奎堂文庫展示資料室
清浦奎吾とは
清浦奎吾

西暦
和暦
年齢
できごと
1850嘉永3
 2月14日(旧暦)肥後国山鹿郡来民村(現 熊本県山鹿市鹿本町来民)明照寺住職大久保了恩の5男として誕生。幼名普寂ふじゃく
1860万延元
10
 武藤昌英について漢学を学ぶ。
1861文久元
11
 熊本城下の寺院浄行寺に養子として養われる。やがて戻る。
1862文久2
12
 秋、大津町大矢野塾に入り漢学を学ぶ。
1865慶応元
15
 豊後日田の咸宜園に入学。
1869明治2
19
 咸宜園大舎長(都講)となる。
 この頃に尊敬していた松本かなめの号「清浦」を姓、別の号「奎堂」を取って奎吾とし、清浦奎吾と名前を改める。
1870明治3
20
 学業を終え来民に帰郷する。
1871明治4
21
 熊本城下坪井に私塾を開く。
1872明治5
22
 埼玉県学校改正所勤務を命ぜられ、風渡野ふっとの学校で準備的教授にあたる。
 風渡野小学校(現さいたま市立七里小学校)が開設されると、大教授心得(校長)として赴任する。
1873明治6
23
 埼玉県学校改正所主任となる。
1876明治9
26
 8月、司法省に入り大審院検事局詰となる。
1877明治10
27
 検事に任ぜられ、治罪法の改正作業に携わる。
1886明治19
36
 内務省警保局長となる。
1891明治24
41
 4月 警保局長を免ぜられ貴族院議員に任命される。
 警察・監獄・自治制度の視察のため渡欧。
1892明治25
42
 8月 司法次官に就任。
1896明治29
46
 9月 第2次松方正義内閣の司法大臣となる。
1898明治31
48
  1月 内閣総辞職。中国視察。
 11月 第2次山縣有朋内閣の司法大臣となる。
1899明治32
49
 6月 これまでの法制の研究をまとめ、『明治以来の法制の発達』を出版。利益はすべて、貧児教育、少年感化、免囚保護などの社会事業に寄付。
1901明治34
51
 6月 第1次桂太郎内閣の司法大臣となる。
1902明治35
52
 2月 男爵を授けられる。大日本蚕糸会会長となる。
1903明治36
53
 7月 農商務大臣兼任。
 9月 農商務大臣専任。
1904明治37
54
 3月 発明協会会長となる。
1905明治38
55
 9月 内務大臣兼務。
1906明治39
56
 1月 桂内閣総辞職。
 4月 枢密顧問官となる。
1907明治40
57
 9月 子爵を授けられる。
1914大正3
64
 3月 組閣の大命を受けるが、海軍との折衝がまとまらず、翌月組閣を断念し、拝辞する(「鰻香まんこう内閣」と呼ばれる)。
1915大正4
65
 9月 全国蚕糸同業組合中央会会長となる。
1917大正6
67
 3月 枢密院副議長となる。
1922大正11
72
 2月 枢密院議長山縣有朋死去。その後を受けて枢密院議長となる。
1924大正13
74
 1月1日 組閣の大命が下る。7日 内閣総理大臣となり新内閣発足。26日 摂政宮御成婚式。31日 衆議院解散。
 5月10日 総選挙。与党大敗。
 6月7日 内閣総辞職。
1925大正14
75
 4月 日本新聞協会会長となる。
1928昭和3
78
 11月 伯爵を授けられる。
1929昭和4
79
 1月 宮中杖を許される。
1941昭和16
91
 10月 内閣首班奏請の重臣会議に出席。
1942昭和17 11月5日 熱海の別邸米寿庵で死去。享年92。

※年齢は満年齢表記を基本に生誕年を0歳とし、1年ごとに1歳を足しました。

<参考文献>
  • 『清浦奎吾小伝』 清浦奎吾顕彰会常任理事編集 清浦奎吾顕彰会 1999年11月
  • 『熊本県初の総理大臣清浦奎吾』(近代の山鹿を築いた人たち 001) 山鹿市教育委員会教育部文化課 2008年3月
  • 『加藤友三郎・清浦奎吾加藤高明(週刊 池上彰と学ぶ日本の総理22)』 小学館 2012年6月