色
本校は体育祭など、各科対抗の行事の時には、各科で色分けしています。インテリア科(黄)、機械科(赤)、工業化学科(白)、電気科(紫)、情報技術科(緑)といった具合です。昭和29年当時、現在のインテリア科は木材工芸科と称していて、「緑色」でした。木材工芸科は昭和48年にインテリア科に変更されました。情報技術科が新設されたのは、その前年の昭和47年です。機械科の赤はマシン油、エンジンを表し、電気科の紫は電気の閃光を、工業化学科の白はガラスまたは薬品の色を、それぞれ表しています。
また、「君の学校のスクールカラーは何色ですか?」と聞かれて、あなたは答えることができますか?どこの学校でも、その学校の色があります。本校はエビ茶色、いわゆる臙脂(えんじ)色です。
火災
本校は昭和25年6月、昭和39年12月と、二度の火災にみまわれています。二回目の火災の昭和39年12月21日は、創立20周年の年でした。
希望の像
本校正面近くにある『希望の像』をご存知ですか。造られた理由について調べてみました。
昭和39年12月21日の深夜、火災にみまわれ、本館の大部分が焼失してしまいました。幸いにも、地元並びに卒業生各位の熱烈な母校愛に支えられ、昭和40年12月、本校では初めての鉄筋コンクリート造り三階建本館が完成しました。火災後ややもすれば沈滞気味であった生徒を奮い立たせるために、いろいろ協議の末『希望の像』を造ることになりました。当時工業化学科三年生の坂口先輩をモデルに、木材工芸科で美術担当の古賀先生の手により、昭和41年1月に完成し、本館前庭の緑の杜の中に建立されました。
これからも、『希望の像』は八代工業高校の移り変わり・勉強・スポーツ・就職など生徒の活動を、永遠に見届けるでありましょう。
木
本校には大きい樹木が二種類あります。一つは本館正面の北側に位置する楠木です。昭和26年機械科A棟の南側にあったものを挿し木したものです。当時は2メートルほどでした。もう一つは本館の右側に位置する5本のシュロの木です。これは昭和38年鹿児島県出水市より購入されました。
徽章
現在の徽章は全体がKの形をしていて、その中にそれぞれの科のイニシャルが書かれています。この徽章ができたのは昭和55年以後のことで、某大学の徽章をモデルにしてあるそうです。
インテリア科は室内のS
機械科はマシーンのM
工業化学科はケミストリーのC
電気科はエレクトリックのE
情報技術科は情報のJ
インテリア科と情報技術科はIになると1年生のIとかぶるため日本語になっています。
これまで下地の色で学年を区別してあり、一年生は緑(新鮮、フレッシュを意味します)、二年生は赤(情熱)、三年生は紺(沈着、落ち着き)という具合でした。平成26年度より学年ごとの持ち上がりに変更となりました。
この徽章ができる以前は、白鷺の校章と科のイニシャル、学年を示す数字を付けていました。
溪烽
「溪烽(けいほう)」は本校の象徴ともいえる名称ですが、最初は校誌の名称でした。職員から応募され、工業化学科の管七生先生のものが採用されました。昭和25年のことです。現在は、「同窓会」、「生徒会誌」、「同窓会館」と、三つの名称に使われています。
「溪烽」の由来は次のようなことです。「溪」は日本三大急流のひとつである球磨川の渓谷。「烽」は合図として火を焚き煙をあげること、のろし。「溪烽」とは、球磨川のほとりでのろしを上げることです。すなわち、球磨川のほとりで八代工業高校が意気盛んに発展していく祈りを込めたものでした。
溪烽会館
昭和44年11月、本校東側に敷地面積100坪、家屋面積30坪の木造建築を購入。昭和63年、現存のものに新しくなりました。
校歌
旧本館の落成式が昭和28年10月17日に行われ、そのときに校歌が披露されました。本校の野球部が甲子園(昭和54年、春)に行ったとき、校歌の一番を歌うか、それとも二番を歌うか、学校でだいぶ議論されました。というのも校歌の一番(*1)の「煤煙は地平を流れ」が、公害を連想させる歌詞だから良くないのではないか、ということになったのです。
「公害」ということが世の中で、しきりに取りざたされる時代だったのです。「公害」という言葉は明治時代からあるのですが、一般的に使われるようになるのは、昭和45年ごろからです。『日本の公害』(岩波新書)には「1970年(昭和45年)のはじめには、新聞に殺人事件の載らない日はあっても、公害事件の載らない日はなくなった」とあります。
一番を歌うことに賛成する先生たち・・・本校の校歌ができた当時は、公害ということも一般的ではなかったし、「煤煙」に悪いイメージもなかった。というより「煤煙」(石炭などを燃やすときに出る煙やすす)には、日本の国における工業の発展を象徴するような良いイメージさえ合った。全国の人々にも、そのようなことを知ってもらうためにも、正直に一番を歌うべきだ。一番を歌うことに反対し二番(*2)を歌うべきであるとする先生たち・・・現在、公害ということが世の中でとても問題になっている。一番を歌えば、世間の顰蹙(ひんしゅく)を買うのではないか。工業高校だからこそ公害ということを真剣に受け止めていることを示すためにも、一番は歌うべきではないだろう。無理をして一番を歌わなくとも、二番を歌えばよいのではないか。本校の校歌の二番の歌詞は素晴らしいのだし。甲子園出場が決まってから、連日遅くまで議論が続いたといいます。しかし、甲子園では第一試合で、高知商業に惜敗し(3-4、延長11回)、野球部員が校歌を歌うことはなかったのです。
*1 煤煙は地平を流れ、朝風に汽笛遙けし、ここにして八代工業、青春の燃ゆる血潮に、集いよる、われら若人
*2 大球磨のそそげるところ、不知火の海は輝く、ここにして八代工業、洋々と開く未来に、光呼ぶ、われら若人
校訓
昭和41年5月10日、校訓「誠実」が制定されました。それ以前には、教育方針と校訓がなかったのです。校訓を制定することは、当時の校長先生でいらっしゃった小原先生の長年の懸案でした。創立20周年の行事が終わった後、生徒会から校訓を何にするか生徒への募集がありました。至誠、智・体・心、礼節等がありましたが、そのなかで「誠実」が選ばれました。「誠実」は平明で、しかも現代的な教訓と評判になりました。
売店
本校の売店が他校の売店と異なる特徴は、弁当を注文できるということです。売店の女性の方は生徒たちから「おばちゃん」と親しまれ、卒業生は先ず売店に顔を出します。
8の日
本校では、8の付く日には先生方と生徒会の交通委員は交通指導を行います。
昭和55年10月8日、登校中の本校生徒がタンクローリー車と正面衝突をし、16歳の若さで帰らぬ人となりました。もう二度とこのような痛ましい交通事故を出さないようにとの祈りを込めて、8の日の交通指導が行われているのです。
帽章
帽章(ぼうしょう)って、なんのことだ、と言う若い人の多い時代になりました。今の校章のことです。昔は校章を付けた帽子(学生帽子)をかぶっていたのです。
(1)八代市立工業学校・帽章 創立当初の帽章で「工」を八つ、「代」の回りに配したもの。これをゴム印で作り、布に押して戦闘帽に縫いつけました。その後、陶器へと変わり、戦後は真鍮となって昭和23年まで使用されました。
(2)熊本県立八代高等学校、第二部[工業課程]
昭和23年に八代高等学校に合併され第二部と称し、昭和24、25年は八代高等学校工業課程と改称します。当然その期間の生徒も八代高校の「桜」の徽章を着用しました。
(3)昭和26年4月に「熊本県立八代工業高等学校」として独立。八代は白鷺とは縁の深い土地で、現在でも夕葉橋(傍らには白鷺橋もある)上流の中州あたりによく数羽の白鷺を見かけます。その昔、八代城を白鷺城と呼んだといいます。現在の校章は白鷺の羽を形どったもので、津田政嗣先生(木材工芸科)のデザインによるものです。
以上の記述は50周年の記念誌によるものです。本校図書館は、その広報誌を「若鷺」と称しています。八代城に関しては『八代市史』に「八代城が別に白石城や白鷺城と、白色に関係ある名で呼ばれるのは、城壁にこの白石(白島産の石で良質の大理石)を使用しているためであった、夜も白く見えて美しかったといわれる」と、あります。
鞴祭り
普通、学校に祭りがあるといえば、文化祭や体育祭ですが、本校の機械科に、鞴(ふいご)祭りというものがあります。鞴とは、火をおこしたり、強めたりするために風を送る道具です。古代から金属を加工するために使われました。
この祭りは先生方だけで行われ、生徒諸君にはあまり馴染みがありません。しかし、先生方が生徒諸君の安全を祈願されて、火の神様を祀(まつ)られるのです。工業高校ならではのものといえます。
三島由紀夫
世界的な文学者、三島由紀夫が本校を訪れたことがあります。
昭和41年8月31日、夏休みのことです。当時の国語の先生の福島次郎先生が、三島由紀夫と親しくしておられたので、本校に連れてこられたのです。三島由紀夫はグラウンドの芝生の上にくつろいだり、鉄棒で懸垂をしたりして、そこからの眺めを賞賛しました。「なんて素晴らしい眺めだろう。こんな美しい山の色は初めてだ。燕が蝿のようにたくさんいるね。」と、言ったそうです。
その時に三島由紀夫は、本校の校訓である「誠実」を揮毫(きごう)しました。