羅針盤 夢を持って、世界とつながれ

校長室より

平成28年度 修了式 校長講話

平成28年度 修了式 校長講話

「天才」

平成29年3月24日(金)


 ある大企業で新入社員の中から4人が選ばれた。会社は彼らに不可解な命令を下す。給料やボーナスは特別に多く払う。経費も好きなだけ使ってよい。その代わり何もしてはならない。生産的なことは一切してはならない、というのである。
 海辺の寮に隔離された彼らは、釣りをしたりトランプや麻雀に興じたりして過ごすが、じきに飽きて世界中の遊び道具を集めはじめる。しかしついにそれらにも飽きてしまう。

 そしてどうなったか。彼らは新しい遊びを考え出したのだ。
 地面に複雑な図面を描き、ボールを使い、人間がチェスの駒のようになって遊ぶというそのゲームは、スポーツと知的ゲームとギャンブルの長所がうまくミックスされたような画期的なものだった。すると、本社から重役が飛んできた。
 「よくやった。管理人からの報告で、急いでかけつけてきたのだ」
 「やったとおっしゃいましたが、わたしたちはなにもやっていませんよ。遊んでいるだけです」
 「いや、いまやっているじゃないか。新しいゲームを開発してくれたではないか。それが目的だったのだ」
 重役の言葉を聞いた4人は不満げに訴えた。「それならそうと、はじめにおっしゃってくれればよかったのに」
 すると重役はこう答えた。「いや、それではだめなのだ。現在あるスポーツやゲームは、どれも19世紀以前に生まれたものだ。そして現在、いまほど新しい遊びが強く求められている時代はないのだが、人々はせかせかし、開発する精神的余裕を失っている。面白い遊びというものは、理屈からはうまれない。そこで優秀なきみたちを、昔の”暇人”の環境に置き、アイデアがにじみ出て形をとるのを待ったのだ。よくやってくれた」

 星新一の『盗賊会社』(新潮文庫)所収の「あるエリートたち」という作品の概要である。


◎「最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常」(新潮社)二宮敦人・著
 東京藝術大学の学生とはいかなるものたちか。
 ある男子学生は、楽器を荒川に沈めようとしているという。沈めて錆付いた楽器を引き上げて展示したり演奏したりしたいのだが、企画書を持っていても国土交通省から許可が下りないと悩んでいる。
 ある女子学生は、アスファルトの駐車場の上にアスファルトでつくった車を置いてみたという。タイヤもアスファルト製で、押せばちゃんと走ると嬉しそうに胸を張る。
 表現には彼らなりの理由や背景があるのだ。彼らにアート、芸術をどう考えているか聞いてみると、そのことがよくわかる。

 アートとは――。
 「知覚できる幅を広げること・・・かなあ」
 「ちゃんと役に立つものを作るのは、アートと違う。この世にまだないもの、それはだいたい無駄なものなんですけど、それを作るのがアートなんで」

 彼らは前に紹介した星新一のショートショートのエリートたちを髣髴とさせる。このようにひたすら役に立たないことをやり続けることの中から、やがて天才的なアイデアが生まれるのかもしれない。実際、藝大では「天才」という言葉がふつうに使われているらしい。たとえば学長からして新入生たちに対してこんなことを言っている。

 「何年かに一人、天才が出ればいい。他の人は天才の礎。ここはそういう大学なんです」
 とは言うけれど、何年に一人どころか、この本には天才と呼びたくなるような人物が何人も出てくる。たとえば藝大生をして「あいつは天才」と言わしめるある学生は、口笛の世界チャンピオンだ。彼は口笛をクラシック音楽に取り入れるという前人未到の道を切り拓こうとしている。

 この本を読んでいると、いかにこちらの頭がコチコチに固まっているかに気づかされる。常識や世間体、役に立つか立たないか。そんな固定観念でがんじがらめになっていることを思い知らされるのだ。
 ・「面白い!」という心の声に忠実になること。
 ・なにかの役に立とうなどゆめゆめ思わないこと。
 ・ひたすら手を動かし試行錯誤を繰り返すのを厭わないこと――。
 ・誰もやっていないことに果敢に挑戦すること。

 こういったことの先にいつか、この行き詰った社会を打ち破るような新しい芸術や思想が誕生するのかもしれない。