2019年7月の記事一覧
選手10人の入場行進 ~ 夏の全国高校野球熊本県大会
「御船高等学校」と球場にアナウンスが響きました。御船高等学校野球部の選手10人の入場行進です。キャプテンの久佐賀君が校旗を持ち、その後ろに3人ずつ3列で9人の選手が続きます。バックネット裏に座っていた私の周囲では「あれ?御船はたった10人かな?」という声がしましたが、私は気になりませんでした。本校野球部は部員不足で悩まされ、常に少人数で取り組んできて、7月7日(日)の第101回全国高等学校野球選手権熊本大会開会式を迎えたのです。二日前、学校のグラウンドで入場行進の練習をする選手達に、「少人数でもキラリと光る行進をしよう」と励ましたところです。
藤崎台球場は、県内の高校球児にとっては「熊本の甲子園」のような場所です。樹齢七百年の七本の大楠(国天然記念物)が外野席後方から見守る伝統ある球場に、御船高校単独チームとして入場行進ができたことを誇りに思っています。今年は第101回大会。テーマは「新たに刻む、ぼくらの軌跡」です。少子化に伴う高校生減少によって高校球児も減っています。また、熱中症の危険性も高まり、真夏の大会運営における安全性の確保が求められています。
しかし、様々な困難がある中、高校野球のひたむきさ、最後まであきらめない姿勢などは観る人に元気を与えます。そして、6月上旬に県高校総体・総合文化祭が終わることで大部分の3年生が部活動を引いた後、野球部だけが1ヶ月余り練習に汗を流し、3年生にとって部活動の総仕上げの意味もあり、他の生徒たちの熱い応援もあります。夏の高校野球は国民にとっても風物詩のようなもので、我が国独自の学校文化と言えると思います。
御船高校野球部の初戦は7月8日(月)の第2試合(県営八代球場)となりました。当日は、電子機械科1年生(A・B組)の鹿児島県の川内発電所見学の引率が早くから予定されており、抽選結果の日程を残念に感じました。開会式後、選手達には「1回戦を突破したら応援に行けるから、勝ってくれ」と檄を飛ばしました。しかしながら、結果は熊本高校に大敗を喫したのです。たった二人の3年生の久佐賀君(捕手)と内村君(投手)が最後にバッテリーを組んだことを後で知り、少し救われた気持ちとなりました。
勝った時よりも、負けた時の方が学ぶことは大きいと言われます。本校の3年生の皆さんの多くは十分に力を発揮できず、部活動の終わりを迎えたことでしょう。しかし、高校生としてこれからが本当の勝負です。皆さんには無限の未来が広がっています。敗戦の悔しさをエネルギーに変え、一人ひとりの進路実現に向けて挑戦していってほしいと期待します。後ろを振り返る必要はありません。夢、希望、目標は前方にしかないのです。
音楽のチカラ ~ 平成音楽大学ブラスオーケストラ演奏会
今年の熊本県の梅雨入りは記録的に遅く6月26日(水)でした。その後、断続的に雨が降り続き、今週は九州全域で大雨となり、7月3日(木)は豪雨災害の発生が予測されたため、臨時休校としました。前日から期末考査が始まっており、午前中で考査が終わる予定でしたが、生徒の登下校の安全最優先の観点から、当日朝の6時半に休校の判断をしました。結果的には、上益城郡及びその周辺の雨量は心配されたほどではありませんでしたが、「空振り」でも良かったと思っています。近年の気象災害の状況を見ると、経験や前例は通用しなくなっています。私も三十年以上、高校の教員として働いてきました。自分の経験から学ばなければなりません。しかし、それだけでは全く足りないことを痛感する毎日です。
さて、大雨で臨時休校となった7月3日(木)の夜、平成音楽大学「ブラスオーケストラ2019演奏会」が熊本県立劇場コンサートホールで開催されました。平成音楽大学は九州唯一の音楽大学で、御船町滝川の御船川左岸の高台にあります。創設者の出田憲二先生(故人)は御船高校の卒業生であり、かつて同窓会会長も務められました。平成16年、本校に音楽・美術・書道の芸術コースが設けられた背景に、同じ町の平成音楽大学の存在がありました。現在も、音楽コースの生徒たちは授業の一環として同学において専門の楽器、歌唱等の指導を受けています。音大の一流の先生方から直接指導を受けられることは、御船高校芸術コースの大きな魅力だと考えています。
平成音楽大学からの御案内をいただき、7月3日(木)夜の演奏会に本校の音楽教師と共に出席しました。雨天にもかかわらず、コンサートホール(収容1810席)の席の多くが埋まりました。よく知られたクラシック音楽からスタートし、1964年の東京オリンピックマーチ(作曲:古関裕而)、作曲家の小林亜星の数々のヒット曲と続きました。そして、ラデツキー行進曲(J.シュトラウス)、出田敬三学長が作曲され、広く県民に親しまれている「ユアハンド マイハート」、「おもいで宝箱」でクライマックスを迎えました。平成音楽大学ブラスオーケストラと陸上自衛隊西部方面音楽隊の共演、同学の女性合唱団「平成カンマーコール」、これに子ども学科の学生によるダンス等も加わり、圧巻でした。そして、このすべてをリードされるのが指揮者の出田敬三学長です。まさにマエストロの称号を贈りたい自在の指揮をされました。
「音楽のチカラ」。この言葉を出田学長はよく使われます。熊本地震の被害を受けた平成音楽大学はこの夏、ニューキャンパスとしてよみがえります。その祝祭のような演奏会の熱気に包まれ、鬱陶しい梅雨の季節であることを忘れることができました。「音楽のチカラ」です。
校庭の石碑
御船高校に赴任してきた4月の春休み、校庭を歩いていて体育館前の芝生の石碑が目につきました。高さは1m50㎝程度で、上部にブロンズ(青銅製)板がはめ込まれ、「孝忠」と文字が大きく刻まれ、続いて十行ほど漢文があります。台座の説明版を読むと、「昭和八年十一月十日」、「熊本懸立御船中学校長」の「古賀重利」が建造したことがわかります。いったいこの碑は何だろうと思い、幾人かの職員に尋ねましたが、皆知りませんでした。中には、「校庭に石碑?そんなものがありましたか?」と逆に尋ねてくる職員もいました。私は赴任した直後で、新鮮な気持ちで校内を歩いていたから目にとまったのでしょう。この例が示すとおり、視野に入っていることと認識していることは大きく違います。意識して見ないと、私たちは多くのものを見落とすものなのです。
さて、この石碑の由来について、その後調べてみました。御船高校の創立90年誌、創立80年誌には見当たりませんでしたが、70年誌に紹介されていました。この記事の中に「誰にも顧みられることなく校庭にある」との表現がありますので、当時から関心が払われないものだったのでしょう。実は、この石碑は、幕末の勤王の志士、宮部鼎蔵(みやべていぞう)に関するものでした。
皆さんは、宮部鼎蔵を知っていますか?幕末の歴史に興味、関心のある人にとっては有名な人物でしょう。幕末をテーマとした映画やドラマ、小説等では、池田屋事変で新選組に斬られる勤王の志士として登場します。宮部鼎蔵は熊本藩士(細川家家臣)で、文政3年(1820年)に現在の御船町上野で生まれています。幕末の動乱の中、朝廷中心の勤王思想の志士として活動し、吉田松陰(長州藩)とも交流がありました。文久2年(1862年)に上京する際、決死の覚悟だったのでしょう、弟の春蔵に対して、「親に孝、朝廷に忠」という自らの遺訓の書を託したのです。2年後、京都の池田屋に同志といるところを襲われ、宮部鼎蔵は斃れました。享年45歳。
旧制御船中学校の古賀重利校長(第5代)は、御船の先人である宮部鼎蔵の遺訓の言葉「孝忠」に、朝夕、生徒にも接して欲しいとの願いから、この碑を校庭に建てられたようです。この「孝忠」碑の元となる碑が、宮部鼎蔵の出身地の上野地区にあると聞き、先日、梅雨の合間を縫って訪ねました。御船高校から国道、県道で約8㎞離れた御船町上野に「鼎春園」(ていしゅんえん)があります。大正2年(1913年)、宮部鼎蔵と弟の春蔵の遺徳を敬慕する地元住民によって整備された公園です。高さ5mの宮部鼎蔵顕彰碑、春蔵の歌碑と共に、鼎蔵の「孝忠」碑がありました。古賀重利校長もここを訪ねたのでしょう。
御船高校は創立以来1世紀近く、変わらぬ場所にあります。先人の思いが幾層にも重なっている学舎であると、「孝忠」碑を見て思います。
御船高校校庭の「孝忠」碑 鼎春園の「孝忠」碑