校長室からの風
全国PTA大会に参加して。
書道パフォーマンス甲子園の報告
ゆるキャラ「しこちゅー」
暑中お見舞い申し上げます。
一学期中は学校外の皆様にも大変お世話になりました。私は御船高校は初めての勤務ですが、母の実家が御船であり、母もおじおばも御船高校の卒業生であること、母方の祖父(増岡末政)が御船中学校の校長であったこと、旧制御船中出身の軍神西住戦車長は父方の親戚であったこと、さらには近隣の中学校や小学校の校長先生に高校の先輩や同級生がいたことなどにより、本当に、この「御船町」から温かく受け入れてもらいました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
夏休みには「書道パフォーマンス甲子園」に出場しますし、二学期には御船中や平成音大にもご協力いただき、「震災復興祈念『船高フェスティバル』龍鳳祭」を大々的にやろうと企画しています。地域の皆様に高校生の元気を届けられるような行事を、これからもどんどん企画してまいりますのでご支援、ご協力をよろしくお願いいたします。
御船町社会福祉協議会様
御船ライオンズクラブ様
自衛隊熊本地方協力本部長様
御船高校同窓会様
進路のしおり(巻頭言)より
「仕事をするということ」
校長 西 澤 頼 孝
「まず、自分をこの世に必要な人間とせよ。そうすれば、パンは自然に得られる。」
(エマーソン,R.W・アメリカの思想家)
まず、自分自身を社会に必要な人間にしなさい。そうすれば、食べ物は自然と手に入れることができる。そういう意味である。生きていくためには食べねばならぬ。食べ物を手に入れるためには収入(金)が必要だ。では、収入(金)を得るにはどうすればいいか。それは、社会で何らかの役に立つ人間になることだ。
自分はいったいどんな点で社会に必要とされるのだろうか。君たちの中には、自分が社会の中で何ができるのか自信が持てない人もいるだろう。無理もない。それが「若者」だからだ。自分がどんな人間か、これからどんな人生を歩みたいのか、混沌とした思考の渦の中で右往左往するのが青春時代の特権とも言えるのだ。
学生時代の体験を一つ。21歳の冬、場所は東京。私は親からもらう毎月の仕送りを使い果たし、極度の金欠に陥っていた。アルバイトはしていたが給料日まであと一週間は食いつながなければならなかった。道ばたで配られるギョーザのタダ券を握りしめてライスのみを注文したこともある。一袋100円のさつまいもで二日過ごしたこともある。学生だったからあまりみじめな思いはしなかったが、このままでは体がやられると思った。そんなとき、一晩で8000円もらえるアルバイトに飛びついた。夜8時に品川駅前集合。マイクロバスに乗せられた。学生風は私と先輩の二人だけ。あとは労働者風のおじさんたちだった。着いたのは東名高速道路。トンネルの蛍光灯拭きのアルバイトだった。長時間手を上げている作業がきつかった。下には猛スピードでトラックが走り抜けていく。怖かった。夜中の1時に休憩。路肩で弁当を食べていると、東北なまりのおじさんたちがハイライトを差し出しながら話しかけてきた。「兄ちゃんたち、学生さんかい?」「○○大学です。」「東京の学校?」「はい。でも出身は熊本です。」「熊本からかぁ、えらいねぇ。うちのせがれは中学生でね・・・。」と、家族の話、特に子どもの話をうれしそうにするのだった。秋田の人で、冬の間は東京に働きに出てきて、家族に仕送りをしているのだそうだ。「えらい」と言われて恥ずかしくなった。親のすねかじりのくせに仕送りを使い果たして、食いつめてここに来ているのだから。また、こんなところでと言ってはなんだが、親というものの愛情の深さに心がふるえた。それと同時に「お金をかせぐこと」の尊さを感じた。
以来、私は仕事がつらいと思ったときは、あのおじさんたちのことを思い出す。仕事はきつくて当たり前、でも誰かのために働けることの幸せ。それは家族のためかもしれないし、世の中の誰かのためかもしれない。自分がやるべきことはやろうじゃないか。自分が選んだ仕事だもの。
「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」(武者小路実篤)
御船高校の生徒諸君、君たちにこの言葉を贈る。
船高のシンボル「天神の森」
東京出張報告
また、御船高校同窓会「東京御船会」は、霞ヶ関ビルにおいて出席者75名で開かれました。私は現在の御船高校のようすを中心にお話をさせていただきましたが、同窓生の皆さんの母校への愛情と誇りをひしひしと感じました。全国ロボット競技大会の優勝をはじめ、御船高校の活躍を皆さんのもとにお届けできるよう、頑張らなければならないと身が引き締まりました。
同窓生の足立悦子様から、すばらしい植物の細密画をいただきました。ありがとうごさいました。
西住小次郎戦車長
昨日、体育祭の代休を利用して甲佐町の「西住小次郎戦車長顕彰碑」に行ってきた。母校、御船高校生のますますの活躍を見守ってくださるよう、お願いしてきた。
校長室にある西住大尉の写真
御船高校体育祭
御船探訪(熊延鉄道御船駅)
「熊延(ゆうえん)鉄道」。「熊本バス」の前身。JR南熊本駅から砥用までの28.6キロを結んでいた。大正5年春竹(南熊本)~御船開通。大正12年御船~甲佐開通。昭和7年甲佐~砥用開通。昭和39年南熊本~砥用廃止。約50年間、城南地方の足として住民の生活を支えてきたばかりでなく、内大臣や矢部から切り出された木材を運ぶ貨物車としても活躍した。(今でも甲佐や御船、南熊本には木材の集積地が残る)当初の予定では、宮崎県の高千穂線(現高千穂鉄道)と結び、延岡までレールをのばすつもりだったらしい。だから「熊延」鉄道なのである。おもな駅は、南熊本→田迎→鯰→上島→六嘉→御船→甲佐→佐俣→釈迦院→砥用。
十数年前、鉄道愛好の同僚と、南熊本から砥用まで線路跡を歩いたことがある。線路跡は道になっているところが多かったが、それでも意識してたどってみると、ここにかつて鉄道があったことをうかがわせる「遺跡」があった。うっそうとした森 の中に突然、人工の遺物を発見する喜びは、かのムオー博士がアンコールワットを発見した喜びに通じるものがあった。
上島で見つけた鉄橋(2002年撮影)
佐俣にはコンクリート製のトンネルがあった(2002年撮影)
馬門橋から見た橋脚(2002年撮影)
熊延鉄道の甲佐駅には、内大臣から伐採された材木が、狭軌の森林鉄道によって集積されていた。そして熊延鉄道によって南熊本駅へと運ばれたのである。
緑川にかかる森林鉄道の鉄橋の跡(2002年撮影)
このように、私達のふるさとには日本の産業発展に寄与した遺産が数多くある。
先人たちの知恵と努力の結晶である「産業遺産」に関心を持ち、それを調べることは有意義なことであると思う。御船町や御船高校についてもっと調べてみよう。
【おすすめのサイト】
九州ヘリテージ 九州ヘリテージ kyushu-heritage.jp
御船探訪(御船城と甲斐宗運)
御船城近景
甲斐宗運(親直)(1515~1584)は肥後・御船城主。知勇兼備の将として名高い、阿蘇家の重臣てす。
宗運は、永正十四年(1517)前阿蘇大宮司惟豊を矢部の「浜の館」に復帰させ、それにより地位を確立しました。天文期には阿蘇氏老臣として領国経営に当たりましたが、同十年、阿蘇大宮司に背いた御船房行を御船城に攻め、以後同城の城主となりました。宗運は阿蘇惟豊・惟将の二代に仕えましたが、阿蘇勢力を代表して大友氏と結び、隣国の相良義陽と盟約して外敵に当たるなど、ひたすら阿蘇家を守り、その舵を取り続けました。そのため、島津をして「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」とまで言わしめたのです。