徒然雑記帖

西南戦争と人吉、そして村山台地

 

俳優の鈴木亮平さんが主演を務めるNHKの大河ドラマ「西郷どん」が昨夜とうとう終わってしまいました。最後2回は「西南戦争」での激しい戦闘の様子が圧巻でした。

言うまでもなく、西南戦争(西南の役)は、1877年(明治10年)に九州で、明治新政府に対して反感を持っていた鹿児島の士族達が西郷隆盛を盟主にして起こした武力反乱です。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、我が国最後で最大の内戦と言われています。

平和的な交渉を望んだのに賊軍となってしまった西郷軍、「最後の侍」として日本のために使命を全うし、こうやって歴史になっていってしまったのかと感無量の思いで見ました。

 

ところで、生徒の皆さんは、ここ人吉市が西南戦争の激戦地の一つだったということは大丈夫ですか。「西郷どん」では先週(第46話)、解説字幕で「人吉」という地名がほんの一瞬出ただけでしたが・・・。

そして、この戦争が献血等の際にお世話になっている日本赤十字社発足のきっかけになったということは知っていましたか?(「西郷どん」ではこのことは扱われなかったようですが・・・。)

 

本校の校歌の1番は、「ふるさとの文化の朝に 風さやか村山台地♪」の出だしで始まります。本校が所在するこの村山台地こそ、西南戦争を語るうえではずせないキーワードになります。

  

本校南門から出て150mほど東に進んだ人吉西小学校の正門付近は、地図上に「∴」の記号が付いています。歴史に残る事件に関係のあった場所・建物や遺構(史跡)を表すこの記号、「西南の役官軍砲台跡」を示すものです。右の写真はそこに立つ案内板です。

 

その説明書きや史料によると、薩摩軍は、九州を北上し、熊本城を攻めますが、中々うまくいかなかったようです。1873(明治6)年3月、田原坂の戦いで敗れた薩摩軍は熊本城をあきらめ、追ってくるであろう官軍を迎え撃つために人吉にしばらくの間滞在しました。西郷隆盛は永国寺に本部(宿舎)を置いて戦争の指揮を執ることにし、球磨川南岸に兵を集結しました。

一方、薩摩藩を追って人吉に入った新政府軍は、人吉城下を一望でき見晴らしの良い村山台地に砲台を築きました。6月1日、眼下球磨川に展開する薩摩軍への総攻撃を開始。球磨川を挟んで砲火が飛び交いました。薩摩軍には人吉の士族たちも多数合流していましたので、父子、兄弟、甥と叔父が敵味方に分かれて戦ったとありました。(こういう記述は、中世の保元の乱(1156年)を彷彿させます)

薩摩軍の砲弾は、政府軍の本営まで届かず、球磨川を挟んでの攻防は官軍の圧勝で終わり、薩摩軍は、町に火を放って人吉から退却。町は、戦闘と放火により、灰燼に帰しました。それだけでなく、この人吉根拠地の期間中、薩摩軍はこの地域に苛烈な軍政を布き、政府軍と内通した容疑をかけられた住民が捕縛され、証拠も詮議も不十分なまま私刑同然に処刑する残虐が加えられているそうです。薩摩軍は総崩れとなって敗走、人吉を捨てて田代、大畑方面へ退却し、大畑に陣を敷きます。・・・以下省略します。

 

昨年は西南戦争後140年目に当たるということで、当時を振り返る催しが各地で行われたり、関連本も沢山出版されました。興味がある人は調べてみると、自分が住む人吉について新たな発見があるかもしれません。

また、いつの世も高台というのは戦局を有利に進めることが多いわけですが、本校はそんな悲しい歴史が残る村山台地に所在していることを知っておくことは大事なことかもしれません。

【校長】

 

 

昨年の夏休み期間中に生徒会の生徒たちが、「青少年赤十字リーダーシップ・トレーニング」という活動に参加してきました。生徒たちがもらってきたガイドブックの中に赤十字の歴史について次のように触れてあります。以下、長くなりますが抜粋しておきます。(参考までに)

 

日本赤十字社もスイスで最初の赤十字が誕生した時と同じように、戦いがきっかけで誕生することになりました。戦いに大きな力をもっていた鹿児島の士族である反乱軍は熊本まで攻め上がり、熊本城や田原坂を中心に明治政府と反乱軍で激しい戦いが繰り広げられ多くの負傷兵が出ました。負傷した兵士の多くは戦場に倒れたままで、充分な看護も受けられず苦痛に耐えかね、お互い刺殺しあった者もいたと言われています。

九州での悲惨な戦いを東京の地で聞いて悲しく頭を痛めていた元老院(今の国会)議官の佐野常民は、負傷した兵士がなんの救護も受けず放っておかれていることが残念でなりませんでした。

佐野常民はこれまでにヨーロッパを旅行したことがあり、その時にヨーロッパには戦場の負傷兵を敵・味方の区別無く救護する赤十字という団体があることを知っており、日本でもそのような団体を作る必要があると考えていました。この西南戦争の時に、赤十字のような団体があれば、負傷兵の生命を救うことができると考えたのです。

そのことを友人の元老院議官の大給恒(おおきゅうゆずる)に相談したところ、大給恒も大いに賛成してくれ、2人は具体的な計画をまとめました。救護団体を作りそれを博愛社と名付け、明治政府に救護活動をするための願書(ねがいしょ)を提出しました。

しかし、願書に記されていた敵・味方の区別無く救護するという考えは当時の人々になかなか受け入れられず、明治政府は、政府に逆らう反乱軍の兵士まで救護するという趣旨のこの願書を認めませんでした。

佐野常民はあきらめませんでした。認められなかった願書を持って戦場の熊本へ向かい、熊本城で政府軍の総指揮者として反乱軍の鎮圧にあたっていた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)のもとへ、直接博愛社の設立の許可を願い出たのです。有栖川宮熾仁親王はこの願いを聞き入れ、その場で博愛社の設立を許可しました。

1877年5月1日のことです。日本赤十字社の創立記念日はこの日を記念して5月1日としました。これにより「博愛社」の救護員は直ちに現地に急行し、両軍の負傷者の救護にあたりました。この活動は、当時、敵の負傷者まで助けるという考えが理解できなかった人たちを驚かせました。

西南戦争から9年たった1886年(明治19年)、明治政府はジョネーブ条約へ加入しました。そして、博愛社は翌年の1887年(明治20年)に名前を日本赤十字社と改めることになり、ここに日本赤十字社として国際赤十字の一員に加わることになりました。

さらに1919年には、赤十字の平時活動を推進する国際赤十字・赤新月社連盟の創設に参画しました。

今日では、戦時平時の別なく幅広く赤十字の活動の推進に努めています。