校長室からの風(メッセージ)

校長室からの風(メッセージ)

エンブリー家族と須恵村の人々との交流から学ぶ

 1月10日(火)、3学期始業式を行いました。新年冒頭の校長挨拶で、「エンブリー家族と須恵村の人々との交流から学ぶ」と題して話しました。校長講話の一部を次に掲げます。

 「1年の始まりということで、グローバルな話を皆さんにお伝えしたいと思います。今からおよそ80年前に当時の球磨郡須恵村を、アメリカ人のジョン・エンブリーとその妻エラ夫人、まだ2歳の娘の3人家族が訪れ、1年間、村人と暮らすことになりました。1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけてのことです。夫のジョン・エンブリーはシカゴ大学の社会人類学研究者で、日本の平均的な小さな農村を対象に、コミュニティ・スタディ(共同体の研究)を行うことが目的でした。家族で暮らし、村人の仕事やお祭り、行事、日常生活などの観察、記録を続けました。欧米人が珍しい時代です。人々から驚きと好奇の眼差しでエンブリー家族の一挙一動が注目されたことでしょう。
  また、
1930年代はアメリカ合衆国と日本が政治的に次第に対立し、日米関係が悪化する時期でした。しかし、村人はとても温かくエンブリー家族に接し、交流が深まっていきました。夫のエンブリーは日本語が離せないため、東京から日本人の通訳を伴ってきていましたが、エラ夫人は子供の頃、日本で暮らした経験を持ち日本語を話すことができ、村の女性たちと井戸端会議を楽しんだそうです。1年の滞在を終え、帰国したエンブリーは須恵村の人々の生活を記録した『Suye mura』という学術書を出版し、人類学の博士学位を取得しました。

  エンブリー家族が帰国して5年後に太平洋戦争が始まります。アメリカは敵国となり、「不倶戴天の敵」「鬼畜米英」などの荒々しいスローガンが戦争中は流行します。けれども、エンブリー家族と交流のあった須恵村をはじめ球磨郡の人々は、アメリカ人が鬼でも獣でもない事がわかっていたと思います。戦後間もなくエンブリーは不幸にも交通事故で42歳の若さで亡くなります。エンブリーがもっと長生きをしていれば、アメリカを代表する日本研究者になったものと惜しまれます。しかし、戦後6年目にエラ夫人が須恵村を訪れ、村人と涙の再会を果たします。須恵村の人々とエンブリー家族の絆は戦争によっても絶たれることはなかったのです。
  (中略)

  2003年(平成15年)に須恵村は免田、上、岡原、深田と合併してあさぎり町が誕生し、村としてはなくなりました。地元でもエンブリー夫妻のことを直接知っている人は少なくなってきています。しかし、国と国との政治的対立、そして戦争が起こっても、やはり人と人との交流がいかに大切かをエンブリー夫妻と須惠村の物語から学びます。インターネットで瞬時に世界のニュースや情報が行き交い、膨大なお金と物が国境を越えて流通し、人も気軽に海外旅行ができるグローバルな社会に私たちは生きていますが、だからこそ、80年前の須恵村の人々が行ったように、国籍や宗教や考え方が異なろうと、相手の立場や価値観など多様性を認め、思いやりをもって対等にコミュニケーションをとることが益々重要になってきていると思います。

  エンブリー一家と須恵村の物語から皆さんが何かを感じ取ってくれれば幸いです。お互い、良い一年にしましょう。」


  

「箱根駅伝」を走った卒業生

「箱根駅伝」を走った卒業生

 1月6日(金)、新春にふさわしい訪問者を多良木高校は迎えました。「箱根駅伝を走る」という夢を実現した2年前の卒業生、太田黒卓君(20歳)です。太田黒君は上武大学(群馬県)の2年生で、同大学駅伝部のメンバーとして、この正月2日3日に行われた箱根駅伝大会の往路3区で力走を見せました。3区を走るという情報を得ていましたので、当日は私も朝からテレビ中継放送を凝視し、上武大学の2区から3区への襷渡しの瞬間に太田黒君の雄姿を見ることができました。その時、「太田黒君は夢を実現したんだ」という熱い思いが込み上げてきたものです。

 多良木高校時代、太田黒君は陸上の中・長距離選手として活躍し、3年次では熊本県高校総体の800mと1500mのチャンピオンに輝き、全国高校総体(インターハイ)の800mでは8位に入賞しました。穏やかで実直な人柄は皆から慕われる一方、陸上にかける並々ならぬ情熱と強い意志を持ち、朝夕、グラウンドを黙々と走る姿が印象的で、今も私の目に焼き付いています。そして、「箱根駅伝を走りたい」という夢を掲げ、上武大学に進学しました。昨年の箱根駅伝では出場が有力視されながら、直前の怪我で涙をのみました。それだけに、今年は期するものがあったと思います。見事、私たちの期待に応え、大舞台で走った太田黒君を私は握手で迎えました。

 「応援していただいた皆さんに感謝します。」と太田黒君らしい感謝の言葉が最初の言葉でした。高校を卒業して2年、大学駅伝で鍛えられ、一段とたくましく頼もしく成長したように見えました。3区21.4㎞の個人目標タイム(1時間4分50秒)を上回り、区間10位の走りで2人を抜き14位で次の走者に襷を渡すことができ、個人としては満足の結果だったと太田黒君は語ってくれました。来季は、エース区間の2区を走り、上武大学としてシード権(10位以内)を獲得することを目標に挙げてくれました。

 「箱根駅伝を走る」という夢を実現し、次の夢に向かって走り続ける新成人のエネルギーに接し、新年早々、大いに希望と元気を得た思いです。前を向いている若人にとって、夢は実現するためにあるのでしょう。 


 

女子バレー部の優勝 ~ 球磨郡旗大会

                     女子バレー部の優勝

~ 球磨郡バレーボール協会旗大会 ~

  
  エースアタッカ-の加原さん(1年)の高い打点からのスパイクが決まり、2523。接戦を制し、多良木高校が人吉高Aチームを破って優勝。会場の多良木高校第1体育館は応援に詰めかけた野球部員、保護者等から大きな歓声があがりました。監督の境教諭の目にも涙が光ります。

  12月23日(金)、天皇誕生日の祝日に多良木高校体育館で球磨郡バレーボール協会旗大会が開催され、人吉球磨地域の4高校5チームの女子バレーボールチームが参加しました。気温の低い一日でしたが、どの試合も白熱した好ゲームが続き、体育館内は熱気に包まれました。

  多良木高校女子バレー部は、キャプテンの高尾さん(2年)を中心にチームワークが抜群で、日頃からひたむきに練習に取り組んでいます。部員は10人(2年3人、1年7人)と少ないのですが、きびきびとした動き、大きな掛け声、そして練習の最後には校歌の合唱と、日々の活動をとおして元気を発信し、学校の活力を生み出してくれる存在です。

  一つのボールに集中する姿勢、きらきらとした眼の輝き、お互いを励ましあう連帯と多良木高校女子バレー部の真価が発揮され、この大会での15年ぶりの優勝を勝ち取りました。午前中から陸上部、男子バスケット部、そして午後は野球部と他の部活動の生徒たちも応援に駆け付け、ホームならではの大きな声援が2階席から飛びかい、コートの選手たちと応援団との一体感が醸成され、決勝戦の雰囲気は最高潮でした。

  県大会レベルに比べると小さな大会ですが、その勝利を多くの生徒、職員、保護者の方々と分かち合えたという点で大きな喜びを学校にもたらしてくれました。高校生の躍動感とスポーツが持つシナリオのないドラマに引き付けられた一日でした。


 

2学期表彰式・終業式

 12月22日、年の瀬とは思えない温かさの中、第1体育館で2学期の表彰式・終業式を行いました。終業式での校長講話の一部を掲げます。

  「さて、2学期の始業式で、生徒指導主事の上原先生が印象的な呼びかけをされました。「2学期の多良木高校はごみが落ちていない学校にしよう」と。覚えているでしょうか。

  ごみは自然に生まれるものではありません。誰かが何かを捨てて、あるいは放置してごみとなります。どんな時にごみを捨てるのでしょうか? 恐らく、周囲に人の目がある時にはごみのポイ捨てはしないはずです。誰も見ていない時にするのでしょう。結局、誰も見ていない時にどんな行動をとるかでその人の人間性は決まるのではないでしょうか。誰も見ていない時に黙々と練習する人、勉強する、掃除をする人は、きっと伸びるでしょう。誰も見ていない時にさぼる人、ごみを捨てる人とは大きな差がつくはずです。皆さん、プライドを持ちましょう。皆さんの行いを誰かが見ています。たとえ誰も見ていなくてもあなた自身は見ています。自分自身に誇りを持つと見苦しいことはできないはずです。そんなことをする自分を自分自身が許せない、という気持ちになってくれることを期待します。お蔭で、2学期は校内のゴミも減り、とても気持ちが良いものです。3学期はさらにすっきりした学校環境になることを望んでいます。

  明日が天皇誕生日で祝日、そして明後日24日がクリスマスイブ、25日がクリスマスですね。皆さん、クリスマスとは何を祝う日なのですか? そう、世界で最も信仰する人が多い宗教のキリスト教、その創始者であるイエス・キリストの誕生を祝福する聖なる日です。けれども、イエスキリスト、英語名のジーザス・クライストという人物が12月25日に生まれたという記録はありません。聖書にも書かれていません。では、なぜ12月25日に生まれたことになったのでしょうか? キリスト教が成立し、最初に広まったのはヨーロッパをはじめ北半球です。日本も含む北半球はこの時期が最も昼が短く夜が長くなります。日本では冬至と呼ばれる日がありますね。今年は昨日12月21日が冬至で、1年で最も昼間の時間が短い日でした。夜の暗さに長く支配されていた北半球が光を取り戻し、一日一日、昼間の時間が長くなっていく変化の時期なのです。そのような時に人々に光をもたらす救世主イエスキリストが誕生したのだとヨーロッパの人は考えたのです。

  冬来たりなば春遠からじと言われます。これから一日一日、少しずつですが、太陽の時間が長くなります。新しい年、西暦2017年、平成29年を希望をもって迎えましょう。皆さん、良いお年を。」

次の人に襷をつなぐ ~ 校内駅伝大会

 12月21日(水)に校内駅伝大会を行いました。学校周囲の一般道のコース(男子4.5㎞、女子3.4㎞)を1チーム5人がそれぞれ走り襷をつなぎました。レース後には保護者の方々が作られた豚汁を生徒全員でいただきました。大会後の校長講評を掲げます。

 「2年1組の皆さん、優勝おめでとう。襷をつないだ5人の懸命の走りは力強さがありました。優勝するぞという気迫が伝わってくる走りでした。2年1組は昨日のクラスマッチでは、女子のバスケット、男子のバレー共に準優勝で悔しい思いをしたので、喜びもひとしおと思います。また、惜しくも2位となった1年2組の皆さんの快走にも驚かされました。昨日の1年1組のバスケットの優勝と合わせて1年生のエネルギーを感じました。

 長距離走は多くの人が苦手とするものだと思います。けれども、次の人が待っている、ゴールではみんなが待っていることが走る力となります。多くの熱い声援に支えられ、参加者全員が完走したことを頼もしく思います。さすが多高生です。

 この二日間をとおして改めてスポーツの素晴らしさを感じました。私が小学生のころはソフトボールとドッジボールが人気で、友達と夢中になってやっていましたが、エラーしたり、ミスしたりすると、お互いよく「ドンマイ、ドンマイ」と声を掛けあっていました。ドンマイとは気にするなという励ましの言葉だと思い、使っていました。中学校で英語を勉強して初めて、「Dont Mind」の略語として日本人が使う和製英語だと知りました。本来は、「Never Mind」「Don’Worry」、「Switch Your Mind」などと言うべきなのでしょうが、当時は「ドンマイ」でした。しかし、思うのです。スポーツをしている時ほど、ごく自然に「ドンマイ」のような励ましの言葉が出る時はありません。これもスポーツの持つ力でしょう。

 スポーツの種目によっては得意、不得意があります。いや、スポーツ全般が苦手という人も少なくないでしょう。けれども応援はできます。また、ふだんとは違うクラスメイトや仲間の頑張る姿に気づきます。自分はレギュラーではないけれども、応援でがんばる、サポートで頑張ると様々な役割があっていいと思います。先週のある日の夕方、夕闇の中を3年生の女子生徒が数人で走っていました。「頑張るね」と声を掛けたら、「私たちは遅いんです。でも、最後の駅伝大会だから、クラスに、チームに少しでも迷惑をかけたくないから走っています」と答えてくれました。苦手でも自分の役割を果たすという姿勢に胸を打たれました。

 結びになりますが、この後、正門付近で保護者有志の方と生徒会、野球部の皆さんで門松づくりが行われます。門松は、新しい年の神様が天から降りてこられる目印(「依代(よりしろ)」と言いますが)となるものです。これで学校も新年を迎える準備が整います。来年はさらに私達の学校、多良木高校が輝く年になるという期待がふくらんだ二日間でした。」

エンブリー夫妻と「須恵村」を考える

エンブリー夫妻と「須恵村」を考える
~ エンブリー夫妻来日80周年記念シンポジウムに参加して ~

  ジョン・エンブリーとその妻エラ夫人のことを知っていますか?

  エンブリー夫妻は、今から80年前に当時の球磨郡須恵村を訪れ、1年間居住して村人と交流を重ねました。夫のエンブリーは、シカゴ大学の社会人類学研究者で、1935年(昭和10)から1936年(昭和11)にかけて夫人と共に須恵村で暮らし、村の日常生活を中心に観察と記録を行いました。外国人が珍しい時代、恐らくエンブリー夫妻は村及び近郷で驚きと好奇の眼差しで注目されたことでしょう。しかし、1930年代、日米関係が険悪化していく背景があったにも関わらず、村人は疑心なくエンブリー夫妻に接し、交流は深まっていったようです。帰国後、ジョン・エンブリーは、須恵村の人々の生活と社会を描き出した民俗誌である『Suye mura』を刊行し人類学の博士学位を取得しました。

  エンブリーの『Suye mura』は、正確な場所と時間を背景に一つのコミュニティ(共同体)の事実を集積した記録遺産として学界では高い評価を得ました。しかしながら、エンブリーその人が交通事故で42歳という若さで亡くなったこともあり、一流の知日派であったにもかかわらず次第に忘れられていきました。一方、日本語が堪能だったエラ夫人は、戦後も三度にわたって須恵村を訪問し、村民と旧交を温めました。けれども、2003年(平成15)に須恵村は周辺の町村と合併してあさぎり町が誕生するなど時代は変化し、地元でもエンブリー夫妻のことを知る人は少なくなりました。

  1217日(土)、あさぎり町須恵文化ホールで開催された「エンブリー来日80周年記念シンポジウム」では、韓国ソウル大学名誉教授(文化人類学)の全京秀氏が、「エンブリーの『Suye mura』は他に類を見ない記録遺産であり、残された1608枚の写真資料はかけがえのない貴重な歴史資料で、これをさらに研究し活用していくことが大切」と基調講演で訴えられました。続いて、琉球大学の武井准教授(歴史)と神谷准教授(社会人類学)の個別発表が行われ、会場は熱気に包まれました。

  80年前の異国の学者夫妻と須恵村の人々との交流から生まれた遺産を私たちは再認識して、次代に継承していく知恵と行動が求められています。 

                  エンブリー夫妻旧居跡の記念碑

 

冬到来、市房山の初冠雪

冬到来、市房山の初冠雪

  12月16日(金)の朝、多良木高校校庭から仰ぎ見た市房山は頂から7合目付近まで雪に覆われていました。今年の初冠雪です。その山容は神々しいばかりで、しばしの間、見とれました。登校してきた生徒たちも歓声をあげ、眺めていました。8月にイングランドから赴任したALTのジョー先生も「ビューティフル」と声を上げたほどです。

  「望みは遠し  雲居の峰の   高き市房   み空に仰ぎ」

  犬童球渓作詞の多良木高校校歌にも登場する市房山は標高1722mの九州屈指の高峰であり、球磨郡水上村と宮崎県の境にそびえており、古くから球磨人吉地域では霊峰として信仰されてきました。本校の体育コースでは2年に一度、夏季に登りますが、山頂往復に7~8時間は掛かります。昨夏、生徒たちに助けられ、私も喘ぎながら登りました。

  市房山は四季に応じて姿を変え、多良木高校を見守ってくれています。中国の古語にあるように、山容は季節に伴い、春は笑うが如し、夏は緑で滴るが如し、秋は粧(よそお)うが如し、冬は眠るが如しと言われます。しかし、周囲の山々の群を抜き、孤高の存在を見せる市房山の冠雪した威容は、何か崇高な精神の塊のようであり、威厳と共に輝くような美しさを放っていて、魅了されます。校庭に立ち、市房山を眺めるだけで、背筋が伸び、気力が満ちてくる気がします。

  今朝も厳しい寒さの中、陸上部や野球部の生徒たちはグラウンドで自主練習をしていました。また、来週に予定されている駅伝大会の練習をしている生徒の姿も見られました。「持久走は得意ではないので、クラスに迷惑かけられないから走っています。」と話しながら走る3年生の女子生徒がいました。3年生にとっては最後のクラスマッチですから、心に期すものがあるのでしょう。このような生徒たちの姿を見ていると、自然と心が温かくなり、寒さよりも爽やかさを覚えました。

  冬は空気が澄み、より一層、市房山の秀麗な姿が近くに感じます。この冬も生徒たちが頑張る姿を見守ってくれると思います。


 

献血ボランティア ~ いのちをつなぐバトン

献血ボランティア活動

~ 命をつなぐバトン ~

 12月13日(火)に熊本赤十字血液センターの献血バスと共にスタッフの方々が来校され、多良木高校で献血ボランティア活動を行いました。1限目の献血セミナー冒頭の校長挨拶を次に掲げます。

  「赤い十字の赤十字マークは皆さんもよく知っていることと思います。この
赤十字マークは、戦争や紛争、災害などで傷ついた人びとと、その人たちを救護する衛生部隊や赤十字の救護員や施設等を保護するためのマークです。たとえ戦場や紛争地域であっても「赤十字マーク」を掲げている病院や救護員などには、絶対に攻撃を加えてはならないと国際法で厳格に定められています。赤十字マークは、いざという時に私たち一人ひとりを守る印なのです。

  スイスのアンリ・デュナンという人が提唱して、国際赤十字の組織は19世紀の半ばにつくられました。日本ではおよそ10年後、1877年(明治10年)に西南戦争が起きます。明治政府を樹立した西郷隆盛が、今度は明治政府打倒のために立ち上がり、故郷の鹿児島から東京に向かって攻め上るという、今から考えると無謀な戦いをはじめ、この熊本で政府軍と衝突します。熊本城をめぐる攻防や熊本の街の北にある田原坂で激戦が繰り広げられます。江戸時代までの日本では、味方の兵士は助けても傷ついた敵の兵士は戦場で放置されるのが戦いの慣例だったようです。しかし、西南戦争の時、佐野常民という人がリーダーとなって博愛社という団体をつくり、政府軍、薩摩軍の関係なく戦場で傷ついている負傷兵の救護に当たりました。この博愛社が後に日本赤十字社になります。従って、日本の赤十字活動は熊本で始まった、熊本は日本赤十字発祥の地と言われます。

  さて、多良木高校は青少年赤十字活動協力校です。特別なことはできていませんが、毎年12月、こうして全校あげての献血ボランティア活動だけは続けています。今日は、熊本市東区長嶺にある熊本赤十字血液センターから献血バスと共に髙村医務課長をはじめ看護師、スタッフの方々が来校されました。せっかくの機会ですから、1限目に献血の重要性や血液に関わる講話をお願いしました。
  講師の髙村政志(せいし)先生をご紹介します。熊本大学大学院医学研究科を修了され、脳神経外科医の道を歩まれ、2000
年から熊本赤十字病院に御勤務、2010年に血液センター医務課長に就任されています。一昨年度、昨年度と来校されており、本校の献血ボランティア活動が無事に行われるように細やかなお気遣いを頂きました。髙村先生がいらっしゃるので、生徒の皆さん、安心して献血をしてください。それでは、髙村先生の御講話を受けたいと思います。宜しくお願いします。」



にこにこふれあい大作戦 ~ 地域の方々との交流会

「にこにこふれあい大作戦」

~ 地域の方々との交流会 ~

  「にこにこふれあい大作戦」と初めて聞いた時には、何をするんだろうといぶかしく思ったものでした。具体的な活動内容は、多良木町の各地区の高齢者の方々との交流会であり、3年生の体育コースの生徒がグラウンド・ゴルフを、同じく3年福祉教養コースの生徒が郷土料理の調理を一緒になって行うというものです。毎年、交流する地区を輪番に変えて行っており、12月の恒例行事となっています。やや大仰なタイトルは、日頃から本校を温かく見守ってくださる地域のお年寄りの方々と笑顔でふれあいたいとの福祉教養コースの職員の願いから付けられたものです。

  12月9日(金)、今年は多良木町6区1~3の地域の方との「にこにこふれあい大作戦」を実施しました。朝霧が残る多良木高校運動場において、午前10時から体育コースの生徒と地区の老人会の方々とのグラウンド・ゴルフが始まりました。同じ時刻に、6区の公民館において、福祉教養コースの生徒が老人会の方々に習いながら郷土料理を作り始めました。グラウンド・ゴルフは1時間半ほどかけて2ラウンド行いましたが、歓声と笑い声が入り混じる和やかな時間でした。グラウンド・ゴルフを終えたお年寄りと生徒は、徒歩で10分ほどの6区公民館へ向かいます。そして、できあがっている郷土料理を全員で会食することになるのです。

  お年寄りと生徒たちが協同で作った献立は、混ぜご飯、つぼん汁、ほうれん草の白和えでした。いつも明るくお元気な区長の長田さんのご挨拶の後、和気あいあいとした雰囲気の中、郷土料理を頂きました。ユーモアのある男子生徒が前に出ての自己紹介は、お年寄りから大きな笑い声と拍手を呼びました。会食の終わりには、出席者の方々から、「楽しかったあ」、「来年もやりましょう」とお声かけをいただきました。

  球磨郡でも核家族化が進み、日頃は高齢者とふれあう機会がない高校生が増えています。人生のベテランであるお年寄りの方から学ぶものは少なくありません。「にこにこふれあい大作戦」は今年も大成功でした。



                     区長さんのご挨拶(会食風景)

新聞を読める社会人になろう

新聞を読める社会人になろう

 「新聞を読むことは社会人にとって必要なマナーではないか」という越地真一郎さん(熊本日日新聞社NIE専門委員)のご提言を受け、12月9日(金)、同氏を招聘して3年生対象のステップアップセミナーを開催しました。高校卒業後は実社会で活躍することになる就職内定者の31人に対し、「新聞を読める社会人になろう」というテーマで90分間、充実したセミナーとなりました。

 職場や地域社会の中で多様な人々と共に仕事をしていくうえで必要な社会人基礎力を養うために、新聞を読む習慣を身に付けてほしいと越地さんは語り始められました。新聞は多くの社会人に読まれているという現状から、先ず社会(世の中)を知ること、相手が知っているのに自分は知らないでは困るということ、そして自分に引き付けて読み、考えることの大切さを生徒に伝えられました。そして、生徒一人ひとりに新聞を手渡され、見出し、リード、本文という記事の構成、大事なこと(結論)を先に言う「先結後各」(先に結論、後で各論)のスタイルなどを説明されました。

 簡潔な講義の次に生徒の主体的な活動です。3~4人のグループごとに、気になる記事を話し合います。また、越地さんからの様々な問い掛けにグループで考え答えます。この問答をとおして、「答えが一つ決まっているもの、いわゆる知識はインターネットで検索すればわかる」が、「仕事上、あるいは世の中の問題は答えがいくつもある、いやひょっとしたら答えはないかもしれない。」と越地さんは生徒の考えを揺さぶられます。後半は、もし自分が多良木町町長になったらどんな大胆な政策を行うかを考えたり、これから出ていく社会(世の中)のイメージを漢字一文字で表現する作業に取り組んだりしました。

 「90分が短く感じました。」、「面白く、ためになりました。」とセミナー後の生徒の感想です。メリハリのある巧みな進行で生徒の柔軟な発想を引き出される越地さんの手腕は名人芸の域にあります。新聞に対する生徒の見方、考え方も大きく変わったことでしょう。生徒に新聞を読む習慣を身に付けさせるために、NIE(Newspaper In Education 新聞を教育に取り入れよう)活動を今後も推進していきます。