弥生人の顔が付いた土器 ~ 御船高校の「お宝」
「貴校が所蔵されている人面付き土器を見せてください」と先日、益城町教育委員会の文化財担当の職員の方達が来校されました。来年で百周年を迎える御船高校には大切に伝えられている「お宝」が沢山あります。最もよく知られているのが、旧制御船中時代以来、輩出してきた画家の皆さんの作品ですが、実は、この「人面付き土器」(弥生時代)も「お宝」の一つと言えます。何より古さが違います。
「人面付き土器」は、本校玄関脇のケースで大事に保管、展示しています。ケースから慎重に取り出し、益城町教育委員会の学芸員の方たちと丁寧に観察しました。高さは23cm、幅は土台部分で10cm、土器が作られた時代は弥生時代後期の2世紀と考えられています。この土器の最もユニークなところが、顔が付いていることです。残念ながら、発掘された時に顔の大部分は壊れており、五分の四ほどは石膏で補修、復元されています。しかし、その顔は、まぎれもなく今から千九百年ほど前の弥生人のはずです。目は細く、鼻は高くなく、全般的に扁平で、穏やかで優しい印象を与えます。
昭和50年代、益城町の秋永遺跡で県教育委員会の発掘事業として採取され、歴史教育の教材として最も近くの県立高校である御船高校へ寄贈されたという経緯があります。当初は、土偶(どぐう)ではないかと思われたようです。土偶は、縄文時代に作られた人形で、女性像が多く、豊穣を願うための呪術的なことに使用されたと考えられています。しかしながら、この「人面付き土器」は土器の特徴から見て、縄文時代の次の弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀)の後期と推定されています。
弥生時代の「人面付き土器」にしばしの間、見入っていました。顔及び胴体の前面には重弧文(じゅうこもん)と呼ばれる同心円の文様がほどこされています。弥生人の習俗である入れ墨の文様かもしれないとの意見が出ました。全体的にはふっくらした丸みをおび、土偶の系譜と同じ女性像のように見えます。また、背面は割れ目があり、ひょっとして酒などを注ぐ注口(ちゅうこう)土器として使用された可能性もあるとのことです。弥生時代は、縄文時代までの石器に加えて金属器が使用され、北部九州から稲作農業が広まっていきました。社会が大きく変化する中で、この「人面」のモデルとなった弥生人は上益城の地でどんな生活を営んでいたのでしょうか?
「このような人面が付いた弥生時代の土器はきわめて珍しく、貴重」というのが益城町教育委員会の学芸員の方たちの総括でした。
生徒の皆さん、私たちのご先祖に当たるかもしれない弥生人のお顔を見に来ませんか。