校長室からの風(メッセージ)

校長室からの風(メッセージ)

「永世監督」、「永世指導者」 ~ 野球部指導者の方への感謝状贈呈式

「永世監督」、「永世指導者」

~ 野球部指導者の方々への感謝状贈呈式 ~    

 8月28日(火)、多良木高校の2学期の始まりです。始業式の後、長年にわたって多良木高校野球部をご指導いただいた齋藤監督、馬場コーチ、尾方コーチに対して、学校として感謝の気持ちをお伝えする場を設けました

 本校の教育活動や部活動に対してご支援やご協力をいただいた方はたくさんいらっしゃいます。しかしながら、野球部の齋藤監督、馬場コーチ、尾方コーチは、その期間の長さ、そして関わりの深さが類を見ない特別な存在です。

 齋藤健二郎監督は教諭として10年、そして多良木高校校長をお務めの後、多良木町に単身残られて9年、通算19年間、監督としてご指導いただきました。熊本県高校野球界では百戦錬磨の名将として知られる方です。多良木高校をこよなく愛され、その発展、存続にご尽力いただき、心から敬意を表します。

 馬場正吾コーチは、本校野球部のOBであり、齋藤監督が若かりし頃の教え子に当たられます。高校時代はキャプテンを務められたそうです。斎藤監督を支えて、この8年間ご指導いただきました。

 尾方功一郎コーチも本校野球部のOBです。高校時代はキャッチャーで後にプロ野球で活躍された野田投手とバッテリーを組まれていました。監督、そしてコーチとして16年間ご指導いただきました。

 馬場コーチも尾方コーチもそれぞれお忙しい家業の傍ら、ほぼ毎日野球場に足を運んでいただく姿に私はただ頭が下がる思いでした。

齋藤監督に多良木高校野球部の「永世監督」、馬場コーチと尾方コーチには「永世指導者」の称号を記した感謝状を贈呈しました。生徒代表として野球部の平野主将がお礼の言葉を述べ、女子マネージャーが花束を贈りました。

 3人の指導者の方々から生徒たちに対して、「社会のルールを守る」、「平坦な道ばかりではない、挫折があっても負けるな」、「しっかり生きていってほしい」等の励ましの言葉を掛けていただきました。3人の指導者の方々は、多良木高校を最後まで支えて頂いたのです。


 


夢の「甲子園出場!」 ~ マスターズ甲子園出場決定

夢の「甲子園出場!」 ~ マスターズ甲子園出場決定    


 「甲子園出場の夢が叶いました!」

 野球部OBの方から興奮気味の連絡が入ったのはお盆直前の8月12日(日)の夕方でした。私は一瞬何のことかわかりませんでしたが、説明を聞き、それが高校野球OBによる「マスターズ甲子園大会」であることを理解しました。

 高校時代に甲子園に出場できる球児は一握りの者です。高校を卒業しても野球を楽しむ「永遠の高校球児たち」のために「マスターズ甲子園」が創設され、今年が第15回を数えます。結束の強い多良木高校野球部OB会はこの「マスターズ甲子園」を目指してきましたが、昨年も県予選大会で準優勝に終わり、出場できずにいました。

 しかし、今年は、坂口幸法会長を中心にOBの気合の入り方が違っていたそうです。高校球児が果たせなかった夢を、閉校の年にOBが団結して叶えようと46人がチームに名を連ね、地区予選を勝ち上がり、地区代表の8校で県代表を決めるトーナメント大会(81112日、県営藤崎台球場)に臨み、見事優勝したのでした。マスターズ甲子園大会は1110日~11日開催です。

 マスターズ甲子園の出場選手は社会人野球、大学野球の現役選手及びプロ野球関係者では無いこと。そして試合は最初に34歳以下の選手が制限時間50分、次に35歳以上の選手が1時間10分プレーしての合計で戦います。34歳以下の若手メンバーには近年卒業し人吉球磨地域で仕事をしながら趣味で野球を続けている者が7人も名を連ねています。高校時代に果たせなかった夢を彼らは社会人になって実現したと云えるでしょう。

 甲子園出場を目指して半世紀にわたって戦ってきた多良木高校野球部は、その目標を実現することなく先月「終戦」を迎えました。甲子園出場は見果てぬ夢となりました。けれども、OBの方々の熱い思い、強い絆によって、閉校前に、野球の聖地である甲子園球場のスコアボードに「多良木」の名前が載ることになりました。OBの方々からの驚くべき贈り物です。

 夢は叶う、諦めなければ。野球部OBのマスターズ甲子園出場を学校あげて祝福したいと思います。


             マスターズ甲子園の県予選大会優勝


魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡

魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡    


 「錦町の高原(たかんばる)に戦争中、海軍の基地があった。」と4年前に球磨郡に赴任した時に郷土史家の方から話を聞きました。調べてみると、戦局が激しさを増した昭和18年(1943年)11月に球磨川と川辺川に挟まれた丘陵地帯に建造が始められ、翌年2月に人吉海軍航空基地が発足しました。飛行機の搭乗員や整備士の養成が主目的の基地でした。今も残る2基の堅牢な石造りの隊門や慰霊碑等を巡り、往時を想像したものです。

 終戦から73年目の夏、この人吉海軍航空基地跡に資料館が開館しました。「ひみつの基地ミュージアム 錦町立人吉海軍航空基地資料館」(錦町木上西)です。昨日(日曜)見学に行きました。館内の展示では、昭和20年に地元の山中に墜落した零戦(ゼロ戦)の部品残骸が目を引きました。写真パネルでは、航空燃料不足を補うための松根油(しょうこんゆ)の製造の様子が印象に残りました。

 また、館外の戦争遺跡への見学会が実施されており、台地の縁の崖に穿たれた巨大な地下魚雷調整場に入ることができました。9万年前に噴火した阿蘇の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の崖を人力で掘削し造られた地下トンネルです。縦5m、横5mのトンネル入り口の前に立つと、向こうに広がる大きな闇が戦争を象徴しているかのような迫力を覚えます。この「魚雷」は、航空機の胴体に括り付け敵艦目がけて発射するものでした。昭和20年(1945年)に入るとアメリカ軍の空襲を受けるようになり、作戦室、兵舎、武器弾薬庫等の多くの施設を地下に設け、まさに秘密の地下基地の様相を呈したようです。

 昭和20年8月15日、終戦。結局、2年足らずの短い実働の基地でした。当時の滑走路跡の東端にミュージアムは建てられており、西に向かって伸びる狭い農道を展望できます。多くの古写真が残されていますが、今となっては海軍航空基地がここにあったことは幻のようです。しかし、だからこそ残存する戦争遺跡を直視する意義は大きいと思います。

 今日は平成30年(2018年)8月6日。広島に人類史上初めての原子爆弾が落とされて73年目を迎えました。


             今に残る地下魚雷調整場跡


 
            飛行場滑走路跡に当たる農道

次のステージに進もう ~ 3年生進路ガイダンス実施

次のステージへ進もう ~ 3年生進路ガイダンス実施   

 7月17日(火)の野球部の「終戦」以来、寂しさに包まれていた多良木高校ですが、7月24日(火)の3年生進路ガイダンスで活気付きました。生徒67人に加え8割を超える保護者の出席を得て開催できました。

 全体会では専門学校講師によるマナー講座で面接の心構えや具体的なポイントを学び、就職、公務員、進学の分科会ではそれぞれ各担当から説明がありました。就職については7月1日から求人票の受付を始めており、例年以上に多くの企業から早々に求人があって、進路指導部の整理が追い付かない状況が紹介されました。あまたの企業から一社を選ぶために、就職希望の生徒たちは保護者も交えて担任、進路指導主事との四者面談が始まりました。進学の生徒たちも志望校決定が迫られます。自己の進路を決める夏です。

 これから生徒の皆さんが生きていく社会を予測することは困難です。なぜなら社会の変化のスピードがあまりに早いからです。深刻な少子高齢化、急速なAI(人工知能)の普及、経済のグローバル化はとどまることはありません。答えが最初からわかっているような仕事はAIに取って代わられることになるでしょう。一方、ロボットの導入により、単純な労働は職業としては消えていくものと思われます。人間にしかできない仕事は何か、人間にしかできないサービスは何かが求められる新しい時代が到来しています。

 将棋や囲碁の名人に勝つAIが出現して社会を驚かせました。多数のパターンから最適解を求める演算能力で人間がAIにかなうわけがありません。しかし、AIは知能であり、身体性は弱い段階にあります。AIを搭載している人型ロボットであっても、その動きはまだぎこちなく、人間には遠く及びません。このような状況から、これから社会へ出ていく高校生の皆さんには、改めて「知、徳、体」のバランスのとれた総合力を養って欲しいと望むのです。

 AIを使いこなせる力、ロボットを活用する力、それはより良く課題を解決していく思考力から生まれると思います。思考力の基盤は体系的知識です。未来を生きる基礎を培うために、この夏、大いに学びましょう。

 多良木高校3年生が次のステージに進みます。その先に進路実現が待っています。


      
           3年生進路ガイダンス(全体会)

誰もいない野球場 ~ 多良木高校野球部の「終戦」

誰もいない野球場 ~ 多良木高校野球部の「終戦」   


 入道雲が湧く青空が広がり、真夏の強い日差しが降り注ぐ多良木高校の野球場に人影はありません。7月17日(火)、夏の熊本県大会3回戦で敗れ、最後の夏の多良木高校野球部の挑戦は終わりました。昨年までは、3年生が部活動から引退して下級生の新チームが発足し、秋の大会に向けて練習に汗を流したものです。しかし、来春閉校する多良木高校に2年生以下は在籍していません。選手の掛け声や、打球の音、齋藤監督や馬場コーチ、尾方コーチの叱咤激励などエネルギーに満ち溢れていたグラウンドが今は嘘のように静かです。

 「寂しくなりました」と学校周辺にお住いの方々が言われます。「もう野球部の賑やかな声が聞こえないと思うと、さびしくて仕方ありません」と年配のご婦人がため息をつきながら私に語られました。

 多良木高校野球部は昭和42年(1972年)に創部されましたが、専用の野球場が創られたのは2年後に現在の新校舎に移転してからです。グラウンドの整備が進み、平成15年には高さ15mのネットが周囲に張り巡らされました。「公立高校の野球場としては日本一」との齋藤監督の言葉が示すとおり、十分な練習環境が整ったのです。

 けれども、その施設以上に野球部の練習を支えたのは、学校周辺の地域の皆さんのご理解とご支援でした。練習の際、時々、ボールが防球ネットを超えて住宅の庭に飛び込んだり、屋根に当たって瓦を割ったり、自動車のボンネットに落ちたりとご迷惑をお掛けしました。練習試合の時は休日の早朝から高校生の大きな声が飛び交いました。しかし、生徒や顧問教師が謝りに伺うと、皆さん、笑顔で対応してくださいました。校長として4年目を迎えている私も、野球部の活動に関して周辺の住民の方々から苦情や抗議を受けたことは一度もありません。このことに深く感謝したいと思います。

 高校生がひたむきに野球に没頭する姿は、地域の方々に元気を届ける役割を担っていたのでしょう。その姿が消え、野球場には少しずつ夏草が伸び始めました。7月17日は、半世紀戦い続けた多良木高校野球部の「終戦」の日となったのです。この日が来ることを覚悟はしていましたが、やはり言いようのないさびしさに学校全体が包まれています。


        
            人影のない多良木高校野球場

「見果てぬ夢、甲子園」

「見果てぬ夢、甲子園」   

 来年3月の閉校が迫る多良木高校にとって、初の甲子園出場を目指す最後の夏の挑戦が昨日終わりを告げました。県営八代球場で行われた3回戦で、シード校の有明高校に1対5で敗れました。試合後、平野主将が「地域の皆さんと一緒に甲子園に行きたかった」と涙ながらに挨拶しました。しかし、多くの保護者、同窓生、地域の方々から温かい言葉が掛けられ、最後は爽やかな笑顔で選手、マネージャーは学校に帰ってきました。

 閉校が定めの小さな学校の大きな挑戦でした。多良木高校の象徴的存在である野球部は大会前から注目されましたが、7月11日の1回戦(山鹿球場)、7月14日の2回戦(八代球場)、そして17日の3回戦とまさに地域の人々と共に戦い抜き、高校野球の原点を示すことができたと思います。1回戦から野球部員以外の全ての生徒と職員で全力応援しましたが、球場には保護者、同窓生、地域の応援隊、旧職員など驚くほど多くの方々が駆け付けて下さいました。

 メディアの方から、応援の人数や構成などをしばしば問われましたが、誰も把握できません。本校への応援は、組織的なものではありません。多良木高校と何かの関係がある方だけでなく、純粋な高校野球ファンや閉校する小さな学校の挑戦に共感を覚える一市民の方など実に多様な方々が自発的に足を運んでくださったものなのです。

 夢に向かって果敢に挑んだ野球部員を心から誇りに思うと共に、改めて甲子園という場所が遥か遠いところにあると実感しました。多良木高校は甲子園に出場することなく、来春、96年の歴史を閉じます。1967年(昭和42年)の創部以来、およそ半世紀の挑戦でしたが、「見果てぬ夢」のままとなりました。

 願わくは、7月1日の熊本県大会開会式で平野主将が選手宣誓で述べたとおり、多良木高校野球部の思いが高校野球の未来につながっていくことを祈念したいと思います。


         7月17日 多良木高校野球部最後の試合


 

全力応援 ~ 野球部一回戦

全力応援 ~ 高校野球1回戦  

 先週後半、記録的な豪雨によって広く西日本一帯に甚大な被害が生じました。多数の尊い人命が失われてしまったことは痛恨の極みです。心から哀悼の意を捧げます。

 熊本県においても雨が続いたため、第100回全国高等学校野球選手権熊本大会の日程が順延となり、当初7月9日(月)に予定されていた多良木高校の1回戦が11日(水)に変更となりました。最後の夏に挑む多良木高校野球部にとって待ちに待った初戦です。3年生67人のうち野球部員が24人ですから、残り43人の生徒全員と職員で応援に行くことにしました。1回戦から学校あげての全力応援です。

 大型バス1台と中型バス1台で午前9時に多良木高校を出発。初戦の会場である山鹿市の球場まで高速道路を利用して2時間15分要しました。到着した私たちを出迎えたのは新聞、テレビ等の多くのメディアの方々でしたが、それ以上に驚いたのは、予想以上に大勢の方が多良木高校の応援に駆け付けてくださったことです。平日、そして球磨郡から遠く離れた県北の山鹿市で行われる1回戦であるにもかかわらず、多良木高校側スタンドは応援で満員状態となりました。保護者、同窓生、旧職員、そして有志の野球部応援隊、さらに直接は多良木高校、球磨郡と関係がなくても、多良木高校の最後の夏を応援したいという高校野球ファンの方がスタンドを埋めてくださり、胸が熱くなりました。

 「多良木高校の最後の夏の挑戦」の思いを、多くの人々が共有して下っていることに深く感謝します。閉校の年度にも関わらず、夢に向かって挑戦する高校生の姿勢が共感を呼ぶのだろうと思います。

 炎天下の八代工業高校との試合は、天候と同じく熱いものとなりました。応援に後押しされるかのように攻撃する多良木高校。しかし、八代工業高校も反撃し最後まで白熱した好試合でした。結果は10対5で勝ちましたが、試合後、八代工業高校のマネージャーの女子生徒から本校の平野キャプテンに対して折鶴が渡され、八代工業高校の分も勝ち進んでほしいとエールが送られました。

 多良木高校野球部の夢への挑戦は続きます。私たちも学校あげて全力応援を続けます。


                               地域の高齢者の方から野球部に贈られた寄せ書き

 


西郷どんの面影を探して ~ 人吉市の永国寺

西郷どんの面影を探して ~ 人吉市の永国寺  

 人吉市に(えい)(こく)寺(曹洞宗)という名刹があります。創建は室町時代に遡り、「幽霊の掛け軸」があることで知られています。広い境内には、幽霊の伝承がある蓮池が今に残ります。これまで幾度も訪ねたことがありますが、先日、近くの人吉市立人吉一中で会議があり、早く同校に着いたため、久しぶりに永国寺まで足をのばしました。

 今年は、西郷隆盛ゆかりの寺として永国寺は脚光を浴びています。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の放映により、改めて維新の英雄の西郷隆盛に関心が高まっていますが、実は人吉は西郷とは深い縁がある所なのです。

 江戸時代、人吉城を拠点とした相良藩(2万2千石)は、北に肥後藩(細川家54万石)、南に薩摩藩(島津家77万石)の両大藩に挟まれ、政治的に難しい立場にありました。明治10年(1877年)2月、明治新政府へ反旗を翻し、鹿児島から攻め上る西郷軍の主力は人吉を通って熊本へ進軍していきます。しかし、熊本城攻防、田原坂の戦いで敗れた西郷軍は4月下旬に人吉に撤退してきました。それからおよそ一か月の間、人吉を根拠としますが、その間、総大将である西郷隆盛が本営として滞在したのがこの永国寺なのです。江戸時代以来の関係を重んじ、西郷軍に味方する人吉の士族も少なくありませんでした。一族の中でも、政府軍と西郷軍に分かれて戦った例もあります。

 結局、軍事力で優勢な政府軍が人吉に迫り、5月末に西郷隆盛は加久藤峠を越え宮崎へ敗走していきます。この時の戦火で永国寺はじめ人吉の街の多くが焼失しました。

 明治維新の最大の功労者でありながら、10年後には無謀な反乱を起こして世を去った西郷隆盛という人物には多くの謎が残されています。まず西郷の写真が一枚も残っていません。私たちがよく知る西郷さんのお顔は肖像画によるものです。人吉滞在中、西郷隆盛は愛犬を連れて付近を散策していたという言い伝えが残っていますが、実像はどんな人物だったのでしょうか。

 永国寺の北側を球磨川が流れています。往時と変わらないこの流れだけが、歴史を目撃しています。

                


人吉市の永国寺(曹洞宗)

始球式

「ボールよ、届け」 
100回全国高等学校野球選手権熊本大会始球式  

 「ボールよ、届け」と念じて、税所さんは投げたそうです。そのボールは見事にストライクで捕手の井上さんのミットに収まりました。打者役の学園大学付属高校の隈部君が大きく空振りのスイングをしてくれました。スタンドの観衆から湧き起こる歓声と拍手に三人は包まれました。笑顔の税所さんは帽子を脱ぎながらマウンドを駆け下り、井上さんもホームベースから走り寄り、二人が抱き合って喜ぶ光景は輝いて見えました。

 7月1日(日)、県営藤崎台球場で第100回全国高等学校野球選手権熊本大会の開会式が行われました。熊本県高等学校野球連盟の指名を受け、名誉ある選手宣誓を多良木高校の平野光主将が務めました。そして、開会式後の第100回記念の始球式の投手と捕手の大役も多良木高校生が担うことになったのです。これは、6月14日の抽選会の際、県高野連の竹下会長による抽選で決まったのです。今年度で閉校を迎える本校にとって、選手宣誓だけでなく始球式もさせて頂けるとは何という幸運でしょうか。「最後の夏」を迎える多良木高校野球部に対して、野球の神様が微笑んでくれたのかもしれません。

 始球式は、6人いる本校野球部マネージャーからリーダーの税所愛莉さんとサブリーダーの井上もなみさんに決まりました。二人は、野球部の練習が始まる前、また終わってからグラウンドで特訓に取り組みました。投手と捕手の距離は18.4mと定められていますが、硬球をストライクで投げることがいかに難しいことか二人は痛感する日々でした。捕手役の井上さんは慣れないキャッチャーマスクとプロテクターを装着し、初めは自由に動くことさえできない様子でした。けれども、監督やコーチ、選手たちの指導を受け練習を重ねたのです。

 多良木高校野球部の6人のマネージャーは、決して部活動の裏方ではありません。打撃練習ではグローブを着けて外野を守り、白球を追い掛けてきました。18人の選手と一緒に戦ってきた意志と体力を持っています。税所さんと井上さんはその本領を発揮したのです。

 それにしても、大観衆が見守り、テレビ中継が行われている緊張感の中、よくぞストライクを投げることができたと驚きます。奇跡はやはり人が起こすものだと改めて高校生が教えてくれました。



選手宣誓 ~ 第100回全国高等学校選手権大会熊本大会

 選手宣誓 ~ 第100回全国高等学校野球選手権大会記念熊本大会

 「宣誓!」、出場61チーム(参加校63校)の校旗を持つキャプテン達に半円に囲まれ、多良木高校野球部主将の平野光君の選手宣誓が始まりました。

 「フレンドシップ・フェアプレイ・ファイトの精神が受け継がれ、高校野球は歴史ある100年を迎えました。今、我々はその檜舞台に立っています。各学校の野球環境はそれぞれ違いますが、家族・仲間・学校・地域への感謝の思いは同じです。                                  

 今年度で多良木高校野球部は歴史に幕を閉じます。しかし、高校野球の精神や地域への感謝の思いは、必ず次の100年に繋がっていくものと確信しています。この記念すべき100回大会に参加できる喜びを胸に、私たちは一戦一戦、全力で力一杯戦っていくことを誓います。                                                          

平成30年7月1日 選手代表 熊本県立多良木高校野球部主将 平野光 」


 県営藤崎台球場全体から大きな拍手が沸き起こりました。落ち着いた態度で、一つひとつの言葉に思いを込めた選手宣誓でした。平野君は、見事に大役を果たしたのです。                                    
 夏の青空の下での第100回全国高等学校野球選手権大会記念熊本大会の開会式。今年度で閉校する多良木高校にとって「最後の夏」です。熊本県高等学校野球連盟の格別の計らいによって、多良木高校野球部は第100回記念大会の名誉ある選手宣誓の指名を受けたのです。抽選会でこのことを知った主将の平野君の緊張は最高潮に達したことでしょう。しかし、彼はすぐに「しっかりやろう」と覚悟を決めます。そして、野球部の齋藤監督、高山部長等と相談しながら、「100年の歴史」、「これからの100年」、「感謝」などをキーワードに宣誓文を創り上げていったのです。

 6月28日(金)の多良木高校での野球部推戴式においてリハーサルを行いましたが、その堂々とした態度に私は本番でもきっと大丈夫との確信を得ました。
その期待通りの誠に立派な宣誓でした。大舞台で輝く平野君の姿をバックネット裏のスタンドから私は眩しく眺め、感無量でした。

 

      竹下文則 熊本県高野連会長の前で宣誓する平野主将