徒然雑記帖

2017年9月の記事一覧

今日は新月、明日は繊月


 放課後、球磨川に架かる水の手橋のすぐ上流で、カヌー部の部員たちが人吉高校の部員たちと合同で練習をしています。インターハイが終わり、3年生が引退した新チームの部員数は両校とも15人ずつだそうです。この時期、「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」のたとえのように、すぐに日が暮れるので、練習メニューに工夫が必要だと中島監督から伺いました。
 
 監督がハンドマイクで指示を送る岸の対岸には、人吉城跡の石垣が一望できます。

そちら側に渡って、城跡に入ってすぐの所に設置されている案内板(左の写真)には、「人吉城は中世から近世にかけて球磨郡を支配した相良氏歴代の居城で、近世以降は対岸に城下町を形成し、これが現代までの繁栄の礎になった・・・」と、ありました。

これを読みながら、赴任直後に「人吉城にはどうして天守閣がないのか」という疑問を持ったことを思い出しました。というのも、高校の頃、威風堂々とした熊本城を正面に見ながら毎日通学していていたので、お城には天守閣があるのが当たり前という思い込みみたいなものがあったからです。そこで、

①元々、建てる気がなかった。

②建て始めたけど、諸事情により断念した。

③建てていたけど、地震や火災に見舞われ今は残っていない。

の3つの仮説*1を立てて、隣にある人吉城歴史館を訪ねてみました。

資料館の説明書きを読み進めるうちに、「えぇ?」と思ったことがありました。人吉城の別名です。生徒の皆さん方は地元だからモチロン知っているはずです。「繊月城」と優美な名で呼ばれているんですね。繊月って右のイラストのように、繊維みたいな細い月です。「なぜ?」って思いながら、さらに読み進めました。以下はその説明書きです。

相良家初代の相良長頼が源頼朝の命により遠江(今の静岡県)から人吉荘に下向した際、人吉荘には元々、平清盛の異母弟・平頼盛の荘園で、その代官として矢瀬主馬佑(やせ しゅめのすけ)が居住していたが、受け渡しに応じようとしないので、長頼が主馬佑を討って入城を果たした。その後、居館を構えるために修築を始めると、三日月模様の奇岩が発見され、そこから繊月城と呼ばれるようになったと伝えられている。

ショーケースに丁重に収められた石の表面に、確かに黄色っぽい三日月のような模様が見てとれます。早速、パチリしたのが右の写真です。これをもとに、誰かが「繊月城」とネーミングしたわけで、だからこそ後生の私たちがそう呼んでいるわけです。名付けた人は何と風情がある人だったんだろうと思いました。

また、人吉では定番の焼酎に「繊月」と名付けられた銘柄があり、そのラベルに細い三日月のマークが印刷されていることもスッキリ納得しました。

ところで、私、夜道を歩いている時など、夜会に向かうネコだけでなく、夜空に浮かぶ月も必ず探してしまうほうで*2、スマホに月のカレンダーアプリを入れているほど月に魅せられています。夜の主役、月に関しては、思い出すことがいくつかあります。

まず、9月3日の秋篠宮眞子さまと小室圭さんの婚約会見で、お互いを太陽と月に喩えるコメントがあったことは記憶に新しいところです。この第4次産業革命真っ只中の現在、何という雅(みやび)な話だろうと思いながら聞きました。

次の話は私が中学1年の頃ですから、今から44年前のことです。当時、吉田拓郎さんの「旅の宿」が流行りました。この歌の出だしは「浴衣の君はすすきのかんざし~」と歌われるので、秋の頃なんでしょう。そして「上弦の月だったけ 久し振りだね 月見るなんて~♪」と続いていきます。おそらく旅先で温泉にでも入ってから、彼女とお酒を酌み交わしつつ、夜8時過ぎに西の空を見上げたら、夜空に上弦の月が輝いて見えたのかもしれません。

ちょうどその頃、理科で月の満ち欠けを学んでいました。先生が、この歌を話題にして、「上弦の月をノートに描いてごらん」と問題を出してきました。多分、誤答珍答だらけだったんでしょう。先生は月と太陽の位置関係の図を描きながら、「地球(人間)→月→太陽」の状態だと新月で、太陽と同じ方向にあるので太陽の明るさに隠れて月が見えなくなり、逆に「月←地球(人間)→太陽」の状態が満月などと、正解を一生懸命教えてくださいました。

皆さんは、上弦の月と下弦の月の見分け方は大丈夫ですか?また、世界中どこから見ても人吉の夜空に浮かぶ月と同じ形の月が見えているのでしょうか?ヤフー知恵袋などを見ると、そういったことの質問が結構沢山あるようですが・・・。

もう一つ思い出すのは、高校の国語(古典)の授業の時の話です。

「・・・枕草子の中で『夏は夜。月のころはさらなり』とか『月は、有明の東の山ぎはに、細くて出づるほど、いとあはれなり』などと出てきますし、平家物語でも月見の話が格調高く語られています。百人一首には月の歌が何と12首*3も収められています。・・・」

ごめんなさい。はっきりと覚えていませんが、きっとそのような前置きがあったはずだと想像します。その後に次のようなことを語られました。

「満ち欠けする月のうち、満月(十五夜)の後の月ほど違う名前で呼ばれている時期はありません。十六夜(いざよい)の月*4、立待月、居待月、寝待月、更(ふけ)待月・・・。ということは、『昔は待ちの文化だったのか?』・・・」

待ちの文化」という言葉が、いと切なく印象的でした。立待月とは、日没後、立って待っていても疲れないくらいにすぐ現れる月、ということから名がついたそうです。最初は立って待てますが、翌日は座って(「居」は「座る」の意味)、翌々日は寝て、更にその翌日は夜も更けるころまで待つのだとか。月を見上げながら待ち焦がれていたのは誰なんでしょう。恋人?

そう言えば、「男はいつも待たせるだけで~、女はいつもまちくたびれて~♪」というのがありました。やるせないですね。

生徒の皆さん方は、十六夜の月 ~ 更待月のそれぞれを下の写真の中で特定できますか?

閑話休題。今夜は新月で、10月4日(水)の中秋の名月*5に向けて、満ちていく月(waxing moon*6のサイクルがスタートします。新しいことを始めたり、知力・体力作りにはもってこいの時期になります。今夜の新月のうちに、心身のメンテナンスを行い、勉強部屋の5Sなど環境もしっかり整えて、明日以降に臨みましょう。ぜひ、月の力にあやかりたいものです。

とは言っても、春咲く花、夏咲く花、秋に咲く花、冬に咲く花と、花も開花の時期が違うように、回りの人と同じである必要はありません。自分のリズムを見つけることが大事です。

最後に・・・、明日、日没後1時間程の夕暮れの空を見上げてみてください。相良のお殿様もきっとお城から眺めたであろう繊月が見えればいいですね。

           【校長】




*1
手元の人吉球磨検定の公式テキストブックのp.85に以下のようなくだり(特に下線部)がありますので、②が正解だと思われます。

・・・(前略)・・・球磨郡を領有する大名として、本拠を人吉に戻した相良氏は、統治の拠点であり近世城郭として、20代当主長敏により天正17年(1589)に人吉城の築城を開始する。この工事では豊後国から石工を招いて石垣を着工し、城の中心部である本丸・二の丸・堀・櫓御門まで完成したが、工事再開から5年も経たない文禄年間(1593~)に、またも朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに巻き込まれて工事は中断した。

再度工事が始まったのは、江戸幕府が開かれ、世情もやや落ち着いた慶長12年(1607)からで、この工事では城外郭の石垣普請を行い、川沿いの石垣もこの時に築かれた。工事は進み、寛永3年(1626)には、本丸に5階建ての天守を築造する計画の3階まで完成していたが、「3階以上の物見櫓は叶わぬ」の風潮から、幕府に気がねし、最上階を取り払って2階建ての護摩堂にした。そのためついに天守閣を持たない城となってしまった。その後も工事は続き、寛永16年(1639)に相良清兵衛事件とこれに伴う「お下の乱」が起こると、またも「風説よろしからず」と幕府に気がねして工事自体を断念した。が、この時までに天守以外の大半はほぼ終了していたようである。

その後、二百年近く平穏に過ぎたが、徳川時代も後期の享和2年(1802)と文久2年(1862)に2度の大火に見舞われ、特に2度目の寅助火事は城下はもちろんながら、城内の建物群が全焼する大惨事となった。しかも、この時期の相良藩は財政難に苦しんでおり、城の再建は一部でしかされなかったが、それでも居館の北側の石垣が防火対策としてかさ上げされて、後に「武者返し」と呼ばれる西洋式の築城工法である跳ね出し石垣が築かれた。これは国内でも函館五稜郭と品川台場にしかないものである。・・・(以下略)・・・

 

*2生徒の皆さん方はどのような月が好きですか?

 月が最も美しいのは何といっても秋とされていて、「月月に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」という戯(ざ)れ歌があるように(「月」が8つ出てきて、月を見るのは旧暦8月であると)、中秋の満月の美しさを讃える人は昔から多いようです。

私も若い頃はそうだったように思いますが、歳をとるに連れて月への好みも変わってきたような気がします。いつの頃からか、冬の夜に寒々と照りわたる月が好きになりました。「月冴ゆ」は冬の季語ですが、冷たく張りつめた冬の空に輝く澄んだ月を仰ぐのはなかなかいいものです。

雨の日の月について、徒然草の中で兼好法師は、「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し」と書いています。「花は満開のときだけを、月は雲りがないのだけを見るものであろうか、いやそうではない。降っている雨に向かって(見えない)月のことを慕い、すだれを垂らして室内にこもり春が移り行くのを知らずにいるのも、やはりしみじみとして趣(おもむき)がある」というのが口語訳です。そういうゆかしい境地になるには、さらに歳を重ねないといけないのかも・・・?

*3以下の12首です。生徒の皆さんは、月に託した思いに共感できる歌が何首ありますか?

 7 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも        安倍仲麿 

21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな     素性法師 

23 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど     大江千里 

30 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし        壬生忠岑 

31 朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪         坂上是則 

36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ       清原深養父 

57 めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな   紫式部 

59 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな   赤染衛門 

68 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな      三条院 

79 秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ      左京大夫顕輔 

81 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる       後徳大寺左大臣 

86 なげけとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな       西行法師

(30番の壬生忠岑の歌は「月」という言葉こそ出てきませんが、有明の月のことを言っているのは明らかなので、月の歌に含めました)

*4十六夜の読み「いざよい」については、鎌倉時代の紀行文学に「十六夜日記」があり、物語の内容は知らずともその読み方を一般常識対策で覚えた人は多いはずです。

「いざよい」自体の意味を改めて調べたところ、「いざよいとは、躊躇(ためら)うという意味の動詞『いざよう』の連用形から名詞となったもの」とありました。

十五夜とは月が最も満月に近くなる日として、旧暦の8月15日は「中秋の名月」として昔から特別視されてきたわけですが、その日以外の月の15日も十五夜と呼びます。そして、この十五夜の翌日の月を「十六夜」と呼ぶのは、満月の翌晩は月の出がやや遅くなるのを、月がためらっていると見立てたものらしいです。

なお、「十六夜日記」は、筆者が京都から鎌倉へ下った時の旅の始まりが旧暦の10月16日だったところから名付けられたようです。

全く関係ありませんが、「十六夜の月」と名付けられた期間限定のビールが9月頃に発売されていたことがあり、「何と日本的情緒に訴えるネーミング!」と、ため息をついたことがありました。

*510月4日(水)は中秋の名月ですが、実はこの日は必ずしも満月になるわけではありません。月の軌道や地球の軌道が楕円の関係で、むしろ満月でないことのほうが多いくらいなんだそうです。今年もわずかに欠けていて、満月は2日後の10月6日(金)になります。この「曖昧さ」、月を眺めるうえで混乱の原因になるわけですが、悪くないと思っています。


*6
「ワックスをかけた月」なんて変な訳をしたらいけません。なお、欠ける月はwaning moonと綴ります(wane[ウェイン] は「月が欠ける」という意味)。ポーランドだったかポルトガルだったか忘れましたが、「月に恋は満ちれば欠ける」というのがありました。似た表現で、昔見た映画の中に「税金と死からは絶対に逃げられない」というセフリがあったことも思い出すわけですが、どちらも言い得た妙だと思っています。

ちなみに、満月、新月、三日月、半月(弦月)などを英語でどう表現するか調べてみましょう。

答:順にfull moon、new moon、crescent moon、half moon