あれから76年 ~ 動員学徒殉難の日を迎える

 御船高校の正門を入った左手に白い石造の碑が立っています。11人の若者の姿がレリーフ(浮き彫り)された「動員学徒殉難碑」です。昭和16年(1941年)に勃発した太平洋戦争によって学校も戦時体制に巻き込まれました。当時の旧制県立御船中学校の男子生徒たちは、学徒勤労動員として、昭和19年10月20日に学校を離れ、長崎県大村市にある海軍の工場へ赴きました。そして25日、アメリカ軍の爆撃機B29の大編隊による爆撃を受け、10人の生徒が亡くなりました。さらに翌年2月には、福岡市の飛行機製作工場での過酷な労働の末、1人の生徒が病気で亡くなりました。

 ノーベル化学賞を2008年(平成20年)に受賞した生物学者の下村脩氏(1928~2018)の回顧録にも、この大村海軍航空廠(しょう)の空襲が記されています。旧制諫早中学校(現 長崎県立諫早高校)の生徒として下村氏も現場にいたのです。九州各県の旧制中学校の生徒達が動員されていたことがわかります。この時の大空襲での犠牲者は300人を数えました。

 戦後20年がたった昭和40年10月25日にかつての同級生の方達の発意で御船高校に動員学徒殉難碑が建立されました。以来、毎年10月25日には、碑前において式典を執り行ってきています。『とあまりひとり』と題された追悼記念誌も編纂され、校長室に保管されています。この記念誌の中に旧職員の永上清氏の「あれから20年」という追悼録が収められています。今年も、この文章を全校生徒で読みます。10月22日(木)と23日(金)の始業前の朝の時間に、放送委員の朗読が流れ、それに合わせて読むことになります。

 今年も10月25日が近づいてきました。本年は日曜日です。午前11時から同窓会主催の慰霊祭が碑前にて開催されます。往時の同級生の方達は「天神きずなの会」を結成され、高齢をおして毎年出席されていますが、齢(よわい)90を超えられました。学校からは生徒会役員、そして私たち管理職や同窓職員が出席します。

 令和2年の今年は戦後75年になります。大村海軍航空廠での学徒殉難からは76年の歳月が立ちました。時は流れても、忘れてはいけない歴史を伝えるために「動員学徒殉難碑」はあります。そして、志半ばで斃れた先輩達の魂が、後輩の生徒の皆さんを見守っていると信じます。