御船の母なる源流 ~ 吉無田水源

  「御船町の宝物ですよ!吉無田水源は!」と御船町観光協会前会長の永本文宣氏が私に言われた言葉は深く印象に残っています。吉無田水源は御船町の大字田代地区にあり、御船高校から一般道を走行し約17~18㎞の距離です。阿蘇の南外輪山の南麓にあたり、一帯はゆるやかな高原で「吉無田高原」と呼ばれます。水源のある場所は標高およそ600mで、豊かな国有林に囲まれていて、車から降りると清爽感に包まれます。御船の町の中心部とは気温が7~8度くらい違うのではないかと地元の人は言われます。

 水源の脇には水神社が建立されており、水を汲みに来た人は神社に参り、ポリタンクを抱えて水汲み場に降ります。説明板によると毎分8トンの清水が湧き、私も手で掬(すく)って飲んでみましたが、甘みが感じられる澄んだ水です。この吉無田水源には先人の計り知れない労苦の物語があります。

 江戸時代後期、上益城郡の水不足解消のために肥後藩(細川家)は、この地一帯に大規模な植林を奨励しました。江戸時代の行政区では御船の大部分は木倉(きのくら)手永(てなが)に属していましたので、木倉手永の領民が力を合わせ植林に従事しました。文化12年(1815年)から延々と続き、慶応3年(1867年)まで52年間に及び、植林352万本の大事業が成し遂げられたのです。これによって大規模な藩有林(官山)ができあがり、水源涵養林(かんようりん)としての機能を発揮することになりました。樹木は雨水を効果的に吸収し水源を保つと共に、山地の土砂崩れを防ぐ機能も持っています。山に木を植えることの大切さは今も昔も変わりません。

 幕末の木倉手永の惣庄屋の光永平蔵(みつながへいぞう)は、植林事業の成果を活かすべく、吉無田水源から水を引き、総延長28㎞に及ぶ大水路(用水路)の難工事を指揮しました。嘉永6年(1853年)に起工し、安政6年(1859年)に竣工したこの難事業には地域の村々から農民が動員されました。現代のように重機もない当時、人力に頼った水利土木工事がいかに過酷なものであったか想像するしかありません。長い水路の途中、田代台地では873mものトンネルが穿(うが)たれました。今も、「九十九(つづら)のトンネル」として地元の人々によって顕彰されています。

 先人たちの大規模な植林と嘉永井手(かえいいで)と呼ばれる水路建設のおかげで、その後、現在に至るまで御船は水不足に悩まされたことはありません。現在の社会を造ってくれたのは歴史なのです。このことを私たちは忘れてはいけないでしょう。

    (参考)手永(てなが)とは江戸時代の肥後藩で設けられた行政区画制で、数村から数十村で構成され、責任者として   惣庄屋が置かれた。郡と村の中間に位置する。