2018年8月の記事一覧
槻木地区の高齢者の方との交流活動
槻木地区の高齢者の方との交流活動
~ 槻木「希望いきいき学校」 ~
昨年度から児童がいなくなり休校状態にある多良木町立槻木(つきぎ)小学校へ、8月30日(木)、3年生の福祉教養コースの生徒14人を引率して行きました。槻木小は多良木高校から南におよそ20㎞離れたところにあります。槻木は多良木町の南の端に当たり、地図で見るとこの地区だけが宮崎県域にぐいと入り込んでいます。槻木地区は住民が120人ほどで高齢化率は77%に達しています。槻木を訪ねるのは容易ではありません。県道143号を球磨盆地側から上り、曲がりくねった細い道を走行し、標高780mの槻木峠を越えなければなりません。ジャンボタクシー2台を貸切り向かいました。
今年度、休校中の槻木小学校で毎月1回、地域の高齢者の方が集まって「希望いきいき学校」という社会教育プログラム活動が行われています。多良木町教育委員会からの依頼もあり、福祉教養コースの生徒たちはこの活動に参加するため赴きました。会場にはおよそ20人の方が私たちを待っておられ、歓迎してくださいました。
午前10時にプログラム開始。最初に生徒たちがダンスを披露。次に介護予防体操を行いました。そして、身体を動かしながらのゲームに興じました。生徒も交じって二班に分かれ、初めに大きなバレーボール、次に小さい卓球のボールを後ろの人に振り向かずに頭の上で手渡ししてリレーするもので、笑い声が絶えませんでした。休憩をはさんで、後半は福祉教養コースでどんなことを学習してきたかを生徒が発表し、最後は生徒と高齢者の方で協力しながら小物づくり(ピンクッション)に取り組みました。針穴にさっと糸を通される高齢者の方の慣れた手つきに感嘆の声を上げる生徒もいました。
午前11時15分にプログラム終了。皆さんと別れを惜しんだ後、小学校の傍らを流れる槻木川の中にある天然の河川プール(コンクリートで簡単な囲いのみ)に生徒たちは素足で入り、冷たい清流の感触に喜んでいました。日頃は静かな別天地の山里に、高校生の明るく元気な声が響き渡りました。多良木高校所在地より気温が3~4度は低く、秋の気配を感じました。
閉校まで残り半年余りですが、最後まで地域と共に歩みたいと思います。
「永世監督」、「永世指導者」 ~ 野球部指導者の方への感謝状贈呈式
「永世監督」、「永世指導者」
~ 野球部指導者の方々への感謝状贈呈式 ~
8月28日(火)、多良木高校の2学期の始まりです。始業式の後、長年にわたって多良木高校野球部をご指導いただいた齋藤監督、馬場コーチ、尾方コーチに対して、学校として感謝の気持ちをお伝えする場を設けました
本校の教育活動や部活動に対してご支援やご協力をいただいた方はたくさんいらっしゃいます。しかしながら、野球部の齋藤監督、馬場コーチ、尾方コーチは、その期間の長さ、そして関わりの深さが類を見ない特別な存在です。
齋藤健二郎監督は教諭として10年、そして多良木高校校長をお務めの後、多良木町に単身残られて9年、通算19年間、監督としてご指導いただきました。熊本県高校野球界では百戦錬磨の名将として知られる方です。多良木高校をこよなく愛され、その発展、存続にご尽力いただき、心から敬意を表します。
馬場正吾コーチは、本校野球部のOBであり、齋藤監督が若かりし頃の教え子に当たられます。高校時代はキャプテンを務められたそうです。斎藤監督を支えて、この8年間ご指導いただきました。
尾方功一郎コーチも本校野球部のOBです。高校時代はキャッチャーで後にプロ野球で活躍された野田投手とバッテリーを組まれていました。監督、そしてコーチとして16年間ご指導いただきました。
馬場コーチも尾方コーチもそれぞれお忙しい家業の傍ら、ほぼ毎日野球場に足を運んでいただく姿に私はただ頭が下がる思いでした。
齋藤監督に多良木高校野球部の「永世監督」、馬場コーチと尾方コーチには「永世指導者」の称号を記した感謝状を贈呈しました。生徒代表として野球部の平野主将がお礼の言葉を述べ、女子マネージャーが花束を贈りました。
3人の指導者の方々から生徒たちに対して、「社会のルールを守る」、「平坦な道ばかりではない、挫折があっても負けるな」、「しっかり生きていってほしい」等の励ましの言葉を掛けていただきました。3人の指導者の方々は、多良木高校を最後まで支えて頂いたのです。
夢の「甲子園出場!」 ~ マスターズ甲子園出場決定
夢の「甲子園出場!」 ~ マスターズ甲子園出場決定
「甲子園出場の夢が叶いました!」
野球部OBの方から興奮気味の連絡が入ったのはお盆直前の8月12日(日)の夕方でした。私は一瞬何のことかわかりませんでしたが、説明を聞き、それが高校野球OBによる「マスターズ甲子園大会」であることを理解しました。
高校時代に甲子園に出場できる球児は一握りの者です。高校を卒業しても野球を楽しむ「永遠の高校球児たち」のために「マスターズ甲子園」が創設され、今年が第15回を数えます。結束の強い多良木高校野球部OB会はこの「マスターズ甲子園」を目指してきましたが、昨年も県予選大会で準優勝に終わり、出場できずにいました。
しかし、今年は、坂口幸法会長を中心にOBの気合の入り方が違っていたそうです。高校球児が果たせなかった夢を、閉校の年にOBが団結して叶えようと46人がチームに名を連ね、地区予選を勝ち上がり、地区代表の8校で県代表を決めるトーナメント大会(8月11~12日、県営藤崎台球場)に臨み、見事優勝したのでした。マスターズ甲子園大会は11月10日~11日開催です。
マスターズ甲子園の出場選手は社会人野球、大学野球の現役選手及びプロ野球関係者では無いこと。そして試合は最初に34歳以下の選手が制限時間50分、次に35歳以上の選手が1時間10分プレーしての合計で戦います。34歳以下の若手メンバーには近年卒業し人吉球磨地域で仕事をしながら趣味で野球を続けている者が7人も名を連ねています。高校時代に果たせなかった夢を彼らは社会人になって実現したと云えるでしょう。
甲子園出場を目指して半世紀にわたって戦ってきた多良木高校野球部は、その目標を実現することなく先月「終戦」を迎えました。甲子園出場は見果てぬ夢となりました。けれども、OBの方々の熱い思い、強い絆によって、閉校前に、野球の聖地である甲子園球場のスコアボードに「多良木」の名前が載ることになりました。OBの方々からの驚くべき贈り物です。
夢は叶う、諦めなければ。野球部OBのマスターズ甲子園出場を学校あげて祝福したいと思います。
マスターズ甲子園の県予選大会優勝
魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡
魚雷を造った地下トンネル ~ 錦町の「人吉海軍航空基地」跡
「錦町の高原(たかんばる)に戦争中、海軍の基地があった。」と4年前に球磨郡に赴任した時に郷土史家の方から話を聞きました。調べてみると、戦局が激しさを増した昭和18年(1943年)11月に球磨川と川辺川に挟まれた丘陵地帯に建造が始められ、翌年2月に人吉海軍航空基地が発足しました。飛行機の搭乗員や整備士の養成が主目的の基地でした。今も残る2基の堅牢な石造りの隊門や慰霊碑等を巡り、往時を想像したものです。
終戦から73年目の夏、この人吉海軍航空基地跡に資料館が開館しました。「ひみつの基地ミュージアム 錦町立人吉海軍航空基地資料館」(錦町木上西)です。昨日(日曜)見学に行きました。館内の展示では、昭和20年に地元の山中に墜落した零戦(ゼロ戦)の部品残骸が目を引きました。写真パネルでは、航空燃料不足を補うための松根油(しょうこんゆ)の製造の様子が印象に残りました。
また、館外の戦争遺跡への見学会が実施されており、台地の縁の崖に穿たれた巨大な地下魚雷調整場に入ることができました。9万年前に噴火した阿蘇の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の崖を人力で掘削し造られた地下トンネルです。縦5m、横5mのトンネル入り口の前に立つと、向こうに広がる大きな闇が戦争を象徴しているかのような迫力を覚えます。この「魚雷」は、航空機の胴体に括り付け敵艦目がけて発射するものでした。昭和20年(1945年)に入るとアメリカ軍の空襲を受けるようになり、作戦室、兵舎、武器弾薬庫等の多くの施設を地下に設け、まさに秘密の地下基地の様相を呈したようです。
昭和20年8月15日、終戦。結局、2年足らずの短い実働の基地でした。当時の滑走路跡の東端にミュージアムは建てられており、西に向かって伸びる狭い農道を展望できます。多くの古写真が残されていますが、今となっては海軍航空基地がここにあったことは幻のようです。しかし、だからこそ残存する戦争遺跡を直視する意義は大きいと思います。
今日は平成30年(2018年)8月6日。広島に人類史上初めての原子爆弾が落とされて73年目を迎えました。
今に残る地下魚雷調整場跡
登録機関
管理責任者
校長 粟谷 雅之
運用担当者
本田 朋丈
有薗 真澄