校長室からの風
「流行感冒」とコロナパンデミック
志賀直哉の「流行感冒」という短編小説を読みました。大正8年(1919年)発表の作品で、「りゅうこうかんぼう」と読みます。当時、我が国で爆発的に感染が広まった強力なインフルエンザのことを指します。この小説を読む契機は、同作品がドラマ化され4月10日(土)にNHKBSで放映されたことでした。学校の図書室に行き、原作が収録されている「志賀直哉全集第三巻」(岩波書店、昭和38年刊)を司書の先生に書庫から探してもらいました。ドラマと原作の小説ではあらすじが異なる部分はありましたが、作者自身と思われる主人公の心理の揺れがテーマであることは同じでした。
東京近郊の村に住む小説家の主人公の家族のもとに、流行感冒(インフルエンザ)が蔓延してきます。最初の子どもを病気で亡くしている主人公は娘の健康についてひどく神経質となり、些細なことでも他者に対し疑心暗鬼となります。結局、自分自身が感染し、家族も罹患します。幸い、周囲の支援があって回復に至り、人間不信からも脱却できることになります。主人公の心理的動揺は、目に見えない感染症流行の怖さを象徴していると言えます。
この「流行感冒」は当時「スペイン風邪」と呼ばれ、世界的流行(パンデミック)となりました。1918年、第1次世界大戦の主戦場のヨーロッパで各国の軍隊の移動に伴い兵士を介して感染が拡大し、パンデミックが始まりました。日本にも飛び火し、熊本でも多くの学校で臨時休校の措置が取られています。「スペイン風邪」では全世界で4000万人の犠牲者が出たと推定されます。わが国でも38万人が亡くなったとの記録が残ります。有効な抗生物質やワクチンもなかったことに加え、第1次大戦中で各国が情報統制を敷き、対応が遅れたことで驚くほどの犠牲が生じたことになります。
人類は1世紀前にパンデミックの苦難を経験していたのです。問題は、この「スペイン風邪」パンデミックの記憶が後世になぜ伝わらなかったのかということです。今回の新型コロナパンデミックであらためて注目され、初めて知ったという人が多いのではないでしょうか?
「不都合な事実」を私たちは見ない、避ける、忘れる傾向にあります。近代に起こった「スペイン風邪」の惨状のことを私たちはよく知りませんでした。記録は残っていても、どうして後世に伝わらなかったのか不思議と言わざるをえません。大正時代の文学でも、志賀直哉の「流行感冒」以外にスペイン風邪を題材にしたものはほとんどないと言われます。
今回のコロナパンデミックを次の世代にどのように伝え、考えさせていくかは学校教育の役割だと思います。このことは現在を生きる者の次代への責務だと思うのです。