学校生活ブログ
課題研究発表会に参加して (^^♪
3年生の課題研究の発表会を、全科とも少しずつ見学させていただきました。1年間の取組を、わずか10分程度の中で後輩たちにも分かりやすくプレゼン(発表)することはとても難しかったことと思います。しっかり練習されていると感じられる班、そうでもない班それぞれでしたが、課題設定の理由、取組経過、苦労した点、感想等を上手に盛り込み堂々と発表している班が思いのほか多いように見受けました。また、バックグラウンドミュージックを小さく流したり、効果的にアニメーション機能を使って聞き手の注目を集めたりなど、様々な工夫を凝らしたものがありました。さらには、フリップの付箋紙をめくって隠れていた文字が現れるというテレビの演出を最近よく目にし、一度はそんなプレゼンをしてみたいと私自身ずっと思っていたのですが、今回そのような演出をした班もあり、高度な技法に驚きました。 3年生の皆さん。進学にしても就職にしても今後プレゼンをする機会は多いはずです。中には、会社の命運をかけたプレゼンをすることになる人もきっといることでしょう。そういう良い点はどんどん取り入れ、プレゼンの技に磨きをかけていってほしいと思います。御指導いただいた先生方には大変お世話になりました。
ところで、どういう文脈だったか覚えていませんが、幸福論を扱った本に「日本人は課題を見つけそれを解決するための取組を行うことに幸せを見い出す民族である・・・」との一文を読み、思わず「そうだよね!」って頷いたことがあります。 その一文を念頭において、平成12年度から段階的に始まった学習指導要領で小・中・高校に入ってきた「総合的な学習の時間」(専門高校では「課題研究」で代替)のねらいを改めて読み直してみます。
横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。
何と小・中・高校同一文言で、課題を解決する中で身に付けた能力を、自己の生き方を考える態度まで繋ぐことを期待しています。なるほど、それがうまくいけば、その達成感に人は喜びや幸せを感じるんだろうな・・・、そう言えば不屈の闘志で様々な困難を解決していった無名の男たちを扱ったドラマ、プロジェクトXも凄い視聴率を集めていたな・・・と、漠然と納得してしまいます。
話は変わりますが、本校生の多くが就職する製造業の生産現場では、「カイゼン」活動が活発に行われていることを見聞きしている人も多いはずです。いわゆる「改善」のことで、作業効率の向上や安全性の確保などに関して、現場の作業者が中心となって問題点を見つけ、知恵を出し合いその解決をはかっていくものです。この概念は海外にも「kaizen」という英単語で広く普及し、とくにトヨタ自動車のカイゼンは有名で高く評価されています。 活動内容としては、3年生の皆さん方が1年間取り組んできた課題研究のイメージで捉えてもらっていいかと思いますが、課題研究ではそれほど強く言われなかったかもしれないことが一つだけあります。それは、どれだけのコスト削減に繋がったか、即ち結果を数字で表現するなど定量的であることが求められることです。 私自身昔、ものづくり企業に勤めていたことがあります。手元にわずか残っていた当時の資料にカイゼンの進め方が載っているものがありました。この手順はある意味、普遍的なものであり、課題研究でも同様なプロセスを踏んでいるはずです。入社を控えている3年生の皆さん方のために参考までに載せておきます。
問題提起(違和感即ち問題意識を感じる)→問題確認(問題を具体化・定量化し解決すべき問題を明確化する)→目標設定(問題が解決された状態を暫定的に決め、その測定手段を明確化する)→原因分析(問題の原因を特定)→改善策立案(原因を除去する解決策を複数立案)→改善策評価(複数の解決策から1つの解決策を決定)→実行計画作成(解決への段取りを考える)→実行(解決策を段取りに沿って進める)→評価(解決状況を評価し数値化する)
脅(おど)すつもりはありませんが、企業に入ったら勤務時間の内外を問わずこの「カイゼン」活動にかなりの時間を割かざるを得ないことが多いにありえます。特にプレゼンの前は、遅くまで残って練習をすることもあるはずです。職場の班単位で競うことが多く、指導役の班長さんがハッスルして若い社員を鍛えます。社長賞とか部長賞とか懸っていることも多く、報奨金まで出るので熱が入るのです。何歳になっても大変です!
そういうことで、企業在職中にカイゼン活動の経験があるからでしょうか。課題研究の発表会を聞いていると、ついこのような感慨に耽ってしまいます。それは・・・、加工貿易(原料や半製品を他国から輸入し、それを加工してできた製品等を輸出する貿易の形態)で立国することが宿命づけられた我が国の産業界(製造業の経営者たち)の要請で、カイゼン活動のための経験値獲得を期待されて、「総合的な学習の時間」などが学校に導入されたのではないかという思いです。深読みし過ぎでしょうか? 【校長】 |
)^o^( 卒寮式が行われました
今年度は34人の3年生が亀川寮を巣立ちました。
始めに西校長先生より、卒寮生に対し亀川寮で培った規則正しい生活習慣を、社会に出ても忘れずに頑張ってもらいたいと激励の言葉をいただきました。
在寮生代表の先輩方に対するお礼を込めた送辞
後輩たちへ期待を込めた答辞を述べる卒寮生代表
後輩たちから卒寮生へ記念品が贈られました
毎日おいしい食事を作っていただいた寮夫さんへお礼の品を手渡す卒寮生
最後は3学年主任の先生の音頭取りで万歳三唱で会を閉じました。
卒寮文集を読んで (^^♪
1月31日、午後4時から天草地域共同寄宿舎男子寮亀場寮で卒寮式が行われました。卒寮生一人一人について津田舎監長から短いコメントを頂いた後、後ろに御着席の保護者や寮父の大塚さんに対して卒業生が一言ずつお礼の言葉を述べていました。 卒寮生の足元には全部で41頁からなる卒寮文集が置かれていました。毎年これを読むのを楽しみにしているのですが、3カ年間、実に色々なことがあったことが行間から読み取れます。今年も幾つか名文がありました。 土木3年の松村君は「日本全国、いや世界、いや火星の寮を探しても亀川寮にかなう寮はないでしょう、銀河一楽しい寮で良かった・・・」とあり、楽しかったことや面白かったことがきっと多かったのでしょう。一方、機械3年B組の小林君は「最初の頃は早く寮を出たいとばかり思っていた・・・」とあり、辛いことや嫌なことを沢山経験したのだと思います。中には、土木3年の萩山君が清少納言の枕草子の中から「春はあけぼの」をもじって次のようにパロディ調に思い出を綴っており、愉快に読ませていただきました。 春はあけぼの。やうやう暖かくなりゆくこの季節、新しい出会いと生活を迎えることになり、我々3年生もこの寮を引っ張って・・・・・・。夏は夜。月の頃はさらなり、虫の声が美しく聞こえてくる時、寮でのレクレーションも増えてきて・・・・・・。秋は夕暮れ。夕日がさす頃、3年生は受験or試験の時期となり、良い成績ではなかった私は・・・・・・。冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにあらず。・・・・・・クリスマスの時の夜ご飯は豪華でとてもおかしく、いとをかし。・・・・・・ 枕草子で思い出します。これ、どの段から読んでも結構面白く読めるのですが、心の中に鬱屈したものを持っている時には、あまりにも屈託なくよいものをよい、面白いものを面白いと言って笑う筆者の姿勢についていけない気がします。事実、萩山君がパロディ化した第1段「春はあけぼの」からして、何かしら挑発的と思いませんか?得体の知れぬ反発を呼び起こすというか・・・。そんなことを考えたことありませんか。 文学作品というのは、読み手の精神状態を一顧だにせず書かれていますので、どれも少なからずそういうことはあるものですが、自由自在に現象や時間を切り裂いていく清少納言の感性についていけないひがみかもしれません。ただ、私以外の人がそういうことを話しているのを聞いて、自分一人だけではなかったのだと安心したことがあります。 ところで、昨日来の百人一首の話と直接は関係しませんが、清少納言は百人一首の中にも和歌が選ばれており、親子2代で入選している18組の中の一人でもあります。ちなみに、親子孫3代に渡って選ばれているのは唯一、71源経信(夕されば)-74源俊頼(憂かりける)-85俊恵法師(夜もすがら)だけです。しかし、清少納言から見てひいおじいちゃんに当たる清原深養父(きよはらのふかやぶ)が入選していることも考え合わせると、36[曽祖父]清原深養父(夏の夜は)-○-42[父]清原元輔(契りきな)-62[本人]清少納言(夜を込めて)の関係は、1代中ぬけの3代と言ってもいいかもしれません。 なぜこのような話を持ち出したかというと、清少納言のお父様、清原元輔は、熊本にとても縁がある方であることを言いたかったからです。生徒の皆さん、知っていましたか?三十六歌仙の一人にも数えられる清原元輔は、肥後の国司(今でいう県知事みたいなもの)として朝廷から任じられ、はるばる京都から赴任して、寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間、肥後の国を治め、正暦元年に83歳でこの地で没しています。 何と清原元輔を祀ったその名も「清原神社」が熊本市内にあります。熊本駅から東の方向に歩いて15分、春日1丁目にある北岡神社の北隣に所在します。私は正月3日にその神社を探し出してお参りしてきました。右はその時に撮った写真です。 清原神社から私が授かったパワーが土木3年の萩山君に伝わり、枕草子をパロディ化しようという気になったのなら凄い偶然です!? 【校長】
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百人一首競技県大会第2部最優秀賞受賞の報に接して (^^♪
27日(日)、本校生徒3人が熊本西高校で行われた小倉百人一首の県大会に参加していることは承知していましたが、校内で練習をしている様子を一度も目にしなかったこともあり、特に期待はしていませんでした(ごめんなさい!)。そういうこともあり、当日は城南地区高校駅伝大会が午後2時前に終わり、帰校後はグラウンドで練習をしていたソフトテニス部やソフトーボール部の様子を見守った後、借りてきたDVDを見ながら家でゆっくりしていました。県大会のことなどすっかり忘れて見入っていたまさにその時、「最優秀賞」を獲得したとの一報が入りました。2学期の終業式で認知症を例にお話した通り、最近は怖いぐらい偶然が重なること多いです。何とその時見ていたのは、競技かるたに青春を懸ける高校生の物語「ちはやふる」だったからです。これは一体どういう因果でしょうか!? それはともかく、電気科2年の原田君、山下君、渡邉君並びに御指導・引率をしていただいた原田先生、誠におめでとうございます。1週間前の修学旅行の時もかるた持参で練習をしていたと伺いましたが、その成果が見事に発揮できましたね。
かるた部。私は30年前、本県教師としてスタートを切った高校で3年間顧問をしていました。赴任当日、「是非かるた部の顧問をお願いします」と教頭先生から依頼され、とても困惑しました。前の顧問が異動になり、引き受け手がいなくなったと伺いました。当時、その高校は県大会で2、3位に常連する強豪校であったこともあり、「とても務まりません」と固辞しました。すると翌日、キャプテンが機械科の職員室を訪ねて来て、「このままでは廃部になります」と涙目で懇願されました。引くに引けない状況になったわけです。それからです。弓道部の初心者が藁俵を相手に所作の練習をするように、1年生部員と一緒になって一から百人一首の勉強を始め、数ヶ月後には練習のための札の読み上げで喉が枯れるまでになっていました。
ところで、本校はクラスマッチで百人一首の種目があり、毎学期それなりに盛り上がっていますから以下の説明は不要でしょうが、念のため。「小倉(おぐら)百人一首」、「小倉」とは北九州の小倉(こくら)のことではなく、京都の嵯峨の小倉山(おぐらやま)のことです。平安時代後期、藤原定家(さだいえorていか1162~1241)が、知り合いの人から、山荘の障子に貼る色紙の作成を依頼され、飛鳥時代の38代天智天皇から鎌倉時代の84代順徳院まで、およそ450年間の中から100人の歌人の優れた和歌を一首ずつセレクトし、年代順に色紙にしたためて贈ったそうです。その作業を行った山荘が、秋の紅葉が綺麗で、今はすっかり修学旅行のメッカになっている渡月橋(とげつきょう)で有名な京都の嵐山の近くにある小倉山にあっからそう呼ばれています。
話を戻します。私はこのようにかるた部顧問をきっかけに、次第に万葉集や古今・新古今和歌集と歌の世界が広がっていきました。そして、「日本人は国ができる神代の頃から、大いに泣き、大いに歌ってきた民族だったんだ」ということを知りましたし、平安王朝以後の和歌の中に、花や月、紅葉のうつろいに心を託して歌う美意識を、武士が覇権を握り戦乱の世では、いかに美しく死に際を飾れるかという辞世の歌に心を奪われていきました。 凝り性なのかもしれません。次第に、いにしえの歌人たちにも興味をもち始め、例えば百人一首の編纂をした藤原定家とはどういう人だったのかといったことを調べるようになりました。生徒の皆さん、百人一首では「97来ぬ人を・・・」と女性の身になって詠んでいますが、その定家、どのような人だったか知っていましたか?当時の様々な記録から浮かびあがる定家像は、そばにいたらまず仲良くしたくないタイプの人だったようです。頑固で我が強く、プライドが高くて才能はあるけれど、自分が信じる歌の道が正しいと信じて疑わず、それに抵触するとなれば時の帝(後鳥羽院)にすら暴言を吐いていたようで、宮中に出入り禁止になった記録も残っています。世渡りが下手だったんでしょうね。
現在はネットを検索すると、Wikipediaを始め玉石混淆・百花繚乱の何十・何百ものサイトが瞬時に出てきて、様々な知識をたやすく得ることができるわけですが、当時はそんな環境はありませんでした。アナログ真っ盛り。県立や市立の図書館だけが頼りでした。苦労はしましたが、色々調べるうちに、歌人同士の繋がりが点から線、面となっていくのは至福のひと時でした。 また、例えば「(90嘆けとて・・・の西行など)この歌人にはもっといい歌があるのに、なぜ定家はこちらを選んだのだろうか」と考えたり、「有心美」(深い情趣の中に風雅な余情をたたえ、妖艶な美しさを追求する優美な歌体のこと)などと難しい言葉で評される定家の美学ですが、実は白フェチだったのか?と思いを巡らせたりと・・・。(2白妙の衣干すてふ、4白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ、6置く霜の白きを見れば、15我が衣手に雪は降りつつ、29初霜の置きまどはせる白菊の花、31吉野の里に降れる白雪、37白露に風の吹きしく、64朝ぼらけ宇治の川霧、76雲居にまがふ沖つ白波、91鳴くや霜夜のさむしろに、97焼くや藻塩の:このように約1割の歌が白を連想させ、先述のように97は定家の作です)
そうこうするうちに、そんな定家を育てた父、藤原俊成(としなりorしゅんぜい:1114~1204)はどういう人だったのかと興味を持つに至ったのは自然の成り行きでした。後鳥羽院、式子内親王、藤原良経・・・といった新古今時代の主だった歌人の師匠で「和歌界のゴッドファーザー」と言ってもいいと思います。(詳細はここでは省略します) そしてついに、この歌に出会いました。これは、定家の母であり父俊成の最愛の妻であった美福門院加賀(みふくもんいんのかが)が亡くなり、後に残された俊成が、忍ぶ恋から始まり熱烈な恋愛の末に成就させ、夫婦として共に歩んできた道を振り返り、涙にくれているのがその背景です。
まれに来る 夜半も悲しき 松風を たえずや苔の 下で聞くらむ この歌がつくられた事情などを説明する詞書(ことばがき)によると、一周忌の夜、俊成は妻が眠る墓所にあえて宿をとり、記憶の中の妻と再会するように一夜を過ごした時の歌とされています。春とはいえ、私のようにたまに訪れる夜でも、冷える夜の風が松の枝を吹き鳴らすばかりだ。亡き妻は苔(こけ)むした墓の下でこんな悲しい音を毎夜聞いて、ひとりでねむっているのか・・・。
この歌は、私が最近の短歌まで含めてこれまで出会った数ある挽歌(死者をいたむ歌)の中でも最もかなしいものです。 生徒の皆さん方は、お墓参りに行ってもまだ自分のお墓を意識することはないかもしれません。しかし、ある程度の年齢になり、多くの人を見送り、墓に参拝もするうちに(まだまだ旺盛に日々活動をしている時かもしれませんが)、ふと目を閉じるといつかは自らの命も終わりをつげ、墓石の下にねむることに思いをはせる日がきっとくることと思います。人生で最も大きなかなしみは、長年連れ添った伴侶に先立たれてしまうことだと言われています。現代でもそのストレスが健康に及ぼす影響に警鐘を鳴らす心理学者は多数いるわけですが、いかがでしょう。この歌、胸がふさぎませんか?
定家は父俊成が48歳の時の子どもとされています。俊成は前妻との間に子どもが授からず養子をとっていたようですが、加賀との間に後継ぎになる定家が生まれ、その喜びはいかほどであったか想像に難くありません。(何とその養子は、いたたまれなくなったのでしょう。定家の誕生後出家しています。そのことはさておいて)父俊成のこのような豊かな情感を定家が受け継ぎ、両親から深く愛されて育った定家だからこそ、百人一首ができあがったのかと思うと、色々なことがすっきり納得できます。 ちなみに、定家自身も母が死んだ年の秋、以前住んでいた所に行って、次のような歌を残しています。
たまゆらの 露も涙も とどまらず 亡き人こうる 宿の秋風 玉のような草木の露も私の涙も、ほんのしばらくの間もとどまらないでこぼれ落ちるよ。亡き母を恋しく思って過ごすこの宿に吹く秋風のために。 母が亡くなったとき定家は31歳、俊成は79歳でした。かたや母、かたや妻、同じ人を亡くした悲痛な心の調べ、どちらも心に突き刺すように迫り来ます。
俊成・定家の時代から900年近い歳月が流れ、時代の変遷とともに歌の詠みぶりが変わっても、普遍のことがあるように思います。一つは、歌は喜びを高らかに歌い上げることも多々ありますが、かなしみの器(うつわ)として用いられることが多いということです。そしてもう一つは、かなしむ人を美しいと思う日本人の感性です。歌の中に秘められた思いを想像し、共感して涙をもよおす心、これは感性がなせるものでしょうが、これもまた美しいと思います。 今、これを書きながら思い出したことがあります。数年前NHK紅白で歌われ、日本中が涙した「千の風になって」という新井満さんの歌です。「私のお墓の前で泣かないでくださいそこに私はいません眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています・・・」という喪失の悲しみいやす死者からのメッセージ、この詩のルーツはアメリカにあるそうですが、昔から洋の東西を問わず人はお墓の前で亡き人を偲んで泣いていたのでしょう。殺伐とした現代だからこそ、皆さん方にはそのようなかなしむ人を美しいと思う感性を高めてほしいと願っています。
最後にこのことも。これまであまり百人一首など興味なかった人たちへ。本校生が最優秀賞を受賞したこの機会に、日本が世界に誇る文化遺産ともいえる百人一首の世界に飛び込んでみてはいかがでしょうか。和歌はわずか三十一文字ですが、その中にあらゆる感情を打ち込んでくる力業ですので、そこに含まれる情報量はもの凄く多いです。ちょっと気のきいた人なら一つの和歌を題材にして小説がかけてしまう位の情報量といってもいいと思います。一つ一つが短編小説と言ってすら過言でありません。きっと楽しいはずですよ!
そして、県大会で最優秀賞に輝いた3君へ。百人一首に関してはかなりの力を持っているものと思います。でも恋の歌が43首もありますよね。どれにも属さない雑が19首、春夏秋冬それぞれの季節を題材にした歌が数首ずつ、それ以外には旅情を詠んだ歌や離別を詠んだ歌もあるわけですが、とにかく恋歌が多過ぎます。私もそうでしたが、そのうちに食傷気味になりかねません。そこで提案です。パロディや応援歌を作ったり、後朝(きぬぎぬ)の歌であれば返歌を作ったりするなど新しい楽しみ方を広げてみてはいかがでしょう。勿論、古語ではなく俵万智さんが広めたような口語短歌でOKです。そうは言っても、電灯も暖房も布団も自動車もない時代の妻問婚の逢瀬は、実際、想像することすら難しいのですが・・・。ひょっとして返歌を贈られた平安の歌人たちが目を覚ましたりして!? できれば百人一首を踏み台にして、古典の世界に一気に飛び出してほしいと願っています。異空間の劇を見ているようで、それでいて私たちの祖先をぐっと身近に感じられるようになるはずです。伊勢物語なんか最高です。今日、助動詞の活用など難解で煩雑な文法の解説には全く触れず、現代語訳だけで十分に楽しめる本がたくさん出版されています。本校の図書館にもまぁまぁ揃っているようですし、読みたければリクエストすれば入れてもらえるはずです。
百人一首には格別の思い入れがあるので、今日はとんでもなく長くなってしまいました。ここまで読んでくださりありがとうございました。 【校長】 |
小倉百人一首競技大会 最優秀賞獲得
第38回熊本県高等学校小倉百人一首かるた競技大会が1月28日(土)に行われ、電気科2年の3名が出場しました。昨年は決勝戦でわずか1枚差で敗れてしまったので、今年は雪辱を果たすべく試合に臨みました。1試合目の練習試合では、昨年敗れた東稜高校Aに7枚差で敗れ、気を引き締めました。2試合目、真和高校A戦は40枚差、3試合目、矢部高校C戦は43枚差で勝利しました。4試合目の決勝戦は、1試合目に敗れた東稜高校Aとの試合でした。お互いに声をかけ合い、集中力を持続させて最後は10枚差で勝利し、最優秀賞を獲得しました。 今回出場した3名は、普段はソフトテニス部で頑張っています。1試合80分の4試合という長時間の中、日頃のソフトテニス部で培ったチームワークを発揮できたのが勝因です。 |
すくすく園ボランティア
冬季休業中に行われた「天草地域療育センターすくすく園のボランティア」に参加した12名の生徒達にお礼の手紙が届きました。生徒達は楽しみながら頑張っていた様子でした。
すくすく園ボランティアに参加して(生徒感想)
すくすく園では10人程の小学生くらいの子ども達がいて、それぞれ割り振られた子ども達のお世話をしました。ボランティア内容は子ども達と遊具で遊んだり、お菓子作りをしたりする事で、子ども達と楽しく活動ができて良かったです。活動は3時間程度でしたが、園の先生方が優しく教えてくださったのであまり緊張せずに子ども達と遊べました。
またこのような機会があればぜひ参加したいです。
すくすく園でのボランティア活動は長期休業中にあります。また他にも子どもと触れ合うボランティアを募集中です。多くの生徒の参加を待っています☆
原付免許取得三者面談
本日は、1年生の生徒・保護者を対象に原付免許取得三者面談が体育館で行われています。生徒指導部の職員から本校の内規について説明があっています。本校では誰でも免許の取得はできますが、内規をしっかりと守るということが条件です。内規は命を守るために作られているものですので、しっかり納得した上で免許取得を考えてくれればと思います。
熊本県赤十字献血センター所長賞」(優秀賞)を受賞
1月24日(火)に、熊本県赤十字血液センターより事業部長の武藤様ほか2名の職員の方が本校を訪問され、校長室にて表彰状並びに副賞の授与式が行われました。受賞作品は、卒業後に天草を離れ独り立ちする覚悟を詠んだ次の句です。 古里を 出る覚悟持ち 霜を踏む
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大〆の授業 (^^♪
3年生は明日1月26日から学年末考査に入りますので、今日が高校最後の授業日になりました。先生・生徒共々、きっと感慨深いものがあるはずです。 私自身は、セレモニー的に行われていた大学教官の最終講義は別として、高校の最後の授業はほとんど記憶がありません。しかし、今でもその日の天気まで思い起こせるのが一つだけあります。それは国語の授業です。まだうら若い先生でしたが、人生についてしんみりと考えさせられる内容を最後の授業の教材にされました。伊勢物語の最終段(ついに行く道)です。この中に出てくる「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを」を紹介して解説と鑑賞をされたのです。 これは「ちはやふる・・・」の百人一首で有名な在原業平(825~880)が、病気で伏せたときに詠んだ歌とされています。人は皆死ぬということは誰でも知っているわけですが、それがいよいよ自分の身になっての驚きと嘆きを詠んでいます。人が必ず行かねばならない道(死)なのだとは聞いて知っていたのだが、こんなにも突然その時がこようとは思いもよらなかったなぁ。人の明日はわからないものであり、そうしたことがあると分かっていたなら、また別の生き方もあっただろうに・・・といったところでしょうか。特に技巧がないので、今を生きる私たちが普通に読んでも分かりやすく、それだけに強い印象が残ります。 助動詞の活用とかが苦手で、いつの間にかなるべく関わらないようなっていた古文の授業の受け方を「時既に遅し・・・」と、この時ほど悔いたことはありませんでした。 そんな私も教職に就き、「やはり教師としては、最後の授業や最後の課外というのは生徒たちにとって後で思い出してもらえるくらい印象的であって欲しいものだ」と常々考えていました。どんな展開になるのだろうかと、いつもより緊張しながら職員室を出ていたことを思い出します。 以下の写真は教頭先生に撮ってもらった各科の最後の最後、6限目の大〆の授業の様子です。気のせいか、生徒たちはいつもよりしみじみと授業を受けているように思います。 M3A(家庭基礎 中野先生) M3B(課題研究:最後の点呼の様子) E3(実習:課題研究発表会) C3(土木施工 手嶋先生 テスト前の自習) そして、保護者の皆様方にとってはお弁当作り、本日が実質的に最後になりました。親子共々しんみりしたものがあることでしょう。大変お世話になりました。 【校長】 |
大寒の頃 (^^♪
冬の最も寒い時期を大寒というそうです。漢字を見ただけでもとても寒そうです。ニュースによると、暦の上での今年の大寒は修学旅行生が帰校した1月20日だったようです。 その春を迎える前に、「学年末考査」という関門が待ち受けています。そのような皆さん方に・・・
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