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校長室よりブログ

ハート 天高生とは 何ぞや

昨日は美しい十三夜の月が 海の面を照らして輝いていました。

爽やかな秋の到来です。

 

今 天草中央消防署の小平署長から

「昨日夕方 ある女性が、城下で転倒して頭から血を流しておられたのを

 通りがかった天草高校生10名ぐらいが見つけて

 ハンカチで傷を覆ったり、カバンを枕代わりにさし出したりして

 救急車も呼ぶなど てきぱきと丁寧に対応してくれて

 救急対応上も大変助かりました。 何かの機会にぜひ生徒たちにもお声かけください」 

との うれしい電話をいただきました。

 

これには

実は余談があって

「城下の交差点付近に天草高校生がいっぱい集まっているが

 ひょっとして事故があったのではないでしょうか?」

という地域の方からのお電話も 実は 昨夕受け取っていました。

本校職員が確認のために 昨夕出かけていたのですが

生徒たちがご婦人を優しく介護している姿を見て胸が熱くなったそうです。

「天草高校生は 立派に育っていっています。

 対応してくれていたのは 寮生たちでした」

と 朝から報告を受けたばかりでした。

 

生徒たちが心配だと 昨夕 城下の現場に駆け付けた先生は

いつも

「天高生とは 何ぞや!」と 問い続けている先生です。

さわやかな秋空の下、

熱くて優しい思いが 天高生の心にもしみこみつつあるようです。

ハート ようこそ 先輩!

今日 サプライズで、演歌歌手の 原田悠里さんが 学校においでになりました。

天草高校の、安田同窓会長、池田同窓会副会長が

「原田さんは今年でデビュー40周年です。
 懐かしいかなと思って、母校・天草高校に連れてきました」
とのこと。

吹奏楽部の音色が聞こえ始めると                
校長室でのあいさつもそこそこに
4階の音楽室に。
「この窓からの風景 懐かしいなぁ。
 私も自転車で毎日通ったんですよ。」
と満面の笑みです。

廊下から窓越しに吹奏楽部の演奏を見ていたら やはり我慢できなくなったようで
原田さんは 吹奏楽部の練習に飛び込んでいきました。

音楽好きの魂は、すぐに交歓しあいます。
原田さんは 自分の高校時代の話や
小さいころから歌手になりたかったけれど親から反対されたので
鹿児島大学の教育学部で音楽専科に入り声楽を学んだことや
親を納得させるために横浜で3年間小学校の先生を勤め
その後北島音楽事務所に入って歌手を目指したこと
今では全国各地を巡っているけれど
天草ほど心に響く地も言葉もないということ
「徒然なか」という言葉が残る天草は素敵な故郷だということ
次から次に思いが迸り出てきます。
そして
「夢は叶うよ。私は遠回りしたけれどしっかり叶った。皆も夢をしっかり追いかけなさい」
と 熱いメッセージをいただけました。

「来年1月21日に デビュー40周年を記念してチャリティーコンサートを開きます。
 天草高校の吹奏楽部の皆さんとコラボしたいと思います!」
と 原田さんは 大きなプレゼントまで用意してくださっていました。

天高生と話している間中
原田さんの瞳が潤んだように見えていたのは 私だけだったのでしょうか?

蝉しぐれと小雨の降る中 とても爽やかな素敵なひとときでした。

 

 

ピース ”間に合わせる” という強い「覚悟」

  5月の連休明け

 「今から志望を国公立大学に変えても間に合うでしょうか?」

  と尋ねてきた3年生に、

 その生徒の瞳をじっと見つめ

 「間に合わない!」と言った先生がいます。


  「間に合う、間に合わないは、私達が言うことではない。

  君が、”間に合わせる” という強い「覚悟」を持っているかどうかだ。

  他人任せの気持ちのままだったら、到底間に合わない。

  ”間に合わせる”という思いを持って、残り半年を全力で頑張るのなら、

  私達も全力でバックアップするぞ。」

  と野太い声で励ましたところ

 その生徒は、それから毎時間予習して授業に臨み、

 苦手なジャンルを繰り返し演習して、みるみる成績を伸ばしてきたそうです。

  その先生曰く「6月模試では、学年一の伸びでした。」


 自分の人生を決める大きな分岐点となると考えると、やはり不安が先に立ちます。

 「自分の将来を担保してほしい」という思いも出てくるでしょう。

 しかし、将来を担保された人生はどこにもないのです。


 この道に進みたい、

 この大学のこの教授の下で学びたい、

 という意志を、ぶれさせずに持ち続け

 努力し続けるしかありません。

 

 受験システムは、

 単に大学の入学を決めるというだけでなく、

 自分の人生を生ききる「覚悟」を育てる 良いハードルになっているようにも思います。

 

 「先の見えない不安を乗り越えるということ」

 これこそが、この受験の学びの中での一番大きな収穫物なのかもしれません。

ハート 生徒の姿を見れば

今月半ばまで、教育実習生が来ていました。
その中の一人から心温まる手紙が届きました。

「 私が高校生だったころに感じていたよりもさらに先生方は生徒一人ひとりを愛し、真摯に
 向き合っておられたことにも、おそばで実習させていただいてあらためて気づき、感動いた
 しました。
  この、先生が一丸となって生徒のことを考えておられる姿を拝見できたことは本当に貴重
 な体験であったと今でも感じています。また、その気持ちにこたえるように生徒たちも日々
 の生活や学習、部活動等一生懸命に過ごしており、私もすごく元気づけられました。
  実習初日の校長先生の訓話でもありましたように、どれだけ教師生活は忙しくとも生徒の
 姿を見ればつらさも忘れてしまう、というお言葉の意味が分かったような気がしました。
  今回の実習を終えて、より一層教職の奥深さを感じ、将来、教師として生徒たちの未来を
 見届けたいという思いが強くなりました。
  来月には教員採用試験を控えておりますが、今回お世話になった先生方の背中を追いかけ
 て試験勉強に励むとともに、残りの大学生活で様々な経験を積みながら日々自分自身の人間
 性も育んでいきたい、と考えております。」

私たちの仕事は、子どもたちに、将来の夢を叶える種を播くことなのかもしれません。
それは、大学生に育ちあがった子どもたちへも同じです。
僅か3週間の出会いでしたが、先生と子どもたちとの息遣いは、彼ら彼女らの中に宿り、
大きな推進の力となりつつあるようです。

教師に限らずどの仕事も、やりがいはあります。楽しさも苦しさもあります。
しかし大事なのは、
投げ出さないこと、かもしれません。

職人さんの道具は、
使い込むにつれて手になじむように変形していきます。
そして、職人さん自らの手も 変形していきます。
私は、その変形した道具や手を、
たとえようもなく〈美しい〉と感じてしまうのです。

長い間、繰り返し、繰り返し、取り組むことで形を変える。
形をかえるだけの時間の蓄積が、そこにある。
「続けたら天職になった」
が真実なのではないか、と、近頃、漠然と思います。

「続けること」です。

ハート 一笑懸命 ~楽しんだもの勝ち!!~

 各地区の天草高校同窓会支部から「同窓会報」が送られてきています。中京支部も関西支部も、母校・天草高校を想う言葉が溢れ、頁をめくりながら、私も、天草高校で青春を送ることができて幸せだったと実感しています。

 今、天草高校には、多くの教育実習生が来て生徒たちとの学びの時間を過ごしています。「天草高校で教育実習できて本当に良かったと思っています。絶対、教員になりたい、再び母校の教壇に立ちたいと思いが強くなりました。来月の教員採用試験は、死ぬ気で頑張ります。」と、今朝、熱く語ってくれた実習生がいます。そんな実習生たちの言葉に頷きながら、教員というのは、人と関わりながら、その子どもの人生の節目に立ち会うことができる、何て素敵な職業なんだろうと、いまさらながらに感じ入っている自分がいます。

 高校時代の友人から電話をもらいました。
「癌にかかり、いま、久留米大学附属病院で治療を続けている。馬場君が天高の校長になったと聞いたから、僅かばかりだけれど、後輩たちのために役立ててほしいから寄附をしたい。今度、学校に来るよ」訥々とした語り口は、高校時代の、元気が走り回っているような面影が全く感じられません。高校時代は、廊下の向こうの端で話していても話が筒抜けでやかましいぐらいだったのに。電話越しに「心配している」と告げると、「治療は順調に進んでいるから大丈夫だよ」とのこと。「久しぶりの里帰りだね。寄附とかじゃなくて、ついでに学校に遊びに来たぐらいの気分でいいよ」と言うと、「HPで写真見たけれど、髪も薄くなったし、ずいぶん太ったねー」と、昔の明るい笑い声が戻ってきました。

 6月19日(日)は、天草高校倉岳校で恒例の海の運動会マリンフェスタが開催されます。今年のテーマは「一笑懸命 ~楽しんだもの勝ち!!~」。この春入学した1年生が考案してくれたものですが、子どもたちの柔軟で大らかな発想力に脱帽です。コロナへの不安や、それぞれがいろいろ背負わされている重たいものを、一度、ちょっとだけ下して、周りを見渡しながら笑って(笑んで)みましょうか。 人生は楽しんだもの勝ちです!!

美術・図工 ふるさとを思う

ちょっと前の話です。3月に行われた十万山スケッチ大会で、雨の中、天高生たちが、地域の小学生のスケッチ大会の補助に動いてくれました。
その後、主催者のご老人が、高校生にお礼を言いたいと、先日、学校に訪ねてきてくださいました。
「10年以上前から、天草の人たちに、ふるさとの宝として十万山からの見た風景を残してあげたい、と関東に住む天草出身の方々が有志で十万山公園の整備活動を行ってきました。その後、少しずつ地元の人たちにもその活動の輪が拡がり、みんなで雑木の伐採を行い、本渡市街を一望できるようにしました。そして、河津桜を植え、ベンチや歩道の整備と様々に動いてきました。数年前からは、桜の名所だった十万山で、また、薄ピンクの桜が咲き誇るようになりました。この風景を、子どもたちの瞳に焼き付けたいと、天草市と共同で、小学生スケッチ大会を始めました。天高生を始め、地域の高校生たちがボランティアスタッフとして協力してくれるおかげで、ここまで繋がってきました。今年も、コロナ禍でスケッチ大会の開催も危ぶまれていましたが、天草市も開催に舵を切ってくれ、そして、天草高校生たちがボランティアスタッフとして加わってくれて、こんなに心温まる大会になったのは、初めてでした。本当にありがとう。」と、深々と頭を下げて行かれました。

遙か遠く、東京に住む人たちの、ふるさとを思う心が、このように繋がり、ふるさとづくりが形をなしていく、素晴らしいなと思います。天高生たちにも、かけがえのない宝物〈ふるさと〉を創るために学び、行動する人であってほしいと思います。

目を世界に転じると、そのふるさとを力で奪われようとしている人たちがいます。
テレビの画面を通じて見えてくる不安な瞳を見る度に心が痛みます。私は当事者ではありませんし、入ってくる情報はバイアスがかかっていますから、軽々にどちらが良いかと悪いとか論じるのは避けなければなりません。しかし、自らの主張を通すために、人々の生活や命を潰えさせるという手段を取ることは、決してあってはなりません。そして、力で奪うふるさとは、果たして、自ら誇りとすることができるのか、はなはだ疑問です。

「答えの出ない問いを、生涯かけて考え抜き、よりよい答えを導き出そうとすること」
これこそが、人類の智慧であると思います。

私は、いつも皆さんたちに問い続けています。「何のために 学ぶのか?」と。
今、世界で起きていることを、見ながら、切実に思います。
一人でも多くの人が笑顔で幸せに暮らせるようにするために、そして自らのふるさとを誇らしく語ることができるようにするために、私たちは学び、そして行動しなければならないのです。

地球市民として、未来の扉を開くのは、あなたたちです。

鉛筆 あの頃 先生がいた 1

5月8日(日)は、母の日でした。
私にも、コロナでなかなか会いに行けませんが90歳を過ぎた老母がいます。80を過ぎたあたりから気持ちと記憶がどんどん若返りはじめ、今は昭和の十代の乙女に戻っています。当然、昭和の後半に生まれた私は、まったく見知らぬ未来からの訪問者なので、いつも訝しがられるのですが、「ととさんと火鉢」の話をするといつも笑ってくれます。本当に可愛らしい乙女です。

私が小さいころ、母は「大きゅうなったら、お医者さんになっとだろ」と言っていました。
しかし、私は人一倍血を見るのが苦手だったので、嫌でした。むしろ家の近所にいた大工の棟梁がトンテンカン家を建てていくのが見事で憧れていました。職人さんが、玄能でカンナの頭を叩き、しゅっとカンナを引くと、とてもいい香りのする薄い木の膜が刃の隙間から飛び出てきました。雨降りの日などは次の日の作業用の柱に墨付けし、鋸を引いたり、ノミでホゾを切ったり、カンナを掛けたり、職人さんが動くたびにきれいな形が仕上がっていくのです。一日中見ていても全く飽きませんでした。

私は、手先が不器用で、肥後守でしょっちゅう手を切っていましたので、大工の夢は諦めましたが、近所の友人や先輩たちは何人も長崎や大阪に出て修行し、棟梁への道を目指しました。そして、親の住む家を自分の組の職人さんたちと新しく建て直すのです。田舎の古びた住居が、私が帰省するたびにぽつんぽつんとモダンな建物に建て替わっていきました。私の家に上る小川の河原でいつもメジロの水浴びをさせていたSさんの家は、土間に縁側と小上がりの付いた一間きりの小ぶりな家でした。私が生まれたとき、病弱な母の乳が出なかったために、もらい乳に訪れ、よく縁側で寝かせてもらっていた家でした。その家もいつの間にか瀟洒な2階建てに建て変わっていました。メジロ籠は、縁側のあった場所に新たに作られた玄関の横壁に変わらずに掛けてあり、深緑色のメジロが竹ひごの間をひっきりなしに跳び回っていました。

小学校6年から中学校にかけて、私は、たびたび下血をしては意識を失って倒れ、入退院を繰り返しました。
同室の入院患者には、炭鉱の粉塵で片肺を取った人や、運送会社の社長でいつも大きな注射を打たれている人が居ました。しかし、皆陽気で、病室とは思えないほど笑い声が絶えませんでした。私も毎日真っ黒い鉄分造血剤を注射され、することもなく本を読み続けました。中1の夏だったでしょうか、外国航路のタンカーに乗船していた父が吐血し、療養のために天草に戻ってきました。ほとんど口をきくこともなく眠ったままの父のベッドの横に、母はいつも団扇を持って座り、父の額に浮かんだ汗をタオルで拭っていました。廊下から覗き込んで、「死ぬと?」私が発した言葉に、一瞬目を見開いた母は、無言で首を振りました。いつの間にか生きることの意味や死について考えるようになりました。

花丸 天高生 最高!

 5月8日(日)爽やかすぎるほどの晴天のもと、第77回天草高校体育大会が開催されました。生徒たちの気魄のこもった演技、土ぼこりを巻き上げて疾走する姿、張り詰めた緊張感の中で展開された応援の人文字、そして全体を締めた応援演舞、あの「気」が満ち満ちた空気はめったに味わえるものではなりません。本当に圧倒されました。

 コロナの感染防止の観点から、ご来場については3年保護者のみとし、声援も禁止とさせていただいたのですが、保護者の皆さん方からの地鳴りのような拍手に、生徒たちは背中を押され、持てる力を全て出し切ったようです。

 当日ご来場いただけなかった皆様方には、ホームページに当日の様子が続々とアップされる予定です。ご期待ください。

お祝い 麻布大学 増井光子賞 受賞!

麻布大学から嬉しいお知らせが届きました。

2015年に麻布大学獣医学部獣医学科に入学し,今春卒業した天草高校卒の黒木翔君が
令和3年度麻布大学「増井光子賞」を受賞したそうです。


「増井光子賞」とは,故・増井光子博士のご遺族から寄贈されたご遺志を活かす形で設立された賞で,専門領域において各賞の受賞など学会等で高く評価され,今後の可能性が期待されるもの又は社会活動等で顕著な功績を上げたものに寄贈される賞だそうです。

故・増井光子博士は,麻布獣医科大学(現・麻布大学)獣医学部獣医学科卒業の獣医師で,1985年(昭和60年)日本で初めてパンダの人工繁殖に成功した方として知られています。1990年(平成2年)女性初の多摩動物公園長に就任。2年後の1992年には,女性初の上野動物公園長に就任されるなど,日本の女性獣医師の草分けです。1999年(平成11年)にはよこはま動物園ズーラシア初代園長に就任,兵庫県立コウノトリの郷公園の初代園長も兼務されました。2010年(平成22年)イギリスでの馬術大会の競技中に落馬し,搬送先のケンブリッジ大学病院でお亡くなりになっています。享年73でした。


黒木 翔 君は

 第8回日本獣医病理学専門家協会学術集成 大会長賞
 日本養豚開業獣医師会会報32号 2020年度日本養豚開業獣医師協会学生アワード
の受賞が認められ,増井光子賞の受賞となったようです。

天高生は,
在校生も,卒業生もそれぞれのステージで研究に邁進し,各界に認められています。
ここ天草で揺籃の時を過ごし,学んだ内容を極めながら社会に貢献する若者が育ちつつあることを,
本当に誇らしく感じています。


詳細は麻布大学のホームページからご覧ください。
 麻布大学増井光子賞 https://www.azabu-u.ac.jp/topics/2021/0629_35272.html
 表彰式動画 https://www.azabu-u.ac.jp/movie_archives/2021/0630_35327.html

音楽 音楽と自然大好き!

新型コロナの影響で来日が遅れていたALTの先生が今日から着任です。
ウイリアム・ブラックストーン先生。音楽と自然が大好きな陽気な先生です。
天草の豊かな自然に育まれた本校生と波長が合うような予感がしています。

まん延防止重点措置も9月いっぱいで解除の方向性が見えてきました。
10月からは,部活動も含めて平常通りの学校生活が取り戻せそうです。
やっと 吹奏楽の音や部活動の生徒たちの歓声が響き合う学校生活の復活です。

ブラックストーン先生には準備が整い次第,「コミュニケーション英語」の授業を担当してもらうことになりますが,生徒諸君には,授業だけでなく放課後等も,ブラックストーン先生を囲んで会話を楽しみながら,世界の様々な価値観を知り,多文化共生に向けての力強い第一歩を踏み出してくれることを願っています。