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令和5年度(2023年度)幼稚部卒業生_ 保護者の声03
子どもは新生児聴覚スクリーングで分かり、3歳の時には両耳とも65デシベルで障害者手帳なしでした。0歳から補聴器を付け、私達親がろう者なので手話も使いながらですが、ある程度話す事もできます。そんな様子でしたから、私の家族からは「○○(子の名前)は話せるし、○○(私の名前)も地域の保育園で大丈夫だったから、○○も地域の保育園に通わせて大丈夫だよ」と、熊本聾学校の幼稚部に入学することに良い顔をしていませんでした。
「話せるから大丈夫」「私と同じだから大丈夫」この言葉にとてもやるせない気持ちになりました。それはなぜなの かを、お話ししたいなと思います 。
私は婚前、家族の中で私だけが聞こえませんでした。乳幼児期は80デシベルだったようです。今は100デシベル以上になっています。私の時代は「口話法」という発声練習や、読唇術などを身につけ、聞こえないのに「聞こえる人の様に育てることが良い」という教育でした。自分は地域の学校に通っていました。当時、相手が話す内容はわかっていたつもりだったでしょうが、今思えば10%ぐらいしか読めていなかっただろうと思います。理解も出来ていなかったのだと。友達の話も、分からないから何度も聞き返すが、最後には相手に「なんでわからない?」「もう、いいよ。たいしたことないから」「関係ないから、大丈夫」と、あしらわれ終わることが殆どでした。
勉強面でも、先生の話やクラスメイトの発言も分からないので、なんとか黒板と教科書だけで必死について行ったように思います。私は、集団活動の中での話の内容や理解が出来ていない部分も多かったので、分からないことが分かりませんでした。でも、先生や親から「分からないことは、なんでも聞いてね」「自分から積極的にね」と、よく言われていた。先生も親も、聞こえなくて分からないことや、分かりにくいことを理解していたつもりかもしれませんが、きっと「きこえない私」ではなく、「きこえる人のような私」を見ていたのかもしれません。
また、分かりにくい環境の中でも、我慢するというと変かもしれませんが、「人の行動を見よう見まねでついて行き、口を見て理解ができていなくても、わかったふりをすれば何も言われない、怒られない」そうすることで、自分を良く見せられるだろうと相手の機嫌や顔色を伺いながら神経を張り巡らせていた、そんな気持ちで毎日を過ごしていたように思います。その頃、私は自分の気持ちをうまく伝えきれず伝える事が苦手でした。友達作りも下手で、相手の考えや気持ちに寄り添って考えることも下手でした。それは今でも残っている部分はあります。
18歳の時に「手話」を知りました。それまで私は、きこえない、きこえにくい事をいちいち説明をすることが大変だし、人の口を読むことに疲れたなと、毎日モヤモヤと生きにくさを感じていました。でも、手話を覚えて話せるようになってからは、相手の話が分かるからこそ、自分の考えも伝えられるようになり、ポジティブな考え方が増えてきたかなと思います。自分にとって価値のある情報を得られることも沢山ありました。手話でのコミュニケーションってこんなに楽しいものなんだと、大切な言語と気づかされました。今思えば、主人も私も、理不尽な思いを感じながら時代を駆け抜けてきたように思います。
そして、子どもが生まれてきてから、私達と同じようには歩ませたくないと思うようになりました。子どもには、見て分かる環境の中で、「心と体」伸び伸びと育っていって欲しいとの思いで、熊本聾学校に決めていました。
私の両親には納得して欲しかったので、一度だけ熊本ろう学校内の乳幼児相談「ウサギルーム」に連れて行きました。そこで、先生の話を聞き・・「○○(私の名前)は、話せるし全然大丈夫だと思っていたけど、お母さんが分かっていなかったんだね。ごめんね。」と、この言葉がどれほど欲しかったか、わかってもらいたかったか、嬉しかったか・・・涙した日のことを覚えています。その時、私は43歳。今、母は孫の為にと指文字や手話を覚えることを頑張っています。
また、大きくなって、社会人になってから「手話」を、覚えたら良いねとよく聞いていました。それでも構わないとも思っていました。実際私達夫婦もそうでした。しかし、本や、ネット、テレビでもよく見かけますが、きこえる、きこえない、関係なく一般的に子どもたちの性格や考え方は、生まれたときから6歳頃までの乳幼児期の過ごし方によってほとんどが決まるといいます。
私達夫婦だけでなく、似たような境遇の聴覚障害者をたくさん知っています。子どものころからコミュニケーションが取れなかった人達は、喜怒哀楽を共有できなかった部分で、社会に溶け込めない、溶け込めにくいという問題を抱えています。それは本人でさえ気づかないので、周りに人も理解しづらいというジレンマにつながっています。
なので、きこえない、きこえにくい乳幼児期の子どもには分かる環境を作ってあげて、沢山の手話コミュニケーションの中で子どもが持つ感性を引き出してあげてほしいと思います。いろいろな経験を培い「人としての基礎をしっかり育て地に根を張らせる」事がとても大切だと思います。これが出来るのが、熊本ろう学校の幼稚部です。
子どもは幼稚部に入り、65デシベルの手帳なしでも、言葉を聞き取れていない部分が沢山あったので、絵日記や手話・指文字を通して、身につけていきました。先生方は、お友達の気持ちやお友達への寄り添い方、悔しい気持ちとの付き合い方、ポジティブな捉え方など、集団活動の中ではあるけれど、丁寧に一人一人に接し「考える力」「子どもの感性」を伸ばしてくれました。年長児の頃には、お友達との話も深くなったり、意見を言い合ったり、笑い合ったり子ども同士の関係性、コミュニケーションが出来ていました。また、私の言い方がきつかったときなどは「そんな言い方をしなくてもいいじゃない。○○だよって言ってくれたらいいじゃない?」「ママはそう思ったかもだけど、僕は違うんだよ。」などはっきり伝えてくれるたびに成長を感じました。
学校から帰って一日の出来事を話してくれたり、1,2年前の過去の出来事を思いだし話してくれたり、学校生活が楽しかったようです。また、「なぜ?」「どうして?」と質問が増えて、説明や納得をさせることは、今も私達夫婦の頭を悩ませています。ですが、これは嬉しい悩みです。
私達夫婦はどんな乳幼児期だったのか覚えていません。小、中、高の様々な思い出も出てきません。多分絞り出しても分からないでしょう。何故かというと、補聴器からの分かりにくい音声と読み取りにくい読唇術で、自身が物事を曖昧なままで受け止めていたから、疑問に思う物事がなく、色々な記憶も残らなかったのでは思っています。
初めての子育てに、不安も大きい中で「うさぎルーム」から幼稚部卒業までの6年間、私達親子に寄り添ってくださった先生方ありがとうございました。通じ合える喜び、切磋琢磨しあえる仲間と共に過ごせた事は子どもにとっても宝物です。それを土台にして小学部でもお友達と更に成長していってほしいと思っています。
令和6年(2024年)3月 5歳児保護者
管理責任者 校長 市原留美子