2017年5月の記事一覧

東京出張報告

先週、全国高校長会と東京御船会の二つの会合のため東京へ行ってきました。全国高校長会では、文部科学省の合田哲雄課長のお話など、これからの高校教育のあり方について示唆に富む内容の講演や研究発表を聞くことができました。合田課長は、私が昨年度勤務していた県立教育センターの研究発表会にも講師としておいでいただいた方なので懐かしかったです。

また、御船高校同窓会「東京御船会」は、霞ヶ関ビルにおいて出席者75名で開かれました。私は現在の御船高校のようすを中心にお話をさせていただきましたが、同窓生の皆さんの母校への愛情と誇りをひしひしと感じました。全国ロボット競技大会の優勝をはじめ、御船高校の活躍を皆さんのもとにお届けできるよう、頑張らなければならないと身が引き締まりました。
同窓生の足立悦子様から、すばらしい植物の細密画をいただきました。ありがとうごさいました。

西住小次郎戦車長

御船高校の前身である旧制御船中学校の出身で、戦前、軍神として全国に名を知られた人物がいる。甲佐町出身、御船中から陸軍士官学校へと進み、昭和13年5月17日に中国にて戦死した「西住小次郎大尉」である。現在でも地元甲佐町で慰霊祭が行われており、母校である御船高校の校長にも毎年ご案内をいただいている。実は、私はこの西住戦車長とは親戚関係にある。西住小次郎大尉のお母さんは我が西澤家から嫁にいった方で、私の祖父と大尉はいとこの間柄であるのだ。そういった縁で、私の父も陸軍幼年学校に進学している。(すぐ終戦であったが。)
昨日、体育祭の代休を利用して甲佐町の「西住小次郎戦車長顕彰碑」に行ってきた。母校、御船高校生のますますの活躍を見守ってくださるよう、お願いしてきた。





校長室にある西住大尉の写真

御船高校体育祭

一昨日の荒天が嘘のように晴れ渡り、さわやかな五月の青空の下、平成29年度御船高校体育祭が行われました。赤団団長「森 大志」君、青団団長「大塚翔太」君、黄団団長「金澤誠人」君のリードのもと、各団員が心を一つにしてそれぞれの競技を闘ってくれ、見応えのある体育祭となりました。白熱したリレー、個性あふれる部活動紹介、一糸乱れぬ演舞、少し照れもあったフォークダンス、どれも御船高校生らしい元気いっぱいの姿を見せてくれました。本年度のテーマ「自信×努力>実力」~船高生の本気~が示しているように、自信を持って努力することですばらしい力が発揮できた体育祭でした。

御船探訪(熊延鉄道御船駅)

かつて御船町に鉄道が走っていたことを話すと生徒は驚くが、50代以上の地元の方はよく覚えておられる。現在の御船小学校の校庭の横に当時の御船駅はあった。

「熊延(ゆうえん)鉄道」。「熊本バス」の前身。JR南熊本駅から砥用までの28.6キロを結んでいた。大正5年春竹(南熊本)~御船開通。大正12年御船~甲佐開通。昭和7年甲佐~砥用開通。昭和39年南熊本~砥用廃止。約50年間、城南地方の足として住民の生活を支えてきたばかりでなく、内大臣や矢部から切り出された木材を運ぶ貨物車としても活躍した。(今でも甲佐や御船、南熊本には木材の集積地が残る)当初の予定では、宮崎県の高千穂線(現高千穂鉄道)と結び、延岡までレールをのばすつもりだったらしい。だから「熊延」鉄道なのである。おもな駅は、南熊本→田迎→鯰→上島→六嘉→御船→甲佐→佐俣→釈迦院→砥用。
十数年前、鉄道愛好の同僚と、南熊本から砥用まで線路跡を歩いたことがある。線路跡は道になっているところが多かったが、それでも意識してたどってみると、ここにかつて鉄道があったことをうかがわせる「遺跡」があった。うっそうとした森 の中に突然、人工の遺物を発見する喜びは、かのムオー博士がアンコールワットを発見した喜びに通じるものがあった。

上島で見つけた鉄橋(2002年撮影)

佐俣にはコンクリート製のトンネルがあった(2002年撮影)

馬門橋から見た橋脚(2002年撮影)
熊延鉄道の甲佐駅には、内大臣から伐採された材木が、狭軌の森林鉄道によって集積されていた。そして熊延鉄道によって南熊本駅へと運ばれたのである。

緑川にかかる森林鉄道の鉄橋の跡(2002年撮影)
このように、私達のふるさとには日本の産業発展に寄与した遺産が数多くある。
先人たちの知恵と努力の結晶である「産業遺産」に関心を持ち、それを調べることは有意義なことであると思う。御船町や御船高校についてもっと調べてみよう。
【おすすめのサイト】
 九州ヘリテージ    九州ヘリテージ kyushu-heritage.jp

御船探訪(御船城と甲斐宗運)

連休中、少し時間があったので御船町をぶらりと散歩してみました。御船は、古くから上益城地方の政治・経済の中心地で、多くの文化遺産が残る町です。地味も肥え、背後に要害の山がひかえることから、中世より戦略上重要な地域でありました。現在の御船小学校の横に小高い丘がありますが、これが「御船城」です。「御船城」城主の中で名高いのが「甲斐宗運」。阿蘇家の重臣として肥後の国でその人ありと言われた名将です。

御船城近景

 

 甲斐宗運(親直)(15151584)は肥後・御船城主。知勇兼備の将として名高い、阿蘇家の重臣てす。

 宗運は、永正十四年(1517阿蘇大宮司惟豊を矢部の「」に復帰させ、それにより地位を確立しました。天文期には阿蘇氏老臣として領国経営に当たりましたが、同十年、阿蘇大宮司に背いた御船房行を御船城に攻め、以後同城の城主となりました。宗運は阿蘇惟豊・惟将の二代に仕えましたが、阿蘇勢力を代表して大友氏と結び、隣国の相良義陽と盟約して外敵に当たるなど、ひたすら阿蘇家を守り、その舵を取り続けました。そのため、島津をして「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」とまで言わしめたのです。