校長室からの風(メッセージ)
エンブリー家族と須恵村の人々との交流から学ぶ
「1年の始まりということで、グローバルな話を皆さんにお伝えしたいと思います。今からおよそ80年前に当時の球磨郡須恵村を、アメリカ人のジョン・エンブリーとその妻エラ夫人、まだ2歳の娘の3人家族が訪れ、1年間、村人と暮らすことになりました。1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけてのことです。夫のジョン・エンブリーはシカゴ大学の社会人類学研究者で、日本の平均的な小さな農村を対象に、コミュニティ・スタディ(共同体の研究)を行うことが目的でした。家族で暮らし、村人の仕事やお祭り、行事、日常生活などの観察、記録を続けました。欧米人が珍しい時代です。人々から驚きと好奇の眼差しでエンブリー家族の一挙一動が注目されたことでしょう。
また、1930年代はアメリカ合衆国と日本が政治的に次第に対立し、日米関係が悪化する時期でした。しかし、村人はとても温かくエンブリー家族に接し、交流が深まっていきました。夫のエンブリーは日本語が離せないため、東京から日本人の通訳を伴ってきていましたが、エラ夫人は子供の頃、日本で暮らした経験を持ち日本語を話すことができ、村の女性たちと井戸端会議を楽しんだそうです。1年の滞在を終え、帰国したエンブリーは須恵村の人々の生活を記録した『Suye mura』という学術書を出版し、人類学の博士学位を取得しました。
エンブリー家族が帰国して5年後に太平洋戦争が始まります。アメリカは敵国となり、「不倶戴天の敵」「鬼畜米英」などの荒々しいスローガンが戦争中は流行します。けれども、エンブリー家族と交流のあった須恵村をはじめ球磨郡の人々は、アメリカ人が鬼でも獣でもない事がわかっていたと思います。戦後間もなくエンブリーは不幸にも交通事故で42歳の若さで亡くなります。エンブリーがもっと長生きをしていれば、アメリカを代表する日本研究者になったものと惜しまれます。しかし、戦後6年目にエラ夫人が須恵村を訪れ、村人と涙の再会を果たします。須恵村の人々とエンブリー家族の絆は戦争によっても絶たれることはなかったのです。
(中略)
2003年(平成15年)に須恵村は免田、上、岡原、深田と合併してあさぎり町が誕生し、村としてはなくなりました。地元でもエンブリー夫妻のことを直接知っている人は少なくなってきています。しかし、国と国との政治的対立、そして戦争が起こっても、やはり人と人との交流がいかに大切かをエンブリー夫妻と須惠村の物語から学びます。インターネットで瞬時に世界のニュースや情報が行き交い、膨大なお金と物が国境を越えて流通し、人も気軽に海外旅行ができるグローバルな社会に私たちは生きていますが、だからこそ、80年前の須恵村の人々が行ったように、国籍や宗教や考え方が異なろうと、相手の立場や価値観など多様性を認め、思いやりをもって対等にコミュニケーションをとることが益々重要になってきていると思います。
エンブリー一家と須恵村の物語から皆さんが何かを感じ取ってくれれば幸いです。お互い、良い一年にしましょう。」
「箱根駅伝」を走った卒業生
「箱根駅伝」を走った卒業生
1月6日(金)、新春にふさわしい訪問者を多良木高校は迎えました。「箱根駅伝を走る」という夢を実現した2年前の卒業生、太田黒卓君(20歳)です。太田黒君は上武大学(群馬県)の2年生で、同大学駅伝部のメンバーとして、この正月2日3日に行われた箱根駅伝大会の往路3区で力走を見せました。3区を走るという情報を得ていましたので、当日は私も朝からテレビ中継放送を凝視し、上武大学の2区から3区への襷渡しの瞬間に太田黒君の雄姿を見ることができました。その時、「太田黒君は夢を実現したんだ」という熱い思いが込み上げてきたものです。
多良木高校時代、太田黒君は陸上の中・長距離選手として活躍し、3年次では熊本県高校総体の800mと1500mのチャンピオンに輝き、全国高校総体(インターハイ)の800mでは8位に入賞しました。穏やかで実直な人柄は皆から慕われる一方、陸上にかける並々ならぬ情熱と強い意志を持ち、朝夕、グラウンドを黙々と走る姿が印象的で、今も私の目に焼き付いています。そして、「箱根駅伝を走りたい」という夢を掲げ、上武大学に進学しました。昨年の箱根駅伝では出場が有力視されながら、直前の怪我で涙をのみました。それだけに、今年は期するものがあったと思います。見事、私たちの期待に応え、大舞台で走った太田黒君を私は握手で迎えました。
「応援していただいた皆さんに感謝します。」と太田黒君らしい感謝の言葉が最初の言葉でした。高校を卒業して2年、大学駅伝で鍛えられ、一段とたくましく頼もしく成長したように見えました。3区21.4㎞の個人目標タイム(1時間4分50秒)を上回り、区間10位の走りで2人を抜き14位で次の走者に襷を渡すことができ、個人としては満足の結果だったと太田黒君は語ってくれました。来季は、エース区間の2区を走り、上武大学としてシード権(10位以内)を獲得することを目標に挙げてくれました。
「箱根駅伝を走る」という夢を実現し、次の夢に向かって走り続ける新成人のエネルギーに接し、新年早々、大いに希望と元気を得た思いです。前を向いている若人にとって、夢は実現するためにあるのでしょう。
女子バレー部の優勝 ~ 球磨郡旗大会
~ 球磨郡バレーボール協会旗大会 ~
エースアタッカ-の加原さん(1年)の高い打点からのスパイクが決まり、25対23。接戦を制し、多良木高校が人吉高Aチームを破って優勝。会場の多良木高校第1体育館は応援に詰めかけた野球部員、保護者等から大きな歓声があがりました。監督の境教諭の目にも涙が光ります。
12月23日(金)、天皇誕生日の祝日に多良木高校体育館で球磨郡バレーボール協会旗大会が開催され、人吉球磨地域の4高校5チームの女子バレーボールチームが参加しました。気温の低い一日でしたが、どの試合も白熱した好ゲームが続き、体育館内は熱気に包まれました。
多良木高校女子バレー部は、キャプテンの高尾さん(2年)を中心にチームワークが抜群で、日頃からひたむきに練習に取り組んでいます。部員は10人(2年3人、1年7人)と少ないのですが、きびきびとした動き、大きな掛け声、そして練習の最後には校歌の合唱と、日々の活動をとおして元気を発信し、学校の活力を生み出してくれる存在です。
一つのボールに集中する姿勢、きらきらとした眼の輝き、お互いを励ましあう連帯と多良木高校女子バレー部の真価が発揮され、この大会での15年ぶりの優勝を勝ち取りました。午前中から陸上部、男子バスケット部、そして午後は野球部と他の部活動の生徒たちも応援に駆け付け、ホームならではの大きな声援が2階席から飛びかい、コートの選手たちと応援団との一体感が醸成され、決勝戦の雰囲気は最高潮でした。
県大会レベルに比べると小さな大会ですが、その勝利を多くの生徒、職員、保護者の方々と分かち合えたという点で大きな喜びを学校にもたらしてくれました。高校生の躍動感とスポーツが持つシナリオのないドラマに引き付けられた一日でした。
2学期表彰式・終業式
「さて、2学期の始業式で、生徒指導主事の上原先生が印象的な呼びかけをされました。「2学期の多良木高校はごみが落ちていない学校にしよう」と。覚えているでしょうか。
ごみは自然に生まれるものではありません。誰かが何かを捨てて、あるいは放置してごみとなります。どんな時にごみを捨てるのでしょうか? 恐らく、周囲に人の目がある時にはごみのポイ捨てはしないはずです。誰も見ていない時にするのでしょう。結局、誰も見ていない時にどんな行動をとるかでその人の人間性は決まるのではないでしょうか。誰も見ていない時に黙々と練習する人、勉強する、掃除をする人は、きっと伸びるでしょう。誰も見ていない時にさぼる人、ごみを捨てる人とは大きな差がつくはずです。皆さん、プライドを持ちましょう。皆さんの行いを誰かが見ています。たとえ誰も見ていなくてもあなた自身は見ています。自分自身に誇りを持つと見苦しいことはできないはずです。そんなことをする自分を自分自身が許せない、という気持ちになってくれることを期待します。お蔭で、2学期は校内のゴミも減り、とても気持ちが良いものです。3学期はさらにすっきりした学校環境になることを望んでいます。
明日が天皇誕生日で祝日、そして明後日24日がクリスマスイブ、25日がクリスマスですね。皆さん、クリスマスとは何を祝う日なのですか? そう、世界で最も信仰する人が多い宗教のキリスト教、その創始者であるイエス・キリストの誕生を祝福する聖なる日です。けれども、イエスキリスト、英語名のジーザス・クライストという人物が12月25日に生まれたという記録はありません。聖書にも書かれていません。では、なぜ12月25日に生まれたことになったのでしょうか? キリスト教が成立し、最初に広まったのはヨーロッパをはじめ北半球です。日本も含む北半球はこの時期が最も昼が短く夜が長くなります。日本では冬至と呼ばれる日がありますね。今年は昨日12月21日が冬至で、1年で最も昼間の時間が短い日でした。夜の暗さに長く支配されていた北半球が光を取り戻し、一日一日、昼間の時間が長くなっていく変化の時期なのです。そのような時に人々に光をもたらす救世主イエスキリストが誕生したのだとヨーロッパの人は考えたのです。
冬来たりなば春遠からじと言われます。これから一日一日、少しずつですが、太陽の時間が長くなります。新しい年、西暦2017年、平成29年を希望をもって迎えましょう。皆さん、良いお年を。」
次の人に襷をつなぐ ~ 校内駅伝大会
「2年1組の皆さん、優勝おめでとう。襷をつないだ5人の懸命の走りは力強さがありました。優勝するぞという気迫が伝わってくる走りでした。2年1組は昨日のクラスマッチでは、女子のバスケット、男子のバレー共に準優勝で悔しい思いをしたので、喜びもひとしおと思います。また、惜しくも2位となった1年2組の皆さんの快走にも驚かされました。昨日の1年1組のバスケットの優勝と合わせて1年生のエネルギーを感じました。
長距離走は多くの人が苦手とするものだと思います。けれども、次の人が待っている、ゴールではみんなが待っていることが走る力となります。多くの熱い声援に支えられ、参加者全員が完走したことを頼もしく思います。さすが多高生です。
この二日間をとおして改めてスポーツの素晴らしさを感じました。私が小学生のころはソフトボールとドッジボールが人気で、友達と夢中になってやっていましたが、エラーしたり、ミスしたりすると、お互いよく「ドンマイ、ドンマイ」と声を掛けあっていました。ドンマイとは気にするなという励ましの言葉だと思い、使っていました。中学校で英語を勉強して初めて、「Dont Mind」の略語として日本人が使う和製英語だと知りました。本来は、「Never Mind」「Don’Worry」、「Switch Your Mind」などと言うべきなのでしょうが、当時は「ドンマイ」でした。しかし、思うのです。スポーツをしている時ほど、ごく自然に「ドンマイ」のような励ましの言葉が出る時はありません。これもスポーツの持つ力でしょう。
スポーツの種目によっては得意、不得意があります。いや、スポーツ全般が苦手という人も少なくないでしょう。けれども応援はできます。また、ふだんとは違うクラスメイトや仲間の頑張る姿に気づきます。自分はレギュラーではないけれども、応援でがんばる、サポートで頑張ると様々な役割があっていいと思います。先週のある日の夕方、夕闇の中を3年生の女子生徒が数人で走っていました。「頑張るね」と声を掛けたら、「私たちは遅いんです。でも、最後の駅伝大会だから、クラスに、チームに少しでも迷惑をかけたくないから走っています」と答えてくれました。苦手でも自分の役割を果たすという姿勢に胸を打たれました。
結びになりますが、この後、正門付近で保護者有志の方と生徒会、野球部の皆さんで門松づくりが行われます。門松は、新しい年の神様が天から降りてこられる目印(「依代(よりしろ)」と言いますが)となるものです。これで学校も新年を迎える準備が整います。来年はさらに私達の学校、多良木高校が輝く年になるという期待がふくらんだ二日間でした。」
登録機関
管理責任者
校長 粟谷 雅之
運用担当者
本田 朋丈
有薗 真澄