校長室からの風(メッセージ)
多良木高等女学校の先輩
多良木高等女学校の先輩 ~ 勤労動員の青春
昭和20年3月に多良木高等女学校を卒業された大先輩のお二人が、先日、校長室を訪ねてこられました。湯前町在住の東さんと岩木さんで、御年88歳ですが、かくしゃくとして誠にお元気です。東さんは今でも自動車の運転をなさり、軽自動車を自ら運転し岩木さんを乗せて来校されました。戦争中、沖縄から多良木に疎開され、多良木高等女学校で学ばれた方について琉球大学の歴史の先生が調べておられ、依頼を受けた私が高等女学校時代の思い出話を伺いたいとお願いしたのです。
終戦から71年となり、遙かな歳月の彼方ですが、お二人の記憶は鮮明で、まるで昨日のように高等女学校時代のことを語られました。お二人は小学校を終え、昭和16年4月に多良木高等実科女学校に入学されました。多良木高等実科女学校は裁縫、調理等の家政科を中心とした教育課程で、地域社会における良妻賢母の育成を目指し、4年制、1学年定員は100人でした。昭和18年に実科女学校から高等女学校に名称が変更されました。沖縄から疎開してきた同級生のこともよくおぼえていらっしゃいました。
そして、お二人にとって最も強く印象に残っていることは4年生になって赴いた勤労動員でした。戦局が悪化し、女子学生が軍需工場で働くことになり、多良木高等女学校の4年生は、昭和19年10月から学校を離れ、熊本市健軍にあった三菱航空機製作所で働いたのです。東さんは航空機部品の組み立て、岩木さんは工作機械の旋盤担当で、全員が「神風」の鉢巻きを締め、防空ずきんを着用しての作業の日々でした。昭和20年になると日本の空をアメリカ軍が支配し、連日のようにB29爆撃機の空襲を受けました。軍需工場は特に標的にされ、爆撃により多くの工場の職員、勤労女学生が命を落としました。
昭和20年3月、工場の寮において、勤労動員の女学生合同の卒業式が行われました。終戦後も、多良木高等女学校同級生の絆は強く、定期的に同級会や親睦旅行をされてきたそうです。やはり、生死を共にした勤労動員体験がお互いを強く結びつけていたのだろうと語られました。
戦後の学制改革により高等女学校はなくなり、新制多良木高校も昭和44年に現在の地へ移転しました。その時、高等女学校時代の旧正門も新校舎の野球場入り口に移しました。体験談を語り終えられた東さんと岩木さんは、帰られる際、この旧正門である古い石柱をなでて懐かしがっていらっしゃいました。
多良木高等女学校時代の旧正門
登録機関
管理責任者
校長 粟谷 雅之
運用担当者
本田 朋丈
有薗 真澄