2021年6月の記事一覧
天草高校の新生徒会役員が選出されました!
天草高校の新生徒会役員が選出されました!
天草高校の新生徒会役員選挙には会長候補2名,副会長候補6名が立候補するという大混戦。
ある若手の先生は,
「2年生は例年に比べおとなしい生徒が多いのかなと思っていたけれど,一人一人しっかり主張を持っていて,
『このメンバーになら天草高校の明日を託せる!』とワクワクしながら演説を聞くことができました」
と語ってくれました。
コロナ対策で,テレビ画面を通しての立会演説会となってしまいましたが,その熱は天草高校生徒たち一人一人の胸に届いたようです。
投票集計も、僅差の判定となり、間違いがないよう繰り返し点検を行って 当選者が確定しました。
今回,生徒会長に当選した杉尾くんの立候補の理由は,
コロナ禍というこれまでに誰も経験したことのない状況の中で,工夫を凝らし,各学校行事を盛り上げ,成功に導いた先輩の姿に触発されたからでした。
天高がさらにステップアップできるよう,天草から輩出した多くの優秀な人財との繋ぎ合わせにより,天高ルネッサンスを興そうというものです。杉尾くんは言います。
「私が考えた公約は『天草で活躍されている方や,天草出身の有名人と,天高生とを繋ぐ取組を行う』というものです。同じ天草で生まれ育った偉大な先輩方の存在を身近に感じられれば,希望や自信につながります。この取組を通して皆が広い視野を持ち,一人一人が今よりもっと自信と希望をもって学校生活を送れたら,天高全体のステップアップにつながると思います。」
副会長に当選した金子くんは,「生徒が自分の力を主体的に発揮することができる学校にしたい」と考え,立候補に踏み切りました。
「皆さんは,〈主体的〉という言葉を,どのように捉えますか? 言われるからやるのではなく,自分からやるという風に捉える方が多いと思います。それは間違っていませんが,私が思う〈主体的〉という言葉の意味は,〈自分が集団を引っ張っていくという意志を持って行動する〉ということです。天高生一人一人が『自分がこの学校,集団を,勉強・部活動で引っ張るんだ』ということを意識して行事などに取り組めば,この学校はもっと活気に満ちたものになると思います。」
もう一人の副会長に当選した山田くんは,「常識を振り返り,礼節ある活気あふれたにぎやかな学校にしたい」と訴えています。
「皆さんは,先生方や地域の方々にあいさつするとき,一度立ち止まっていますか? しっかり目を見ていますか? 当たり前のことがおろそかになっているのではないでしょうか? コロナウイルス感染拡大のため,活動が制限されている私たちの一度きりの高校生活を,悔いの残らないよう,生徒全員にとって最高のものとするために全力を尽くします。」
どの思いも,しっかり天高生一人一人の胸に届き それぞれの共感を呼んだのでしょう。
また惜しくも落選とはなってしまいましたが,天高の将来を考えた,高校生としてのあり方を考えた,大切な意見も多く出されましたので,紹介します。
【校則のアップデート】
伝統には引き継ぐ重みがある。時には変化も必要。
現代も新型コロナによって変革の時を迎えている。伝統の継承と発展を。
【生徒会と生徒一人一人を繋ぐ】
これまでリーダーとして皆をまとめる難しさを分かっている。
何かと孤立しがちな生徒会と皆とを繋ぐ存在になりたい。
【全員が自分の目標に向かって努力する学校】
コロナ禍で,毎日友達と会い授業を受け部活ができるという,当たり前の有難さを知った。
一人一人が,様々な可能性に挑戦できる学校へ。
【誰かのために動くことができる生徒会】
先輩方の努力により学校行事が継承できた。誰かのために動く生徒会は魅力的。
自分が誰かの役に立ちたい。
【皆が過ごしやすい雰囲気の学校づくり】
昨年不登校を経験した。担任の先生方が親身に向き合ってサポート。登校できるようになった。
天高の一人一人を支えていきたい。
こんなにもたくさんの天高愛を聞きながら,
「創立200周年に向かうこの天高の舵取りを,安心して任すことができる!」と,嬉しくなってきました。
また,一人一人がこれほどまでに赤裸々な思いを語ることができたのも,天高の仲間に支えられているという実感があるからでしょう。
天草高校は これからも ますます輝き続けます。声援よろしくお願いいたします。
ある壺の話 その2
図書館の宮本先生が継続調査中です!
前回以降 分かったことをご紹介します。
前回,「小川広山さんが ひょっとして旧制天草中学校の窯業部を指導かも」,としていましたが,実際に指導していたのは,丸尾焼三代目金澤武雄(かなざわ たけお)さんでした。
『AMACUSA NO TOUJIKI Kako.Genzai.Mirai』(金澤一弘編 天草陶磁器振興協議会 平成12年10月)にその記述ありました。以下,関係個所を抄出します。
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明治24年(1891年)3月18日,丸尾焼二代目金澤久四郎の四男として生まれた武雄は,
明治37年(1904年)熊本県立中学済々黌天草分校に入学し,
明治39年(1906年)佐賀県立有田工業学校に転入。
明治43年(1910年)3月,同校陶業科を卒業。農商省工業試験所を皮切りに山形県下各所で窯業所や製瓦会社を新設し,所長として技術指導に尽力した。
大正11年(1921年)30歳で天草に戻り,天草窯業株式会社技術顧問。続けて工務部長,技師長となる。
同年7月 同社退社後営農に従事しながら丸尾焼にも携わり,主に甕類,壺容器の製造に従事する。
大正14年(1924年)には,熊本県から陶器製造講習会講師を嘱託され,後に熊本県地方商工技師に任命される。
昭和2年(1927年),商工省より沖縄県商工技師に任ぜられ渡沖。
昭和4年(1929年)新設された沖縄旭窯業株式会社の技術指導にも尽力した。
昭和7年(1932年)父金澤久四郎病没のため沖縄での公職を辞して天草に帰郷。
帰郷後,三代目金澤武雄として,家業に勤しむこととなったが,時代の動きと社会の変化に伴い,小規模経営による陶磁器製造では工業的な製品に太刀打ちできない状況となっており、戦争拡大の機運により,資源枯渇に対抗する陶磁器製品の工業的大量生産を必要とする声も高まっていた。
そこで武雄は,昭和7年(1932年)天草中学校の嘱託となり,校内に窯業部を創設すべく奔走した。そして,同年、天草中学校内に窯業部実習工場が設置されている。(※天草中学校窯業部の教育開始は昭和9年度(1934年度),窯業試験場創設は昭和10年度(1935年度))。
写真右奥に立つのが金澤武雄氏 ➡
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『天草高校百年史』の中にも「嘱託」として,「金澤武雄 昭和7・6~昭和10・12」という記述が見られます。
旧制天草中学校で窯業部を立ち上げ,窯業試験場完成まで技術指導にあたっていたのは,丸尾焼三代目・金澤武雄さんでした。
前掲書の編集子は,武雄氏が,天草中学校での指導と同時期に肥洲窯業株式会社の総務部長になっていることを指摘しながら「武雄が,次世代の技術者を養成し,陶磁器製品の工業的大量生産によって地域振興を目指し,製陶業を元にした産業化をねらっていたことがよく伺える」と評しています。
全国の窯業試験場を立ち上げながら次世代の育成に力を注いでいた武雄にとって,天草はまさに「宝島」と映っていたのでしょう。近代工業殖産期の浪漫が感じられる展開になってきました。
しかし,肝心の天草高校校長室に置かれている優美な壺の正体は,いまだ判然としません。金澤武雄さんが関わっているであろうことは想像に難くないのですが。とりあえず,今回の調査報告はここまで。
前・平田浩一校長先生から
「壺の底には「苓州」という署名が入っている。何かヒントになれば」と連絡をいただきました。
引き続き調査を続けます!
ある壺の話
天草高校校長室に入ってすぐ左手に 乳白色の釉薬が光る高さ1mちょっとの大きさの優美な壺が置かれています。「銘板もなく,どなたの作なのだろうか?」と,歴代校長先生の間でも話題になっていたそうです。
今朝(6月15日),天草高校同窓会の安田会長と池田副会長がお見えになり,「昨日,丸尾焼の金澤さんと会って話している時にこの壺の話題となりました。金澤さんが仰るには『昭和16,17年ごろの天草中学窯業試験場の時のものではなかろうか?』ということだったので,確かめに来ました」とのこと。
また池田副会長が仰るには,「この壺の釉薬の感じからすると,小川広山(おがわ こうざん)さんの指導によるものじゃなかろうか。小川広山さんは,知る人ぞ知る,近代の天草を、いやいや日本を代表する作陶家ですよ」と。
「天草高校の前身である旧制天草中学校に,窯業試験場があった?」にわかには信じがたい話なので,図書館の宮本先生にレファレンスを申し込むと,日本史の宮部先生と2時間がかりで,いくつかの資料を見つけ出してくれました。
結論から言うと,確かに昭和10年代,旧制天草中学校には「窯業試験場」が設置されていました。
「天草の(中略)製陶業が発展する中で,昭和10年4月より天草中学校内に窯業試験場が創設された。従来は利用されていなかった酸化鉄含有量の多い廃石を原料とする製品の研究を目的とした。」(『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 天草』鶴田文史編著 昭和54年11月 国書刊行会)
写真はその当時の天草中学につくられた窯業試験場の写真です。
場所は,現在の天草高校のプールがあるところの横,町山口川沿いの場所に建てられていたようです。同様の記事は『天草陶磁焼の歴史研究―苓州白いダイヤの巧』(鶴田文史著 天草民報社)にも「昭和10年4月 本渡の天草中学校に窯業試験場を創設」と見られます。
また,『天草高校百年史』(「天草高校百年」編集委員会編 平成10年3月 イナガキ印刷刊)の記述によると,昭和10年代の天草高校の授業科目・教育課程の欄に「實業『商業・窯業』」という記述も見られ,旧制天草中学校で新しい製陶を目指して,窯業の授業が行われていたことも間違いないようです。
では,その指導者は誰なのか? 池田副会長が仰るように小川広山さんなのでしょうか?
当時の天草中学校教職員名簿には,氏名と教科名が載っているのですが,實業または窯業という科目名は見当たりません。ということは外部から教授者を招聘していたのではなかろうかと想像されます。
宮部先生・宮本先生がまた興味深い資料を見つけておいでになりました。
当時天草には4つの近代窯業株式会社があったというのです。
「天草の窯業は近代に入って伝統的なもののほかに新しく株式会社形態が成立し創業する。その一つは大正9年12月創業の南九州窯業株式会社で,これは近代楠浦焼の和田・森下製陶所のあとにできた小川富作の大門工場と,小川製陶所に出来た小川富彦の廣瀬工場からなっていた。さらに昭和8年3月には楠浦の錦島に肥州窯業株式会社が創立された。(中略)天草の近代的窯業の株式会社はもう一か所志岐(苓北町)に創業する。大正9年4月創業の天草窯業株式会社である。」(『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 天草』同前)
本当に近代期の天草は、製陶業の一大中心地とも呼べそうな勢いがあったんですね。
ところで 楠浦の大門にあった「南九州窯業株式会社」大門工場,
同じく広瀬にあった「南九州窯業株式会社」廣瀬工場,
楠浦錦島に出来た「肥州窯業株式会社」,
苓北町志岐に出来た「天草窯業株式会社」。
この4つの窯業株式会社で,地理的な位置関係でみると,旧制天草中学校に一番近いのは「南九州窯業株式会社」廣瀬工場です。正確な位置は分かりませんが,学校まで1.5~2kmといったところでしょうか。
他は楠浦ならば約7km,志岐ならば約20km程度。授業に頻繁に指導にやってくるとしたら,この廣瀬工場が最も可能性は高いでしょう。
そして,その廣瀬工場の責任者は,小川富彦さん。池田副会長が仰っていた小川広山の本名は,小川富彦。何やら急に運命の糸が絡みだしたようですね。
しかし,今回の調査はここまで。
また,調査に進展がありましたら,ご報告いたします。
「調べる」って面白いですね。宮部先生,宮本先生の話を聞きながら,私もワクワクしてきました。
天草高校の生徒諸君,「調査・探究活動」は奥が深いよー。 楽しいよー!
21世紀を拓く力
いま教育界は、世界的な産業構造の変化により「知育偏重」から「自ら考え、行動する主体的な人間育成の教育」に大転換しつつあります。
本校でも新教育計画(雛鵬プラン)を作成し、「SSH指定校」「一人一台端末先行実践校」「学力向上研究指定校」として「探究学習」及び「ICT活用授業」の先行研究を行っております。今春、東京大学を始め大阪大学、九州大学、慶応大学、早稲田大学等の難関大学や、三年連続で熊本大学医学部医学科に合格者を出したのも、その成果の一つであろうと考えております。
しかし本校が目指すのは、単純な大学合格者数ではありません。「21世紀型スキル」を備えた人材の育成です。
「何を理解しているかを自ら振り返り、その知識を使ってどのように自分が世界と関わるか、どのように社会に適応するかを考え、周囲を巻き込みながら実践できる」能力と実践力を備えた人間の育成
―言葉で記すと至極当り前の資質能力ですが、様々な価値観が対立し、容易に解決の糸口が見いだせない新世紀のとば口に立っている若者たちだからこそ、日々の教育活動で常に主体的に思考させ、世界を視野に入れた「21世紀を支える人間」を育てていきたいと思います。
例えば、これまで生徒たちに提示した課題に「水不足の解決」があります。世界で水を使わない水洗トイレの開発にしのぎを削っている様子等を紹介し、あなたならどうすると問いかけました。3年生の廊下掲示板には「再生可能エネルギーの可能性」について、様々な資料が掲示されています。本校のSSH研究班でも潮力発電の可能性を研究し始めています。
そして、いま私が、身近な問題として関心を寄せているのが、「緑との共生」問題です。
最近、熊本日日新聞でも取り上げられるようになり私も知ったのですが、熊本市の街路樹再生計画をめぐり様々な立場の意見が表出しているようです。
興味ある方は、5月22日の熊本日日新聞「SNSこちら編集局」、6月4日「『森の都』原点帰り再考を」矢加部和幸氏の署名記事、6月8日射程「緑との共生」浪床敬子氏の署名記事等をお読みください。
概要は、熊本市の電車通り及び熊本県庁前を抜けて第二空港線沿線の街路樹の約6割をこれから3年間かけて伐採するという計画についての是非です。
「SNSこちら熊日編集局」によると、「熊本市内の街路樹は249路線に約1万5千本の樹木があり、成長しすぎた木が歩行者の妨げになったり、根が歩道を押し上げたりするようになり、強風による倒木も発生している。管理費も年々増大し、2018年度の6億1400万円が10年後には10億円に膨らむという試算もある。沿線住民からは「害虫がいる」「落ち葉で側溝が詰まる」「鳥の糞が汚い」などの苦情も寄せられているため、熊本市は対応を迫られている。」ということのようです。
そのため熊本市は令和2年(2020年)3月に「街路樹再生計画」を策定し、重点路線に電車通りと第二空港線を選定し、前段のとおり、約6割の樹木が伐採対象となったというわけです。
しかし、調べてみるとこれは熊本市だけの問題にはとどまらないようです。
熊本市が策定した「街路樹再生計画書」を読んでいくと、現在の熊本市の担当の方々が置かれている状況、苦悩が窺われます。
平成27年(2015年)に改正された国土交通省の「道路緑化技術基準」は、それまでの柱としてきた〈自然環境の保全〉から、〈道路交通機能の確保〉を前提とする価値基準への大転換であり、〈交通の安全、適切な維持管理及び周辺環境との調和に留意しなければならない〉とする「道路緑化基本方針」の文言は、地域住民や運転者等からの苦情・不安には、積極的に対応する義務が生じているようにも読めます。
そのために、苦肉の策として、熊本市の街路樹の問題を、安全性の低下や景観性の低下、維持管理における経済的課題を含めて抜本的に解決しようと今回の計画を策定し、審議会で協議を行ってきたという流れが透けて見えてきます。
また一方で、この計画を知った人々が、「6割も伐採を行うのはちょっと待って。“森の都”熊本にはふさわしくない計画です」「緑と共生できる方法はないかを探りましょう」との声を上げ始めているのです。
この「道路緑化技術基準」は、街路樹等を管理するすべての市町村に当てはまります。決して他所事ではありません。
前置きが大変長くなってしまいました。
そこで、それでは、次世代を担う若者たち、次の街づくりを主体的に進める若者たちが、この問題に対し、どのようにアプローチし、どのような解決策を見出そうとするのか、私としては大いに興味があります。自分たちの将来Visionに直結する問題ですから。
簡単に解決策が見つかる問題ではないでしょう。
しかし、だからこそ粘り強く皆の智慧を絞り合って考え抜く必要があるのではないかと考えています。
「何を理解しているかを自ら振り返り、その知識を使ってどのように自分が世界と関わるか、どのように社会に適応するかを考え、周囲を巻き込みながら実践できる」能力と実践力を備えた人間の育成―天草高校の教育の旗印に、この「21世紀型スキル」の理想を掲げる以上、これからも答えの出ない課題を提示し続けます。
そして、一つでも二つでも解決に向かって歩みをスタートさせる若者が出れば、と願っているところです。
揺れながら咲く花
6月8日(火)
天草高校と交流している韓国土坪(トピョン)高校の生徒 キム ガヒョンさんから
私に一通の手紙が届きました。
「こんにちは 馬場純二校長先生
私は トピョン高校3年に在学中のキム ガヒョンと申します。
私は 高校3年生なので 大学入試に対するストレスが多いですが,
楽しい国際交流活動をする時には,そのストレスを振り払うことができます!
今年も 去年のようにcovid-19で直接お会いできなくて 本当に残念です。
しかし,オンライン国際交流のおかげで校長先生にお目にかかれて本当にうれしいです!!
最近covid-19でとても大変な時間を過ごされそうなので,
私が好きな韓国の詩を翻訳してみました。」
この言葉に続けて,可愛らしいチマチョゴリの便せんに,次のような詩が記されていました。
揺れながら咲く花 ぐらつかずに咲く花が どこにあろうか 雨に降られないで咲く花が どこにあろうか |
素敵な詩です。
日本語を学びながら この詩を日本の友人たちにも紹介したいと
そして 一日も早くcovid-19が終息し 平穏な日々が戻ってくることを願う
ガヒョンさんの優しいぬくもりも伝わってきます。
厳しい韓国の大学受験を前にして,
日本の高校生たちと将来を語り,未来を切り拓く夢に向かって手を携える存在を得たということは,
彼女にとっても,力強い支えとなっているのでしょう。
困難な出来事はあっても
困難の分だけ 美しい花を咲かせることができる!
私たちも「揺れながら咲く花」を口ずさみながら,前を向いて誠実に生きていきましょう。