お知らせ
天草大水害
 昭和47年7月6日に天草地方を襲った大水害は,誰も予想すらしないものでした。このときの時間最大雨量は12時に130㎜を記録し,1日最大雨量は447㎜となっています。
 この集中豪雨で、山津波が発生、姫戸町、龍ヶ岳町、松島町、倉岳町などに被害が及び、
 死者・行方不明者115人、
 重軽傷者249人、
 家屋の全半壊750戸、
 浸水家屋3859戸、
 道路や農地など見るも無残な姿に変わり果てたそうである。
 
 当時の様子を龍ヶ岳町の広報誌「広報竜ヶ岳」では
 『6月中旬より断続的に降っていた梅雨は,陽性型といわれ夏季の干ばつさえ予想されるほどであったが,7月の初めより本格的に降り続き,魔の6日午前5時ごろから次第に雨足を早くし,午前8時20分暗雲低く町を包み雷鳴とともに集中的に降り始め,町史上かつてない大惨事への胎動をはじめた。
 午前10時50分,異常な増水のため家財道具や老人を背負い,胸までつかりながら避難する人々をあざ笑うかのごとく,ますます激しさを増す豪雨は竜ヶ岳の鳴動とともに脇浦にその第一波ともいうべき爪あとをしるし,11時3分小屋川内・東風留・大道東浦・中園と次々に猛威を振るいだした。』

これはまさしく大規模な土石流のことです。
 あらためて眺めてみると倉岳と矢筈岳の間には,天草地方では珍しい扇状地の地形が形成されており,この様子は対岸からよく見ることができます。この扇状地は,過去幾度となく起きた土石流によってできたものです。