古城の地の沿革

 ここ古城の地は、古くから開けた所であったらしく、運動場に面した岸には6~7世紀の横穴墓が多数見られる。
 時代は下り、大永・享禄(1521~ 1532)の頃、鹿子木親員(寂心)によって隈本城が築かれた。約1世紀の後、加藤清正により現在の地に熊本城が築城されると、その二の丸曲輪に取り込まれ、上級武士の屋敷となり、古城と呼ばれるようになった。
 明治になると3年(1870)洋式病院が造られ、翌年には医学校も開設されて、古城医学校兼病院と称した。後の日本医学界を代表する北里柴三郎もここで学んでいる。また同年、アメリカ人ジェーンズを教師として熊本洋学校が開設され、徳富蘇峰ら明治の文化を担う幾多の人材を輩出した。明治8年(1875)、病院跡には自川県庁(後の熊本県庁)が置かれた。明治10年(1877)、西南の役に遭遇すると、もっとも南に張り出した要衝として熊本城籠城軍の防塁が築かれ、薩摩軍の激しい砲撃を受けた。
 籠城解放後は征討軍の本営が置かれ、5月、征討総督有栖川宮に佐野常民が許可を願い、博愛社が創設された。この組織が後の日本赤十字社になり、ここが日赤発祥の地となったのである。
 明治20年(1887)には新設の第五高等中学校(現熊本大学)の仮校舎が医学校跡に置かれるなど、当時の古城は、熊本の文明開化の中心地であった。五高が黒髪に移転した後は、長い間日本陸軍の所轄地に組み込まれ、第二次大戦後、昭和31年までは、米軍に接収されていた。
 昭和34年、熊本県立第一高等学校が藪の内町から移設されたことにより、再び往年の活況を取り戻すに至っている。