校庭の石碑

 

 御船高校に赴任してきた4月の春休み、校庭を歩いていて体育館前の芝生の石碑が目につきました。高さは1m50㎝程度で、上部にブロンズ(青銅製)板がはめ込まれ、「孝忠」と文字が大きく刻まれ、続いて十行ほど漢文があります。台座の説明版を読むと、「昭和八年十一月十日」、「熊本懸立御船中学校長」の「古賀重利」が建造したことがわかります。いったいこの碑は何だろうと思い、幾人かの職員に尋ねましたが、皆知りませんでした。中には、「校庭に石碑?そんなものがありましたか?」と逆に尋ねてくる職員もいました。私は赴任した直後で、新鮮な気持ちで校内を歩いていたから目にとまったのでしょう。この例が示すとおり、視野に入っていることと認識していることは大きく違います。意識して見ないと、私たちは多くのものを見落とすものなのです。

 さて、この石碑の由来について、その後調べてみました。御船高校の創立90年誌、創立80年誌には見当たりませんでしたが、70年誌に紹介されていました。この記事の中に「誰にも顧みられることなく校庭にある」との表現がありますので、当時から関心が払われないものだったのでしょう。実は、この石碑は、幕末の勤王の志士、宮部鼎蔵(みやべていぞう)に関するものでした。

 皆さんは、宮部鼎蔵を知っていますか?幕末の歴史に興味、関心のある人にとっては有名な人物でしょう。幕末をテーマとした映画やドラマ、小説等では、池田屋事変で新選組に斬られる勤王の志士として登場します。宮部鼎蔵は熊本藩士(細川家家臣)で、文政3年(1820年)に現在の御船町上野で生まれています。幕末の動乱の中、朝廷中心の勤王思想の志士として活動し、吉田松陰(長州藩)とも交流がありました。文久2年(1862年)に上京する際、決死の覚悟だったのでしょう、弟の春蔵に対して、「親に孝、朝廷に忠」という自らの遺訓の書を託したのです。2年後、京都の池田屋に同志といるところを襲われ、宮部鼎蔵は斃れました。享年45歳。

 旧制御船中学校の古賀重利校長(第5代)は、御船の先人である宮部鼎蔵の遺訓の言葉「孝忠」に、朝夕、生徒にも接して欲しいとの願いから、この碑を校庭に建てられたようです。この「孝忠」碑の元となる碑が、宮部鼎蔵の出身地の上野地区にあると聞き、先日、梅雨の合間を縫って訪ねました。御船高校から国道、県道で約8㎞離れた御船町上野に「鼎春園」(ていしゅんえん)があります。大正2年(1913年)、宮部鼎蔵と弟の春蔵の遺徳を敬慕する地元住民によって整備された公園です。高さ5mの宮部鼎蔵顕彰碑、春蔵の歌碑と共に、鼎蔵の「孝忠」碑がありました。古賀重利校長もここを訪ねたのでしょう。

 御船高校は創立以来1世紀近く、変わらぬ場所にあります。先人の思いが幾層にも重なっている学舎であると、「孝忠」碑を見て思います。

 

  御船高校校庭の「孝忠」碑    鼎春園の「孝忠」碑