2017年10月の記事一覧
くまもと国語研究紀要(第51号)より
「若き国語科教師たちへ」
熊本県立御船高等学校長 西澤頼孝
昭和六十年度採用の私は、今年で教職三十三年目を迎えます。玉名高で初任の三年を過ごし、牛深高五年、熊本北高七年、教育センター指導主事を六年。再び玉名高に戻り五年を経た後、南関高の教頭となり二年、天草高副校長二年、再び教育センターに行き審議員兼部長を二年、そして現在の御船高へ。熊本県の北と南を行ったり来たりしているうちに、気がつけば定年まで残り五年となってしまいました。振り返ってみると、どの時代にも素晴らしい国語科の先生方との出会いがあり、教師としての心構えや指導の技術など、多くのことを学ばせていただきました。
今回、国語研究紀要に随想を書くよう依頼され、さて何を書こうかと迷いました。現在勤めている御船高校のことにしようか、御船や上益城に関する文学歴史の紹介にしようか、それとも平成十年度前後の国語部会での思い出にしようか、いろいろ考えましたが、各アイデアは別の機会に譲るとして、今回は、私が同僚から学んだことをもとに整理した「国語科教師として心がけたい十箇条」を紹介したいと思います。
〈国語科教師として心がけたい十箇条〉
(一)「いい授業」をする先生が、「いい先生」。
初任の時に先輩教師から言われた言葉で、その後の教諭時代の指針となりました。極論のようですが、「まずは授業が大事、すべてに優先させて腕を磨け」ということだと思います。
(二)「いい問題」を作る人は、「いい授業」をしている。
設問の切り口や問いの文言、基礎基本を問う言語事項の問題からまとめの問題までの全体の配置。試験問題を見れば、その人が日ごろどんな授業をしているかが大体分かります。適切な発問をする力はなによりも大事です。学習のねらいに合致した分かりやすい発問であるか、思考活動を活発にする発問であるか、発問の言葉が精選され簡潔であるか、発問相互に論理的つながりがあるか、生徒の学習意欲を高める発問であるか、発問の難易や質は生徒の学習状況や能力に応じたものであるかなど、意識して発問をするよう心がけましょう。
(三)「いい授業」かどうかは板書を見れば分かる。
文字は正しく、丁寧に、なるべく大きくはっきりと書きましょう。要点を簡潔に、生徒がノートをとることを念頭に置いて書きやすいように配慮します。発問に対する生徒の答えなども上手にまとめ、学習目標に応じた構成にし、最後に一時間の授業を目で見て振り返ることができるような板書にすることが大事です。
(四)「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」。
評論文なら、その評論を読解して終わりではなく、評論文というものの読み方や問題の解き方なども生徒に考えさせたいものです。我々は教科書の内容を教えるだけでは不十分で、教科書を使って「物の本質」を教えていかなければなりません。
(五)「話術」を鍛えろ。「話術」は教師の生命線。
本格的な初任研が始まる前に就職した我々は、授業のワザは盗むしかありませんでした。先輩教師の授業を廊下で聞いて、よく真似をしたものです。そんな中、とても聞きやすい授業をする先生がいらっしゃいました。声がよく通り、強弱、緩急のバランスもよく、間の取り方がとても上手で、変な癖もありません。聞き惚れました。聞けば、落語で話術を学んだそうです。
(六)授業は「導入」が大事。いかに生徒を教材に引き込むかだ。
「教壇はステージだ」「授業は舞台だ」と言った先生がいらっしゃいましたが、授業も舞台も、最初の「つかみ」が肝腎です。小道具を使ってもいいし、話術だけでもいいですが、ググーッと、教材の持つ「世界」に引き込むことができれば、生徒の集中力も高まり、活発な授業ができるでしょう。
(七)教材研究は徹底的に。ただし、授業ではすべて話す必要はない。
生徒の発言、質問等にすぐ対応できるように、教師自身が教材研究をしっかりやっておくことは、もちろん必要なことですが、知っていることをあれこれ話すと要点がぼけてしまうことがあります。取捨選択が大事です。
(八)新聞のコラム等を教材に使うときは、その内容に注意。
かなり以前、某大手新聞のコラム欄を書写する取組を国語科でやったところ、地歴公民科のベテラン教師から注意されたことがあります。新聞社にはそれぞれ独自の論調があるので、むやみに書写させるのは、思想教育にもつながり、危険だということでした。複数の、主張の違う新聞社のコラム欄を使うことを勧められました。
(九)生徒を「揺らせ」、「動かせ」。
寝ている生徒を起こせという意味ではなく、疑問を持たせたり、考えさせたり、読ませたり、聞かせたり、書かせたり、話させたり、学習活動を活発にしろという意味です。単元のねらいや一時間のねらいによって指導法を工夫し、めりはりのある授業の構築を心がけましょう。
(十)教師は「四者悟入」。
これも初任の時に教えられた言葉です。教師は「四者悟入(ししゃごにゅう)」。教師は四つの者になって、初めて悟り入るということです。では、四つの者とは何か。私も、よく研修等で若い先生方に質問したものです。答えは、「学者」(専門に関しては誰にも負けない自信を持て)。「役者」(素の自分を隠して教師を演じることも大切)。「医者」(ひと目で生徒の心身の状態を見抜けるように)。「易者」(生徒の将来の姿が思い描ける)。現在は、この四者以外にも「○者」「○者」でなければ教師はやっていけないところもあるかもしれませんが、三十年前はこのように言われていました。
時代の流れとともに学習指導要領も改訂され、求められる力や教育方法も変わってきています。しかし、生徒の思考を活性化させ、コミュニケーション力を高める「表現指導」や「話し合い活動」というのは昔からありましたし、視覚や聴覚にうったえ理解力を促進する「視聴覚教材」も昔からありました。「アクティブ・ラーニング」も「ICT」も、目新しいことではなく、その根本は以前からやっていたことであり、その技術が進み、指導の仕方が整理されてきたというわけなのです。特に、ICT機器の進歩はめざましく、私が若いころにこれがあったら、さぞ仕事も効率的で、生徒にとっても分かりやすくていい授業ができただろうと思います。私が初任のころはワープロさえ普及しておらず、試験問題も予習プリントもすべて手書きでした。FAX原紙に鉛筆で書いていくのですが、文章に訂正が生じると消して書き直さなければなりませんでした。字も読みやすいようにずいぶん練習したものです。ペンダコがすぐできました。板書も、今のようにプロジェクターで本文を映すなんて芸当はできませんでしたから、休み時間に早く来て本文だけ書いたりしていました。黒板が少し進化してマグネットタイプになると、紙に書いた本文を短冊状に切って磁石で貼ったりもしました。便覧はもちろん、追加の資料をプリントして配ったり、「現物」を借りてきて見せたり、少しでも理解をたすけるために様々な工夫をしたものです。「いい授業をしたい」という教師の気持ちは、昔も今も変わらないものだと思います。教育にも、「流行」の部分と、「不易」の部分があると思います。多少、今の時代にそぐわないものもあるかもしれませんが、参考にしていただければ幸いです。
(平成二十九年度国語部会副会長)