校長室からの風(メッセージ)

エンブリー夫妻と「須恵村」を考える

エンブリー夫妻と「須恵村」を考える
~ エンブリー夫妻来日80周年記念シンポジウムに参加して ~

  ジョン・エンブリーとその妻エラ夫人のことを知っていますか?

  エンブリー夫妻は、今から80年前に当時の球磨郡須恵村を訪れ、1年間居住して村人と交流を重ねました。夫のエンブリーは、シカゴ大学の社会人類学研究者で、1935年(昭和10)から1936年(昭和11)にかけて夫人と共に須恵村で暮らし、村の日常生活を中心に観察と記録を行いました。外国人が珍しい時代、恐らくエンブリー夫妻は村及び近郷で驚きと好奇の眼差しで注目されたことでしょう。しかし、1930年代、日米関係が険悪化していく背景があったにも関わらず、村人は疑心なくエンブリー夫妻に接し、交流は深まっていったようです。帰国後、ジョン・エンブリーは、須恵村の人々の生活と社会を描き出した民俗誌である『Suye mura』を刊行し人類学の博士学位を取得しました。

  エンブリーの『Suye mura』は、正確な場所と時間を背景に一つのコミュニティ(共同体)の事実を集積した記録遺産として学界では高い評価を得ました。しかしながら、エンブリーその人が交通事故で42歳という若さで亡くなったこともあり、一流の知日派であったにもかかわらず次第に忘れられていきました。一方、日本語が堪能だったエラ夫人は、戦後も三度にわたって須恵村を訪問し、村民と旧交を温めました。けれども、2003年(平成15)に須恵村は周辺の町村と合併してあさぎり町が誕生するなど時代は変化し、地元でもエンブリー夫妻のことを知る人は少なくなりました。

  1217日(土)、あさぎり町須恵文化ホールで開催された「エンブリー来日80周年記念シンポジウム」では、韓国ソウル大学名誉教授(文化人類学)の全京秀氏が、「エンブリーの『Suye mura』は他に類を見ない記録遺産であり、残された1608枚の写真資料はかけがえのない貴重な歴史資料で、これをさらに研究し活用していくことが大切」と基調講演で訴えられました。続いて、琉球大学の武井准教授(歴史)と神谷准教授(社会人類学)の個別発表が行われ、会場は熱気に包まれました。

  80年前の異国の学者夫妻と須恵村の人々との交流から生まれた遺産を私たちは再認識して、次代に継承していく知恵と行動が求められています。 

                  エンブリー夫妻旧居跡の記念碑