校長ブログ

24/01/29(44)人吉・球磨の歴史と自然を楽しむ⑤ 湯前町~多良木町~相良村~五木村

 6月からスタートした球磨中央ニュース、先日1月号をお届けしに中学校をうかがいました。初めての人吉・球磨の生活、ただでさえ地理感覚がない私ですが、管内の中学校へはカーナビなしで行けるようになりました。前期(特色)選抜も間近、受験生の皆さんの健闘を心から願っています。

 湯前中学校を初めて訪ねた時、正門前を流れる幸野溝(こうのみぞ)の豊かな水量と清らかさに驚きました。幸野溝は、元禄10年(1697年)に、人吉藩士高橋政重(まさしげ)が中心となって工事が行われ、宝永2年(1705年)に湯前村~上村まで溝が通ったそうです(松本寿三郎ほか編「火の国と不知火海」吉川弘文館)。 

 また、百太郎溝(ひゃくたろうみぞ)は役人の有瀬城四郎兵衛(ありせしろべえ)が中心となって工事が行われ、延宝8年(1680年)には多良木~築地(ついじ)まで溝が通りました。その後も工事は続けられ、寛保3年(1743年)までには上村~一武村~西村に溝が通ったそうです(「火の国と不知火海」)。こうした先人の努力によって、上球磨・中球磨で広大な田畑が開発されていきました。

 相良村役場の敷地内にアーチ形の石橋「橋谷橋」があります。説明板によると相良村深水の石工(いしく)石本豊吉が橋谷川に架けたもので、昭和56年(1981年)に現在の場所に移設されたとのことです。

 道の駅「子守唄の里五木」と古民家との間の坂道を上ると五木阿蘇神社があります。平成16年に、東俣阿蘇神社と西俣阿蘇神社、清楽白木神が合祀され現在の場所に遷座しました。東俣・西俣の阿蘇神社は平安時代初期に創建されたそうです。

 球磨中央高校に赴任して1年が経とうとしていますが、まだまだ知らないことばかり。学びの種は近くにたくさんあるものです。

橋谷橋

 ▲橋谷橋

幸野溝

 ▲幸野溝

百太郎溝取入口旧樋門

 ▲百太郎溝取入口旧樋門