保護者の声

2024年7月の記事一覧

令和5年度(2023年度)幼稚部卒業生_ 保護者の声04

 初めて新生児聴覚スクリーニング検査で再検査となった我が家の三男。それから何度も何度も脳波の検査を重ね、軽・中等度の感音性難聴と診断されたのは生後……いつでしたっけ?1歳の時には補聴器を付けていたのでその前ですね。診断結果が出たあと、一緒に来ていた上の子達に三男のオムツを変えてくるね。と言って、トイレに入ってから、溢れてくる涙をなかなか止められなかった時の事、今でもよく覚えています。当時の私は、聴覚障害の事を何も知らず、ただ漠然とした不安に襲われ、自分を責めることしか出来なかったんです。身近に聞こえない人も居なかったし、誰かに聞いたこともなかったのです。手話?子どもの時にみんなで「世界中のこどもたちが」を手話付きで歌いましたよ・・・そんなレベル。

  熊本聾学校から車で2時間のところに住む私が、熊本聾学校入学を決断したのは、もちろん容易なことではありませんでした。距離はもちろん上の子の事、仕事の事、抱える問題は沢山でした。

 私は子どもの頃、友達と遊ぶことに苦労はきっとしていません。当時、保育園に通っていた三男はどうかと言うと・・・ただ遊ぶだけなのに全く楽しめていない様子。家にいる時と違って、笑顔がない。多分、その頃の息子にとっては家族以外の人はみんな宇宙人だったんだと思っています。それでも、見る力はあるのか、何にしても見て真似て他の子と同じように出来ちゃうんですよね。だからと言って、サラリと流れていく日常の様々な事すべて、分かっていたかというとそうではなく、本当にただ真似していただけ。保育参観に行くと、それは感じ取れました。でも、私にとってその違和感はその時だけで、家に戻るといつもの息子の姿に、保育園での違和感は薄れていくんです。

 熊本聾学校のうさぎルームに通いだし、幼稚部の参観に行った時、子ども達が思い思いに自分の考えをぶつけ合ってるのを見て、正直驚きました。そこにあるのは、よく見る子どもらしい姿。そして1人1人の可能性を最大限に引き出す先生方の力の高さと愛。熊本聾学校に通うことが、我が子にとって最善であることを確信しました。かと言ってそう簡単には決断できない現実があったんですが、熊本聾学校の先生方のおかげで息子は入学することが出来ました。

  幼稚部1年目は、週1で通いました。おそらく異例の事だったと思います。受け入れてくださった学校に、この場を借りて改めて感謝申し上げます。週に1回でも、回数を重ねる毎に息子は「分かる」経験が増えていきました。聞こえる私達は何気なく耳から入ってきた情報を受け取っていますが、それが少なかった息子は初めて聾学校で「分かる!」を実感したと思います。「分かる」が増えると、今度は「知りたい」気持ちが膨らんでいきます。少しずつでしたが、そんな息子の変化が嬉しかったです。

 熊本聾学校では手話が飛び交っていますが、その頃の私は手話の単語をいくつか知っている程度。学校へ息子を送るときやお迎えの際、そんな状態の私は会話に入りたくても、入れない・・・そもそも何を言ってるのか分からない。そんな自分と、聞こえる人達の中で過ごす息子をよく重ねました。私はその僅かな時間だけだけど、息子は起きてる時間の大半がこういう状況かと。軽・中等度の難聴の息子との家庭での会話で困ることはそんなにありません。ゆえに、息子が難聴である意識が薄れてしまう時があります。なので、熊本聾学校で過ごす私の時間も大切でした。

 2年目からは、可愛い盛りの息子と平日は離れて暮らす決断をし、毎日学校に通わせました。それからの成長は凄まじかったです。自ら感じ、考え、行動する。自分の気持ち、相手の気持ちとも向き合い、泣き、笑い、悩み、喧嘩も協力する事も増えていき、何とも濃い幼稚部生活でした。今の息子しか知らない人は、前の息子を知るとびっくりするかもしれません。熊本聾学校に来る前は、慣れない人が居るところでは私にぴったりくっつき離れなかった子が、今では知らない人に自分から話しかけに行ったりします。そして私にとっても、熊本聾学校で出会った先生方や保護者の方、聾学校のお兄ちゃんお姉ちゃん達に沢山学ばせていただいています。

  いよいよ、今度は小学生。どんな小学生になるのか!?でも、この幼稚部でのかけがえのない時間が今後も息子を支えてくれると思っています。親子共々、今後とも皆様、よろしくお願いいたします。

令和6年(2024年)3月 5歳児保護者

 

令和5年度(2023年度)幼稚部卒業生_ 保護者の声03

 子どもは新生児聴覚スクリーングで分かり、3歳の時には両耳とも65デシベルで障害者手帳なしでした。0歳から補聴器を付け、私達親がろう者なので手話も使いながらですが、ある程度話す事もできます。そんな様子でしたから、私の家族からは「○○(子の名前)は話せるし、○○(私の名前)も地域の保育園で大丈夫だったから、○○も地域の保育園に通わせて大丈夫だよ」と、熊本聾学校の幼稚部に入学することに良い顔をしていませんでした。

 「話せるから大丈夫」「私と同じだから大丈夫」この言葉にとてもやるせない気持ちになりました。それはなぜなの かを、お話ししたいなと思います 。

 私は婚前、家族の中で私だけが聞こえませんでした。乳幼児期は80デシベルだったようです。今は100デシベル以上になっています。私の時代は「口話法」という発声練習や、読唇術などを身につけ、聞こえないのに「聞こえる人の様に育てることが良い」という教育でした。自分は地域の学校に通っていました。当時、相手が話す内容はわかっていたつもりだったでしょうが、今思えば10%ぐらいしか読めていなかっただろうと思います。理解も出来ていなかったのだと。友達の話も、分からないから何度も聞き返すが、最後には相手に「なんでわからない?」「もう、いいよ。たいしたことないから」「関係ないから、大丈夫」と、あしらわれ終わることが殆どでした。

 勉強面でも、先生の話やクラスメイトの発言も分からないので、なんとか黒板と教科書だけで必死について行ったように思います。私は、集団活動の中での話の内容や理解が出来ていない部分も多かったので、分からないことが分かりませんでした。でも、先生や親から「分からないことは、なんでも聞いてね」「自分から積極的にね」と、よく言われていた。先生も親も、聞こえなくて分からないことや、分かりにくいことを理解していたつもりかもしれませんが、きっと「きこえない私」ではなく、「きこえる人のような私」を見ていたのかもしれません。

 また、分かりにくい環境の中でも、我慢するというと変かもしれませんが、「人の行動を見よう見まねでついて行き、口を見て理解ができていなくても、わかったふりをすれば何も言われない、怒られない」そうすることで、自分を良く見せられるだろうと相手の機嫌や顔色を伺いながら神経を張り巡らせていた、そんな気持ちで毎日を過ごしていたように思います。その頃、私は自分の気持ちをうまく伝えきれず伝える事が苦手でした。友達作りも下手で、相手の考えや気持ちに寄り添って考えることも下手でした。それは今でも残っている部分はあります。

 18歳の時に「手話」を知りました。それまで私は、きこえない、きこえにくい事をいちいち説明をすることが大変だし、人の口を読むことに疲れたなと、毎日モヤモヤと生きにくさを感じていました。でも、手話を覚えて話せるようになってからは、相手の話が分かるからこそ、自分の考えも伝えられるようになり、ポジティブな考え方が増えてきたかなと思います。自分にとって価値のある情報を得られることも沢山ありました。手話でのコミュニケーションってこんなに楽しいものなんだと、大切な言語と気づかされました。今思えば、主人も私も、理不尽な思いを感じながら時代を駆け抜けてきたように思います。

 そして、子どもが生まれてきてから、私達と同じようには歩ませたくないと思うようになりました。子どもには、見て分かる環境の中で、「心と体」伸び伸びと育っていって欲しいとの思いで、熊本聾学校に決めていました。

 私の両親には納得して欲しかったので、一度だけ熊本ろう学校内の乳幼児相談「ウサギルーム」に連れて行きました。そこで、先生の話を聞き・・「○○(私の名前)は、話せるし全然大丈夫だと思っていたけど、お母さんが分かっていなかったんだね。ごめんね。」と、この言葉がどれほど欲しかったか、わかってもらいたかったか、嬉しかったか・・・涙した日のことを覚えています。その時、私は43歳。今、母は孫の為にと指文字や手話を覚えることを頑張っています。

 また、大きくなって、社会人になってから「手話」を、覚えたら良いねとよく聞いていました。それでも構わないとも思っていました。実際私達夫婦もそうでした。しかし、本や、ネット、テレビでもよく見かけますが、きこえる、きこえない、関係なく一般的に子どもたちの性格や考え方は、生まれたときから6歳頃までの乳幼児期の過ごし方によってほとんどが決まるといいます。

 私達夫婦だけでなく、似たような境遇の聴覚障害者をたくさん知っています。子どものころからコミュニケーションが取れなかった人達は、喜怒哀楽を共有できなかった部分で、社会に溶け込めない、溶け込めにくいという問題を抱えています。それは本人でさえ気づかないので、周りに人も理解しづらいというジレンマにつながっています。

 なので、きこえない、きこえにくい乳幼児期の子どもには分かる環境を作ってあげて、沢山の手話コミュニケーションの中で子どもが持つ感性を引き出してあげてほしいと思います。いろいろな経験を培い「人としての基礎をしっかり育て地に根を張らせる」事がとても大切だと思います。これが出来るのが、熊本ろう学校の幼稚部です。

  子どもは幼稚部に入り、65デシベルの手帳なしでも、言葉を聞き取れていない部分が沢山あったので、絵日記や手話・指文字を通して、身につけていきました。先生方は、お友達の気持ちやお友達への寄り添い方、悔しい気持ちとの付き合い方、ポジティブな捉え方など、集団活動の中ではあるけれど、丁寧に一人一人に接し「考える力」「子どもの感性」を伸ばしてくれました。年長児の頃には、お友達との話も深くなったり、意見を言い合ったり、笑い合ったり子ども同士の関係性、コミュニケーションが出来ていました。また、私の言い方がきつかったときなどは「そんな言い方をしなくてもいいじゃない。○○だよって言ってくれたらいいじゃない?」「ママはそう思ったかもだけど、僕は違うんだよ。」などはっきり伝えてくれるたびに成長を感じました。

 学校から帰って一日の出来事を話してくれたり、1,2年前の過去の出来事を思いだし話してくれたり、学校生活が楽しかったようです。また、「なぜ?」「どうして?」と質問が増えて、説明や納得をさせることは、今も私達夫婦の頭を悩ませています。ですが、これは嬉しい悩みです。

 私達夫婦はどんな乳幼児期だったのか覚えていません。小、中、高の様々な思い出も出てきません。多分絞り出しても分からないでしょう。何故かというと、補聴器からの分かりにくい音声と読み取りにくい読唇術で、自身が物事を曖昧なままで受け止めていたから、疑問に思う物事がなく、色々な記憶も残らなかったのでは思っています。

  初めての子育てに、不安も大きい中で「うさぎルーム」から幼稚部卒業までの6年間、私達親子に寄り添ってくださった先生方ありがとうございました。通じ合える喜び、切磋琢磨しあえる仲間と共に過ごせた事は子どもにとっても宝物です。それを土台にして小学部でもお友達と更に成長していってほしいと思っています。

令和6年(2024年)3月 5歳児保護者

 

令和5年度(2023年度)幼稚部卒業生_ 保護者の声02

 次男として生まれて一歳になる前くらいから家族の中で漠然と「お兄ちゃんはこの頃、もっとお話してたよな~」という不安。1歳半検診で言葉の遅れを指摘され病院に。新生児スクリーニングがパスしていたこともあり、耳鼻科では「言ってる事にも反応してるし、様子をみましょう」との事で地域の保育園に通っていました。幼いからと理由もあるかもしれませんが、お友達との喧嘩や手を出す事も多かったのですが、お友達との活動も楽しそうにしていたので言葉の遅れ以外は大きな心配はしていませんでした。

 2歳過ぎた時に担任の先生から、「やはり耳が聞こえていないのでは?」と聴覚支援センターを初めて紹介して頂きました。そこで、検査と大学病院の再検査を重ねた結果、両後迷路性難聴と診断を受けました。新生児スクリーニングで発覚することはなく、音に反応するが、言葉として認識しないという珍しい難聴のようで、言葉の習得は今後も厳しいと医師に伝えられました。正直、「2年以上話さなかった理由がはっきり分かって安心した。」が、家族にとっての感想でした。

 そこからは進むだけという気持ちで、聾学校に通う為に整備していきました(補聴器の嫌がり、フレキシブル勤務が出来る部署に異動、保育園との連携など)。出発が少し遅れた分、うさぎルームや手話など必要な情報が揃っていないままの入学でしたが、定期的に学校や保護者同士の手話学習会を通じて子供にとって必要なことは、インターネットなどよりもリアルに学ぶ事ができました。

  地域の保育園時代の喧嘩も今なら子供の気持ちも理解できます。後ろから声をかけられたり、「貸して」言われたことに気付かずに「玩具を勝手に取った」と思ったり…先生から聞くケンカの原因など、「難聴だから」の理由が大半だったなと。熊本聾学校に行くまでは、保育園のみんなで、言葉じゃなく絵カードや写真などを使ってなど、とても手厚くサポート頂いて感謝してます。

 しかし、熊本聾学校に入園させた事で次男も自分の気持ちを伝えることや、手話での友達や先生との関わりで自分をしっかり持てるまで成長したことは、地域の保育園ではなく熊本聾学校で学べたからこそだと思います。3年間で培った土台を、小学生以降、大きな幹になって次男らしく明るく前向きに学校生活を友達と楽しんでほしいと思います。

 子供の成長と親の成長を促していただいた先生方に感謝です。家族一同大変お世話になりました。

令和6年(2024年)3月 5歳児保護者

 

令和5年度(2023年度)幼稚部卒業生_ 保護者の声01

 私は、娘を聾学校に入学できて本当によかったと思っています。その理由は、娘がこの3年間で大きく成長したことを実感しているからです。

  娘は、低体重出生児で脳にも異常が見つかりました。産後は、さまざまな不安で本当に押し潰されそうでした。 生まれて数日後の検査で、娘の左耳が聞こえないと分かり、私はすぐに、産院の病室で聾学校の幼稚部について調べました。 その時、目印が見つかったような感じがして、気持ちが少し前向きになりました。

 今でも、その光景が頭から離れません。 そして、娘が満3歳になったら聾学校の幼稚部に入学させる方法もあるなと思いました。 

 0歳から3歳を迎えるまでは、保育園や日中利用ができる療育などに通いました。2歳ごろには右耳も聴力が下がり始め、聾学校への意識も強くなりました。 

 実際に熊本聾学校の幼稚部に通い出すと、娘は少しずつ手話を覚え、様々な表現ができるようになっていきました。 私も少しずつ手話を覚え、親子の会話がスムーズ・豊かになっていきました。今では、毎日手話で親子喧嘩をしています(笑)

 また、娘は発達障害と軽度知的障害を合併しており、理解するまでに時間がかかったり、パニックや癇癪を起こしやすかったりするのですが、最近では、手話で話し合うことで気持ちを切り替えられる場面が、少しずつ増えてきています。 

 手話は娘にとって第一言語であり、私たち親子にとっても大切なコミュニケーション手段であることを改めて実感するようになりました。 就学前の大事な時期を熊本聾学校の幼稚部で過ごしたことは、本当に貴重な経験だと思います。 

 先生方や保護者の方々と、子育ての悩みや喜びを共有できたことも良かったです。「自分だけじゃないんだ」と思えたことで救われたときが幾つもありました。 

 4月から、娘は他の学校に入学しますが、聾学校の幼稚部で身に付けたことを糧に、娘らしく小学校生活を楽しんでほしいです。 先生方には、家庭のことや進路のことなど様々な課題に寄り添いサポートしていただき、本当にありがとうございました。

 令和6年(2024年)3月 5歳児保護者