2021年2月の記事一覧
最後まで「受験生」
2月に入り3年生は家庭学習期間に入りました。進路が確定した生徒は登校の必要がなくなり、自動車学校へ通ったり、自宅で進学先からの課題に取り組んだりして過ごしていることと思います。しかし、そのような中、大学受験に挑む一部の生徒たちは登校し、職員の指導を受け続けていました。先般、電子機械科の男子生徒が熊本大学工学部を推薦入試で合格を勝ち取るなど好結果が出ています。そしてまだ4組(芸術コース)の美術専攻の3人の女子生徒たちが毎日登校しています。
3人の生徒たちは午前9時前後にそれぞれ登校し、体操服に着替え、特別教室棟1階の美術室でデッサン等に励みます。モチーフは美術の先生が設定することもあれば、生徒自分たちで作ることもあります。石膏像や果物、コンクリートブロックなど様々なモチーフが日替わりのように変わっています。昼休みをはさみ午後3時過ぎまでおよそ6時間、ひたむきに鉛筆、絵筆を動かし続けます。
時折、私はこの部屋を訪ねてみます。邪魔してはいけないと最初は黙って見守っていますが、「集中力は30~40分が限界です」と言って生徒たちは各自で休憩をとるので、その時に対話します。3年間を振り返って、また将来の夢などを率直に語ってくれます。
「コロナで臨時休校の期間は、自宅で絵を描いたり、粘土でモノづくりを楽しんで過ごしました。」
「3年間、マイペースに好きな美術が学べました。御船の芸術コースに来て良かったなあと思っています。」
「今が最も自由を感じます。」
実は3人のうち2人は先週、受験を終え、結果待ちの状態です。もう1人の生徒は来週25日に国公立前期日程で受験予定です。受験は、結果を待つ間が最も不安な時期です。一人の生徒は特に不安を口にします。試験会場で他の受験生の作品が見え、その技量の高さに驚いたそうです。3人とも、希望と不安が混在した時間を一緒に過ごしているのです。先に受験を終えても、全員の受験が終了し結果が出るまで、3人とも美術室で絵を描き続ける気持ちでいます。それぞれ目標は異なっていても、同志としての強い結びつきを感じます。
「人間は努力する限り、迷ったり不安になったりするものだよ。迷わぬ人間は怠惰な人間だと言えるよ。」と私は3人を励ましました。
芸術コース(4組)は3年間メンバーが不変で、喜びも苦しみも連帯してきました。その連帯感を力に、3人は最後まで「受験生」であり続けています。
町の「記憶」を訪ねて ~ 変わりゆく風景のなかで
久しぶりに御船川の南側(左岸)の本町通りを歩く機会がありました。現在の御船町は川の北側(右岸)が中心で、役場、警察、消防、小・中学校、大型商店等が集まり、コンパクトタウンの姿を見せています。御船高校もここにあります。しかし、昭和の中頃までは、御船川の南に沿った本町通りが、白壁の商家が立ち並び繁栄していたところです。この「校長室からの風」でも紹介した江戸期の豪商の林田家邸宅跡(現「まちなかギャラリー」)、明治期創業の池田活版印刷所など往時の賑わいが偲ばれる建物が残っています。
今回は本町通りを上流方面へ歩き、御船川に架かる「思い出橋」を訪ねました。ここにはかつて美しい姿の2連アーチの石橋が架かっていました。江戸後期の嘉永元年(1848年)建造の御船眼鏡橋です。当時の町人たちの寄付によって造られました。「あの眼鏡橋が残っていたらなあ」と年配の御船高校同窓生の方々が今でも懐かしまれます。昭和63年(1988年)の水害で惜しくも流失してしまい、そのモニュメント(記念碑)が「思い出橋」のたもとに設置されています。
また、「思い出橋」のすぐ近くに木造平屋建てで瓦葺(かわらぶき)の重厚感のある建物が残されています。ここが明治時代の旧裁判所庁舎です。明治期、熊本県内に9か所設置されたものの一つで、明治28年(1895年)に建造され、その後、御船簡易裁判所となり昭和46年まで使われました。今も公民館として現役の建物であり、国の登録有形文化財の指定を受けています。現在の御船町には簡易裁判所・家庭裁判所の出張所があるのみですが、かつては上益城郡の拠点として裁判所庁舎が置かれていたのです。
昭和の前半までは木材をはじめ物資の流通に舟運が大きな役割を果たしました。従って、御船川沿いに商家や造り酒屋が軒を並べ本町通りが町のメインストリートでした。しかし、自動車の急速な普及(モータリゼーション)によって、交通・運輸の体系が変わり、町のあり方にも影響を与えました。昭和51年(1976年)に九州自動車道の御船インターチェンジ(IC)開設はその象徴的出来事と思います。本年4月オープンを目指し、御船IC近くに外資系の大規模商業施設の建設工事が大詰めを迎えています。店舗面積1万㎡、駐車台数は約800台という破格の規模です。また御船の景色は変わるでしょう。
今も昔も御船は交通の利便に恵まれています。従って、町は変化しつつ発展していくのは定めです。しかし、変わりゆく中で、町の「記憶」とも呼ぶべき遺産を大切にしなければならないと思います。歴史の厚みがある町は何か懐が深く、生活をしていて情緒を感じます。