御船の昔話


「御船(みふね)」の由来

 景行天皇が九州を平定するためにご巡幸なさった折、その「御船(おんふね)」が着岸したことによると伝えられます。


甲斐宗運親直

 南北朝のころには、阿蘇家の一族、御船河内守盛安(みふねかわちのかみもりやす)が領有、ついで戦国時代には御船阿波守行房(みふねあわのかみゆきふさ)が支配しましたが、行房は阿蘇家の智将、甲斐宗運(かいそううん)に討たれます。その功により、宗運は御船千町を阿蘇家から与えられ、この地を支配しました。


戦国時代

 天正15年(1587)、豊臣秀吉によって肥後の国は2分され、御船は小西行長(こにしゆきなが)が治めることになりました。関が原の戦いで行長が滅ぼされると、その支配は加藤清正(かとうきよまさ)に移り、さらには細川忠利(ほそかわただとし)の手に移りました。


玉虫

 源平合戦の最後壇ノ浦の戦いのとき那須与一が放った矢が海に浮かぶ船で玉虫の持つ扇に命中した・・・という有名な伝説があります。この中に出てくる「玉虫」の出身地は御船町であり、壇ノ浦の戦いの後人目を避けて故郷へ帰った玉虫は一門の菩提を弔うため玉虫寺を建て、尼になったと言われています。


飯田山(いいださん)

 昔々飯田山と金峰山が背比べをしました。どちらも自分の方が高いと言い張ったので、結局互いの頂上に樋をかけ水を流しどちらが高いのかを測る事にしました。樋に水を流したところ飯田山の方へ水が流れ、金峰山が勝ちました。
 最初に高さ自慢を言い出した飯田山は「もうそんなことは言いださん」と言ったことから「飯田山(いいださん)」と呼ばれるようになり、飯田山の頂上付近にある池はその時の桶の水がたまってできたものといわれています。(また、場所によっては飯田山の背比べの相手を甲佐岳という所もあります。)


落合橋(おちゃ橋)

 北木倉の矢形川にかかる橋で、その昔大水が出るたびにすぐに流されていた。村の人々は大水が出ても流れない橋を架けるために人柱をたてることにした。そこへおちゃという娘が人柱を申し出た。おちゃは以前の大水の時に父や母や家までも奪われたが、村人によって育てられてきた。そのため村人への恩返しから人柱になることを決心したのです。おちゃが人柱となった「おちゃ橋」は、それからいっぺんも流されることはなかったそうです。