2020年12月の記事一覧

年の瀬を迎えて

 12月28日(月)、冬休みですが、部活動の生徒の姿が多く見られます。青空が広がり温かい陽光が注ぎ、小春日和です。グラウンドや体育館で体育系部活動の生徒たちが気持ち良さそうに身体を動かしています。学校は明日から1月3日まで閉めることになるので、今日が学校にとっては今年最後の日となります。

 令和2年(2020年)は大変な一年でした。いまだ新型コロナウイルス感染は猛威を振るい、燎原の火のように衰える兆しがありません。不安な年の瀬です。しかし、あと数日で新年を迎えるということで、来年こそは新型コロナウイルス感染の終息を願う気持ちが高まってきます。旧年の災厄を払拭したいという思いは今も昔も変わりません。いや、医療をはじめ科学技術が未発達だった昔の人の方がより強いものがあったと思います。

 かつて「災異改元」(さいいかいげん)が歴史上しばしば見られました。大規模な自然災害(地震、火山噴火など)や疫病流行、天候不順による凶作、戦乱などの災いに見舞われた時、人心を一新するため、朝廷によって元号が変更されたのです。その反対が「祥瑞改元」(しょうずいかいげん)で何か世の中にとって吉事が起きた時に元号を改めました。歴史上有名な祥瑞改元の例は、和銅(708年)でしょう。武蔵国秩父郡(現在の埼玉県)から天然の銅が産出されたことを祝い、改元されました。

 しかしながら、歴史的には「祥瑞改元」よりも「災異改元」の方がはるかに多いのです。645年の「大化」以来、今日の「令和」に至るまで248の元号があります。元号は天皇(大王)が即位するにあたり、時間も支配するという観点から代始(だいはじめ)改元が本来のあり方ですが、災禍に襲われた時、改元によって時間の連続性をいったん絶ち、リセットする社会的効果は大きいものがあったのでしょう。先人たちの切迫した思いが「災異改元」から読み取れます。

 明治維新の1868年(明治元年)に一世一元(いっせいいちげん)の制が定められ、天皇一代の間に一つの元号を用いることと決まりました。新年は令和3年です。新型コロナウイルスのパンデミックで世界が覆われ、希望を見失いがちだったこの一年。多くのものを失いましたが、その中でも学んだものもあったはずです。そのことを大切にして、新年に臨みたいと思います。

 結びに、年末年始の休みもなく、コロナウイルス感染者の治療に献身的に当たっておられる医療従事者の皆さんに心から感謝の気持ちを捧げます。

        御船高校正門に生徒会役員によって門松が立てられました 

 

 

 

最後のクラスマッチ

 「皆さん、人生最後のクラスマッチです! 楽しい思い出を作りましょう!」

 前生徒会長の田中美璃亜さん(3年B組)の挨拶で、3年生のクラスマッチが始まりました。クラスマッチは学校特有の行事です。クラス(学級)対抗で主にスポーツ活動を競うもので、学校には欠かせない年中行事と言えます。クラスの団結心を養い、チームスポーツを通じてコミュニケーション力を高めあう目的があり、教育的意義も大きいものがあります。そして、何より生徒たちにとっては楽しみな行事で、学校生活に変化を与えます。

 しかし、新型コロナウイルス感染拡大によって、今年度は体育大会、長距離走大会、クラスマッチとスポーツに係る学校行事を中止してきました。本来なら体育大会は3年生がリーダーとして牽引する晴れの場であったのですが、その機会は失われました。このまま何もできずに3年生は卒業することになるかと危惧していたのですが、体育科を中心に企画、準備し、12月23日(水)に3年生だけのクラスマッチ開催を実現できたのです。

 3年生にとって最後のクラスマッチです。3限目から6限目の授業を3学年6クラスだけクラスマッチの時間にあて、1、2年生は通常授業を行いました。競技種目は男子がグラウンドでサッカー、女子は体育館でミニバレーです。天候も味方してくれ、晴天で日中は気温も上がりました。

 さすがは3年生で、サッカー部と女子バレーボール部の生徒による審判のもと円滑に試合が運営され、プレーの技術も高いものがありました。もちろん珍プレーも続出しますが、一生懸命だからこそ珍プレーが生まれるのであり、温かい笑い声や歓声が響きました。スポーツが得意でない生徒は応援や写真撮影に回り、声援を送る姿も爽やかでした。

 バレーボールを追いかけ体育館の床で転げる女子生徒やサッカーで競り合って転倒し体操服が土で汚れる男子生徒の姿を見ていると、熱いものを胸に覚えました。このように思う存分エネルギーを発散する場(学校行事)を3年生は待っていたのだと思います。彼らは、コロナパンデミック下の様々な制約の中、辛抱し、我慢し、自らの進路実現に向け、努力を続けてきたのです。

 時間ほど確かに過ぎ去るものはありません。大変な1年であった令和2年(2020年)も残り一週間。3年生のクラスマッチという学校本来の輝きを少しだけ取り戻すことができたことは、御船高校にとって大きかったと思います。

 

コロナ禍の中にあっても ~ 熊本県高等学校書道展

 第56回を数える熊本県高等学校書道展が12月15日(火)から20日(日)まで熊本県立美術館分館(熊本市)で開催され、最終日には表彰式を行いました。

 今年は新型コロナウイルス感染拡大という未曽有の事態に私たちは直面しました。学校教育も大きな影響を受け、文化活動の面においても、6月の熊本県高校総合文化祭が中止、8月の全国高校総合文化祭高知大会は生徒の参加ができませんでした。そして、12月に予定されていた全九州高校総合文化祭熊本大会も大幅に縮小され、書道部門の生徒たちの参加は叶いませんでした。社会的に、また日常の生活でも様々な制約を受け、生徒の皆さんは思うような活動や成果発表ができなかった一年だったと思います。それだけに、年の最後を締めくくる熊本県高等学校書道展(高書展)の開催実現は、私たち関係者にとっては特別な意味を持つものでした。

 書道に親しむ高校生にとって、この高書展は大きな目標だと思います。今年の高書展には県内46校から218作品が出品されました。コロナ禍で出品数が減少するかと懸念したのですが、例年と変わらないものでした。各校の展示スペースに制限があるため、多くの学校で選考会が行われており、実際にはさらに多くの生徒が大会に参加しています。その中から厳正な審査の結果選ばれた受賞者20人が表彰式に招かれました。受賞者の皆さんは、緊張の色を浮かべながら、晴れ晴れとした表情でした。最優秀賞の8人は、来年8月に開催される全国高校総合文化祭和歌山大会に熊本県代表として推薦されます。最優秀賞に坂口さん(2年)、優秀賞に坂井さん(1年)と御船高校から二人の受賞者を出したことは大きな喜びです。

 コロナパンデミックという困難な状況の中でも、多くの高校生が創作に励んできたのです。逆境においても、熊本の高校生は弛(たゆ)みない努力を続け、文化活動をおこなってきたという証が、「高書展」会場に並ぶ作品群です。不遇な一年だったことを微塵も感じさせない、若いエネルギーが作品に満ち広がっているのです。このことを誇りに思います。

 コロナ禍にあっても、軸がぶれず精進してきた多くの高校生の成果に触れることができ、「後生畏(こうせいおそ)るべし」(論語)の言葉が浮かびました。

 自分が打ち込めるものを持っている若者は、どんな時も強いと思います。

 

作品に賭ける思い ~ 全九州高校総合文化祭

   2千人を超える高校生が熊本に集い、全九州高等学校総合文化祭熊本大会が12月11日(金)から13日(日)に開催されるはずでした。しかし、新型コロナウイルス感染対策を最優先に考え、大幅に規模が縮小し、内容も変更されました。私が部門長を務める書道部門はじめ多くの部門で各県から生徒の皆さんを招くことは断念しました。8年に一度回ってくる九州の高校生たちの文化祭が失われたことは返す返すも残念でなりません。

   書道部門では「生徒の皆さんが集まることができないのであれば、その作品を集め、審査しよう」との方針で各県の高等学校文化連盟の書道部会に呼びかけました。どの県も趣旨にご賛同いただき、九州8県それぞれで、制限時間などの諸条件を同一にした揮毫(きごう)大会を開くことにしました。本来なら、県代表の生徒たちが熊本に集結して、一堂に会し、その場で筆を競うのが揮毫大会のあり方ですが、実施期日や場所は各県に任せたのです。そして、各県代表の作品10点を郵送もしくは持参していただき、それを審査することとしました。

   12月12日(土)、熊本マリスト学園中学・高等学校において、7県の高校書道の専門委員長の先生方をお迎えしました。感染者が多く出ており、警戒レベルも高いはずの福岡県や沖縄県からも来ていただきました。審査に先立ち、主催県の代表として私から「生徒の皆さんを集めての大会が開催できず、誠に申し訳ありません。」とお詫びを申し上げました。それに対して、出席の皆さん方から「この状況では仕方がなかった」、「このような形で揮毫大会を開いていただき感謝します」等の温かい言葉を頂きました。

   各県の代表の先生方に何か覚悟のようなものを感じました。それは、生徒たちに、コロナ禍の不遇な時期に巡り合ってしまったと嘆かせないため、教師ができることは何でもやるという気迫のようなものです。コロナ第三波の渦中、県外出張することはリスクがあります。それでも、生徒たちの作品を持参し、熊本まで来られた先生方の使命感に頭の下がる思いでした。

   全九州高等学校総合文化祭熊本大会「書道部門揮毫大会」の審査は九州各県の専門委員長8人によって厳正に行われました。実際に熊本に集まり交流が叶わなかった分、作品に賭ける生徒の皆さんの思いはより強いものがあったと思います。一点一点の作品から書き手のエネルギーが立ち昇っているように私は感じました。

   生徒の皆さんの代わりに、作品がその人格を背負い、熊本に来てくれたのです。

                   審査風景

防災の担い手に ~ 防災訓練

 12月10日(木)の午後、防災訓練を実施しました。コロナ禍で今年度は多くの学校行事を中止してきましたが、防災訓練は中止することはできません。なぜなら、学校にとって最も大事な「安全」に係るものだからです。感染症パンデミックの中にあっても自然災害は起きます。7月の熊本県南部の豪雨災害がそうでした。自然災害はいつ、どこで、どんな形で起きるかわかりません。だから、防災の備えが必要なのです。

 今年度の防災訓練は、地震が起こり火災も校内で発生したという想定での訓練でした。例年、全校生徒が避難場所としてグラウンドに集まっていましたが、今年は、密集を防ぐため学年ごとに避難経路を分け、3年は体育館、2年は駐車場、1年生はグラウンドとしました。そして、集合・点呼後にそれぞれ講話を行いましたが、3年生には校長の私が「社会人としての防災意識」のテーマで話しました。その中で、地域の消防団活動への関心を持つように語りましたが、その一部分を次に掲げます。

  「災害の時によく言われるのが三つの助け、公助、共助、自助です。公助は自衛隊や消防、警察のような公的組織力による救助や自治体による支援です。最終的にはこれに頼ることになるのですが、その前に共助、即ち地域コミュニティや会社、学校などの所属団体でどれだけ助け合うかが鍵になると言われています。

 皆さんは、消防団を知っていますか?公務員の消防士がいる消防署と異なり、消防団は全国の市町村に配置され、会社員、自営業、学生など仕事や学業の傍ら、活動できます。手当は出るようですが、公的なボランティア活動と言っていいと思います。18歳以上であれば入団できます。一定の訓練を受け、日常の防災活動、そして火災や災害が発生すれば現場に駆け付けて消防士や警察官と連携して住民誘導や警戒活動に当たります。少子高齢化が進む地域において、この消防団活動は、住民の安全、安心を守るために益々重要になってきています。これから社会へ出る皆さんに消防団活動への関心を持ってもらいたいと思います。」

  今の高校3年生は中学生の時に熊本地震を体験しました。日常生活がいかに尊いものか、いったん災害に襲われるとどんなに苦しく不便な生活を余儀なくされるのか、身をもって知っています。不幸な経験でしたが、この経験はきっとこれからの人生において役に立ちます。地域社会の防災の担い手に成長していってくれることでしょう。

 

企業の皆さんと共に ~ 産業教育振興会

 12月8日(火)午後、上益城・宇土・宇城地区の企業の代表の方10人ほどを御船高校にお迎えしました。そして、電子機械科3年生の実習の様子を実習棟でご覧いただきました。内容は、①4サイクルエンジンの分解・組み立て、②電子計測、 ③CAD製図、④シーケンス制御です。各企業は、運輸、ソフトウエア、化学、金属製造など異なる分野の方達ですが、どの実習も興味深くご覧になり、教員や生徒に質問されていました。皆さんが評価されたのは、電子機械科の実習がまとまった時間が確保されていること(1サイクルが3時間)、少人数で実習していること(10人前後)でした。一方、一部の工作機械など設備が老朽化している点は懸念されていました。

 そして場所をセミナーハウスに移し、熊本県産業教育振興会「上益城・宇土・宇城地区支部会」を開催しました。産業教育振興会とは、産業界と教育界(高校)が一体となり、地域における実践的教育や職業体験を通じて、次世代の地域産業を担う人材育成を図ることを目的に結成されています。「上益城・宇土・宇城地区支部会」は、この趣旨にご賛同いただく10社の企業の皆さんと、専門高校及び専門学科を有する5高校(矢部、甲佐、松橋、小川工、御船)で構成されています。年に1回、企業の皆さんと高校が一堂に会し、協議する場を持っており、今年度は御船高校が当番校でした。

 御船高校はじめ5高校全て、2年生で就業体験実習(インターシップ)を実施しています。各企業・事業所のご協力により実際に仕事の現場に赴き、数日から1週間程度(日数は学校及び学科で異なる)、体験するものです。このインターシップの教育効果は誠に大きいものがあります。この体験で、生徒たちは、働くこと、社会人になることを深く考えるようになり、進路意識が高まります。この日、企業の皆さんからも、「受け入れた生徒たちは真剣に取り組む」、「指導する社員にとっても新鮮な刺激になる」、「人材発掘の場にもなっている」等、インターンシップに対してはとても肯定的なご意見がだされ、安堵しました。

 また、高校で身に付けていてほしい力として、「学び続けるための基礎、基本」や「コミュニケーション力」を企業側が共通して挙げられました。そして、業種を問わず、女子生徒の採用に積極的な姿勢を示されたのが印象的でした。

 「少子高齢化が進む中、一人ひとりの高校生は地域の宝です。一緒に大事に育てていきましょう。」と上益城・宇土・宇城地区支部会の住永金司会長(熊本交通運輸株式会社代表取締役社長)がまとめられました。銘記したいと思います。

 

卒業コンサート

 開演を知らせるブザーが鳴り、観客席の照明が次第に暗くなります。一方、ステージはより明るくなり、まるで暗い海に浮き上がる光の舞台のようです。久しぶりにコンサート開演の雰囲気を味わいました。コロナ禍の中、御船高校芸術コース音楽専攻生の演奏会を立派な音楽ホールで開催できることに感慨深いものがありました。

 12月8日(火)、御船町カルチャーセンターのホール(500席)で、午後6時から御船高校芸術コース音楽専攻演奏会が開かれました。この演奏会は、3年生にとっては卒業コンサートとなります。芸術コース音楽専攻生にとっては毎年恒例の大きな行事ですが、今年は開催できるか心配の声がありました。秋になり新型コロナウイルス感染の第三波が起こり、この熊本でも警戒レベルが上がりました。しかし、御船町カルチャーセンターのご理解もあり、主催者の学校側が感染対策を十分に講じるということで演奏会実現に漕ぎつけたのです。音楽ホールで演奏できるかできないかは、生徒たちの気持ちが大きく違ってきます。

 当日、会場の受付では、音楽専攻者だけでなく芸術コースの他の生徒達も協力し、来場者の検温や連絡先記入、誘導などが行われました。観客席は一つおきに座り、30分に一回は換気が行われました。生徒と教職員による手作りの演奏会であり、当事者として感染対策に努めたことは大きな意義があったと思います。

 音楽専攻生は3年生4人、2年生5人で、9人全員がステージに立ちました。第一部では9人の専門とする楽器のソロ演奏です。第二部では、アンサンブル、合奏、合唱で、第一部では緊張気味だった生徒たちの表情も和らぎ、笑顔が出るようになりました。特に2年生5人によるアンサンブル(ハンドベル、合唱)は軽快なダンスを披露し、弾むようなパフォーマンスで会場の雰囲気を一変させました。最後の合唱「桜の雨」(作詞・作曲 森晴義)は卒業がテーマであり、2年生のピアノで8人が気持ちを一つにしっとりと歌い上げました。

 エンディング、3年生4人を代表し、酒井さんと井藤くん(唯一の男子)が挨拶してくれました。3年間の思いがこもり、仲間をはじめ指導者、保護者への感謝の言葉で締めくくられ、印象深いものでした。

 音楽専攻の皆さん、楽器ができるということはとても素敵なことです。楽器はあなたたちの身体(からだ)の一部となっています。これからも音楽があなたたちを支え、励ましていってくれるでしょう。

 寒い夜でしたが、心温まる演奏会でした。

 

マララさんからのメッセージ

 皆さんはマララ・ユスフザイさんを知っていることと思います。高校の英語の教科書にも登場します。パキスタンで生まれたマララさんは、少女の頃から女子の教育を受ける権利を訴え、15歳でイスラム原理主義の武装グループに銃撃されました。この事件を機に家族とイギリスへ移り住みました。そして17歳でノーベル平和賞を史上最年少で受賞しました。マララさんは、イギリスの名門オックスフォード大学で学び、今年の6月に卒業を迎えたのです。

 しかし、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な感染流行)によって、卒業式は中止となりました。女子が学校教育を受けることを認めない人々がいる国で命の危険にもさらされ、それでも女子教育の大切さを訴え続けてきたマララさんにとって、学校教育の総仕上げである大学の卒業式が失われたことはどんなに悔しく、無念であったことかと想像します。

 けれども、マララさんは自らのホームページで、パンデミックによって同じように卒業式を失った世界中の学生に呼びかけます。

「Don’t be defined by what you lose in this crisis,

But by how you respond to it.」

(あなたがこの危機によって何を失うかによって定義されてはいけません。

そうではなくて、それにどう対応するかによって定義されなさい。)

 何を失ったかよりも、この危機にどう対応し、前に進んで行くかが重要なのだとマララさんは強調しているのです。そして、「これまでの教育で身に付けてきた知識や技術を持って、私たちは社会に出る時です。より良い世界を創っていきましょう。」とメッセージを締めくくっています。

 コロナ危機を変化する機会ととらえるマララさんの前向きなメッセージは、世界中の若い世代を勇気づけていると言われます。

 このマララさんのメッセージを、御船高校生の皆さん、とりわけ、修学旅行の中止が決まった2年生の皆さんに伝えたいと思います。 

 

                        師走の御船高校の校庭風景

阿蘇の「震災遺構」が伝えるもの ~ 育友会研修旅行その2

    立野渓谷を望む「数鹿流崩れ(すがるくずれ)」の現場に立つと、足がすくむ思いになります。対岸の崖には、平成28年(2016年)4月の熊本地震によって崩落した阿蘇大橋(長さ200m)の橋桁(はしげた)の一部が引っかかる形で残存しています。その他の大部分はおよそ百m下の黒川に落ち、多くがいまだ土砂に埋まっているのでしょう。振り返って見上げると、北外輪山の大規模山腹崩壊の跡が恐ろしいほどの迫力で姿をとどめています。幅200m、長さ700mの規模で急斜面が崩壊し、樹木や土砂がJR豊肥線の鉄路及び国道57号の道路を押し流し、立野渓谷に落ちていきました。熊本地震の阿蘇地域での被害を象徴する場所です。近くにある名勝「数鹿流滝」にちなんで、この大崩落は「数鹿流崩れ」と命名され、石碑及び説明版、展望用の駐車スペースが整備されています。

 熊本地震以来、鉄道は不通が続き、熊本市と阿蘇地域を結ぶ道路は、北外輪山の二重(ふたえ)峠の迂回路となり、人々の暮らしや観光産業に大きな影響を与えてきました。しかし、ようやくこの8月に鉄道、10月に国道57号が復旧し、阿蘇地域と熊本都市圏の往来がスムーズになりました。そして、来春には新しい阿蘇大橋が元の場所から約600m下流に架け替えられる予定で、巨大橋梁の工事が急ピッチで進められています。新阿蘇大橋が完成すれば、国道57号から国道325号で南阿蘇方面とつながります。熊本地震から四年半が立ち、創造的復興が実感できます。しかし、私たちは「阿蘇大橋が落下した!」というニュースを知った時の衝撃を忘れることができません。この自然災害の脅威を次代に伝えていくために、「数鹿流崩れ」が震災遺構として整備されたことの意義は大きいと思います。

 「数鹿流崩れ」の現場から、東側に回って黒川を越え、南阿蘇村河陽の台地上に残る旧東海大学校舎を私達は訪問しました。ここも熊本地震の震災遺構です。東海大学農学部として地震前は約800人の学生がキャンパスライフを送っていました。しかし、この校舎下を断層が走っており、激震が襲われました。敷地内に隆起した地表地震断層は樹脂で固められ、当時の亀裂や横ずれが生々しく残っています。校舎(1号館)は室内に鉄骨がむき出しになるなど甚大な損傷を受けていますが、全体に補強され、外部の回廊から見学できるようになっています。ガイドの方から丁寧な説明を受け、理解も深まりました。

 熊本地震の体験から得られた教訓を後世に伝えるため、熊本県は、震災被害の拠点を「震災遺構」として整備し、それらを巡るフィールドミュージアムの構築を進めています。防災教育の観点から大変有益だと考えます。次は高校生の皆さんと共に赴きたいと思います。

 

 

阿蘇で育つ珈琲(コーヒー) ~ 育友会研修旅行

 皆さんは珈琲(コーヒー)の産地と言うと、どんな場所が思い浮かびますか? 中南米(ブラジル、ジャマイカ等)、ハワイ、東南アジア(インドネシア)、アフリカなどの熱帯・亜熱帯地域のイメージがあるのではないでしょうか? 私がそうでした。そのため、冷涼な気候の阿蘇にコーヒーファーム(珈琲農園)があると知って関心をもち、一度現地を訪ねたいと思っていました。

 11月28日(土)、御船高校育友会(PTA)役員研修旅行(参加者10人)で、阿蘇を訪ねました。例年の研修旅行は県外の先進校を視察していますが、今年度はコロナ禍の中、日帰りで近場の阿蘇地域の訪問となりました。その最初の目的地が南阿蘇村河陽にある「後藤コーヒーファーム」でした。

 手作りの木製看板を背に、オーナーの後藤至成氏が笑顔で出迎えていただきました。元高校教諭(農業科)で、阿蘇をこよなく愛され、定年退職後は南阿蘇で農業を通じて、地域振興に取り組んでいらっしゃる方です。「なぜ、阿蘇でコーヒーなのか?」ということについて後藤氏が熱く語られました。まず、世界の高品質コーヒーは山岳地帯の厳しい環境で生育していることを強調されました。例えば、「ブルーマウンテン」という有名なブランドコーヒーがありますが、ジャマイカのブルーマウンテン山脈(標高2000m級)の山岳地帯で栽培されています。強い日差しを好まず、寒さに強い性質のコーヒーに阿蘇地域の気候は適しているのです。また、阿蘇は湧水が豊富で、このおいしい水で味わう阿蘇珈琲は新しい特産品になる可能性を持っていると説明されました。

 後藤氏は農業科教諭の頃から阿蘇でのコーヒー栽培に着手され、3年前の定年退職を機にファームを設立され、現在、有志農家の方たちと阿蘇珈琲プロジェクトチームを結成され、本格的な商品化、ブランド化に向け尽力されています。日本のコーヒー消費量は増大する一方ですが、そのほとんどが輸入珈琲であり、国産コーヒーの拡大が必要との思いも原動力だったそうです。

 「後藤コーヒーファーム」は年間通しての路地栽培ではなく、冬場は施設栽培方式をとり、温度調整に気を配られています。ハウスの中に入ると、約60本のコーヒーの樹が林立し、葉が茂り、一部にはコーヒー特有の真紅の実が付いていました。樹木の多くにオーナーの名札が付いていました。多くのコーヒーファンが阿蘇珈琲の可能性に期待している現れでしょう。

 一杯のコーヒーには人をつなげる力がある、後藤氏は語られました。阿蘇の土壌で育ったコーヒーの豆を収穫、精製、焙煎、そして抽出と手をかけて、私たちが香り高い味わいを楽しめる日は近いと思います。

「後藤コーヒーファーム」と後藤氏