2017年1月の記事一覧

卒寮文集を読んで (^^♪

1月31日、午後4時から天草地域共同寄宿舎男子寮亀場寮で卒寮式が行われました。卒寮生一人一人について津田舎監長から短いコメントを頂いた後、後ろに御着席の保護者や寮父の大塚さんに対して卒業生が一言ずつお礼の言葉を述べていました。

卒寮生の足元には全部で41頁からなる卒寮文集が置かれていました。毎年これを読むのを楽しみにしているのですが、3カ年間、実に色々なことがあったことが行間から読み取れます。今年も幾つか名文がありました。

土木3年の松村君は「日本全国、いや世界、いや火星の寮を探しても亀川寮にかなう寮はないでしょう、銀河一楽しい寮で良かった・・・」とあり、楽しかったことや面白かったことがきっと多かったのでしょう。一方、機械3年B組の小林君は「最初の頃は早く寮を出たいとばかり思っていた・・・」とあり、辛いことや嫌なことを沢山経験したのだと思います。中には、土木3年の萩山君が清少納言の枕草子の中から「春はあけぼの」をもじって次のようにパロディ調に思い出を綴っており、愉快に読ませていただきました。

春はあけぼの。やうやう暖かくなりゆくこの季節、新しい出会いと生活を迎えることになり、我々3年生もこの寮を引っ張って・・・・・・。夏は夜。月の頃はさらなり、虫の声が美しく聞こえてくる時、寮でのレクレーションも増えてきて・・・・・・。秋は夕暮れ。夕日がさす頃、3年生は受験or試験の時期となり、良い成績ではなかった私は・・・・・・。冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにあらず。・・・・・・クリスマスの時の夜ご飯は豪華でとてもおかしく、いとをかし。・・・・・・

枕草子で思い出します。これ、どの段から読んでも結構面白く読めるのですが、心の中に鬱屈したものを持っている時には、あまりにも屈託なくよいものをよい、面白いものを面白いと言って笑う筆者の姿勢についていけない気がします。事実、萩山君がパロディ化した第1段「春はあけぼの」からして、何かしら挑発的と思いませんか?得体の知れぬ反発を呼び起こすというか・・・。そんなことを考えたことありませんか。

文学作品というのは、読み手の精神状態を一顧だにせず書かれていますので、どれも少なからずそういうことはあるものですが、自由自在に現象や時間を切り裂いていく清少納言の感性についていけないひがみかもしれません。ただ、私以外の人がそういうことを話しているのを聞いて、自分一人だけではなかったのだと安心したことがあります。

ところで、昨日来の百人一首の話と直接は関係しませんが、清少納言は百人一首の中にも和歌が選ばれており、親子2代で入選している18組の中の一人でもあります。ちなみに、親子孫3代に渡って選ばれているのは唯一、71源経信(夕されば)-74源俊頼(憂かりける)-85俊恵法師(夜もすがら)だけです。しかし、清少納言から見てひいおじいちゃんに当たる清原深養父(きよはらのふかやぶ)が入選していることも考え合わせると、36[曽祖父]清原深養父(夏の夜は)-○-42[]清原元輔(契りきな)-62[本人]清少納言(夜を込めて)の関係は、1代中ぬけの3代と言ってもいいかもしれません。

なぜこのような話を持ち出したかというと、清少納言のお父様、清原元輔は、熊本にとても縁がある方であることを言いたかったからです。生徒の皆さん、知っていましたか?三十六歌仙の一人にも数えられる清原元輔は、肥後の国司(今でいう県知事みたいなもの)として朝廷から任じられ、はるばる京都から赴任して、寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間、肥後の国を治め、正暦元年に83歳でこの地で没しています。

何と清原元輔を祀ったその名も「清原神社」が熊本市内にあります。熊本駅から東の方向に歩いて15分、春日1丁目にある北岡神社の北隣に所在します。私は正月3日にその神社を探し出してお参りしてきました。右はその時に撮った写真です。

清原神社から私が授かったパワーが土木3年の萩山君に伝わり、枕草子をパロディ化しようという気になったのなら凄い偶然です!?

【校長】

 

 

 

百人一首競技県大会第2部最優秀賞受賞の報に接して (^^♪

27日(日)、本校生徒3人が熊本西高校で行われた小倉百人一首の県大会に参加していることは承知していましたが、校内で練習をしている様子を一度も目にしなかったこともあり、特に期待はしていませんでした(ごめんなさい!)。そういうこともあり、当日は城南地区高校駅伝大会が午後2時前に終わり、帰校後はグラウンドで練習をしていたソフトテニス部やソフトーボール部の様子を見守った後、借りてきたDVDを見ながら家でゆっくりしていました。県大会のことなどすっかり忘れて見入っていたまさにその時、「最優秀賞」を獲得したとの一報が入りました。2学期の終業式で認知症を例にお話した通り、最近は怖いぐらい偶然が重なること多いです。何とその時見ていたのは、競技かるたに青春を懸ける高校生の物語「ちはやふる」だったからです。これは一体どういう因果でしょうか!?

それはともかく、電気科2年の原田君、山下君、渡邉君並びに御指導・引率をしていただいた原田先生、誠におめでとうございます。1週間前の修学旅行の時もかるた持参で練習をしていたと伺いましたが、その成果が見事に発揮できましたね。

 

かるた部。私は30年前、本県教師としてスタートを切った高校で3年間顧問をしていました。赴任当日、「是非かるた部の顧問をお願いします」と教頭先生から依頼され、とても困惑しました。前の顧問が異動になり、引き受け手がいなくなったと伺いました。当時、その高校は県大会で2、3位に常連する強豪校であったこともあり、「とても務まりません」と固辞しました。すると翌日、キャプテンが機械科の職員室を訪ねて来て、「このままでは廃部になります」と涙目で懇願されました。引くに引けない状況になったわけです。それからです。弓道部の初心者が藁俵を相手に所作の練習をするように、1年生部員と一緒になって一から百人一首の勉強を始め、数ヶ月後には練習のための札の読み上げで喉が枯れるまでになっていました。

 

ところで、本校はクラスマッチで百人一首の種目があり、毎学期それなりに盛り上がっていますから以下の説明は不要でしょうが、念のため。「小倉(おぐら)百人一首」、「小倉」とは北九州の小倉(こくら)のことではなく、京都の嵯峨の小倉山(おぐらやま)のことです。平安時代後期、藤原定家(さだいえorていか11621241)が、知り合いの人から、山荘の障子に貼る色紙の作成を依頼され、飛鳥時代の38代天智天皇から鎌倉時代の84代順徳院まで、およそ450年間の中から100人の歌人の優れた和歌を一首ずつセレクトし、年代順に色紙にしたためて贈ったそうです。その作業を行った山荘が、秋の紅葉が綺麗で、今はすっかり修学旅行のメッカになっている渡月橋(とげつきょう)で有名な京都の嵐山の近くにある小倉山にあっからそう呼ばれています。

 

話を戻します。私はこのようにかるた部顧問をきっかけに、次第に万葉集や古今・新古今和歌集と歌の世界が広がっていきました。そして、「日本人は国ができる神代の頃から、大いに泣き、大いに歌ってきた民族だったんだ」ということを知りましたし、平安王朝以後の和歌の中に、花や月、紅葉のうつろいに心を託して歌う美意識を、武士が覇権を握り戦乱の世では、いかに美しく死に際を飾れるかという辞世の歌に心を奪われていきました。

凝り性なのかもしれません。次第に、いにしえの歌人たちにも興味をもち始め、例えば百人一首の編纂をした藤原定家とはどういう人だったのかといったことを調べるようになりました。生徒の皆さん、百人一首では「97来ぬ人を・・・」と女性の身になって詠んでいますが、その定家、どのような人だったか知っていましたか?当時の様々な記録から浮かびあがる定家像は、そばにいたらまず仲良くしたくないタイプの人だったようです。頑固で我が強く、プライドが高くて才能はあるけれど、自分が信じる歌の道が正しいと信じて疑わず、それに抵触するとなれば時の帝(後鳥羽院)にすら暴言を吐いていたようで、宮中に出入り禁止になった記録も残っています。世渡りが下手だったんでしょうね。

 

現在はネットを検索すると、Wikipediaを始め玉石混淆・百花繚乱の何十・何百ものサイトが瞬時に出てきて、様々な知識をたやすく得ることができるわけですが、当時はそんな環境はありませんでした。アナログ真っ盛り。県立や市立の図書館だけが頼りでした。苦労はしましたが、色々調べるうちに、歌人同士の繋がりが点から線、面となっていくのは至福のひと時でした。

また、例えば「(90嘆けとて・・・の西行など)この歌人にはもっといい歌があるのに、なぜ定家はこちらを選んだのだろうか」と考えたり、「有心美」(深い情趣の中に風雅な余情をたたえ、妖艶な美しさを追求する優美な歌体のこと)などと難しい言葉で評される定家の美学ですが、実は白フェチだったのか?と思いを巡らせたりと・・・。(2白妙の衣干すてふ、4白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ、6置く霜の白きを見れば、15我が衣手に雪は降りつつ、29初霜の置きまどはせる白菊の花、31吉野の里に降れる白雪、37白露に風の吹きしく、64朝ぼらけ宇治の川霧、76雲居にまがふ沖つ白波、91鳴くや霜夜のさむしろに、97焼くや藻塩の:このように約1割の歌が白を連想させ、先述のように97は定家の作です)

 

そうこうするうちに、そんな定家を育てた父、藤原俊成(としなりorしゅんぜい:11141204)はどういう人だったのかと興味を持つに至ったのは自然の成り行きでした。後鳥羽院、式子内親王、藤原良経・・・といった新古今時代の主だった歌人の師匠で「和歌界のゴッドファーザー」と言ってもいいと思います。(詳細はここでは省略します)

そしてついに、この歌に出会いました。これは、定家の母であり父俊成の最愛の妻であった美福門院加賀(みふくもんいんのかが)が亡くなり、後に残された俊成が、忍ぶ恋から始まり熱烈な恋愛の末に成就させ、夫婦として共に歩んできた道を振り返り、涙にくれているのがその背景です。

 

まれに来る 夜半も悲しき 松風を たえずや苔の 下で聞くらむ

この歌がつくられた事情などを説明する詞書(ことばがき)によると、一周忌の夜、俊成は妻が眠る墓所にあえて宿をとり、記憶の中の妻と再会するように一夜を過ごした時の歌とされています。春とはいえ、私のようにたまに訪れる夜でも、冷える夜の風が松の枝を吹き鳴らすばかりだ。亡き妻は苔(こけ)むした墓の下でこんな悲しい音を毎夜聞いて、ひとりでねむっているのか・・・。

 

この歌は、私が最近の短歌まで含めてこれまで出会った数ある挽歌(死者をいたむ歌)の中でも最もかなしいものです。

 生徒の皆さん方は、お墓参りに行ってもまだ自分のお墓を意識することはないかもしれません。しかし、ある程度の年齢になり、多くの人を見送り、墓に参拝もするうちに(まだまだ旺盛に日々活動をしている時かもしれませんが)、ふと目を閉じるといつかは自らの命も終わりをつげ、墓石の下にねむることに思いをはせる日がきっとくることと思います。人生で最も大きなかなしみは、長年連れ添った伴侶に先立たれてしまうことだと言われています。現代でもそのストレスが健康に及ぼす影響に警鐘を鳴らす心理学者は多数いるわけですが、いかがでしょう。この歌、胸がふさぎませんか?

 

定家は父俊成が48歳の時の子どもとされています。俊成は前妻との間に子どもが授からず養子をとっていたようですが、加賀との間に後継ぎになる定家が生まれ、その喜びはいかほどであったか想像に難くありません。(何とその養子は、いたたまれなくなったのでしょう。定家の誕生後出家しています。そのことはさておいて)父俊成のこのような豊かな情感を定家が受け継ぎ、両親から深く愛されて育った定家だからこそ、百人一首ができあがったのかと思うと、色々なことがすっきり納得できます。

ちなみに、定家自身も母が死んだ年の秋、以前住んでいた所に行って、次のような歌を残しています。

 

たまゆらの 露も涙も とどまらず 亡き人こうる 宿の秋風

玉のような草木の露も私の涙も、ほんのしばらくの間もとどまらないでこぼれ落ちるよ。亡き母を恋しく思って過ごすこの宿に吹く秋風のために。

母が亡くなったとき定家は31歳、俊成は79歳でした。かたや母、かたや妻、同じ人を亡くした悲痛な心の調べ、どちらも心に突き刺すように迫り来ます。

 

 俊成・定家の時代から900年近い歳月が流れ、時代の変遷とともに歌の詠みぶりが変わっても、普遍のことがあるように思います。一つは、歌は喜びを高らかに歌い上げることも多々ありますが、かなしみの器(うつわ)として用いられることが多いということです。そしてもう一つは、かなしむ人を美しいと思う日本人の感性です。歌の中に秘められた思いを想像し、共感して涙をもよおす心、これは感性がなせるものでしょうが、これもまた美しいと思います。

今、これを書きながら思い出したことがあります。数年前NHK紅白で歌われ、日本中が涙した「千の風になって」という新井満さんの歌です。「私のお墓の前で泣かないでくださいそこに私はいません眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています・・・」という喪失の悲しみいやす死者からのメッセージ、この詩のルーツはアメリカにあるそうですが、昔から洋の東西を問わず人はお墓の前で亡き人を偲んで泣いていたのでしょう。殺伐とした現代だからこそ、皆さん方にはそのようなかなしむ人を美しいと思う感性を高めてほしいと願っています。

 

最後にこのことも。これまであまり百人一首など興味なかった人たちへ。本校生が最優秀賞を受賞したこの機会に、日本が世界に誇る文化遺産ともいえる百人一首の世界に飛び込んでみてはいかがでしょうか。和歌はわずか三十一文字ですが、その中にあらゆる感情を打ち込んでくる力業ですので、そこに含まれる情報量はもの凄く多いです。ちょっと気のきいた人なら一つの和歌を題材にして小説がかけてしまう位の情報量といってもいいと思います。一つ一つが短編小説と言ってすら過言でありません。きっと楽しいはずですよ!

 

そして、県大会で最優秀賞に輝いた3君へ。百人一首に関してはかなりの力を持っているものと思います。でも恋の歌が43首もありますよね。どれにも属さない雑が19首、春夏秋冬それぞれの季節を題材にした歌が数首ずつ、それ以外には旅情を詠んだ歌や離別を詠んだ歌もあるわけですが、とにかく恋歌が多過ぎます。私もそうでしたが、そのうちに食傷気味になりかねません。そこで提案です。パロディや応援歌を作ったり、後朝(きぬぎぬ)の歌であれば返歌を作ったりするなど新しい楽しみ方を広げてみてはいかがでしょう。勿論、古語ではなく俵万智さんが広めたような口語短歌でOKです。そうは言っても、電灯も暖房も布団も自動車もない時代の妻問婚の逢瀬は、実際、想像することすら難しいのですが・・・。ひょっとして返歌を贈られた平安の歌人たちが目を覚ましたりして!?

できれば百人一首を踏み台にして、古典の世界に一気に飛び出してほしいと願っています。異空間の劇を見ているようで、それでいて私たちの祖先をぐっと身近に感じられるようになるはずです。伊勢物語なんか最高です。今日、助動詞の活用など難解で煩雑な文法の解説には全く触れず、現代語訳だけで十分に楽しめる本がたくさん出版されています。本校の図書館にもまぁまぁ揃っているようですし、読みたければリクエストすれば入れてもらえるはずです。

 

 百人一首には格別の思い入れがあるので、今日はとんでもなく長くなってしまいました。ここまで読んでくださりありがとうございました。                        【校長】

小倉百人一首競技大会 最優秀賞獲得

 第38回熊本県高等学校小倉百人一首かるた競技大会が1月28日(土)に行われ、電気科2年の3名が出場しました。昨年は決勝戦でわずか1枚差で敗れてしまったので、今年は雪辱を果たすべく試合に臨みました。1試合目の練習試合では、昨年敗れた東稜高校Aに7枚差で敗れ、気を引き締めました。2試合目、真和高校A戦は40枚差、3試合目、矢部高校C戦は43枚差で勝利しました。4試合目の決勝戦は、1試合目に敗れた東稜高校Aとの試合でした。お互いに声をかけ合い、集中力を持続させて最後は10枚差で勝利し、最優秀賞を獲得しました。

 今回出場した3名は、普段はソフトテニス部で頑張っています。1試合80分の4試合という長時間の中、日頃のソフトテニス部で培ったチームワークを発揮できたのが勝因です。

 
      10分間で札の場所を暗記します                最優秀賞をいただきました

すくすく園ボランティア

冬季休業中に行われた「天草地域療育センターすくすく園のボランティア」に参加した12名の生徒達にお礼の手紙が届きました。生徒達は楽しみながら頑張っていた様子でした。

すくすく園ボランティアに参加して(生徒感想)

 すくすく園では10人程の小学生くらいの子ども達がいて、それぞれ割り振られた子ども達のお世話をしました。ボランティア内容は子ども達と遊具で遊んだり、お菓子作りをしたりする事で、子ども達と楽しく活動ができて良かったです。活動は3時間程度でしたが、園の先生方が優しく教えてくださったのであまり緊張せずに子ども達と遊べました。

 またこのような機会があればぜひ参加したいです。

すくすく園でのボランティア活動は長期休業中にあります。また他にも子どもと触れ合うボランティアを募集中です。多くの生徒の参加を待っています☆


 

 

原付免許取得三者面談

 本日は、1年生の生徒・保護者を対象に原付免許取得三者面談が体育館で行われています。生徒指導部の職員から本校の内規について説明があっています。本校では誰でも免許の取得はできますが、内規をしっかりと守るということが条件です。内規は命を守るために作られているものですので、しっかり納得した上で免許取得を考えてくれればと思います。