2019年7月の記事一覧

ようこそ御船高校へ ~ 中学生体験入学

    令和元年度の熊本県立御船高等学校「中学生体験入学」を7月26日(金)午前に実施しました。7月24日(水)の異例の遅い梅雨明け以後、日中の最高気温が35度近くに迫る猛暑が続いていますが、それに負けない御船高校の生徒及び教職員の熱意でもって、中学生220人及び保護者・教職員の皆さん50人をお迎えしました。

 午前9時開会と共にオープニングアトラクションとして、本校が誇る吹奏楽部の演奏と書道部の書道パフォーマンスを披露。いきなり御船高校の芸術の力を全開し、中学生たちを引きつけることができたと思います。そして、生徒会長の挨拶、生徒会役員によるパワーポイントを使って大型スクリーンで学校紹介と続きました。この「中学生体験入学」は生徒会はじめ生徒が前面に出て、運営を行っているところが特長なのです。校長挨拶もありません。私自身も不要だと考えています。御船高校生の生き生きとした姿を中学生に見てもらうことが一番の目的と言えるでしょう。「あんな高校生になりたい」、「この先輩達と一緒に高校生活を過ごしたい」と中学生に思ってもらいたいと考え、企画した「中学生体験入学」なのです。

 参加者を6班に分け、それぞれを生徒会の生徒たちが引率して、授業体験、書道・美術の芸術作品の観覧、電子機械科の実習体験等に回ります。特に実習棟における電子機械科の実習体験は、旋盤、溶接、ロボット等の実演を生徒たち自ら行い、説明も担当しました。2年生女子3人が、「工業女子よ来たれ」と盛んに女子中学生にアピールしている姿が印象的でした。また、芸術コース専攻を希望している中学生は、高校生の支援のもと美術室でのデッサンや書道室での制作に挑戦しました。

 中学校とは違う学びの広さ、深さ、そして施設・設備等の充実した教育環境に中学生達は眼を輝かせ、知的好奇心をもって様々なプログラムに取り組み、その真摯な姿勢は実に爽やかでした。

 中学生の皆さん、改めて御船高校の魅力を四つあげます。 

 一  伝統と信頼があります

 一  多くの出会いが待っています

 一  一人ひとりを伸ばします

 一  他校にはない体験活動が豊富です

  来春、天神の森の学舎で皆さんと出会えることを待っています。

 

「伝統」と「多様性」が御船高校の魅力です。

 7月19日(金)に1学期終業式を終え、夏季休業期間に入りました。この4月に赴任した私にとって、1学期は、発見と気づきの連続でした。本校は、幅広い学びの中から自らの進路を探していく普通科、音楽・美術・書道を通して創造力と感性を磨く芸術コース、そしてモノ作りの面白さを追求する電子機械科とそれぞれ異なる教育課程があり、個性きらめく生徒の皆さんが共に学校生活を送っています。平成から令和に時代が変わっても、天神の森の学舎は可能性ある若者と熱意ある教職員の出会いの場であり続けます。

 御船高校の魅力は、「伝統と多様性」だと私は思います。生徒たちは可能性豊かで、一人ひとりが自分探しの個性的な旅をしていると感じます。そして、御船高校生を地域の方や同窓生の皆さんが温かく見守っておられます。熊本県で最も歴史ある洋画公募展の「銀光展」(今年で82回)において、3年4組の木村さんの作品が最高賞に選ばれました。芸術コース美術専攻の生徒としてこれまで学んできた見事な成果です。学生、社会人含めての最高賞を高校生が受賞したことは新聞でも報道されました。そして、この記事をご覧になった同窓生の方からご丁寧な封書が学校に届きました。昭和28年3月ご卒業(御船高校5回生)の大先輩の方で、後輩の木村さんの受賞をたいそう喜ばれ、展覧会に足を運びたいと綴られていました。木村さんを校長室に呼び、この祝意のお手紙について伝えました。木村さんにとっても自信になる出来事でしたが、多くの同窓生や地域の方々を喜ばせる快挙だったのです。

 銀光展の最高賞だけでなく、この1学期、書道部、写真部、水泳部の活躍をはじめ、少林寺拳法同好会の躍進や個人的に取り組んでいる吟詠剣詩舞での全国高校総合文化祭への出場(3年女子)、同じく個人的な挑戦の自転車競技での九州高校総体への出場(1年男子)など相次ぎました。この夏季休業においても、地域の空手道場に通っている2年男子の世界大会出場や、御船町ライオンズクラブの推薦を受け3週間の台湾ホームステイに出かける2年男子など自ら意欲的に進路を切り開く御船高校生が数多くいます。

 そしてきょう7月23日(水)、吹奏楽部が熊本県吹奏楽コンクールの小編成部門で金賞を受賞しました。会場の県立劇場でその演奏を体感した私は、とても15人とは思えない迫力あるサウンドに魅了されました。

 御船高校の魅力は、「伝統と多様性」です。中学3年生の皆さん、来る7月26日(金)は御船高校体験入学の日です。天神の森の学舎への来校を心から待っています。

 

「私たちの学校」という気持ちで ~ 1学期終業式を迎えて

 

 7月19日(金)に御船高校は1学期の終業式を迎えました。大掃除の後、午前9時20分から表彰式、ALT(外国語指導助手)のディラン先生の退任式を行いました。そして、生徒たちはそれぞれの教室に戻り、午前10時15分から放送による終業式を実施しました。体育館の暑さ対策のためです。

 校長講話を放送室で行いましたが、生徒の顔が見えず、マイクに向かって一人で話すことの難しさを感じました。私の講話は次のようなものでした。 

 皆さん一人ひとりが私にはまぶしく見えるほど、高校生は可能性の塊です。高校教師として長年仕事をしてきた私は、高校生の計り知れない可能性にいつも驚かされてきました。だから、皆さん達には、勝手に自分の限界を設けて欲しくありません。「どうせ自分なんか」と自分の可能性を否定するマイナスの言葉は使って欲しくないのです。挑戦もしていないのに諦めている人が多いように思います。失敗したっていいではないですか。「失敗」とは「こうやったらうまくいかないということがわかった」ことを学ぶ経験です。どんなことがあっても、自分だけは自分自身を信じていてください。好きでいてください。

 休み時間や放課後に、私は努めて校内を巡るようにしています。皆さんと挨拶を交わしたり、短い時間でも対話したりすることが楽しみです。しかし、残念なことがあります。駐輪場周辺や部室の近くにジュースの空き缶やお菓子のゴミ袋などがよく落ちているのです。皆さんは自分の部屋にジュースの空き缶を捨てますか? 大人の中にも、自動車や自分の部屋などのプライベート空間は清潔を保つ一方、道路や公園のトイレにタバコの吸い殻や空き缶を放置する人がいます。本来は、多くの人が使用する公共の空間こそ、プライベートな場所より大切にしなければならないのではないでしょうか。

 御船高校は私たちの学校です。1年生も入学して3ヶ月余りこの学舎で生活してきました。単なるモノや道具であっても、長い時間使い続けると愛着を感じます。長年乗っている自転車は、もう単なるモノ(無機物)ではなく、自分の相棒のようになり、「こいつはよく走ってくれるんです」という表現をします。生徒の皆さんにとって、家庭の次に御船高校は心の拠り所と言える場所になって欲しいのです。「私たちの学校」という気持ちを持てば、学校というみんなの空間をさらに大切にすることでしょう。 

 令和元年、2019年の夏休みは二度とありません。生徒の皆さん、一日一日を大切に過ごしてください。

 

ALTのディラン先生を歌で送る

   ALT(Assistant Language Teacher)のディラン先生が2年の任期を終え、1学期末で御船高校を退任されることとなりました。この2年間、ディラン先生は、英語をわかりやすく教えられると共に、母国のアイルランド共和国をはじめヨーロッパ等の国々のことを授業で紹介されました。生徒たちはいつもディラン先生の授業を楽しみにしていました。

 7月19日(金)の1学期終業式の日、体育館において、ディラン先生の退任式を行いました。ディラン先生のスピーチは、最初に英語、次に日本語で次のようなことを語られました。

  「日本に来る前は、日本の生活のことは全く分からなかった。日本の高校生はシャイ(恥ずかしがり屋)で静かだと思っていた。けれども、御船高校の生徒は明るく元気の良い生徒が多く、生徒たちの幸せそうな顔を毎日見ることが幸せだった。御船町に住み、御船高校で教えたことを忘れることはないだろう。」

   ディラン先生のスピーチの後に、生徒会長の田中美璃亜さん(2年B組)が生徒代表の感謝の言葉を述べ、花束を贈呈しました。そして、ステージにコーラス部の生徒6人が登壇し、音楽の岡田先生の指揮、前村先生のピアノで、アイルランドの歌「ダニー・ボーイ」(別名:ロンドンデリーの歌)を合唱しました。アイルランドの民謡は旋律が優しく、明治時代から日本人には親しまれてきました。特に、1913年(大正2年)に発表されたこの歌は、戦場に息子を送った母の思いが表現されていて、その切ないメロディと歌詞は国境を越えて共感を呼び、我が国でも歌い継がれてきています。花束を持ったまま壇上の椅子に座り、コーラス部の歌声にじっと耳を傾けるディラン先生。目頭を幾度か押さえる様子が見られました。異国の地で聴く祖国の民謡はディラン先生の心に深く響いたことでしょう。

   最後は全校生徒及び職員による校歌斉唱を行い、拍手の中、ディラン先生は生徒たちの間を通って、体育館を退場されました。

   アイルランドは、地理的には遠く離れた島国です。しかし、かつて明治24年から3年間、アイルランド人の父とギリシア人の母を持つラフカディオ・ハーン(帰化して小泉八雲となる)が熊本の青年達に英語を教えたことから、熊本とアイルランドの関係は早くから始まりました。ハーンが住んだ家は今も熊本市に記念館として保存公開されています。また、市民有志によって「熊本アイルランド協会」という団体も結成されています。人と人との出会いによって、国と国との関係が始まるのです。私たちにとって、アイルランドはディラン先生の国として特別な存在になることでしょう。

 

御船町の本町通り歴史散歩 ~ かつて御船に県庁があった

 

   「御船町に県庁があったことを知っていますか?」と、御船高校に赴任した私に藤木町長が言われました。続けて、「但し、たった二日間ですが」と笑って付け加えられました。

 時は明治10年(1877年)2月のことです。西郷隆盛率いる薩摩軍が北上して、政府軍の立てこもる熊本城を包囲しました。西南戦争の始まりです。お城の近くにあった熊本県庁は2月19日に避難し、郊外の御船に仮県庁を置いたのです。しかし、この一帯も混乱しており、結局、21日には御船から仮県庁は出て行きます。「御船の二日県庁」と語り伝えられるゆえんです。仮県庁はその後も県内を転々とし、4月16日に熊本城近くの元の場所に戻りました。なお、田原坂の戦いで政府軍に敗れ、熊本城の包囲網を解いた薩摩軍は、4月に御船付近で数次にわたって政府軍と戦火を交えます。特に最後の4月20日の戦いは激しく、政府軍が御船町を占領することで、薩摩軍は山道を矢部方面へ撤退していきました。その後、二度と薩摩軍が熊本平野に戻ってくることはありませんでした。

 「県庁跡」は御船川左岸の本町通りです。ここはかつて御船の商業の中心だったところで、漆喰の白壁の建物前に「史跡 熊本県庁跡」の白い標柱が立っています。背後の建物は、築100年以上の歴史的建造物の「池田活版印刷所」(明治33年創業)です。こちらは今も鉛活字を使った昔ながらの手法で印刷を手がけておられます。先日、本校の美術科の職員等と訪問したところ、5代目店主の吉田典子さんが懇切丁寧にご案内してくだいました。店内は、インクの匂いが漂い、大量の鉛活字の棚や黒光りする印刷機が存在感を示しています。名刺やノートを手に取ると、活版印刷による味わい深い凹凸感がありました。今後、美術コースの生徒の見学やワークショップを実現したいと思います。

 池田印刷所の隣が「御船街なかギャラリー」です。もともとは江戸時代後期に建てられた大きな町屋で、豪商の林田能寛(はやしだよしひろ)の商家(「萬屋」)でした。白壁土蔵造りの酒蔵や商家が次々と消えていく中、往時の町並みを伝える建物として御船町が所有し、現在は交流施設として観光協会が運営されています。太い梁や柱の趣ある主屋をはじめ離れや庭、さらには二つの大きな蔵があり、御船高校芸術コースの書道や美術の学習成果発信の場として活用できないか検討しているところです。

 令和の世にあっても活版印刷が行われていたり、江戸後期の商家建築が活用されていたりと御船町の本町通りは奥が深い場所です。歩いていると歴史をさかのぼっていくような感覚に包まれます。皆さんも歩いてみませんか?

 

選手10人の入場行進 ~ 夏の全国高校野球熊本県大会

 

 「御船高等学校」と球場にアナウンスが響きました。御船高等学校野球部の選手10人の入場行進です。キャプテンの久佐賀君が校旗を持ち、その後ろに3人ずつ3列で9人の選手が続きます。バックネット裏に座っていた私の周囲では「あれ?御船はたった10人かな?」という声がしましたが、私は気になりませんでした。本校野球部は部員不足で悩まされ、常に少人数で取り組んできて、7月7日(日)の第101回全国高等学校野球選手権熊本大会開会式を迎えたのです。二日前、学校のグラウンドで入場行進の練習をする選手達に、「少人数でもキラリと光る行進をしよう」と励ましたところです。

 藤崎台球場は、県内の高校球児にとっては「熊本の甲子園」のような場所です。樹齢七百年の七本の大楠(国天然記念物)が外野席後方から見守る伝統ある球場に、御船高校単独チームとして入場行進ができたことを誇りに思っています。今年は第101回大会。テーマは「新たに刻む、ぼくらの軌跡」です。少子化に伴う高校生減少によって高校球児も減っています。また、熱中症の危険性も高まり、真夏の大会運営における安全性の確保が求められています。

 しかし、様々な困難がある中、高校野球のひたむきさ、最後まであきらめない姿勢などは観る人に元気を与えます。そして、6月上旬に県高校総体・総合文化祭が終わることで大部分の3年生が部活動を引いた後、野球部だけが1ヶ月余り練習に汗を流し、3年生にとって部活動の総仕上げの意味もあり、他の生徒たちの熱い応援もあります。夏の高校野球は国民にとっても風物詩のようなもので、我が国独自の学校文化と言えると思います。

 御船高校野球部の初戦は7月8日(月)の第2試合(県営八代球場)となりました。当日は、電子機械科1年生(A・B組)の鹿児島県の川内発電所見学の引率が早くから予定されており、抽選結果の日程を残念に感じました。開会式後、選手達には「1回戦を突破したら応援に行けるから、勝ってくれ」と檄を飛ばしました。しかしながら、結果は熊本高校に大敗を喫したのです。たった二人の3年生の久佐賀君(捕手)と内村君(投手)が最後にバッテリーを組んだことを後で知り、少し救われた気持ちとなりました。

 勝った時よりも、負けた時の方が学ぶことは大きいと言われます。本校の3年生の皆さんの多くは十分に力を発揮できず、部活動の終わりを迎えたことでしょう。しかし、高校生としてこれからが本当の勝負です。皆さんには無限の未来が広がっています。敗戦の悔しさをエネルギーに変え、一人ひとりの進路実現に向けて挑戦していってほしいと期待します。後ろを振り返る必要はありません。夢、希望、目標は前方にしかないのです。 

 

音楽のチカラ ~ 平成音楽大学ブラスオーケストラ演奏会

 

   今年の熊本県の梅雨入りは記録的に遅く6月26日(水)でした。その後、断続的に雨が降り続き、今週は九州全域で大雨となり、7月3日(木)は豪雨災害の発生が予測されたため、臨時休校としました。前日から期末考査が始まっており、午前中で考査が終わる予定でしたが、生徒の登下校の安全最優先の観点から、当日朝の6時半に休校の判断をしました。結果的には、上益城郡及びその周辺の雨量は心配されたほどではありませんでしたが、「空振り」でも良かったと思っています。近年の気象災害の状況を見ると、経験や前例は通用しなくなっています。私も三十年以上、高校の教員として働いてきました。自分の経験から学ばなければなりません。しかし、それだけでは全く足りないことを痛感する毎日です。

 さて、大雨で臨時休校となった7月3日(木)の夜、平成音楽大学「ブラスオーケストラ2019演奏会」が熊本県立劇場コンサートホールで開催されました。平成音楽大学は九州唯一の音楽大学で、御船町滝川の御船川左岸の高台にあります。創設者の出田憲二先生(故人)は御船高校の卒業生であり、かつて同窓会会長も務められました。平成16年、本校に音楽・美術・書道の芸術コースが設けられた背景に、同じ町の平成音楽大学の存在がありました。現在も、音楽コースの生徒たちは授業の一環として同学において専門の楽器、歌唱等の指導を受けています。音大の一流の先生方から直接指導を受けられることは、御船高校芸術コースの大きな魅力だと考えています。

 平成音楽大学からの御案内をいただき、7月3日(木)夜の演奏会に本校の音楽教師と共に出席しました。雨天にもかかわらず、コンサートホール(収容1810席)の席の多くが埋まりました。よく知られたクラシック音楽からスタートし、1964年の東京オリンピックマーチ(作曲:古関裕而)、作曲家の小林亜星の数々のヒット曲と続きました。そして、ラデツキー行進曲(J.シュトラウス)、出田敬三学長が作曲され、広く県民に親しまれている「ユアハンド マイハート」、「おもいで宝箱」でクライマックスを迎えました。平成音楽大学ブラスオーケストラと陸上自衛隊西部方面音楽隊の共演、同学の女性合唱団「平成カンマーコール」、これに子ども学科の学生によるダンス等も加わり、圧巻でした。そして、このすべてをリードされるのが指揮者の出田敬三学長です。まさにマエストロの称号を贈りたい自在の指揮をされました。

 「音楽のチカラ」。この言葉を出田学長はよく使われます。熊本地震の被害を受けた平成音楽大学はこの夏、ニューキャンパスとしてよみがえります。その祝祭のような演奏会の熱気に包まれ、鬱陶しい梅雨の季節であることを忘れることができました。「音楽のチカラ」です。

 

校庭の石碑

 

 御船高校に赴任してきた4月の春休み、校庭を歩いていて体育館前の芝生の石碑が目につきました。高さは1m50㎝程度で、上部にブロンズ(青銅製)板がはめ込まれ、「孝忠」と文字が大きく刻まれ、続いて十行ほど漢文があります。台座の説明版を読むと、「昭和八年十一月十日」、「熊本懸立御船中学校長」の「古賀重利」が建造したことがわかります。いったいこの碑は何だろうと思い、幾人かの職員に尋ねましたが、皆知りませんでした。中には、「校庭に石碑?そんなものがありましたか?」と逆に尋ねてくる職員もいました。私は赴任した直後で、新鮮な気持ちで校内を歩いていたから目にとまったのでしょう。この例が示すとおり、視野に入っていることと認識していることは大きく違います。意識して見ないと、私たちは多くのものを見落とすものなのです。

 さて、この石碑の由来について、その後調べてみました。御船高校の創立90年誌、創立80年誌には見当たりませんでしたが、70年誌に紹介されていました。この記事の中に「誰にも顧みられることなく校庭にある」との表現がありますので、当時から関心が払われないものだったのでしょう。実は、この石碑は、幕末の勤王の志士、宮部鼎蔵(みやべていぞう)に関するものでした。

 皆さんは、宮部鼎蔵を知っていますか?幕末の歴史に興味、関心のある人にとっては有名な人物でしょう。幕末をテーマとした映画やドラマ、小説等では、池田屋事変で新選組に斬られる勤王の志士として登場します。宮部鼎蔵は熊本藩士(細川家家臣)で、文政3年(1820年)に現在の御船町上野で生まれています。幕末の動乱の中、朝廷中心の勤王思想の志士として活動し、吉田松陰(長州藩)とも交流がありました。文久2年(1862年)に上京する際、決死の覚悟だったのでしょう、弟の春蔵に対して、「親に孝、朝廷に忠」という自らの遺訓の書を託したのです。2年後、京都の池田屋に同志といるところを襲われ、宮部鼎蔵は斃れました。享年45歳。

 旧制御船中学校の古賀重利校長(第5代)は、御船の先人である宮部鼎蔵の遺訓の言葉「孝忠」に、朝夕、生徒にも接して欲しいとの願いから、この碑を校庭に建てられたようです。この「孝忠」碑の元となる碑が、宮部鼎蔵の出身地の上野地区にあると聞き、先日、梅雨の合間を縫って訪ねました。御船高校から国道、県道で約8㎞離れた御船町上野に「鼎春園」(ていしゅんえん)があります。大正2年(1913年)、宮部鼎蔵と弟の春蔵の遺徳を敬慕する地元住民によって整備された公園です。高さ5mの宮部鼎蔵顕彰碑、春蔵の歌碑と共に、鼎蔵の「孝忠」碑がありました。古賀重利校長もここを訪ねたのでしょう。

 御船高校は創立以来1世紀近く、変わらぬ場所にあります。先人の思いが幾層にも重なっている学舎であると、「孝忠」碑を見て思います。

 

  御船高校校庭の「孝忠」碑    鼎春園の「孝忠」碑