校長室より

2021年6月の記事一覧

?! ある壺の話

 天草高校校長室に入ってすぐ左手に 乳白色の釉薬が光る高さ1mちょっとの大きさの優美な壺が置かれています。「銘板もなく,どなたの作なのだろうか?」と,歴代校長先生の間でも話題になっていたそうです。

 今朝(6月15日),天草高校同窓会の安田会長と池田副会長がお見えになり,「昨日,丸尾焼の金澤さんと会って話している時にこの壺の話題となりました。金澤さんが仰るには『昭和16,17年ごろの天草中学窯業試験場の時のものではなかろうか?』ということだったので,確かめに来ました」とのこと。
 また池田副会長が仰るには,「この壺の釉薬の感じからすると,小川広山(おがわ こうざん)さんの指導によるものじゃなかろうか。小川広山さんは,知る人ぞ知る,近代の天草を、いやいや日本を代表する作陶家ですよ」と。

「天草高校の前身である旧制天草中学校に,窯業試験場があった?」にわかには信じがたい話なので,図書館の宮本先生にレファレンスを申し込むと,日本史の宮部先生と2時間がかりで,いくつかの資料を見つけ出してくれました。

 結論から言うと,確かに昭和10年代,旧制天草中学校には「窯業試験場」が設置されていました。

「天草の(中略)製陶業が発展する中で,昭和10年4月より天草中学校内に窯業試験場が創設された。従来は利用されていなかった酸化鉄含有量の多い廃石を原料とする製品の研究を目的とした。」(『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 天草』鶴田文史編著 昭和54年11月 国書刊行会)
 写真はその当時の天草中学につくられた窯業試験場の写真です。


 場所は,現在の天草高校のプールがあるところの横,町山口川沿いの場所に建てられていたようです。同様の記事は『天草陶磁焼の歴史研究―苓州白いダイヤの巧』(鶴田文史著 天草民報社)にも「昭和10年4月 本渡の天草中学校に窯業試験場を創設」と見られます。

 また,『天草高校百年史』(「天草高校百年」編集委員会編 平成10年3月 イナガキ印刷刊)の記述によると,昭和10年代の天草高校の授業科目・教育課程の欄に「實業『商業・窯業』」という記述も見られ,旧制天草中学校で新しい製陶を目指して,窯業の授業が行われていたことも間違いないようです。

 では,その指導者は誰なのか? 池田副会長が仰るように小川広山さんなのでしょうか?
 当時の天草中学校教職員名簿には,氏名と教科名が載っているのですが,實業または窯業という科目名は見当たりません。ということは外部から教授者を招聘していたのではなかろうかと想像されます。

 宮部先生・宮本先生がまた興味深い資料を見つけておいでになりました。

 当時天草には4つの近代窯業株式会社があったというのです。
「天草の窯業は近代に入って伝統的なもののほかに新しく株式会社形態が成立し創業する。その一つは大正9年12月創業の南九州窯業株式会社で,これは近代楠浦焼の和田・森下製陶所のあとにできた小川富作の大門工場と,小川製陶所に出来た小川富彦の廣瀬工場からなっていた。さらに昭和8年3月には楠浦の錦島に肥州窯業株式会社が創立された。(中略)天草の近代的窯業の株式会社はもう一か所志岐(苓北町)に創業する。大正9年4月創業の天草窯業株式会社である。」(『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 天草』同前)

 本当に近代期の天草は、製陶業の一大中心地とも呼べそうな勢いがあったんですね。

 ところで 楠浦の大門にあった「南九州窯業株式会社」大門工場,
 同じく広瀬にあった「南九州窯業株式会社」廣瀬工場,
 楠浦錦島に出来た「肥州窯業株式会社」,
 苓北町志岐に出来た「天草窯業株式会社」。
 この4つの窯業株式会社で,地理的な位置関係でみると,旧制天草中学校に一番近いのは「南九州窯業株式会社」廣瀬工場です。正確な位置は分かりませんが,学校まで1.5~2kmといったところでしょうか。
他は楠浦ならば約7km,志岐ならば約20km程度。授業に頻繁に指導にやってくるとしたら,この廣瀬工場が最も可能性は高いでしょう。

 そして,その廣瀬工場の責任者は,小川富彦さん。池田副会長が仰っていた小川広山の本名は,小川富彦。何やら急に運命の糸が絡みだしたようですね。

 しかし,今回の調査はここまで。
 また,調査に進展がありましたら,ご報告いたします。

 「調べる」って面白いですね。宮部先生,宮本先生の話を聞きながら,私もワクワクしてきました。
 天草高校の生徒諸君,「調査・探究活動」は奥が深いよー。 楽しいよー!