2019年9月の記事一覧

目指せ、V奪還! ~ 全国大会に向けて準備するロボット部

 

    最近、放課後は電子機械科の第3実習棟2階によく行きます。ここで、マイコン制御部ロボット班の部員たちが、一か月後の全国大会に向け準備の山場を迎えているのです。大会には2チーム出場しますが、本番用のロボット2台はほぼできあがりました。今、最後の調整に努めています。生徒に言わせれば「足回りに工夫した」とのことで、自信作のようです。

    全国大会を想定して作られたコートでは、練習用ロボットを使い操作の練習が繰り返し行われています。1チーム6人編成ですが、本番ではフロアに3人が出て、ロボットを動かすことになります。時間を計って操作の練習に取り組む生徒たちは、声を掛け合い、本番さながらに真剣です。操縦用コントロールボックスを持ち、ロボットを動かす担当の生徒は「細かい動きがまだまだです。」と語りました。毎日、十数人の生徒が出入りして、ロボットの調整、操縦の練習等を分担しており、部屋には緊張感がみなぎっています。

   第27回全国高等学校ロボット競技大会(全国産業教育フェア新潟大会の一環)が10月26日(土)、27日(日)に新潟県長岡市で開催されます。マイコン(マイクロコンピュータの略)と呼ばれる小さなコンピュータの制御(コントロール)によって動くロボットを操作して、制限時間内に規定の課題をクリアしていく競技で、モノづくりの技術やアイデア、チームワークで競われるものです。

 この全国高等学校ロボット競技大会において、御船高校はこれまで九度の優勝を果たしています。初優勝は平成16年の広島大会でしたが、それから4連覇を成し遂げ、「ロボットの御船高校」の名前は一躍広まりました。その後も優勝を重ね、平成26年の宮城大会で9回目の全国制覇を達成しました。これはひとえに電子機械科の教職員の熱心な指導とマイコン制御部ロボット班の生徒たちの努力が合体した成果であり、誠に誇りに思います。

 しかしながら、その後は熊本地震の被災もあり、優勝から遠ざかりました。けれども、昨年の山口大会では3位入賞し、復活の手応えを職員、生徒共につかみました。今年こそ悲願の十度目の全国制覇に向けて、生徒たちの意気があがっています。

 まだ一か月あると私には思えるのですが、生徒たちは、もう一か月しかないという気持ちだそうです。「焦っています」と言いながらも、生徒たちの眼は輝いています。何かに熱中する高校生の姿を見ていると、こちらも元気がわいてきます。彼らが目指しているのは、学校近くの飯田山ではなく、日本一の富士山なのです。準備と覚悟が全く違います。高い目標を持ち、それに向け努力することで高校生は飛躍的に成長します。これから一か月、マイコン制御部ロボット班の生徒たちを応援していきたいと思います。

 

あとから来る者のために ~ 教育実習

 「先生と呼ばれる喜びと、その責任の重さを感じた二週間でした。」と教育実習生の水町さん(平成音楽大学音楽学科4年)が職員朝会で挨拶されました。9月9日(月)から20日(金)まで2週間、水町さんは教育実習に取り組まれました。19日(木)の2限目、1年A・B組(電子機械科)の音楽選択者対象に研究授業が行われました。「ボディパーカッションでリズム表現を工夫しよう」という主題で、生徒たちは楽器ではなく自らの身体の部位を叩きリズムを表現します。四つのグループに分かれての発表では、それぞれ創意工夫した表現がありました。生き生きと活動する生徒たちの様子を見て、水町さんの指導力の高さを実感しました。

 教員免許を取得するには、実際に学校で教育活動を体験する「教育実習」が原則必要となっています。教員になるために誰もが通る関門と言えます。母校で実習することが一般的で、水町さんも御船高校普通科芸術コース音楽専攻を卒業し、現在、平成音楽大学音楽科でファゴットを専門的に学んでいます。生徒たち、特に音楽専攻者にとっては先輩が教育実習に来てくれたことは大きな影響を受けたことでしょう。音大の学生として、音楽の面白さや奥の深さ等について熱心に伝えたもらったことは、学校として誠に有り難いことです。

 また、教育実習生の存在は、教職員にとっても貴重な刺激となります。自らの若き実習生の日々を思い出し、教師として初心に返ったような気持ちになります。さらに、教育実習生が高校生だった頃に指導した職員にとっては更に感慨深いものがあります。水町さんの担任は残念ながら他校へ異動していますが、副担任、または教科を指導した職員が数多く留任しています。当時、英語を教えたS教諭は、「本当に立派に成長していて、嬉しかった」と私に思いを伝えられました。まさに、論語で云う「後生畏るべし」です。年若い者は努力しだいで、どんなにも優れた人物になりうることを大人は畏(おそ)れなければならないのです。「出藍(しゅつらん)の誉(ほま)れ」という言葉もあります。

 高校生が進学し、母校へ教育実習に帰ってきて、改めて教師という仕事の魅力を認識して、教職を目指していくというのは理想の流れなのです。私たち教師は、自分よりも「大きな者」をつくっていく使命があります。

 教える者が一番教わります。水町さんも教育実習を通じて、音楽教育についてさらに深く学んだことでしょう。この経験を原動力に教職を目指していってほしいと期待します。そしてまた、フレッシュな教育実習生の姿に自分の将来を投影した御船高校生が幾人もいたであろうことを信じています。

 

御船の母なる源流 ~ 吉無田水源

  「御船町の宝物ですよ!吉無田水源は!」と御船町観光協会前会長の永本文宣氏が私に言われた言葉は深く印象に残っています。吉無田水源は御船町の大字田代地区にあり、御船高校から一般道を走行し約17~18㎞の距離です。阿蘇の南外輪山の南麓にあたり、一帯はゆるやかな高原で「吉無田高原」と呼ばれます。水源のある場所は標高およそ600mで、豊かな国有林に囲まれていて、車から降りると清爽感に包まれます。御船の町の中心部とは気温が7~8度くらい違うのではないかと地元の人は言われます。

 水源の脇には水神社が建立されており、水を汲みに来た人は神社に参り、ポリタンクを抱えて水汲み場に降ります。説明板によると毎分8トンの清水が湧き、私も手で掬(すく)って飲んでみましたが、甘みが感じられる澄んだ水です。この吉無田水源には先人の計り知れない労苦の物語があります。

 江戸時代後期、上益城郡の水不足解消のために肥後藩(細川家)は、この地一帯に大規模な植林を奨励しました。江戸時代の行政区では御船の大部分は木倉(きのくら)手永(てなが)に属していましたので、木倉手永の領民が力を合わせ植林に従事しました。文化12年(1815年)から延々と続き、慶応3年(1867年)まで52年間に及び、植林352万本の大事業が成し遂げられたのです。これによって大規模な藩有林(官山)ができあがり、水源涵養林(かんようりん)としての機能を発揮することになりました。樹木は雨水を効果的に吸収し水源を保つと共に、山地の土砂崩れを防ぐ機能も持っています。山に木を植えることの大切さは今も昔も変わりません。

 幕末の木倉手永の惣庄屋の光永平蔵(みつながへいぞう)は、植林事業の成果を活かすべく、吉無田水源から水を引き、総延長28㎞に及ぶ大水路(用水路)の難工事を指揮しました。嘉永6年(1853年)に起工し、安政6年(1859年)に竣工したこの難事業には地域の村々から農民が動員されました。現代のように重機もない当時、人力に頼った水利土木工事がいかに過酷なものであったか想像するしかありません。長い水路の途中、田代台地では873mものトンネルが穿(うが)たれました。今も、「九十九(つづら)のトンネル」として地元の人々によって顕彰されています。

 先人たちの大規模な植林と嘉永井手(かえいいで)と呼ばれる水路建設のおかげで、その後、現在に至るまで御船は水不足に悩まされたことはありません。現在の社会を造ってくれたのは歴史なのです。このことを私たちは忘れてはいけないでしょう。

    (参考)手永(てなが)とは江戸時代の肥後藩で設けられた行政区画制で、数村から数十村で構成され、責任者として   惣庄屋が置かれた。郡と村の中間に位置する。

教師として、創作者として ~ 御船高校芸術科教職員の活躍

 

 幾何学的に組まれた金属製の細い板が銀色に輝く、斬新なデザインの不知火文化プラザ(宇城市不知火町)。ここは美術館と図書館がある複合文化施設です。美術館の秋の企画展「楽しむ空間 書に遊び 絵に想う」を休日に訪ねました。御船高校芸術科の二人の職員の作品が展示してあり、招待券を頂いたのです。

 弘孝昌教諭(美術)の造形作品「monument」が、最初のフロアに展示されていました。縦120㎝、横284㎝の大きな作品で、木の枝、ポリスチレンフォーム(発砲プラスチックの一種)、アクリル板などの材料が使われ、墨の表現が山水画を思わせるものでした。題名「monument」はモニュメント(記念碑)です。きっと作者の心象風景が造形化されアートと成ったのでしょう。私の貧しい語彙では表現できない作品ですが、観る者を引きつける磁場のような力があり(これが芸術でしょう)、作品の前でしばらく佇んでいました。撮影を願い出たのですが、館員の許しは得られず、ここに画像を載せることができず残念です。

 フロアを進むと、古閑雄介教諭(書道)の書が三点展示されていました。古閑静盦(せいあん)の号を持つ書家で、若くして日展入選を果たし、今や熊日書道展委嘱書家です。「能動」の書は、その字義のとおりダイナミックな力が感じられるものでした。論語の一節の「後生畏るべし」の章句も、教育者としての思いがみなぎる書でした。そして「大徳」の書は、少し力を抜いた闊達な表現でした。書は人なり、です。日頃から書道部の生徒に対して、「技術よりも心の持ち方が大切だ」と指導されている古閑教諭の信条が迫ってくるようでした。

 会場にはその他多くの絵画、書の作品が展示されており、不知火美術館所蔵のマナブ間部(まべ)の鮮やかな色使いの作品も目を引きました。マナブ間部(1924~1997)は不知火町出身でブラジルに渡り、画家として大成し、ブラジルと日本との文化交流に大きな役割を果たした人です。しかし、弘孝昌教諭の造形作品、古閑雄介教諭の書も同じフロアに展示されて、遜色はありません。そのことに私は同僚として大きな誇りを覚えました。

 弘教諭が指導する美術部、古閑教諭が指導する書道部は、今や熊本県の高校文化活動のトップを走っています。教育に全力を傾けながら、自ら創作者としての活動も続ける両教諭に心から敬意を表します。両教諭を目標に、美術の本田崇教諭、黒田香陽講師、書道の緒方美樹講師もそれぞれ創作活動に鋭意取り組み、公募展に出品されています。

 教師として、創作者として、御船高校芸術科の教職員の活躍は、何よりも生徒たちに還元されていくと信じています。

                                                               宇城市不知火文化プラザ(美術館・図書館)

「それいけ、矢部高校・御船高校合同チーム!」 ~ 秋の熊本県高等学校野球大会

   「暑い中、選手も頑張ります。私たちも暑いところで応援しましょう!」と矢部高校野球部の保護者の方が大きい声を掛けられました。あまりの強い日差しのため、試合開始までネット裏の屋根の下に陣取っていた矢部・御船高校野球部の保護者の皆さんや私たちは意を決し、炎天下の1塁側スタンドに移動しました。

   9月16日(月)の祝日、12時半から山鹿市民球場で「第145回九州地区高等学校野球熊本大会」初戦プレーボール。35度近い暑さの中での観戦となりましたが、気温以上にグランド、スタンド共に熱気あふれる試合の始まりでした。矢部高校と御船高校の1、2年生野球部員はそれぞれ3人と8人で、単独ではチームがつくれません。従って、夏の大会が終わって3年生引退後は、両校で合同チームを結成しました。今回の県大会には55チームが出場していますが、そのうち3チームが合同チームです。

   合同チームと言っても、普段は一緒に練習はできません。矢部高校と御船高校は同じ上益城郡内にありますが、両校は27㎞も離れているのです。日頃の練習は別々で、土日の練習試合が合同練習に当たります。そのため、守備の連携プレーや攻撃のサインプレーの練習不足は否めません。試合前の練習においても、守備はぎこちなく、観ていて不安をいだくものでした。初戦の相手の人吉高校は部員が30人を超え、夏の県大会予選でも3回戦まで進出しており、試合前のきびきびとした練習の様子を見ても苦戦必至と思われました。

   しかし、いざ試合が始まると、矢部・御船高校合同チームはよく打ちました。ヒットの数は人吉高校を上回りました。けれども、守備面の不安的中でミスが続き、失点も重なりました。先制するも逆転され、同点に追いつくも、突き放され、最後は7対11で敗れました。選手わずか11人での精一杯の試合だったと思います。ピンチにおいて、矢部高校と御船高校の選手同士お互いを励まし合い、エラーをしてもかばい合い、よく意思の疎通を図っている光景が見られました。暑さで体力を消耗しながら、少ない人数で最後まで全力プレーする選手の姿に、スタンドで応援していた私たちは胸が熱くなりました。スタンドの保護者の声援も人吉高校にひけをとらないものでした。試合終了後、私は矢部高校の保護者の皆様に応援の御礼を申し上げました。ある保護者の方が「ようやったばい」と目に涙を浮かべながら言われました。この一戦で両校の保護者同士の絆がとても強まったようでした。

   最後に11人の選手達の健闘をねぎらいましたが、選手達は負けたことを心底から悔しがっていました。この敗戦から選手達が学んだものは大きいと思います。

   合同チームが結成されてまだ2ヶ月です。これからの躍進に期待したいと思います。「それいけ、矢部高校・御船高校野球部合同チーム!」