校長室からの風(メッセージ)

校長室からの風(メッセージ)

ごくろうさま旧講堂(旧多良木高校校舎最後の遺構)

ごくろうさま旧講堂

~ 多良木高校旧校舎最後の遺構 ~

 「講堂」と言うと、若い世代はどんな建物か理解できない場合が多い。講堂と体育館は違う。講堂は、学校において式典(入学式、卒業式、始業式、終業式等)や講演、集会をおこなうための建物で、戦前の学校には必ず設置されていた。現在の多良木高校には体育館は2棟あるが講堂はない。しかし、旧多良木高校には講堂があった。しかも、その建物が今も残っている。

 旧多良木高校の校地は、現在の多良木高校から東におよそ500mの多良木町上迫田(かみさこだ)の地にあり、昭和43年(1968年)に今の新校舎へ移転となった。旧校地は多良木町に移管されて町民広場となったが、その北西の一角に旧講堂の建物だけが残り、主に町民集会場として活用されてきた。 

 この旧講堂は、多良木実科高等女学校の創立二十年記念校舎増改築に伴い、昭和16年に完成したものである。講堂は、96坪(約317.4平方メートル)の面積があり、「木の香も新しい大講堂」で来賓、保護者、生徒合わせて1100人が出席して盛大な落成式典が行われた(『多良木高校五十年史』)。

 旧講堂の思い出がある同窓生の方は多いと聞く。中には、卒業後に町民集会場となっていた旧講堂で結婚披露宴を行った方もいらっしゃるそうだ。旧講堂は、多良木高校実科高等女学校以来の歴史を持つ、旧多良木高校校舎の最後の遺構である。補修を重ね、近年まで剣道や空手の練習場等に使われてきたが、老朽化が進み、耐震性の問題もあり、多良木町として建物の解体を決められた。この夏中には解体工事が実施される予定という。

 先日、町教育委員会の案内で、同窓会の住吉会長さん達と一緒に旧講堂の内部に入った。竣工以来74年、風雪に堪えてきて建物は傷みが激しく、痛ましさを覚えた。一方、時間がとまっているような不思議な空間であり、戦前の女学生や戦後の高校生の在りし日の姿が浮かんでくる気がした。同窓生の方にとって、記憶の彼方にある女学校時代、高校時代の唯一の遺構が失われることは誠にさびしいことだろう。解体される前に、旧講堂の姿を今の多良木高校生諸君にも見て欲しいと思う。

             (旧講堂の前に同窓会長と校長が並んで)


 

18歳選挙権

18歳選挙権の成立に思う

~ 生徒会役員立候補立会い演説会の開催に当たって ~

 生徒会は多良木高校の全校生徒197人全員が会員です。生徒会は、クラスマッチや体育大会、文化祭など大きな行事を企画、運営することも仕事ですが、一方、挨拶運動や昨年度行われた「携帯・スマホの使い方のルール作り」、「いじめを防ぐ・なくす行動指標づくり」など日常生活に係る取り組みも重要だと思います。生徒の皆さん一人一人が工夫すれば、力を合わせれば、もっと充実した楽しい多良木高校が実現できると期待います。

 今回の生徒会役員の選挙に、東君、草場君、那須さんの3人が立候補してくれました。進んで役員になろうという3人の志に敬意を表します。

 さて、6月17日に国会で公職選挙法が改正され、選挙権年齢が現在の「20歳以上」から「18歳以上」に変わりました。選挙権、あるいは参政権と呼んでもよいのですが、これが拡大するのは1945年(昭和20年)に20歳以上の男女と決まって以来70年ぶりのことです。1年間の周知期間を経て施行となりますので、来年の7月以降に実施される選挙の投票日に18歳以上になっている場合は有権者となります。従って、今の3年生、そして2年生は(誕生日の早い遅いの影響はありますが)、来年度は有権者です。AKB総選挙ではなく、本物の総選挙、即ち衆議院議員選挙、または参議院議員選挙、県知事選挙、あるいは市町村長選挙、市町村議会議員選挙などをとおして社会にかかわることになるのです。

 高校3年生で十分な判断ができるのか、早すぎるのではないか、と心配する声も聞かれますが、世界では18歳以上が主流だそうです。皆さん一人一人が、身近な地域のことから国の政治問題まで幅広く社会に関心を持つきっかけになると私は期待しています。

 高等学校は、社会に出るための準備期間とも言われます。生徒会役員の選挙に真剣に参加することは、18歳選挙権を有意義に行使することにつながります。立候補者の主張を聴き、皆さん一人一人が、どんな学校であってほしいのか、どんな学校をこれからみんなで創るのかを考える場になることを願い、挨拶とします。

                                (生徒会役員投票風景)

甲子園100年~野球部の推戴式に寄せて

甲子園100年 ~ 野球部の推戴式に寄せて


 
30年前、台湾をバスで旅行したことがあります。その時、嘉義(かぎ)という町で地元のガイドさんが、「昔、嘉義農林学校野球部は台湾代表で甲子園大会に出場して準優勝した。それを今も誇りに思う。」と語られました。その時私は、「戦前は台湾から甲子園に出場していたのか」と感慨に包まれました。

 日清戦争に勝利した日本は、清国から台湾を獲得し、日本領として統治することになります。明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)の日本の敗戦まで半世紀、台湾は日本領でした。したがって、戦前の夏の甲子園野球大大会(当時は高等学校ではなく中等学校でした)に、台湾から代表校が出場していたのです。そして、昭和6年(1931年)に嘉義農林学校野球部が準優勝という快挙を成し遂げたという史実を知りました。

 この記憶は、私の中では薄れかかっていたのですが、昨年、「KANO 1931海の向こうの甲子園」という映画が台湾で製作され、日本でも公開されて話題になりました。当時、台湾は日本よりも野球のレベルが低く、その中でも嘉義農林は弱小チームだったそうです。しかし、日本から赴任した先生が監督になり、日本人と台湾人の混成チームを鍛え上げ、快進撃が始まり、台湾代表となって海を渡り甲子園の決勝戦まで進むという劇的な物語となったのです。目標に向かって、日本人と台湾人というわだかまりを超え、団結して戦い勝利する姿も感動的でしたが、試合に勝った時、喜びを抑えた嘉義農林学校野球部の態度が深く印象に残りました。弱かった嘉義農林学校野球部は、負けることの悔しさ、悲しさをそれまで嫌と言うほど味わってきたため、負けた相手のことを思うと、派手な喜びを示すことができなかったのです。

 大正4年(1915年)の第1回全国中等学校野球大会から数え、今年は甲子園100年の記念の年です。100年の間に、嘉義農林学校野球部のドラマをはじめ幾多の物語、名勝負が繰り広げられてきたことでしょう。戦争による不幸な中断もありました。しかし、アマチュアの、しかもハイスクールのスポーツ大会に数万の観衆が押し寄せ、テレビ中継され、国民的行事になっていることに外国の人々は驚きます。日本が誇るスポーツ文化だと私は思います。

 全国高等学校野球選手権熊本大会に臨む野球部の皆さん。皆さんは、白球に青春を賭けています。一つのことに打ち込めることは幸せなことです。新チーム結成以来、強豪校相手にも互角の勝負をしてきました。内には秘めた自信があることでしょう。仲間を信じ、負けないという思いで戦ってください。甲子園100年の年、夢の甲子園出場に向け、誇りをもって皆さんを送り出します。



「日本遺産」の故郷

「日本遺産」の故郷

 「落ちつく先は 九州相良」という歌舞伎の名文句があります。江戸時代の人々にとっても、九州の山間に相良という殿様の治める地域があることは知られていました。相良氏は、鎌倉時代初期に源頼朝の命を受けて、遠江国(現在の静岡県)から人吉球磨の地に赴任し、以来、明治維新を迎えるまで700年の長きにわたって統治し、独自の文化と風土を創り上げました。熊本県内唯一の国宝である青井阿蘇神社(江戸初期)をはじめ、鎌倉、室町期の中世の文化財が数多く残り、江戸時代から始まった三十三観音巡りや臼太鼓踊りなどが伝えられています。歴史小説家の司馬遼太郎氏は、人吉球磨の地域を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と称えました。

 私たちの故郷である人吉球磨地域が、今年4月、日本遺産(Japan eritage)に認定されました。「相良700年が生んだ保守と進取の文化」として、他の17地域と共に文化庁が創設した日本遺産の初めての対象地域となったのです。その構成文化財には、青蓮寺阿弥陀堂、王宮神社、太田家住宅、百太郎溝、幸野溝など多良木町所在のものが幾つも入っています。これらの有形、無形の文化財は、私たちの日常生活に溶け込んでおり、普段は特別に意識をしない存在です。専門家や他の地域の人から見ると特別な歴史遺産が、ここ人吉球磨地域では日常光景の一つなのです。

 改めて、私たちの故郷である人吉球磨地域の豊かさと、それを創り、継承してきた先人達の営みに感謝の念を捧げたいと思います。観音堂の仏様(仏像)一つにしても、代々それを大切に守り伝えてきた人々の努力あってこそ、今に存在するのです。私たちは、過去からの先人達の贈り物を受けとめ、それを未来につなぐ責務があると言えるでしょう。

 多良木高校では、毎年、秋に強歩会という学校行事を開催し、人吉球磨地域の文化遺産を巡ります。今年も11月6日に実施予定で、日本遺産となった故郷を誇りに思い、生徒全員で歩きたいと思います。


         (平成26年度 強歩会「中山観音堂」にて)


ボランティア ~自然体で取り組む高校生

ボランティア ~ 自然体で取り組む高校生

 「とっても楽しいです!」とボランティア活動している生徒が目を輝かせ答えてくれた。6月6日(土)に多良木町民体育館で開かれた人吉球磨特別支援学級合同運動会(上・中球磨ブロック)に、42人もの多良木高校生がボランティアとして参加し、児童・生徒たちの支援や運動会の運営補助に当たった。

 今年で第45回となるこの運動会への本校からのボランティア参加者数としては、恐らく過去最高だろう。「多良木高校からこんなに多くの生徒さんがお手伝いをしてくれて心強いです。」と大会関係者から感謝の言葉を戴いた。

 ボランティアの生徒たちの様子を見ると、小学生、中学生に寄り添い、笑顔で一緒に運動会を楽しんでいる。男子生徒には小学校低学年の児童達がまつわりついている。5月23日(土)の球磨支援学校の運動会にも10人の生徒がボランティアとして参加したが、その時も同じ光景だった。ボランティアの生徒たちの姿は、何かをしてあげている、という感じではなく、とても自然な態度であった。

 小規模校だからこそ交流の幅を広げたいと学校としては考え、小学校での本の読み聞かせや運動の支援、地域の教育、福祉活動へのお手伝い等、年間を通して数多くのボランティア活動の機会を用意し紹介しているが、多良木高校生は、実に積極的に参加する。そして、自然体で取り組んでいる。その姿を目の当たりにして、ボランティアが若い世代に定着していることを実感する。

 「ボランティア(Volunteer)」という言葉は、義勇兵という語源の英語であり、自ら進んで社会のために活動を行うことを示す。もともと日本にも「奉公」や「奉仕」といった類似の言葉はあったが、「ボランティア」には自発性や無償性といった意味合いが強く含まれており、用語として広まった。特に、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の時に全国から自発的に集まり被災地の復興を手伝う人々をとおして、ボランティアの力が社会に認識され、この年を「ボランティア元年」と呼ぶこともある。当時、私が担任していたクラスの男子生徒の父親は、春休みになると(阪神・淡路大震災は1月17日に発生)仕事を休み男子生徒を連れて神戸市へボランティアに赴かれた。確か1週間ほど父子で瓦礫の撤去作業に従事されたと記憶している。会社のボランティア休暇制度もその後次第に整備された。

 阪神・淡路大震災から20年の時間が経った。様々な問題が社会にはあるが、自然体でボランティア活動に取り組む高校生を見ると、この国の未来に大いなる希望を抱く。