校長室からの風
区切りの代替大会
県高校総体に代わる代替大会が7月18日(土)~19日(日)、そして7月25日(土)~26日(日)に開催されました。御船高校からは、陸上(男女)、バレーボール(男女)、バスケットボール(男女)、テニス(男)、サッカー(男)、弓道(男女)、水泳(男女)、バドミントン(男女)の各部が出場しました。
新型コロナウイルス感染拡大によって、体育系部活動の集大成である6月の県高校総体が中止となりました。この大会を目標としてきた生徒達、特に3年生にとっては大きな衝撃でした。落胆、失意に陥った生徒も数多くいました。そのため、「3年生に最後の活躍の場を設けたい」との各競技の指導者をはじめ教育関係者の熱意から代替大会の模索が始まり、県高校体育連盟(高体連)の英断があり、7月の代替大会が実現したのです。例年の県高校総体より1か月半ほど遅い時期の開催で、進学や就職の準備に取り組まなければならない3年生にとっては難しい選択となりました。部活動を貫く者もいれば、代替大会の出場を諦めた者もいます。しかし、どちらの選択も尊重されるべきと思います。
代替大会であっても、生徒たちにとっては待望の県大会であり、3年生にとっては部活動の集大成の場となりました。御船高校生は各競技で健闘し、弓道男子団体で準優勝、男子バレーボール部がベスト8という近年にない好成績おさめました。男子団体弓道は顧問も驚くほどの集中力で躍進しました。男子バレーボールは接戦が続きながら、最後は「勝ちたい」という生徒の強い気持ちで勝ち上がっていったそうです。その他の各部も全力を尽くし、日頃の練習の成果を出し切ったとのことで、試合内容を語られる各顧問の先生方の表情が充実感に満ちていました。また、登校してきた3年生からも「完全燃焼しました」、「自分たちの試合ができました」等、達成感の伝わる言葉を聞くことができました。
代替大会が実施されて良かったと心の底から思います。不完全燃焼で終わるはずだった3年生にとって明確な区切りができました。新型コロナウイルスで3月の春休みから思うように部活動ができず、県高校総体も中止となりました。部活動再開は6月からで実質2か月弱の練習期間でしたが、代替大会という特別な舞台で真剣勝負ができ、もやもやした気持ちが吹っ切れたことでしょう。
7月30日(木)、熊本県は待望の梅雨明けを迎えました。今年の梅雨は長く、過酷なものでした。7月初旬の記録的な大雨によって県南部を中心に豪雨災害が発生しました。
明日7月31日(金)は1学期終業式で、8月1日(土)から夏休みです。部活動は1,2年生の新チームに引き継がれます。そして、3年生はそれぞれの進路の実現に向かって大きく一歩を踏み出す夏です。
高校球児にとっての特別な試合
夏の甲子園大会が新型コロナウイルス感染拡大によって5月下旬に中止が発表されました。その後、6月に入り学校が再開され、部活動も始まり、熊本県独自の代替大会が計画されました。高校球児にとっては目標ができ、大きな励みになったと思います。ところが、7月4日(土)未明から朝にかけての記録的豪雨により県南部が甚大な災害に襲われました。この災害のため、7月上旬から予定されていた県大会は変更を余儀なくされ、地域別の大会に縮小されました。今年の熊本の高校球児たちは新型コロナウイルスと豪雨災害という二つの大きな力によって翻弄されたと言えるでしょう。
御船高校が出場する城南地区大会は7月18日(土)に始まりました。そして、7月23日(木)、県営八代球場で、御船高校・矢部高校の合同チームは人吉高校との1回戦に臨みました。相手の人吉高校は、この度の豪雨災害の被災地(人吉市)にあり、出場が一時は危ぶまれました。人吉高校関係者によると40人以上の部員がいるそうですが、その内10人近くの自宅が球磨川氾濫の浸水被害をうけ、制服や野球の練習ユニホーム、用具などが流されてしまったそうです。しかしながら、部OBの卒業生からの支援があり、部員全員での城南地区大会出場を果たすことができたと聞きました。
一方、御船高校と矢部高校はお互い部員不足に悩み、昨秋の大会から合同チームを結成し、公式戦に出場しています。御船高校は1年生部員が入り、現在12人で単独チームができるのですが、矢部高校が部員4人のため、県高校野球連盟に申し出て合同チームで戦うこととしました。矢部の大嶋校長先生と一緒に私も県営八代球場へ応援に行きました。
新型コロナウイルス対策のため一般の高校野球ファンは観覧できないのですが、観客席には保護者のの姿も多く、夏の日差しのもと、選手たちははつらつとしたプレーを見せてくれました。地力に勝る人吉高校が先制。しかし御船・矢部合同チームは矢部の選手のタイムリーヒット等で一時は逆転。合同チームのため守備の連携プレーが課題でしたが、内野ゴロを巧みに処理しダブルプレーに打ち取るなど守備の成長も見られました。
試合は結局9対3で人吉高校が勝ちました。ホームペース上に距離をとって2列に並び、胸をはって校歌を歌う生徒たちの姿に、御船・矢部合同チームの応援スタンドからも大きな拍手が寄せられました。
未曽有の新型コロナウイルス感染による社会的な混乱、そして記録的な豪雨災害と球児たちは困難に耐え、やっと試合をすることができました。県営八代球場でプレーする球児たちは皆輝いて見えました。「艱難汝を玉にす」(かんなんなんじをぎょくにす)という古い格言を思い出したものです。
もしも鉄道があったなら
今年ほど、一日も早い梅雨明けを望む年はないでしょう。7月4日(土)未明から朝にかけて熊本県南部に未曽有の豪雨災害が発生したうえに、それ以後も梅雨前線が停滞し、県北部で土砂崩れ、河川の氾濫等の災害が続きました。その爪痕はいまだ深く、広域にわたるため復旧が思うように進んでいません。また、本校のある上益城郡も断続的に強い雨が降り続きました。そのため、生徒の皆さんの多くが保護者の車の送迎となり、朝の登校時は車が長蛇の列でした。
4月当初の調査では、本校生(全校生徒525人)の通学手段で最も多いのは自転車で約300人。次が単車で約120人、そして路線バスが60人ほどです。残りが徒歩、保護者の車での送迎となっています。平常は20~30台の車で、正門から入って、「天神の森」の前の芝生広場ロータリー付近で生徒を下ろして、Uターンで正門から出てもらう流れです。しかし、雨天時、特に今月に入っての強雨の日は、自転車や単車の通学生たちの多くが車での送りに変わり、百台を超える車で校内及び正門周辺が大渋滞となりました。雨合羽を着用して自転車や単車で通学する生徒も一定数いるため、交通安全の確保のため、雨天時の車は「天神の森」の横の道路に縦列して、生徒を下ろしたら、そのまま校内を通り抜け南門から出るという流れに変更しました。毎朝、数人の職員がローテーションで出て、雨合羽を着て車の誘導に努めました。
本校の正門は昭和の終わりに建立されており、幅が狭く、普通自動車の離合ができません。また、正門前の町道も幅が狭く、雨天の朝は、多数の自動車に自転車、単車、そしてバス停から歩いてくる生徒と危険な交通渋滞が起きます。車への生徒たちの乗り合わせや近距離の生徒には雨合羽着用での自転車、単車通学の協力を呼び掛けていますが、根本の解決に至っていません。
朝の渋滞状況を目の当たりする度、「鉄道があったなら」と思います。前回の「校長室からの風」で触れたように、前任の人吉・球磨地域は第3セクターの「くま川鉄道」があり、五つの高校(現在は4校)は最寄り駅からいずれも徒歩10分以内でした。このため、強雨の日でも、生徒たちは自宅の最寄り駅まで車で送ってもらい、列車に乗って通学してきたので、学校の正門付近が車の渋滞になることはありませんでした。
実は、この御船町、そして上益城郡にはかつて鉄道がありました。このことも「校長室からの風」で何度か紹介してきましたが、豊肥線の南熊本駅から上益城郡(嘉島町、御船町、甲佐町)を通り、下益城郡の砥用(ともち)駅まで約28.6㎞を結んだ私鉄の「熊延(ゆうえん)鉄道」です。残念ながら昭和39年(1964年)に廃止されており、70歳代以上の同窓生から「汽車通学」の思い出話を時々聴くことがあるくらいです。
しかし、「もし鉄道があったなら」と令和の今日、思わずにはいられません。
鉄路の復旧、復興を願う
熊本県南部を襲った豪雨災害から一週間立ちました。復旧は緒に就いたばかりだと思います。メディアで伝えられる現地の状況はまだ茶褐色の土砂や流木が散乱し、被害の甚大さにため息が出てきます。また、気になるニュースが報じられています。くま川鉄道の全線不通のため、沿線の人吉、球磨地域の高校生の通学に大きな支障が出ているとのことです。
くま川鉄道は、人吉市に本社がある第3セクターの鉄道会社で、人吉市と湯前町の約25㎞を結ぶローカル鉄道です。東西に広がる人吉盆地を球磨川に沿うように運行されている同鉄道は、人吉・球磨地域の貴重な公共交通機関であり、特に高校生にとってはなくてはならない通学手段です。平成元年に旧国鉄の湯前線から引き継がれ、地域住民にとって頼られ、親しまれてきた路線なのです。
前任の球磨郡の多良木高校勤務時代、私は、くま川鉄道が果たす役割の大きさを日々実感していました。沿線にある五つの高校(多良木高校が閉校となり、現在は4高校)はいずれも最寄り駅から徒歩10分以内という便利さで、多くの高校生が列車通学していました。しかも、その車両は「田園シンフォニー」と呼ばれる洗練さと温かさが調和したデザインで、快適な乗り心地でした。修学旅行で東京に行き、自由行動で朝夕の満員電車を体験した多良木高校生が、「自分たちはいかに恵まれた列車通学しているかわかった」と私に語ったことが印象的でした。大雨などで列車が遅延する時は、学校へファックスでこまめに連絡が届き、鉄道の正確さ、安定性に加え、細やかな配慮を常に感じました。
今回の豪雨災害で車両全ての浸水被害、橋梁の流出など大変な被害を受けて、くま川鉄道の運行再開は全く見通しが立っていない状況です。通学手段を奪われた高校生たちは、一日も早い代替バス運行を希望しているようですが、人吉・球磨地域のバス車両の多くも浸水被害を被っており、目途がたちません。
くま川鉄道には、私もよく乗車し、球磨川やのどかな田園などの車窓風景を満喫しました。乗客数は減少し経営は苦しいようでしたが、第3セクターということで、地域住民みんなで支えていました。昭和の終盤、そして平成と全国各地の鉄道が次々に姿を消していきました。地方の過疎化、そしてモータリゼーション(自動車の普及)によって廃線が続きました。時代の流れで仕方がないと思われたこともありました。しかし、エコの観点、高齢者に優しい乗り物などの面から、改めて鉄道の価値が注目されています。例えば、三陸鉄道の復活は、東日本大震災からの復興のシンボルとして被災者の皆さんを勇気づけました。
くま川鉄道の復旧、そして再開を強く望み、その日を心待ちにしています。
球磨村を思う
7月4日(土)の未明から朝にかけて起こった熊本県南部の豪雨災害ですが、発生から五日が経過しました。日を追って被害の大きさがわかってきましたが、特に多くの犠牲者が出ている球磨村の悲惨な状況を思うと言葉がありません。前回の「校長室からの風」で触れたように、私は前任地が球磨・人吉地域であり、よく球磨村も訪れました。
球磨村は人吉市の西隣に位置し、中央部を球磨川が流れていますが、村の約9割は山地です。人口およそ三千五百人の小さな村です。役場や球磨中学校を業務で訪問しましたが、それより休日に同村を巡った記憶が印象深く残っています。
まず棚田の風景が忘れ難いものです。球磨村大字三ヶ浦の松谷棚田は「日本の棚田百選」に選ばれており、標高150から200mの山腹に広がる情景は一度見たら忘れられません。大小さまざま、形も不規則なたくさんの棚田は四季折々の風情があります。この松谷棚田をはじめ同村の棚田を見て回ると、先人の計り知れない苦労を想像し、何か敬虔な気持ちとなります。山の斜面に人の力だけで作り上げ、維持されてきた棚田は、かけがえのない文化的景観に見えました。山間部に小規模の集落が点在しており、道幅は狭く車の運転には気を遣いましたが、「山林が整備されているから土砂災害が起きないのだなあ」と思ったものです。
次にJR肥薩線の一勝地(いっしょうち)駅です。この駅がある一勝地が球磨村の中心部となります。同駅は1908年(明治41年)の開駅のままの木造駅舎です。言わば歴史的建造物の鉄道遺産ですが、今も現役の駅として役割を果たしています。この駅には何度も訪れました。駅名が「地に足をつけ一勝する」と解釈できる縁起の良いもので、受験やスポーツ大会のお守りとして同駅の入場券が人気なのです。私も当時勤務していた多良木高校の生徒たちが、大学入試センター試験を受ける時、あるいは陸上部リレーチームが九州大会に出場する時など幾度も同駅に足を運び、記念入場券を購入し、生徒たちに贈ったものでした。
その他、一勝地の温泉や神瀬(こうのせ)の住吉神社、石灰洞窟、渡(わたり)にある相良三十三観音の一つ「鵜口(うのくち)観音堂」など休日に訪ね歩いた場所が次々に浮かびます。
平和でつつましい山村は、この度の災害で一変しました。球磨川の氾濫した濁流、そして豪雨による土砂災害とその爪痕は凄まじいものがあります。近年の少子高齢化、人口減少で球磨村は棚田の維持もできなくなってきたと聞いていました。そこに今回の大きな災害に襲われ、危機的状況だと思います。
被災された球磨村の住人の一部の方が、旧多良木高校校舎に避難されていることを知りました。2年前まで私が勤務し閉校となった同校舎が、球磨村の住民の方の避難所となっていることに万感胸に迫るものがあります。自分に何ができるのか問いかける日々です。