「花巻農学校精神歌」としても今日も歌い継がれています。この歌詞の一節「マコトノクサノ タネマケリ」の文字額が、花巻農業高校の校舎玄関の上に大きく掲げてありました。
しかし、宮沢賢治は農学校を辞め、自ら農業を実践する傍ら、在郷の若手農民に農業を教える私塾「羅須地人協会」を営みます。ここで教科書として書かれた「農民芸術概論綱要」の冒頭に、宮沢賢治の思想の到達点を表す次の言葉が記されています。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
病に倒れるまで一人で自炊し暮らした「羅須地人協会」の建物が花巻農業高校の敷地に移築されています。木造2階建ての簡素なもので、内部は往時のままに復元されています。玄関脇の黒板には、有名な「下ノ畑ニ居リマス 賢治」と板書されています。花巻農業高校の生徒達は、この建物のことを「賢治先生の家」と呼んでいます。近くには、帽子、コート姿でうつむき加減に思索にふける宮沢賢治の銅像も立っています。
花巻農業高校には100年前の賢治先生の精神が息づいていました。
岩手県立花巻農業高校にて
2学期始業式(8月25日)
「南米大陸で初めて開かれたリオデジャネイロ夏季オリンピック大会。今週月曜日に17日間の日程を終えて終了しました。皆さんも様々な競技のテレビ中継、あるいは特集番組に見入ったことでしょう。皆さんにとって、最も印象に残った場面、シーンは何でしょうか? 私が最も印象に残ってことを話します。
それは開会式で参加国が入場する場面で、最後は開催国すなわちブラジルが行進することになっているのですが、最後から2番目に「難民選手団」の10人が入場してきた姿に、目を奪われました。オリンピックは各国の代表として参加し、国別に競う大会です。ところが、今回、オリンピックの歴史で初めて、どこの国にも属さない「難民」としての選手団が認められたのです。10人の選手は、それぞれ中東のシリアやアフリカの南スーダン、コンゴといった、国が内戦状態でスポーツをする環境にはないため、国外に逃れた人達です。彼らは国の代表としてではなく、個人のアスリートとしてオリンピックに参加したのです。平和の祭典と言われるオリンピックに、「難民選手団」として参加しなくてはならない人達がいるということは、あらためて国際平和の難しさを感じました。4年後の東京オリンピックの時には、「難民選手団」が存在しないのか、それとももっと増えているのか、大変気になるところです。4年後に向けて国際社会に与えられた宿題と言ってよいでしょう。
もう一つ印象に残った事は、大活躍し、金メダルを取った日本選手の多くが、優勝後のインタビューで、コーチへの感謝の気持ちを伝えていたことです。これまで、怪我や不調、スランプなどがあったなか、コーチを信じてきてよかった、支えてくれたコーチに感謝です、というコメントを多くの選手がしていました。オリンピック選手のようなきわめて秀でた運動能力に恵まれた人達でも、いやそういう人達だからこそ、一人でできることは限られている、自分一人ではやっていけないのだということを実感しているのでしょう。
ちなみに、私たち日本人はコーチという言葉を指導者という意味で使っていますが、英語のコーチ「Coach」の本来の意味は馬車です。馬が引いて乗客を運ぶあの馬車です。目的地に乗客を迷わずに連れて行く馬車「コーチ」の言葉が、目標に向けて教え励まし、目標達成に導く指導者という意味に変化し今日広く使われるようになったのです。
生徒の皆さんの右手に、後方に、多良木高校の情熱あるコーチの方がそろっておられます。多良木高校のコーチ陣は皆さんの可能性を引き出し、きっと目標に向かって導いていってくれます。1学期以上に、先生方を頼ってください。多良木高校コーチという馬車に安心して乗ってください。
結びになりますが、2学期は今日8月25日に始まり12月22日に終業式を迎えますので、およそ4ヶ月の長きにわたります。一日一日を大切にしていきましょう。一日一日の積み重ねで、学力をはじめ様々な力を養い、大きく成長できる学期です。特に3年生は、これからの人生の歩む道を決める大事な学期です。自分の弱さに妥協せず、狭き門から入るという覚悟で取り組んで欲しいと願っています。これで2学期始業式の挨拶とします。」
新ALTの紹介(校長挨拶)
「新しく赴任されたAssistant Language TeacherのJoseph Lanza(ジョセフ ランザ)先生を紹介します。
ジョセフ先生は、イングランドから来られました。
ところで、私たち日本人はイギリス、イギリスと言いますが、正式にはイギリスという国名はありません。私たちがイギリスと呼ぶ国は、正しくはUnited Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国のことです。このUnited Kingdom 連合王国は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つの国から構成されます。その中で最も人口が多く、面積も広いのがイングランドです。イングランドは、サッカーのワールドカップには一つの国として出場しますが、オリンピックには単独では出ず、United Kingdom 連合王国として参加します。
では、「イギリス」という呼び名はどこから生まれたのでしょうか?どうも、「イングランド」という英語が江戸時代にポルトガル語やオランダ語で日本に紹介され、発音変化して、エゲレス、イギリスになったと言われます。そして、United Kingdom 連合王国、この連合王国を私たち日本人は総称してイギリスと呼ぶようになりました。イングランドとUnited Kingdom 連合王国の両国の関係を知っておいてください。 話しが少し脱線しました。
さて、ジョセフ先生は学生時代から日本語及び日本文化に関心を持ち、秋田県の国際教養大学で6週間、日本語学習の短期留学の御経験もあります。8月3日に熊本に来られ、多良木町久米にある教職員住宅に住み、日本の生活を始められました。この夏休み期間、君たちが使っている英語の教科書等を調べ、英語科の先生と打合せを重ね、教材研究に取り組まれており、皆さんと学習することを楽しみにされています。皆さんの方から、積極的に英語で話しかけ、英会話を楽しんで欲しいと思います。
では、ジョセフ先生から挨拶してもらいます。」
キャプテンラストの精神で ~ 新チームキャプテンへの期待
キャプテンラストの精神で ~ 新チームのキャプテンへの期待
夏季休業中も、多良木高校の野球場、グラウンド、体育館等では生徒達の元気の良い声が飛び交い、活気があります。また、恵まれた体育施設を有していることから、多くのチームが練習試合や合同練習に来てくれています。例えば、8月2日から4日にかけ大津高校陸上部が来校し、セミナーハウスを利用して本校陸上部と合同合宿を行いました。8月2日には福岡県内の2つの高校野球チームが来校し、本校を含め3校での練習試合を展開しました。また、8月9日には女子バレーの合同練習試合を本校で主催し、熊本市の第二、東稜の2校をはじめ球磨人吉地域の3校と合わせて5校が来校し、終日、汗を流しました。
この時期、どの部活動も3年生が退き、1、2年生主体の新チームに移行して夏の練習、合宿等に臨んでいます。新しくキャプテンに任命された生徒が校長室に挨拶に来てくれます。その時に新キャプテンに「キャプテンラストの精神で頼むよ」と語ります。キャプテンとは本来、英語で船長を意味します。船長は、常に船と共に在り、もし船が難破して沈むことになっても乗客や船員を先に降ろし、自分は最後まで船に留まる責務があります。それだけの強い責任感があってこそ船員達もキャプテンに従うのです。従って、部活動においても、練習の後片付けや部室の整理などを下級生部員に任せるのではなく、最後まで自ら責任を持つ姿勢をキャプテンに望むのです。キャプテンが最後までチームと共に在るという姿勢を見せれば、きっと他の部員も協力してくれることと思います。
新チームのキャプテンとなった生徒たちはみなとても良い表情をしています。急に大人になったかのような強い意志と自覚を感じます。大事な役割を任されたことによって若者は大きく変化します。キャプテンラストの精神で、多良木高校部活動の新チームのキャプテン達は自らの役割を全うしてくれることと期待しています。
教えることは学ぶこと ~ 地域未来塾の講師を務める多高生
教えることは学ぶこと ~地域未来塾の講師を務める多高生
今年度の夏季休暇から、多良木町において地域未来塾(多良木町教育委員会主催)が始まりました。同町の三つの小学校(多良木、黒肥地、久米)の4~6年生に対し、午前中2時間の学習時間を設け、それを断続的に6日間行い、学習の基礎基本を確立させる事業です。他の幾つかの自治体ですでに始まっている「町営学習塾」の多良木版と言えるものですが、最大の特色は、講師役として、小学校の教師や学習支援員に加え、多良木高校生が加わるという点です。
「高校生に講師役を!」という多良木町教育委員会から御提案があった時、私はとても有り難く思い、即、協力する旨を伝えました。教えるということはとても貴重な体験であり、教えることで多くのことを学ぶことができるからです。本校は、地域に開かれた学校として、これまでも様々な地域貢献に努めてきましたが、高校生による小学生への学習指導という機会はありませんでした。多良木高校生により豊かな体験をさせたい、多くの出番を与えたいとの多良木町教育委員会の温かい御配慮によるものと深く感謝します。
多良木町地域未来塾は、7月21日(木)、黒肥地小学校から始まり、同小に5人の生徒が赴きました。そして、25日(月)からは多良木小学校でも始まり、同小には6人の生徒が、26日(火)から久米小学校でも始まり、同小にも6人の生徒が参加し、計17人の意欲ある多高生が先生役として活動しています。私も参観に行っていますが、教えることの難しさを実感している生徒の様子が見えます。自分では理解していても、それをいかにわかりやすく言語化して他者に伝えるかは思ったよりも困難な作業なのです。
「礼儀正しい」、「さわやか」と先生役の多高生の評判はすこぶる良いようです。学校に帰ってきた生徒達に感想を聴くと、皆、異口同音に「教えることは難しい、けれど楽しい」と笑顔で答えてくれます。教えることは学ぶことです。地域未来塾で育つのは小学生だけではありません。
地域未来塾(黒肥地小学校)で教える多高生
あきらめない夏 ~ 7月18日の高校野球逆転勝利
あきらめない夏 ~ 7月18日(月)高校野球2回戦の逆転勝利
9回表、2点差を追う多良木高校の攻撃もすでにツーアウト、ランナーはいません。7回の攻撃で一度は逆転を果たしたものの8回裏に専大玉名高に再逆転を許し、試合の流れは明らかに劣勢となっていることをスタンドで応援する私たちも感じていました。バッターは7番の梅木君。バットを振り抜くと打球はショート正面へ緩いゴロが転がりました。万事休す、終わったと私は目を瞑りました。ところが、思わぬ歓声が回りから上がります。目を開けると、ファーストベースに頭から滑り込んでいる梅木君の姿と、横一文字に両腕を広げセーフと示している一塁塁審の姿が飛び込んできました。専大玉名の外野手は勝ったと思い内野に向かって駆け寄って来ていました。最後まであきらめない、という梅木君の執念のヘッドスライディングでした。
ここから流れが再び変わりました。高村君、代打の赤池君がつないで1点差となり、1番の岡本君に打順が回ります。応援の人数で圧倒する多良木高校側のスタンドは総立ちで声を枯らして声援。岡本君のタイムリーヒットで同点となり、大歓声に包まれます。そして、2番の若杉君のセンターオーバーの逆転2塁打が飛び出し、スタンドは興奮の渦です。9回裏は、1年生の古堀君が落ち着いた投球で相手の攻撃を3者凡退で退けて、見事大逆転の勝利を得ました。13対11、壮絶な打撃戦を制したのです。
勝利の校歌をグラウンドの選手とスタンドの応援団とで一緒に歌いながら、私は興奮冷めやらぬ気持ちでした。強豪校相手にも臆することなく果敢にプレーし、土壇場で底力を発揮しての同点、逆転劇に私は生徒の持っている力の大きさに驚嘆しました。9回ツーアウト、ランナー無しの追い詰められた状態からの逆転勝利はドラマ以上に劇的であり、このような試合を見せてくれた選手達に心から感謝したいと思います。
7月18日(月)海の記念日、県営八代球場で多良木高校が逆転勝利をおさめた日に熊本県の梅雨明けが宣告されました。多良木高校野球部の「あきらめない夏」は続きます。
1学期終業式
「1学期の終業式に当たり、この3ヶ月半を振り返ると、先ず思い起こされるのが4月14日、16日の大地震発生のことです。18日月曜日、この体育館に集まり臨時の全校朝礼を行い、私から皆さんに三つのことを伝えました。一つは「普通の生活ができることに感謝しよう」です。この感謝の気持ちはいつも持っていたいですね。二つ目は「自然災害を正しく恐れよう」です。今回の地震でもネット上に根拠のない噂話、憶測が多く流れたようですが、基本的な知識、そして正しい情報を持って判断し行動してほしいと思います。三つ目は、「皆さんは弱者ではない」ということです。災害が起きたとき、まず自分の安全を確保した後は、子どもやお年寄り、障がいのある方を助ける立場となります。そして、復旧、復興に皆さんの力は欠かせないのです。
先ほど、4人の3年生が復興支援ボランティア体験の報告をしてくれましたが、被災しなかった地域の県立高校23校から84人の代表生徒が集まりました。西原村の山中において地震で2千本のしいたけ原木が倒れたまま放置されており、それらをボランティアリーダーや地元の農家の方の指導のもと、一本一本復元していくのです。不安定な斜面での作業で、蒸し暑い天候の中、ムカデも出る厳しい環境でしたが、どの生徒も苦しい顔や嫌な顔ひとつせず作業する姿は爽やかで、私は、「見てください、これが熊本の高校生たちです」と胸を張って他県のボランティアの方々に自慢したくなりました。
5年前の東日本大震災の時もそうでしたが、今回の熊本地震においても、高校生は、被災地での復旧ボランティアや避難所での運営補助など実によく働き、その元気と明るさに被災者の方が励まされたそうです。私たち大人は、ひとたび震災に見舞われると多くのものを失った精神的打撃でなかなか立ち直れなくなります。しかし、皆さん達、高校生は立ち直りが早い。復元力とでも言うのでしょうか、しなやかに立ち直る力を持つ高校生こそ、非常時には頼りにされるのです。落としたら割れるガラスの花瓶のような人になってはだめです。落としても、跳ね返ってくるゴムボールのようなしなやかさを、皆さんには身に付けて欲しいと期待します。
震災からの復興だけでなく、これからの社会を創っていくのは皆さん達です。先日、参議院議員選挙が行われましたが、全体の投票率は54.7%でした。これまでの参議院選挙で4番目に低い投票率でした。熊本選挙区は51.46%です。二人に一人しか投票していない状況です。それでは、選挙権を持つ多良木高校3年生21人の投票行動はどうだったのでしょうか?21人中19人が投票していますので、投票率は90.5%という高さです。皆さん達は、主権者としての責任をきちんと果たしたのです。私はこのことを誇らしく思います。今回棄権した多くの大人は、多良木高校3年生を見倣って欲しい気持ちです。
夏休みに、一つ皆さんにお願いがあります。おじいさん、おばあさん、あるいはひいおじいさん、ひいおばあさんがご健在な人もいると思いますが、一人で暮らしておられる方がいらっしゃいませんか? 遠くに住んでおられ、普段は会えないという事情もあるでしょう。この夏休み、できればお盆の時期に皆さん達から訪ねていってほしいのです。今、振り込め詐欺の被害者、被害額が急増しています。この人吉球磨地域でも被害者が出ています。被害者のほとんどがお年寄りです。なぜ、犯罪者はお年寄りを狙うのか? お年寄りは寂しいからです。子どもや孫が会いに来てくれない、電話もあまりない、という孤独な環境のお年寄りが振り込め詐欺の罠に陥ってしまうのです。それを防ぐために、みなさんが、「おじいちゃん、おばあちゃん、元気ですか?」と顔を見せ、話しをすることは効果が大きいと言われます。今の日本を築き上げてこられたお年寄りを、卑劣な犯罪から守るためにも、孫、ひ孫である皆さん達高校生が積極的にお年寄りと交流することが求められます。
2016年の夏、熊本の復興が進み、皆さん達がそれぞれの故郷でお年寄りと一緒に笑顔で過ごすことを願っています。そして、明後日17日の多良木町ブルートレイン清掃ボランティアに31人が参加することをスタートに、多良木町地域未来塾の先生役、地域のお祭り、スポーツ大会、介護施設の行事運営の補助など数え切れない程のボランティア活動に参加する皆さんに素晴らしい出会いと体験が待っていることを念じ、終業式の挨拶とします。」
高校生による復興支援ボランティア報告会(多良木高校)
藤崎台球場の夏
藤崎台球場の夏 ~ 第98回全国高等学校野球選手権熊本大会開幕
7月10日(日)、熊本市の藤崎台球場で第98回全国高等学校野球選手権熊本大会の開会式が行われました。4月の大地震の影響で、藤崎台球場の施設の一部に被害が生じ、同球場での夏の大会予選開催が危ぶまれましたが、修復、安全点検が間に合い、熊本県高校野球の中心地である藤崎台球場での開会式に至ったのです。
雨上がりの曇天の下、午前10時20分から出場校63校の選手入場が始まり、35番目に多良木高校の選手達がはつらつとした態度で行進しました。今年の大会は、熊本地震の復興の中での開催ということで全国から注目されています。入場行進では、「がんばろう九州」の横断幕も掲げられ、日本高野連会長の八田英二氏も駆けつけられ、選手達にエールを送られました。
出場校の中には、グラウンドをはじめ学校の施設、設備が被災して、2週間から3週間にわたって休校となった所もあります。避難所となった学校もあります。選手達の中には、自宅が被災して避難所または自動車の中での生活を余儀なくされた人もいます。そのような苦しさを体験した多くの高校生の、それでも好きな野球をしたいという意志が原動力となり、大会が始まるのです。
外野席の背後には、国の天然記念物に指定されている7本の大楠が立っています。樹齢千年に及ぶと伝えられる巨樹群は、幾多の戦乱、自然災害を経験してきたことでしょう。これらの大楠に見守られながら、高校球児が藤崎台球場で躍動し、ひたむきなプレーを繰り広げます。青春賛歌の「栄冠は君に輝く」を口ずさみながら、選手達に惜しみない拍手と声援を送ります。
「雲は湧き 光あふれる
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まじりは 歓呼に応え
いさぎよし ほほえむ希望
ああ栄冠は 君に輝く」
(作詞:加賀大介 作曲:古関裕而)
心を育む声の贈り物「朗読」
心を育む声の贈り物「朗読」 ~ 宮沢賢治文学の朗読を聴く会
今から80年ほど前の昭和8年に37歳の若さで世を去った宮沢賢治。生前は無名に近い存在でしたが、没後、彼の詩、童話、小説などの文学作品は広く読まれ、今日、ますますその輝きを増しているようです。
朗読活動家の矢部絹子さんは、宮沢賢治の文学世界を多くの人に伝えたいという熱い思いの持ち主です。元テレビ局のアナウンサーであり、読むこと・話すこと・語ることのプロフェッショナルである矢部さんは、40年余り、宮沢賢治の作品の朗読に取り組んでこられました。この度、ご縁があって、多良木高校生に宮沢賢治文学の朗読を聴かせていただく機会を得ました。
7月1日(金)午後3時から第1体育館にて、短編童話「虔十公園林」と詩「雨ニモマケズ」の朗読をしていただきました。矢部さんの心の底から湧いてくるような、情感の込められた声で語られる宮沢賢治の物語に生徒達は引き込まれたようでした。およそ40分間、ほとんど私語もなく、思索と想像の世界に浸っていました。デジタル世代の高校生にとって貴重な、静かで豊かな時間が流れていたと思います。
短編童話「虔十公園林」。まわりから馬鹿にされている虔十(けんじゅう)ですが、700本の杉苗を植え、それを大事に愚直に育て、若くして病気で亡くなります。その後、杉林は虔十の家族によって引き続き守られ立派な林となりました。歳月が立ち、村の風景もすっかり変わった中で、久しぶりに帰省した村出身の博士が、杉林の中で遊ぶ子ども達を見て、ここだけが昔と変わっていないことに感嘆して、「ああ、全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません」と言います。この最後の博士の言葉はとても印象深く、考えさせられます。主人公の虔十とは宮沢賢治その人とも言えるのでしょう。
詩「雨ニモマケズ」。この高名な詩を小中学校で暗唱した生徒もいるでしょう。しかし、高校生になった今、宮沢賢治の理想の生き方を表現したと言われるこの詩に触れ、どんな感想を得たのでしょうか。宮沢賢治は、自分の作品を思春期の人に読んで欲しいと願いを込めたと言われます。百年近い時を隔て、平成の高校生にも宮沢賢治のメッセージは届いていると思います。
生徒会役員立ち会い演説会に望む
「生徒会は多良木高校の全校生徒204人全員が会員です。生徒会は、クラスマッチや体育大会、文化祭など大きな行事を企画、運営することも務めですが、一方、挨拶や交通安全といった日常生活に係る取り組みも大切だと思います。今、売店がある部屋を、生徒会役員の皆さんが中心になって「エンジョイ広場」として作っていると聞いています。どんなリフレッシュスペースができるのか楽しみです。皆さんが工夫し、力を合わせれば、もっと充実した多良木高校生活が実現できると期待しています。
今回の生徒会役員の選挙に、福田君、野村君、大山君、西脇君の4人が立候補してくれました。進んで役員になろうという4人の志に敬意を表します。
さて、現在、参議院議員選挙が行われていますね。6月22日に公示され、選挙戦が始まり、7月10日(日)が投票日です。今回の参議員選挙が注目されるのは、18歳選挙権が導入されて初めての選挙だからです。選挙権年齢が20歳以上から「18歳以上」に引き下げられ、投票日の時点で満18歳になっていれば高校生でも選挙権を持つのです。今回の参議院議員選挙においては、本校の3年生64人のうち21人が選挙権を持っています。人生で最初の選挙、投票です。選挙権は、国民としての責任を伴う重要な権利ですから、棄権せずに必ず投票して欲しいと願っています。
高校生で十分な判断ができるのか、早すぎるのではないか、と心配する声も聞かれますが、アメリカ合衆国、ヨーロッパの各国、オーストラリアなど世界では18歳以上の選挙権が主流だそうです。18歳選挙権の始まりは、皆さん一人一人が、身近な地域のことから国の政治問題まで幅広く社会に関心を持つきっかけになると私は期待しています。
今回の生徒会役員選挙は、昨年までとは異なり、ひと工夫してあり、投票は明日以降、会議室に各自で行くようになりました。投票場である会議室は実際の選挙の投票場のように設定されています。自ら足を運ばなければ棄権となります。各クラス100%の投票率を目指しましょう。
それでは、この立会演説会が、皆さんにとって、どんな学校であってほしいのか、どんな学校をこれからみんなで創るのかを考える良い機会になることを願い、挨拶とします。」
野球部を励ます ~ 高校野球推戴式
野球部を励ます ~ 高校野球推戴式での校長の激励の言葉
昨年の夏は、多良木高校にとって熱い熱い夏でした。夏の甲子園大会熊本県予選で野球部が快進撃をみせ、次々とシード校を破り、30年振りのベスト4進出を果たしました。多良木町をはじめ地域の方、同窓会の方々と一緒に私たちも熊本市の藤崎台球場に駆けつけ、「思いはひとつ ~多良木の意地と誇りを胸に」の横断幕を掲げ、スタンドとグラウンドの選手が一体となって戦った夏が忘れられません。
一年経ち、また甲子園の夏が巡ってきました。野球部の皆さん達には、昨年の先輩達が残した結果を超えたいという思いがあると思います。しかし、そのことが精神的重圧になってはいないでしょうか? 昨年の野球部キャプテンの大塚将稀君が、十日ほど前、学校を訪ねてきてくれました。大塚君は現在、北九州市にある九州国際大学の野球部で活躍しています。大塚君は話しました。「実は、昨年の僕たちは、先輩達と比べられているのではないかとずっと意識して、プレッシャーに押しつぶされそうでした」と。一昨年の野球部は、現在、社会人の東芝で活躍するビッチャーの善君、そして法政大学で活躍しているキャッチャーの中村君がいて秋の県大会やNHK旗杯で優勝するなどの強豪チームでした。大塚君は、「善さん、中村さん達にはとてもかなわない」と思っていたそうです。けれども、いざ夏の大会が始まると一試合一試合に集中でき、「先輩達のことは忘れ、全力で自分たちの野球ができた」そうです。大塚君は言いました。「大学の練習より、多良木高校の練習の方がきついです。厳しい練習を積み重ねてきたことを自信に、自分たちの野球を貫いて欲しい」と。
野球場近くにお住まいのご婦人が、先日私に言われました。「今年の野球部は例年以上に声が出ているようですね。高校生の大きな声を聞くだけで元気が出ます。」。君たちは、練習の声だけで地域の方々に元気を届ける存在です。地域の応援を追い風として勢いを付け、大会に臨んでください。畑野キャプテンを中心に、一昨年のチームとも、昨年のチームとも違う、今年のチームらしさを発揮し、自分たちの野球に集中してください。
第98回熊本県高等学校野球選手権大会に、誇りをもって野球部を送り出します。
しなやかな若い力 ~ 高校生による復興支援ボランティア
しなやかな若い力 ~ 高校生による復興支援ボランティア活動
「地震に負けんばい がまだすぞー 西原村魂」。西原村ボランティアセンターの敷地内の大きな立て看板に書かれた言葉です。6月18日(土)、熊本県教育委員会主催の「高校生による復興支援ボランティア」活動に多良木高校から3年生男子4人、教諭1人と共に参加しました。この度の「平成28年熊本地震」であまり被害がなかった地域の県立高校23校から84人の代表生徒が集結しました。
当日、朝9時に県庁で出発式を行い、大型バス3台に分乗し、先ず益城町に向かいました。4月14日、16日と二度にわたって震度7の強烈な揺れを蒙った益城町は、県内で最も被害が大きい地域です。特に同町の木山地域にバスが入ると、家々が崩壊したままの惨状が残されており、現実とは思えない光景に思わず息をのみます。テレビ映像や新聞の写真では幾度も目にしていたのですが、実際に間近で見ると改めて大地震の脅威を実感します。生徒達もバス車窓から食い入るように被災地の状況を見つめていました。
益城町から西原村に進み、同村のボランティアセンターで受付をしました。当日も県内外から多くのボランティアの人が駆けつけており、活気がありました。私たちは山間部に移動し、昼食を取った後、しいたけ栽培の原木復元作業に取り組みました。地震で2千本のしいたけ原木が倒れたまま放置されており、それらをボランティアリーダーや地元の農家の方の指導のもと、一本一本復元していくのです。不安定な斜面での作業にかかわらず、高校生達は意欲的に取り組みました。蒸し暑い天候で、ムカデも出る厳しい環境でしたが、どの生徒も苦しい顔や嫌な顔ひとつせず作業する姿は爽やかでした。作業を始めておよそ1時間半で2千本のしいたけ原木を元の位置に戻すことができました。
この日、高校生達が行った事は、大地震の被害の前では小さい復元作業でしかありません。けれども、今回参加した高校生達が各学校に帰って体験を広め、多くの高校生に復興支援のボランティアの意識が共有されることで、大きな復元力が生み出されると思います。高校生の若さ、しなやかさは不屈です。彼らはこれからの社会を創っていく原動力なのです。
地に足をつけて一勝を ~ 一勝地駅記念入場券
地に足をつけ一勝を ~ 一勝地駅の記念入場券
JR肥薩線の一勝地駅(いっしょうちえき:球磨村)は、その地名の縁起の良さから、「必勝」、「合格」等のお守り代わりに記念入場券が売れることで知られています。6月12日(日)に多良木高校から自動車で50分かけて、一勝地駅を訪ねました。一勝地は球磨村の中心部に当たり、駅は、球磨川の左岸に位置し、対岸の高台には球磨村役場が見えます。
明治41年開業の肥薩線は、明治、大正期の駅舎や隧道(トンネル)、鉄橋等の鉄道遺産が多いことで有名ですが、一勝地駅の現在の駅舎も大正3年に完成して以来基本的な骨格が保たれており、背後の山林に調和するクラシックな木造駅舎です。駅舎やホームに立つと、およそ一世紀にわたって球磨の人々の往来の場となってきた歴史を感じます。一勝地駅内の事務室が球磨村観光案内所となっており、ここで記念入場券を7枚購入し帰って来ました。
先般開かれた県高校総体陸上競技において男子400リレーで6位に入ったメンバーが南九州大会(6月16日~18日、宮崎市)に、そして、女子アーチェリー個人の部で2年生女子が入賞し九州大会(6月17日~18日、鹿児島市)に進出することになりました。このリレーメンバー(選手4人、補欠2人)と女子アーチェリー選手に、一勝地駅の記念入場券を贈りたかったのです。
校長室にて、陸上部員とアーチェリー部員の併せて7人の生徒達に励ましの言葉を掛け、「地に足をつけて一勝を」と一勝地駅の記念入場券を渡しました。皆、喜んで受け取ってくれ、大会に向けて学校を出発しました。
生徒達の健闘を心から祈ります。
県6位入賞を果たした400㍍リレー(6月4日八代市)
若者たち ~高校総体2
若者たち ~ 高校総体その2
今年の高校総体の陸上競技は、熊本地震の影響で熊本市の県民総合運動公園陸上競技場(「うまかな・よかなスタジアム」)が使用できず、県営八代運動公園陸上競技場(八代市)で6月3日から6日にかけて行われました。
6月4日(土)と5日(日)のそれぞれ午後の半日、多良木高校陸上競技部の選手を応援しました。収容人員32000人の巨大な競技場である「うまかな・よかなスタジアム」とは異なり、八代の陸上競技場はスタンドも小さく、雨が降る時は周辺の芝生広場のテントで待機するという状況で、例年と比較すると選手のコンディションには厳しいものがあったようです。応援する者にとっても、雨が降ると傘をさし、競技場のトラック(競走路)の周囲に立っての応援となりました。しかし、競技中の選手と距離が近く、選手の息づかいや流れる汗が感じられる程で、陸上競技の醍醐味を満喫できました。
本校から3人の女子選手が出場した400mハードル競技は負荷の大きい種目で、1人の1年生選手はゴールすると倒れ込み、しばらく起き上がることができませんでした。また、男子2人が出場した5000m、3000m障がい、そして女子2人が挑んだ3000mと長距離レースはいずれも過酷で、苦しそうに表情をゆがめゴールを目指す姿には、こちらも熱くなり声援を送りました。苦しくてもひたすらゴールを目指す選手達の姿を至近距離で見ていて、中学校の音楽の授業で歌った「若者たち」(作詞:藤田敏雄、作曲:佐藤勝)の歌詞の一節が思い浮かびました。
「君の行く道は 果てしなく遠い
だのになぜ 歯をくいしばり
君は行くのか そんなにしてまで」
高校総体が終わり、先日、陸上競技部の選手達が応援の御礼に校長室まで来てくれました。その時、私は「君たちは苦しくてもなぜ走るんだろう?」と問いかけました。すると1人の生徒が「なぜでしょうね? 自分でも時々わからなくなります。」と笑って答えてくれました。
雨の中、応援する陸上部員
限りある時間の中で ~ 高校総体1
限りある時間の中で ~ 高校総体その1
高校に入学し、自分の好きなスポーツの部活動に入って練習を始めた頃は、高校生活も部活動も無限に続くような感覚を持っていたことでしょう。記録が伸びない、上達しない等、壁にぶつかり悩んだ日、あるいは勉強との両立で苦しんだ日もあったことと思います。しかし、どんな時間も有限です。限りがあるのです。このチームメートといつまでも部活動に打ち込んでいたいと思っていても終わりは来ます。高校に入学しておよそ2年2ヶ月後に3年生として県高校総体を迎えることになります。
今年の県高校総体は、熊本地震の影響で、会場も分散しての開催となり、本校からはサッカー、陸上、バスケットボール(男子)、バレーボール(女子)、ソフトテニス、アーチェリー(女子)の6種目に参加しました。
5月29日(日)に先行開催されたサッカー1回戦(大津高校運動場)は熊本高校と雨天のもと泥だらけの試合となりました。それでも選手達はフェアプレーで戦い抜き、惜しくも敗れました。試合終了後、水たまりのグラウンドに膝をつく選手達を見て、もっと良いコンディションでさせたかったと無念の思いに包まれました。6月3日(金)から全面的に総体が始まり、バスケットボール男子の1回戦(玉名高校体育館)は力が拮抗している八代清流高校と熱戦となり、応援していて力が入りました。リードして迎えた第4クォーターで逆転されて悔しい敗戦。号泣する3年生選手の姿が印象的でした。
そして女子バレーボールは、6月3日(金)の1回戦に快勝し、翌4日(土)に第1シードの鎮西高校と対戦しました(秀学館高校アリーナ)。強豪相手に第1セットでは16点も得点し、練習の成果を十分に発揮しました。しかし、試合後3年生は涙を流しました。試合に関して悔いはなかったかもしれませんが、このチームでもうバレーボールができない悲しさに襲われたのでしょう。
負けたことで多くのことを学ぶことができるのがスポーツです。そして、高校総体が終わり、どんな時間も限りあることを生徒達は実感したことでしょう。
(女子バレーボール1回戦)
スポーツマンシップでいこう ~ 高校総体推戴式
「今年の高校総体は、熊本地震の影響で例年とは大きく異なり、県民総合運動公園陸上競技場での総合開会式はなくなり、主に熊本市及びその近郊で実施されていた競技が、県北から県南にかけて広い地域で分散して開催されることとなりました。けれども、関係者の御尽力によって開催されることを皆さんと共に感謝したいと思います。
県高校総体のテーマは、昨年に引き続き「スポーツマンシップでいこう」です。「スポーツマン」とはスポーツをする男性という狭い意味ではなく、女性も含めて「スポーツをする人」と広く捉えた表現だと思います。スポーツマンシップとは何でしょうか? 昨年度の総合開会式で高体連の赤星会長が、スポーツマンシップとは、ルールを守り、審判に敬意を表し、勝っても負けても相手を称えることだと話しをされました。応援する者も、スポーツマンシップに則って応援しなければなりませんが、昨年の高校総体で私には苦い思い出があります。
サッカーの1回戦、八代農業高校との試合を応援に行きました。確か、昨年の本校のサッカー部の部員は15人だったと思います。サッカーはイレブン、11人でプレーする競技ですから、15人は余裕のない部員数です。ところが、相手の八代農業高チームは10人しかおらず、初めから一人足りないハンディがあるのです。前半は3-0で多良木高校がリードして終わり、ハーフタイムを迎えました。八代農業は交代する選手もいないため、後半はこのまま点差が開き、大差になるだろう、気の毒だなあという気持ちに私は包まれました。しかし、後半の八代農業高校の選手達は1人足りない10人で、体をはって果敢にプレーし、多良木の攻撃を止め一点も許しませんでした。後半は0対0で終わり、八代農業高校の健闘が光りました。試合後、私は、八代農業高校の選手達に対して、申し訳ないというか恥ずかしい気持ちになりました。私はスポーツマンシップに反し、試合はまだ終わっていないのに、相手を見下した考えに支配されていたのです。次の2回戦は部員が70人もいる熊本北高校が相手でした。今度は一回戦とは立場が逆で、多良木高校サッカー部は、懸命に粘り、リードされても追いつき、最後PK戦までいき惜しくも敗れました。
スポーツは筋書きのないドラマだと言われます。応援する者の心が熱くなるような試合、レース、競技を今年も期待します。そして、繰り返しますが、ルールを守り、審判に敬意を表し、勝っても負けても相手を称えるというスポーツマンシップを発揮して欲しいと願い、激励の言葉とします。」
第66回体育体育大会開催
「五月晴れのもと、熊本県議会議員 緒方勇二様、多良木町町長 松本照彦様をはじめ多くのご来賓の方々、そして保護者、地域の方々に御臨席いただき、熊本県立多良木高等学校第66回体育大会を開催できますことを生徒の皆さんと共に喜びたいと思います。
ちょうど一か月前、「平成28年熊本地震」が発生し、未曾有の災害に熊本県は見舞われました。甚大な被害を受けた地域の復興は始まったばかりであり、被災地の学校では体育大会を開くことができないところもあります。こうして、体育大会を実施できることに心から感謝すると共に、立ち上がろうとされている被災地の方々に向けてここ多良木の地から元気を発信したいと思います。
今年の体育大会のテーマは「がむしゃら ~ 一瞬一秒に感動を」です。土にまみれてもいい、多少の演技のミスがあってもいい、皆さんの若さと勢いで押し通し、これまでの練習の成果を発揮してほしいと思います。併せて、大会の円滑な運営を担う各係の皆さんが責任をもって自分の役割を果たすことを期待します。そして、笑顔と歓声があふれる大会になることを願っています。
結びになりますが、ご観覧の皆様には、全校生徒に対するご声援をよろしくお願いして、開会の挨拶といたします。」
「多高生」の人文字平成28年度PTA総会
「さて、本校にとって最後の入学生である新入生73人を迎えることができました。多良木高校の歴史のアンカーを走ってくれる頼もしい生徒たちです。2年生67人、3年生64人、全校生徒204人です。30人の職員全員で204人の全校生徒を支援していきます。小規模校の特性を生かして、一人一人の生徒に寄り添い、きめ細かな指導、支援に努めていく所存です。生徒たちがもつ豊かな可能性を引き出し、学力をはじめ様々な力を伸ばし、多良木高校の教育成果を地域に広く発信していきます。
ここで、昨年度後半に保護者の皆様に御協力いただいた学校評価アンケート結果についてお話しします。
「多良木高校は保護者や地域から信頼されている」
「多良木高校は学校行事が充実している」
「多良木高校は部活動が活発である」
などの多くの項目について、保護者の皆様から、「よくあてはまる」「ややあてはまる」という肯定的な意見が90%を超えるという高い評価をいただきました。学校の教育活動への御理解の表れだと深く感謝すると共に、今年度はさらに100%に近づくよう努力していきます。
来週土曜日、5月14日は体育大会を予定しております。4月28日から全体練習を開始し、全校生徒が気持ちを一つにして取り組んでいます。どうか御観覧いただきますようお願い申し上げます。
結びになりますが、お子様のことで何か気になることがありましたら、遠慮なく担任や学年主任へ御連絡いただきたいと思います。保護者の皆様の願いと学校が目指すものは同じだと思っております。学校の教育活動への御理解と御支援を重ねてお願いして、私の挨拶といたします。」
スポーツの力で元気を発信
スポーツの力で元気を発信
4月14日(木)夜の「熊本地震」発生以来、2週間以上経過しました。いまだ熊本地方では余震が続き、多くの方が避難生活を余儀なくされていることに胸が痛みます。そして、熊本市をはじめ県全域で24校もの県立学校が休校状態(4月27日現在)です。被害が大きい学校は、5月の大型連休明け以降に授業再開がずれ込むところもあるようです。
球磨郡はこの度の地震災害の被害をほとんど蒙ることなく、小、中、高校ともに平常の教育活動が展開できています。そのため、被災地から小、中学生が球磨郡の学校に転校してくる動きも見られます。また、被災地の公立・私立の高校に通学している球磨郡出身の生徒が一時帰省しています。そして、体育系部活動の練習を長くできていない高校生が、本校の部活動練習への参加を希望するケースも出てきました。保護者もしくは所属校からの依頼を受け、安全面に配慮して、柔軟に対応しています。陸上、バスケットボールで本校生と一緒に練習する生徒の姿からは、自分の好きなスポーツをできる喜びが感じられ、本校の生徒にとっても豊かな交流の機会となっています。また、被災した大学の野球部員が本校の野球場で自主練習に励む光景も見られます。本校の恵まれたスポーツ環境を活かし練習や合宿の場を提供することで、被災地の学校及び生徒の皆さんに対して多良木高校ならではの支援ができるのではないかと考えます。
4月29日の祝日には、本校をはじめ球磨人吉地域の4つの高校の女子バレーボール部が集まり、合同練習試合を行いました。本校は被災地に水を送る支援活動を行い、今後は生徒会で募金活動を予定しています。しかし、高校生の本分である学習活動や部活動に真摯に打ち込むことこそが、被災者の方に明るい気持ちになってもらえる最大の「支援活動」になるのではないかと思います。
スポーツを通して元気を発信しよう、との合い言葉のもと多良木高校の各部活動はこれまで以上に声を出し、気持ちを奮い立たせています。
女子バレーボール練習試合(多良木高校第1体育館)
被災地に球磨の水を送る ~ 「熊本地震」支援活動
被災地に球磨の水を送ろう ~ 「熊本地震」被災地支援活動
4月20日(水)の朝、「熊本地震」の被災地の一つである西原村に水を送る支援ボランティアに多良木高校として取り組みました。多良木高校同窓生の方から、水不足で困っておられる西原村の避難所に水を運びたいとの協力依頼があり、学校として支援ボランティア活動を始めたのです。前日、全校生徒に「1㍑か2㍑のペットボトルに家庭の水道水を入れて持ってくるように」と呼び掛けました。当日朝、生徒だけでなく、保護者の方や、話しを聞きつけられた近隣の住民の方もペットボトルの水を持参され、およそ千㍑の水が集まりました。 午前8時半過ぎに、生徒会の生徒や1年1組体育コースの男子が中心となって、車に積み込みました。
多良木高校の「水」は約5時間かけて運ばれ、西原村小森の避難所である山西小学校に届けられました。被災された方々が大変喜んで受け取ってくださったそうです。ペットボトルの一部には、生徒会の生徒によるメッセージがマジックで書き込まれていたのですが、それを読まれた高齢のご婦人が涙を流されたそうです。
4月14日(木)の夜の大地震発生以来、甚大な被害が出ている「熊本地震」。ニュース映像で見る上益城郡、熊本市、阿蘇地域の被災地の様子には言葉を失います。現在、被災地では余震が頻発し、震災は長期化の様相を呈しています。出口の見えない状況で、被災者の方の疲労が心配されます。
この非常時、同じ県民として、「気持ちを一つにしよう」と4月18日(月)の臨時全校朝礼で生徒に語りました。今、高校生が被災地に赴くことは危険であり、現実的ではありません。しかし、今回のように運送手段さえ確保できれば、「水」という最も必要とされているものを、生徒一人ひとりが持ち寄り積み込むという簡単な行為で、被災地を応援することができます。遠隔地にいる高校生と被災者の方との気持ちをつなげることができます。今後も、地域の役場等と連携して、被災地に球磨の水を送る活動を続けていきたいと思います。
水を車に積み込む多良木高校生
気持ちをひとつに ~ 「熊本地震」にかかる緊急全校朝礼
「ただ今、黙祷を全員で行いましたが、多くの犠牲者、そしてまだ把握できていないほどの負傷者、家屋の被害など今回の地震災害は熊本県に大きな爪痕を残しました。益城町をはじめとする上益城郡、熊本市、阿蘇、宇城地方が受けている被害は甚大で、私たちの想像を絶するものです。同じ熊本県に暮らす者として、気持ちを一つにするため、こうして全校朝礼を行いました。
皆さんに二つのことを伝えます。
一つは、普通の生活のありがたさをかみしめよう、ということです。被災された方々が口をそろえて、「早く普通の生活に戻りたい」と言われている様子をニュース映像が伝えています。蛇口をひねったら水が出る、スイッチを入れたら電気がつく、お風呂に入れる、食事ができる、自分の部屋で眠ることができる、これらの普通の生活ができることは実は多くの人の力で成り立っているのです。それを普段、私たちは意識していませんが、いったん災害が起こるとそれらは瞬時に断ち切られます。今日、こうして多良木高校が平常の学校活動ができることを皆さんと共に感謝したいと思います。
もう一つは、自然災害を正しく恐れる、ということです。地震は、今の科学技術では予知不能でいつ起きるかわかりません。次はこの球磨郡で巨大地震が発生するかもしれません。しかし、その時パニックにならないよう、基本的な知識や心構え、準備をしておくことが必要です。自宅に、非常用の水、食料、懐中電灯が用意してあるか、家族で確認してください。学校は、平成22年度から耐震化工事を進めてきています。皆さんが主に生活する教室、体育館などは今回の震度6から7クラスの大地震にも耐えられます。しかし、大きな揺れが治まったら、各自でグラウンドへ避難しましょう。もし帰宅できない状況になっても、本校のセミナーハウス、平成7年度につくられ、耐震性に優れた建物ですが、ここに宿泊することができます。
結びに、もう一つ皆さんに伝えておきたいことがあります。災害が起きたとき、皆さんは弱者ではありません。子どもやお年寄り、障がいのある方を助ける方に皆さんはまわらなければなりません。東日本大震災の時にも、災害で多くのものを失い、落ち込んでいる大人に対し、気力、体力を備えた高校生がとても頼りになったそうです。
何が起こっても、自分の気持ちをしっかり持って、仲間同士助け合っていけば、困難を乗り越えることができるという覚悟で生活していきましょう。」
安全・安心な学校づくり ~ 「熊本地震」発生
安全・安心の学校づくり ~ 「平成28年熊本地震」発生
平成28年4月14日(木)の午後9時半近くでした。職員住宅の部屋で寛いでいた私は、携帯電話の地震発生情報メール音に驚き、その直後の大きな揺れに動揺しました。夜の静寂(しじま)を破る突然の地震。揺れは数十秒で治まりましたが、その後も余震が続き、不安な夜を過ごすことになりますが、その頃、震源地の益城町や熊本市では震度6から7の激震に襲われ、7人の方が亡くなり、多数の負傷者、そして建物の損壊と大惨事が発生していたのです。被災地では慟哭の情景が広がっていると思うと、胸が痛みます。気象庁は「平成28年熊本地震」と翌日に発表しました。
人吉・球磨地方は最大震度3程度で済んだため、被害はほどんどありませんでした。多良木高校も、翌日は平常の教育課程を実施でき、テレビ画面に映る益城町や熊本市の惨状が同じ県内のものとは思えませんでした。しかし、地震の脅威をまざまざと思い知らされた次第です。
学校は安全、安心な場所でなければなりません。多良木高校では平成22年度から校舎の耐震化工事を計画的に進めてきました。すでに、生徒が主に学校生活を過ごす教室棟、理科棟、そして体育館等は完了しています。残る昇降口棟と玄関棟の耐震化工事を今年度行う予定で、これで全て終わることになります。昇降口棟の工事に先立ち、教室棟から第1体育館への仮設渡り廊下も竣工して、生徒が利用しています。
耐震化工事期間中は、安全面に最大限配慮すると共に、生徒の学校生活への影響をできるだけ防ぐ方針で取り組みます。今回の「熊本地震」を受け、生徒諸君にとっても改めて耐震化工事の重要性を認識してもらえるものと思います。地震、台風など大自然の脅威はいつ顕在化するか、人智の及ぶところではありません。5年前の東日本大震災の時に、私たち日本人は、自然の猛威に対し、畏れ、おののいた体験を持ちます。その体験が次第に風化してきたように感じてきた今、「熊本地震」が発生しました。大地震の前に無力感を覚えますが、やはり、災害への不断の備えに努めることが私たちの責務です。
安全な学校であってこそ、安心して生活できます。耐震化工事をはじめ、今年度も安全・安心な学校づくりに努めたいと決意を新たにしました。
輪になって食べよう ~ 対面式
輪になって食べよう ~ 対面式
新入生と2、3年生との対面式を4月12日(火)に第1体育館で行いました。生徒会の計画、運営で行われるもので、今年度は新たな企画として、「多良木高校○×クイズ」を実施した後、カレーライスの昼食を全校生徒で楽しみました。カレーライスは、前日から家庭科の先生方の指導のもと有志生徒が準備しました。最初は全校生徒204人と職員で、体育館で大きな車座となっての昼食を考えたのですが、クラスの親睦を重視して、クラス毎で輪になっての食事となりました。今年度は各学年2クラスですから、6つの輪が体育館にでき、その輪に担任、副担任等がそれぞれ入り、和やかな昼食風景となりました。
古来、祭礼の時に食事を皆で一緒になってとる行為は、神の前に集団が一致結束することを誓う儀式でした。今回、生徒全員で一堂に会して昼食を取ったことは、新入生が名実共に多良木高校生になったことを示す行事でもあるのです。そういう意味では、生徒会は、まさに古式ゆかしい対面式を実現したことになります。
「環に端無し」という言葉があります。環(輪)に端はありません。クラスで一つの輪になることは終わりのない友情を築くことにつながります。6つの輪を眺めながら、一人ひとりに心地よい居場所のあるクラスをこれから創ってほしいと願いました。
最後の入学式 ~ アンカーへの期待
「新入生の皆さん、皆さんは多良木高校の期待と注目のアンカーです。アンカーを走ることで他の学校ではできない多くの特別な体験ができ、同窓会や地域の方々の熱い応援を受けることでしょう。皆さん、一緒に走り、三年後に感動のテープを切りましょう。
多良木高校は地域と共に在ります。日本遺産にも認定された歴史豊かでおもてなしの文化が息づく人吉、球磨地域全体が学びの場です。
《中略》
さて、式典の最後に、二年生、三年生の先輩諸君と私たち教職員、そして同窓会の方々とで高らかに校歌斉唱を行います。人吉出身の音楽家として名高い犬童球渓作詞の校歌であり、昭和三年に作られました。以来、およそ九十年にわたって世代を結び、歌い継がれてきました。多良木高校の精神とも言うべきこの校歌を新入生の皆さんにつなぎます。歌詞は古文調で少し難しく感じると思いますが、高校生活を送る中で次第に意味がわかり、多良木高校の精神を身に付けていくことでしょう。歓迎の校歌斉唱を心で受けとめてください。
いよいよ高校生活が始まります。今の初々しい気持ちが原点です。学校は学びをとおした人間成長の場であります。皆さん、一日一日を大切にしていきましょう。」
肥薩線「山線」に乗る ~ 明治の鉄道遺産を訪ねて
肥薩線「山線」に乗る ~ 明治の鉄道遺産を訪ねて
人吉・球磨地域にある五つの県立高等学校は、いずれも鉄道の駅から徒歩10分以内の位置にあり、通学にはとても便利な条件を備えています。自動車社会の今日においても、鉄道の安定性、公共性は何物にも代え難いものがあります。くま川鉄道、JR肥薩線に時折乗車する機会がありますが、車窓風景を楽しみながら、安心して列車の揺れに身体を委ねることができます。
人吉・球磨地域は昨年「日本遺産」(文化庁)に認定された歴史豊かな地域で知られますが、実は、明治や大正の「鉄道遺産」が多く残っていることでも有名です。高校の校長として地域のことをより深く知りたいと願い、春休みの半日を使い、肥薩線の人吉駅から吉松駅までの往復列車の旅を体験しました。
熊本県八代市から鹿児島県霧島市(隼人駅)までを結ぶ肥薩線は明治42年に開通した路線ですが、中でも人吉駅から吉松駅(鹿児島県湧水町)の35㎞の区間は、21カ所のトンネル(隧道)がありスイッチバック、ループ線など難所の山越え路線で名高く、鉄道ファンから「山線」と親しまれています。
人吉駅を出発した観光列車は、急勾配の山線をゆっくりと進みます。明治末期に造営、開業されたままの姿を残す大畑(おこば)駅、矢岳(やたけ)駅、真幸(まさき)駅と停車します。どの駅も山間の無人駅ですが、温かみのある木造で、塵一つ落ちておらず、地元の方が大切に守っておられることが伝わってきます。また、矢岳と真幸の間にある矢岳第一トンネルは肥薩線の最長(2096m)のトンネルですが、明治42年開業以来、石造りの堅牢な姿で百余年も現役として存在していることに驚かされます。併せて、山奥での大工事は資材運搬をはじめ大変な労苦があったことが想像に難くありません。
矢岳第一トンネルの人吉側には、当時の逓信大臣・山縣伊三郎の揮毫で「天険若夷」(てんけんじゃくい)、吉松側には、鉄道院総裁・後藤新平の揮毫で「引重致遠」(いんじゅうちえん)の扁額が取り付けられています。これらの言葉をつなぐと「天下の難所を平地であるかのように工事したおかげで、重い貨物であっても、遠くまで運ぶことができる」という意味になるそうです。
人吉駅から吉松駅までの肥薩線、通称「山線」を約3時間掛け往復してみて、鉄道遺産に込められた明治の先人の気概、志に触れることができ、何か厳粛な思いに包まれました。
肥薩線矢岳駅(明治42年開業)
学校の桜
学校の桜
4月1日、多良木高校に新たに6人の教職員の方が転入してこられました。坂本道彦教頭先生、緒方真代先生(国語)、高山裕先生(地歴)、事務の宮原雄翔先生、吉田七海先生(商業)、学校図書館事務職の松本麻衣子先生です。今年度の多良木高校の教職員は全員で30人となります。仲間と一緒にこれから1年間、苦楽を共にしていくことになります。職員室の座席のレイアウトも一新され、学校もいよいよ動き出しました。
学校は3月末から4月初めにかけて人事異動と新学期の準備等と最も慌ただしい時期となります。そのため職員はゆっくり花見もできにくい状況です。しかし、学校には必ず桜があります。およそ日本の学校で校庭に桜が一本も植えられていない所はないでしょう。私たち教職員の花見は校庭の桜です。桜の花を見て、旅立った卒業生や入学してくる新入生を思い、新年度が始まることを実感します。
桜は日本人にとって特別な花です。冬を越え、ようやく到来した春の象徴であり、しかもその開花期間は短く、惜しむように愛でることになります。社会の国際化に伴い、日本の学校入学時期を世界の大勢に合わせて9月入学にしたらどうかという議論が久しく行われてきました。しかし、多くの支持が得られずにいる要因として、校庭の桜のもとで新入生を迎えたいという日本人の心性があるのではないでしょうか。
多良木高校の校庭にも桜が幾本かあります。この週末に満開を迎えましたが、昨夕からの雨でもう散り始めました。本校の入学式は4月8日です。入学生が桜の花を見ることはできないでしょう。はらはらと散る桜を見て佇んでいると、古歌に言う「しづ心(静心)なく花の散るらむ」の心境となります。
登録機関
管理責任者
校長 粟谷 雅之
運用担当者
本田 朋丈
有薗 真澄