校長室より

鉛筆 あの頃 先生がいた 1

5月8日(日)は、母の日でした。
私にも、コロナでなかなか会いに行けませんが90歳を過ぎた老母がいます。80を過ぎたあたりから気持ちと記憶がどんどん若返りはじめ、今は昭和の十代の乙女に戻っています。当然、昭和の後半に生まれた私は、まったく見知らぬ未来からの訪問者なので、いつも訝しがられるのですが、「ととさんと火鉢」の話をするといつも笑ってくれます。本当に可愛らしい乙女です。

私が小さいころ、母は「大きゅうなったら、お医者さんになっとだろ」と言っていました。
しかし、私は人一倍血を見るのが苦手だったので、嫌でした。むしろ家の近所にいた大工の棟梁がトンテンカン家を建てていくのが見事で憧れていました。職人さんが、玄能でカンナの頭を叩き、しゅっとカンナを引くと、とてもいい香りのする薄い木の膜が刃の隙間から飛び出てきました。雨降りの日などは次の日の作業用の柱に墨付けし、鋸を引いたり、ノミでホゾを切ったり、カンナを掛けたり、職人さんが動くたびにきれいな形が仕上がっていくのです。一日中見ていても全く飽きませんでした。

私は、手先が不器用で、肥後守でしょっちゅう手を切っていましたので、大工の夢は諦めましたが、近所の友人や先輩たちは何人も長崎や大阪に出て修行し、棟梁への道を目指しました。そして、親の住む家を自分の組の職人さんたちと新しく建て直すのです。田舎の古びた住居が、私が帰省するたびにぽつんぽつんとモダンな建物に建て替わっていきました。私の家に上る小川の河原でいつもメジロの水浴びをさせていたSさんの家は、土間に縁側と小上がりの付いた一間きりの小ぶりな家でした。私が生まれたとき、病弱な母の乳が出なかったために、もらい乳に訪れ、よく縁側で寝かせてもらっていた家でした。その家もいつの間にか瀟洒な2階建てに建て変わっていました。メジロ籠は、縁側のあった場所に新たに作られた玄関の横壁に変わらずに掛けてあり、深緑色のメジロが竹ひごの間をひっきりなしに跳び回っていました。

小学校6年から中学校にかけて、私は、たびたび下血をしては意識を失って倒れ、入退院を繰り返しました。
同室の入院患者には、炭鉱の粉塵で片肺を取った人や、運送会社の社長でいつも大きな注射を打たれている人が居ました。しかし、皆陽気で、病室とは思えないほど笑い声が絶えませんでした。私も毎日真っ黒い鉄分造血剤を注射され、することもなく本を読み続けました。中1の夏だったでしょうか、外国航路のタンカーに乗船していた父が吐血し、療養のために天草に戻ってきました。ほとんど口をきくこともなく眠ったままの父のベッドの横に、母はいつも団扇を持って座り、父の額に浮かんだ汗をタオルで拭っていました。廊下から覗き込んで、「死ぬと?」私が発した言葉に、一瞬目を見開いた母は、無言で首を振りました。いつの間にか生きることの意味や死について考えるようになりました。