学校の沿革

学校の沿革(昭和37年~昭和63年)

学校の沿革(平成2年~平成31年)

令和 元年10月28日 放送設備その他改修工事竣工
令和 2年  4月23日 子供の読書活動優秀実践校 文部科学大臣表彰受賞
令和 3年 3月31日 第二十四代校長吉塚治生定年退職
令和 3年 4月 1日 西村和久第二十五代校長に補せられる
令和 4年 1月25日 キャリア教育優良学校 文部科学大臣表彰受賞
令和 4年11月11日 創立60周年記念天工祭挙行
令和 5年 4月 1日 第二十五代校長西村和久、玉名工業高等学校長に転出、西村洋信第二十六代校長に補せられる。 

校訓

 昭和38年(1963年)4月に入学した1期生は、入学式の日にまだ校訓はありませんでした。
 湯地宏初代校長は 天草出身の本多正初代教頭を「温厚」「勤勉」な方だと感じ、昭和38年10月1日、校訓を「温厚」「勤勉」の2語に制定しました。従って、翌39年4月に入学した2期生は、その2つの校訓のもと入学式が行われました。
 その年の6月には、熊本大学の武藤光麿教授に作詞を依頼していた待望の校歌が完成間近を迎えていました。武藤先生は校歌の1番に「夢」、2番に「希望」、3番に「幸せ」を謳いこみ、それぞれに校訓も入れ込もうとされた関係でどうしても校訓をあと1つ追加する必要に迫られ、2番に「誠実」を入れて、今の温厚、誠実、勤勉の3つが揃いました。従って、昭和40年4月に入学した3期生から現在の校訓と校歌で入学式を迎えています。
 なお、昭和43年5月、第3代の高山静也校長によって「温和にして情誼に厚く明るく気品のある態度は世人に敬愛される人格の基である」「誠意を尽くして事に当り真摯にして実直、責任感の強いことは信頼をかちうる基である」「勤労を愛し創意と工夫につとめ、最善をつくして悔いなき日々を送ることは人生を意義あらしめる基である」という注釈が付けられ、これが現在まで至っています。

校章
 創立30周年記念誌に校章が制定されるまでの経緯が次のように載っています。
 本校を創立するに当たって設置された開校準備室の先生方は、校章を定めようと昭和37年(1962年)11月、業者数社に校章の見本を依頼したようですが、職員会議の結果、決定するに至りませんでした。
 そこで、天草郡市内の中学生を対象に校章を公募し、昭和38年10月に締め切って審査の結果、応募作品数472点中、当時本渡中学1年の規矩薫氏が考案した校章を採用することに決定しました。
 この校章、天草の象徴である海の波をモチーフにしてありますが、天草の「天」の漢字が巧みにデザイン化されて入れ込んであります。
 
校歌

 

 校歌を聴きたい場合は下記をクリックしてください。
  → 校歌

 昭和39年、熊本大学武藤光麿教授に依頼し、作詞・作曲を依頼、その6月に完成したものです。当時の校訓「温厚」「勤勉」をそれぞれ歌詞の1節・3節に入れ、バランスをとるために2節に「誠実」の項を挟み、体裁を整えたそうです。また、各節の前半には、本校から見た景観が紹介されており、後半には、生徒の指向する未来への「夢」「希望」「幸福」が歌いこまれています。当時としては、明るく詩情に溢れた歌詞となっています。
 新潮→しお、若葦→あし、開閉橋→はし、十万山→じゅうまん、生命→いのち など歌詞独特の読みをするところがあります。また、1番から3番に共通して出てくる「リーダー」という言葉は、1番が「指導者」、2番が「先導者」、3番が「指揮者」の漢字が当てられているところも注意が必要です。
 ちなみに、1番の「もの思う 若葦は萌えたつ」は、17世紀のフランスの思想家・数学者であったパスカルの「パンセ(Pensee)」という著作の中にあった「人間は考える葦である」からイメージされたものでしょうか。記録もないし、武藤先生が故人となった今では調べるすべもありませんが、1,2期生が毎日汗水たらして整地した今のグラウンドは開校当時、瀬戸運河のの開削工事の廃土で埋め立てられた荒地で、葦が生い茂っていたとの記録は残っています。

校旗
   学校のカラーは深緑で、校旗の色で確認することができます。
 ちなみに、本校には各科にもカラーがあり、機械科A組:黄緑、機械科B組:深緑、電気科:赤、土木科:黄、情報技術科:青で、体育大会の時の団旗や団席、はちまきがそれぞれの色で着色されています。