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玉高創立八十周年記念行事の一環として、去る十月二十二日、記念式典が行われた。
その中で、昭和二十八年以来、今日まで体育祭を始め、数多くの行事で校歌のかわりに歌われてきた「玉高讃歌」が正式に校歌として制定された。
来賓及び、全生徒職員の見守る中、花吉校長は、玉高讃歌を正式に校歌と認め、内外にこれを表明するという旨の文章を読まれ、昭和二十八年以来歌われてきた玉高讃歌を、校歌に認定することを宣言した。
玉高讃歌は、今まで校歌と同様に扱われていただけに、今度の宣言は、ほとんど形式だけのものであるが、校訓の再確認とともに、玉高生に、王高の八十年にわたる伝統の重みと、玉高生としてあるべき姿を再考させる良い機会になったように思われる。 さらに式典の最後には、校歌として制定されたばかりの玉高讃歌が、全生徒職員や、式典に参加された玉高OBの先輩がたによって
合唱された。
日露戦争の前年、明治三十六年に、旧制玉中が現在の熊本高校の前身である旧制熊本中学の玉名分校として創立されて、以来八十年間の玉高歴史の中で、何度も校歌が制定されている。
校友会雑誌第十号(大正十年二月発行)によると、大正七年七月に旧制玉中で、最初の校歌が制定されている。
「歴史はふるき玉杵名(たまきな)の山紫に水清く・・・・・・」という歌い出しで始まっており、作曲は村上一郎氏、詞は五番まであり当時の国語漢文部の選となっている。一方、戦後に、旧制玉中と組合立農業学校(創立は昭和二十三年のちに分離して玉農となる)と共に合併して玉高となった高瀬高等女学校は、明治四十五年に創立しており、昭和八年には二十周年をむかえ、その記念として「うつろひやすき紅の・・・・・・」で始る校歌を制定している。当時の模様を、「綿水」十六号は、「今まで温順(おとな)しく二十年の歴史を回顧していた六百の生徒は、今や立上って無限の感激をこめて、声高らかに衆人の前にその理想と希望を歌ひ、将来の努力修養を誓ったのである。」と記している。
翌年の昭和八年には、旧制玉中で創立三十周年を記念して、作詞は当時第五高等学校教授の八波則吉先生、作曲は全国的に著名であった本居長世氏によって校歌「菊池の流れ」がつくられている。
第二次大戦も終わり、昭和二十三年には高瀬商女と旧制玉中、組合立農学校が合併して、玉名高等学校となった。これに際して当時二年生であった林孝茲氏の作詞により、「玉高学生歌」がつくられている。
これはあまり和られていないが現在の生徒手帳にも掲載されている。
三年後の昭和二十八年、玉高創立五十周年にあたって挙行された記念式典の中で、当時本校国語科教師であった大坪周二先生の詩に旧玉名村出身である小山卯三郎氏の作曲による、「玉高讃歌」が紹介された。以来、三十年目の今年玉高校歌として正式に制定された訳であるが、八十年という玉高の長い伝統と共に、この校歌を後輩へ残していく事は、若駒千五百に課せられた使命の一つだと思う。
玉高百周年いや二百周年の時までも歌われているように・・・・・・。