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職員も知ってるようで知らない二高のトリビアを紹介します。
開校
「空から見た二の丸校舎」昭和37年3月

戦後のベビーブームに端を発した生徒急増問題の対策として設立された本校。その開校までの経緯をたどってみましょう。

  • 【昭和35年9月12日】県議会で高校生徒急増対策(新設か学級増)発表
  • 【昭和36年12月5日】県議会で熊本城内の熊大医学部薬理教室跡に普通高校設立、校舎改修工事費の計上を発表
  • 【昭和37年1月13日】県教委、新設高校「熊本県立第二高等学校」として公示、学校長広永政太郎、教頭松田一吉、稲員仁郎・井上元二両教諭を開校準備委員に発令
  • 【昭和37年1月18日】開校準備事務所(第一高校内)を設置
  • 【昭和37年4月1日】開校
  • 【昭和37年4月11日】第1回入学式

高校新設が発表されてから開校まで、なんとたった2ヶ月半!初代校長広永先生は次のように回顧されています。


最近ではプロジェクトチームを作り準備委員の発令も可なり余裕をみてある様ですが、私達の場合は二ヶ月半の余裕しかなく、僅か四人で凡ての準備体制を整えねばならず、校地となる城内二の丸は医大移転後数年放置されたままの草茫々の荒地で廃屋を前に途方にくれる思いもしましたが、翌二月には中学側の志望決定のための参考の学校巡り始まると云うのにこの始末、その困却振りも想像頂けると思います。〜略〜
 先ず事務職員を急ぎ発令して貰い、改めて第一高校の一室と後には図書館の一隅を借りて準備事務室を整え、全く紙一枚鉛筆一本ない完全ゼロからのスタート。校章や制服の制定、教育課程、教科書の選定、中学巡りのPR活動、報道機関への協力要請などなど準備委員の連日の八面六臂の活動と超繁忙の明け暮れ、その間に職員人事や新設校としての努力目標、校風の中核をなす建学精神の構想も練らねばなりません。〜略〜
 凡ゆる悪条件のただ中に七学級三百五十名でスタートしたわけですが、あのオンボロ校舎にも関わらず約三倍一千名の志願者が殺到したのには驚きました。同時に新設高校へ寄せる期待の大きさ、たとえ容れ物は貧弱でも中身で勝負と云う我等の決意が通じた思いで、益々責任の重大性に身の引き締まるのを覚えました。
『第二高等学校 二十年史』より
校名
「門札かけ」昭和37年4月11日

熊本市二の丸の地からその歴史が始まった本校。「第二高校」の「二」は「二の丸」が由来かと思いきや、そうではありません。


校名決定にあたって二月一日の知名士懇談会の席上では、第一高校があるので第二高校が妥当と教育委員長が説明されているが、教育委員会としても名称決定にあたっては慎重に審議されたのである。第二高校の設立された場所は、二〇〇年前細川重賢公が細川藩の藩校「時習館」を開かれた由緒ある跡地でもあり「時習館高校」との意見もあった。また「城内高校」「銀杏高校」等の名称も候補にあがったのであるが、南九州財務局との借用契約が六ヶ年で、いつまで城内の地にいられるかわからず「第二高校」となった次第である。
『第二高等学校 二十年史』より
広永政太郎
広永政太郎先生の写真初代校長。前任は山鹿高校長。

 先生は、高度成長期の昭和三十七年一月、生徒急増対策の一環として、県立高校としては、五十年ぶりに新設されることになった「熊本県立第二高等学校」の初代校長となられた。
 その後、二の丸旧兵舎の荒廃した校舎整備、昭和四十三年には、現在地への学校移転に伴う校舎建設等、教育環境の整備充実に心血を注がれた。更に、本校教育の三綱領「自主積極・廉恥自尊・礼節協調」を制定し、九年三月にわたって調和のとれた青少年の育成と、本校発展に心を砕かれ、今日県下最大の普通科、理数科、美術科を擁する大規模校の基礎を築かれた。
 先生の薫陶を仰いだ役五千名の教え子、そしてその流れを脈々と受け継いできた一万四千名の卒業生は今や各分野において全国各地で活躍し、その名声を天下に轟かせている。
『創立三十周年記念広永政太郎胸像碑文』より
校章
校章は学校のシンボルであり、校風の象徴とも云われる。決定にあたって「二」の字を入れるか、入れないかが大きな問題となったが、あとあとの事を考えるといれない方がよいということで「高」の字だけとなった。 また現在の校章と同時に、今一つの案があったことを御紹介しておこう。それはすくすくと育ちゆき、これから先の生成発展にあやかるため、二子葉を三つに組ませたものに「高」の字を配したものであった。しかし将来、校地が二の丸に固定できるかどうかもわからず、校章を着用する若い生徒達の好みもあり、結局県花である阿蘇の「りんどう」の花に落ち着いた次第。自主自尊の芯の強い人物の養成を期しているので、風雪にたえて花開く「りんどう」の花で、強さと清純さを表したのである。打抜きにした銀色の花弁の上に金色の「高」の字を浮かしてある。
『第二高等学校 二十年史』より
生徒綱領

昭和37年7月9日、初代校長 広永政太郎先生の作である生徒綱領が正式に発表されました。そこに込められた思いは、10月13日に行われた開校記念式典の校長式辞に述べられています。



~生徒綱領に曰く
一、自主積極の気迫を以って一路研学に邁進し努力と忍耐のうちに自らを高めよう。
 積極進取以って学を修め倦むことなき自主的な努力と忍耐の成果の上に良き社会人としての資質を養い、高き理想のに青年の意気を燃し、安価な妥協、瑣末なる打算を捨てて、若人らしい瑞々しさとを失わず、感激性と気迫に満ちつつ自己研鑚に主体性を確立して欲しいものであります。
一、恥を知る自尊の心を失わず、健康明朗にして心身共に清潔で品位ある生活を続けよう。
 民主主義の根本は人間尊重の精神でありますが、真の民主社会の実現は結局各個人の立派さ、個人の人間完成が前提であります。この意味で自己を大切に、自己に誇りをもつこと、かけ替えなき存在として自己を正しく守り価値あらしめる努力こそ向上への道であり、廉恥の心を強調する所以もここにあります。バックボーンを失わず、質実と剛毅の精神を培って風雪に堪えて花開く阿蘇のりんどうにも似た強さと表裏なき心の清潔さ、清純さとを求めて止みません。本校校章発想の由来も亦ここに存するのであります。戦後の社会に恥を知らぬ行為の氾濫を見るにつけ、廉恥の心、自己尊重の精神の喪失を嘆かざるを得ません。又大いにスポーツに汗を流し、明朗にして健康な精神を養い、鍛練以って持久に堪える強靭さを願うものでもあります。
一、自省を忘れず責任を重んじ、礼節協調のうちに平和で明るい学園を築こう。
 孤独自省の上に自らを高めつつ人格の中心たる責任感に徹し、礼節を尊び、互譲親和の温き雰囲気に包まれて、若き感激と友情の交錯が織りなす切磋琢磨のうちに明るい希望に満ちた学園が伸びやかに展開し、真に気持ちよい人間修業の緑地帯たらんことを念ずるものであります。~
『第二高等学校 二十年史』より
熊本二高新聞

昭和37年7月13日創刊、平成4年10月3日の創立30週年記念特集号(88号)をもって廃刊。
発行は新聞部で、開校間もない昭和37年7月に十余名の部員で発足。
4号まで発行の後、生徒会と新聞部が協同して「エコー」を発行。「熊本二高新聞」との二本立てで発行する方針で、主にクラブ活動や生徒会活動を伝えることが目的だったが、「生徒会の機関紙のようだ」、「二高にはちゃんと新聞部があるではないか」という反対意見により、2号で廃刊。そのため、「エコー創刊号」が「熊本二高新聞5号」、「エコー2号」が「熊本二高新聞6号」とされています。


校歌、生徒歌

本校校歌は昭和37年9月1日に、生徒歌は同年7月9日に制定されました。




 校歌の作詞は広永政太郎氏の恩師、熊本大学の上田英夫先生に生徒綱領をおりこんで作詞されるようにお願いされた。その結果、八月十一日付の封書で五・七調の作詞が広永氏の手元にとどいたのである。
 また作曲は広永氏の御船時代からの知り合いである出田憲二氏(当時県警音楽隊隊長、現音楽短期大学学長)に依頼された。希望としては勇壮な行進曲風の自然に若い力、ファイトの湧き立つようなメロディをと願われた。
~略~
 生徒歌はもともと開校記念式典歌となづけられていた。入学式、並びに開校記念式典に校歌が間に合わない場合を想定して、稲員仁郎氏が作曲され、滝本泰三氏(当時熊高教諭)が作曲されたものである。
『第二高等学校 二十年史』より
天文台

特別教室棟の屋上にあるのは「貯水タンク」?いえいえ、「天体観測ドーム」です。


 昭和三十二年十月四日のソ連人工衛星打ち上げに始まる米ソの宇宙開発競争は、その後犬、サル、人間の打ち上げ、月、金星へと進み、四十四年七月にはついにアポロ11号の月面着陸で、人類は初めて月面に立つまでになった。
 一方、日本のロケット開発も進むなど、世界の多くの人々の目は宇宙に向けられていたのである。
 このような中で、昭和四十三年の本校の移転新築を期に、PTAから天文台が寄付されることになり、移転間もない八月二十日に工事が着手され、八月三十日竣工し、施工者の内田洋行からPTAに渡された。その後九月三日の県への寄附申出書によって手続きが済み、十月二十二日県に寄附された。
 その性能・内容をみると、面積二一・〇七四㎡、直径五mのリモコン装置付五藤式天文台ドーム、その中に屈折式口径一五cm、焦点距離二二五cmの天体望遠鏡がある。極限等級は一二、七等星までにみることができ、集光力は肉眼の四六〇倍ある。水晶発振式運転時計で正確に星の日周運動を追跡できる。赤緯時角も目盛板により詳しく測定でき、星用プリズムでスペクトル観察や写真撮影も可能である。倍率は五六倍から五六〇倍で、一度に三〇名ぐらい収容できる。総工費四六七万三千円である。
 この天文台は、地学部を中心に、月一~二回の夜間観測、毎日の太陽黒点観測や、ペルセウス座流星観測などに活用されており、その成果は研究発表会や文化祭の展示などで発表され、高く評価されている。 これからも二高生全員がこの天文台を利用し、広大な夜空を眺め、その神秘性に心を打たれ、未知への飽くなき探究心を燃え立たせてくれたらその意義は大きいと言える。
『第二高等学校 二十年史』より
箱式石棺
ひっそりと佇む「箱式石棺」

管理棟と教室棟の間、渡り廊下の下付近にある遺構「箱式石棺」。どのような経緯でこの地に来たのでしょう?分かっている事は考古学部(現在は廃部)による看板の内容が全ての状態です。


箱式石棺 弥生時代中期
 昭和四十二年、上益城郡嘉島町北甘木から発掘。翌年本校に移設。 石棺は板状の安山岩を箱型に組み合わせたもので、外側は年度で固め(槨)、内側は底に小石を敷きつめ、小石や側壁には朱(硫化水銀)が塗られている。
『箱式石棺』の看板より


石棺の蓋の隙間を覗くと、確かに側壁に朱色が見えます。この石棺について詳細をお知りの方は本校までご連絡を!