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! ある壺の話 その2

 図書館の宮本先生が継続調査中です!
 前回以降 分かったことをご紹介します。

 前回,「小川広山さんが ひょっとして旧制天草中学校の窯業部を指導かも」,としていましたが,実際に指導していたのは,丸尾焼三代目金澤武雄(かなざわ たけお)さんでした。

『AMACUSA NO TOUJIKI Kako.Genzai.Mirai』(金澤一弘編 天草陶磁器振興協議会 平成12年10月)にその記述ありました。以下,関係個所を抄出します。
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明治24年(1891年)3月18日,丸尾焼二代目金澤久四郎の四男として生まれた武雄は,
明治37年(1904年)熊本県立中学済々黌天草分校に入学し,
明治39年(1906年)佐賀県立有田工業学校に転入。
明治43年(1910年)3月,同校陶業科を卒業。農商省工業試験所を皮切りに山形県下各所で窯業所や製瓦会社を新設し,所長として技術指導に尽力した。
大正11年(1921年)30歳で天草に戻り,天草窯業株式会社技術顧問。続けて工務部長,技師長となる。
同年7月 同社退社後営農に従事しながら丸尾焼にも携わり,主に甕類,壺容器の製造に従事する。
大正14年(1924年)には,熊本県から陶器製造講習会講師を嘱託され,後に熊本県地方商工技師に任命される。
昭和2年(1927年),商工省より沖縄県商工技師に任ぜられ渡沖。
昭和4年(1929年)新設された沖縄旭窯業株式会社の技術指導にも尽力した。
昭和7年(1932年)父金澤久四郎病没のため沖縄での公職を辞して天草に帰郷。
帰郷後,三代目金澤武雄として,家業に勤しむこととなったが,時代の動きと社会の変化に伴い,小規模経営による陶磁器製造では工業的な製品に太刀打ちできない状況となっており、戦争拡大の機運により,資源枯渇に対抗する陶磁器製品の工業的大量生産を必要とする声も高まっていた。


そこで武雄は,昭和7年(1932年)天草中学校の嘱託となり,校内に窯業部を創設すべく奔走した。そして,同年、天草中学校内に窯業部実習工場が設置されている。(※天草中学校窯業部の教育開始は昭和9年度(1934年度),窯業試験場創設は昭和10年度(1935年度))。

       写真右奥に立つのが金澤武雄氏 ➡
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 『天草高校百年史』の中にも「嘱託」として,「金澤武雄 昭和7・6~昭和10・12」という記述が見られます。
 旧制天草中学校で窯業部を立ち上げ,窯業試験場完成まで技術指導にあたっていたのは,丸尾焼三代目・金澤武雄さんでした。

 前掲書の編集子は,武雄氏が,天草中学校での指導と同時期に肥洲窯業株式会社の総務部長になっていることを指摘しながら「武雄が,次世代の技術者を養成し,陶磁器製品の工業的大量生産によって地域振興を目指し,製陶業を元にした産業化をねらっていたことがよく伺える」と評しています。

 全国の窯業試験場を立ち上げながら次世代の育成に力を注いでいた武雄にとって,天草はまさに「宝島」と映っていたのでしょう。近代工業殖産期の浪漫が感じられる展開になってきました。

 しかし,肝心の天草高校校長室に置かれている優美な壺の正体は,いまだ判然としません。金澤武雄さんが関わっているであろうことは想像に難くないのですが。とりあえず,今回の調査報告はここまで。

 前・平田浩一校長先生から
「壺の底には「苓州」という署名が入っている。何かヒントになれば」と連絡をいただきました。

 引き続き調査を続けます!