校長室からの風

豊かな生活文化の継承 ~ 教室での煎茶道体験

 御船高校には茶道部とは別に煎茶道(せんちゃどう)部があります。部活動として煎茶道部がある高校は県内では本校を含め2校しかありません。皆さんは、煎茶道をご存知ですか?

 煎茶道は、江戸時代初期に明から渡来した禅僧の隠元(いんげん)によって伝えられたと言われています。従来の抹茶の茶道とは異なり、茶葉(玉露など)を用いる喫茶スタイルは江戸時代に広まっていきました。本校の煎茶道部の歴史は三十年ほどあり、東阿部流の太田翠展先生が長年にわたって御指導されています。現在、部員は1、2年生合わせて4人です。

 10月30日(水)の3、4限、1年1組の「家庭基礎」の授業において、生徒がこの煎茶道を体験学習する機会を設けました。今の高校生にとって、お茶と言えばペットボトル飲料であり、急須でお茶を飲んだことがほとんどない生徒もおり、憂うべき現状だと思います。茶葉を計り、急須に入れてゆっくりと回し、茶碗に丁寧にお茶を注ぐという所作を通じて伝統的な生活文化を実感させたいというねらいから煎茶道の特別授業となりました。

 太田翠展先生のご協力を得て、教室に敷物を用意し、生徒達はその周りにコの字型で座り、煎茶道具も生徒二人に一つ準備されました。普通教室ではありますが、落ち着いた雰囲気が醸し出されます。先ずは敷物の上で煎茶道部の生徒がお茶を点て、半島(はんとう)役の生徒がお茶とお菓子を運び、正座した代表生徒達がお茶を喫します。これを手本として、二人一組で机に座っている生徒達が見よう見まねでお茶を入れて飲んでいきます。今回はお湯を使わずに、冷たい水を用いての冷茶でした。

 和服の太田翠展先生が生徒達に急須の回し方、お茶碗での飲み方、茶巾(ちゃきん)の使い方など細やかに教えてくださり、最初は動作がぎこちなかった生徒達も興味関心をもって取り組んでいました。私にはとても甘く心地良く感じた冷茶の味でしたが、幾人かの生徒が苦いと反応していたことが気になりました。普段、糖分過多のペットボトル飲料に慣れているからではないかと思ったからです。

 お茶を飲むという簡単な行為ですが、敢えて一定の所作に則って時間をかけて味わうことで、えも言われぬ豊かな気持ちになります。これこそ先人が創り伝えてきた生活文化と言うものでしょう。

 教室の生徒達の表情が和やかで落ち着いたものに変化していきました。

 

「教師は授業で勝負する」 ~ 御船高校「授業のユニバーサルデザイン化」

 「教師は、授業で勝負してください!」

 昭和62年4月、熊本県公立高等学校教員に採用されての全体初任者研修において、時の県教育委員長の安永蕗子先生(1920~2012)が初任者の私達に語りかけられた言葉です。安永先生は歌人として名高く、後に宮中歌会始の選者をお務めになった方です。そのお言葉は鋭敏にして厳格で、凛とした響きで私の胸に迫り、33年経った今日も鮮やかです。その時、漠然とですが、「これから私は、教えるということを学び続けなければならないのだ」と覚悟した記憶があります。

 近年、高等学校の授業改革が喫緊の課題となっています。御船高校においても、昨年度から学校挙げて「授業のユニバーサルデザイン化」に取り組んでいます。生徒全員が参加する「わかる」「できる」授業づくりです。特に今年度はICT(情報通信技術)の積極的導入をテーマに掲げています。先週から今週にかけ研究授業公開期間ですが、昨日10月29日(火)はその集中日と位置づけ、チャレンジディーと名付けました。電子機械科が四つ、そして普通科が国語、数学、理科(生物)、地歴(世界史)の四つの研究授業を公開しました。

 授業の指導助言者に県教育委員会特別支援教育課、県立教育センター、そして県立高校のスーパーティーチャー(指導教諭)をお迎えし、御船町の本田教育長、御船小学校の中野校長はじめ校外から幾人もの参観者がお見えになりました。午後は生徒達を下校させ、教職員による分科会、全体会を行い、まさに全員で「教えることを学ぶ」一日となりました。全体会では、御船町教育委員会教育アドバイザーの吉見先生が豊富なスライド資料を駆使され、教師の視点ではなく「できるようになった」「わかるようになった」生徒の視点を重視した授業改革について具体的に解説されました。

 吉見先生は、この五年間、御船高校の授業を参観してこられました。年々、授業改善が見られ、生徒の学習姿勢や学習環境が落ち着いてきたと評価していただきました。しかし、「授業では間違っていい」という意識を生徒が持ち、お互いが認め合い、授業が教師と生徒との豊かなコミュニケーションの場になってほしいと要望されました。

 わかりやすい授業を追究して、書画カメラ、プロジェクター、パソコン、スクリーンなどICT(情報通信技術)を積極的に活用していますが、これらは小・中学校でも行われています。ICT(情報通信技術)は有効な道具ですが、わかりやすさよりも、生徒にわかりたいと思わせる事、即ち学習の動機付けが最も大切だと思います。御船高校のチャレンジは続きます。

 

全国高校ロボット競技大会に参加して

 決勝トーナメント1回戦での敗退が決まった瞬間、ある生徒は両手で頭を抱えて天を仰ぎ、ある生徒はフロアにしゃがみ込み、ある生徒は呆然と立ち尽くしました。勝敗が決まる時はいつも無情です。しかし、結果は受け入れなければなりません。審判の判定後、観客席に向かって「有り難うございました!」と朗朗と挨拶する姿は誠に潔いもので、私は胸を打たれました。

 第27回全国高等学校ロボット競技大会は、「集え、競え、次代を担う若き技術者たち!」のテーマのもと新潟県長岡市で10月26日(土)から27日(日)にかけて開催されました。会場は市庁舎も入る大型公共複合施設の「アオーレ長岡」のアリーナ(競技場)でした。御船高校は過去9回の全国制覇を誇り、高校ロボット競技の世界では知られた学校です。しかし、平成26年の宮城県大会を最後に優勝から遠ざかっており、今年こそV奪還を目指し、マイコン制御部ロボット班の生徒達と指導の職員は一体となり準備、練習に取り組んできました。そして、その成果を問うべく臨んだ大会だったのですが、厳しい結果となってしまいました。

 ロボット競技は、技術工作力をはじめ総合力が要求されるものです。規定条件下でロボットを製作し、3人一組のチームで制限時間3分内で用意されたコート上の課題をクリアしていきます。特に今回は、最後の難関として、新潟県の特別天然記念物「朱鷺(とき)」の飛来をイメージした課題があり、ロボットから輪を射出して所定のポール(棒)に入れなければなりません。大会に向けて、生徒達はロボットの調整、改良に努め、操作の練習を繰り返してきました。しかしながら、初日の公開練習時からロボット機器の不具合が発生し、不安定なまま競技に突入せざるをえませんでした。

 御船高校の生徒及び職員は最後まで努力し続けました。機器の不具合が判明し、長岡市内で材料を購入し、ホテルに帰ってから簡単なコースを廊下に設け、職員と生徒が調整作業に没頭しました。諦めないその姿勢を見ていたので、1回戦敗退が確定しても私は充実感のようなものに包まれていました。

 また、今回も「東京御船会」、「関西御船会」など多くの同窓生の皆様が遠路、長岡市の大会会場まで応援に駆けつけてくださいました。何と御礼を申し上げてよいかわからないほど感激しました。敗退が決まった後も、部長の上田君(3年)はじめ生徒達を温かく励ましてくださり、心より感謝申し上げます。

 全国大会に出場した2台のロボット「御船A天神」と「御船B龍鳳」は無念にも動きを止めてしまいましたが、これが新たな始まりです。不死鳥の如く、御船高校は次のロボットを創り出していきます。そして、来年の全国大会を目指します。前進あるのみです。

 

「動員学徒殉難の碑」慰霊祭での校長挨拶

 「本日、御船町副町長 野中眞治様、御船高校同窓会長 徳永明彦様、そして「天神きずなの会」の皆様をはじめ関係各位のご出席のもと、令和元年度の「動員学徒殉難の碑」慰霊祭を開催できますことは、本校にとって誠に意義深いものがあります。

 本年、4月をもって平成の世が終わりました。「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに安堵しています。」との天皇陛下(現 上皇陛下)のお言葉に多くの人が胸を打たれました。かつて我が国において戦争の時代がありました。

 昭和16年(1941年)に勃発した太平洋戦争の期間、学校も戦時体制に巻き込まれました。旧制の県立御船中学校の男子生徒たちは、学徒勤労動員として、昭和19年10月20日に学校を離れ、長崎県大村市にある海軍の工場へ赴きました。そして25日、アメリカ軍爆撃機B29の大編隊による空襲を受け、10人の生徒が亡くなりました。さらに翌年2月には、福岡の飛行機製作工場での過酷な労働の中、1人の生徒が病気で亡くなりました。

 戦後20年がたった昭和40年10月25日にかつての同級生の方達の発意で御船高校に動員学徒殉難の碑が建立されました。以来、毎年10月25日には、碑前において式典を執り行ってきています。

 時は流れても、忘れてはいけない歴史を伝えるためにこの「動員学徒殉難の碑」はあります。今日の式典には、全校生徒を代表し生徒会の生徒達が出席しております。志半ばで斃れた先輩達の魂に、後輩の皆さんは守られていることを知っておいてください。

 去る9月16日に、長年「天神きずなの会」のお世話役として御尽力されると共に本校華道部を御指導いただいた村上諫先生がお亡くなりになられました。今日、この場に村上先生のお姿が見られないことは、私どもにとって痛恨の極みです。しかしながら、きっと先生も空から見守っておられることと思います。

 本校は大正11年(1922年)に創立され、今年度で98年となります。大正、昭和、平成にわたって熱意ある教師の薫陶を受け、多くの人材が育ち、世に巣立っていきました。平成から令和へと時代は変わっても、「天神の森の学舎」は、可能性豊かな若者と情熱ある教師の出会いの場であり続けます。

 結びに、創立百周年に向けて、御船高校はさらなる飛躍を目指すことをこの碑前にてお誓い申し上げ、御挨拶といたします。」

令和元年10月25日

熊本県立御船高等学校 27代校長 粟谷雅之

 

 

絵のお医者さんがやってきた ~ 被災絵画の公開修復展

 「絵のお医者さんがやってきた ~ 岩井希久子・熊本地震被災作品公開修復展」が、10月26日(土)から11月4日(月)まで御船町恐竜博物館「交流ギャラリー」で開催されます。これに先だって内覧会が10月14日(月)に開かれ、見学してきました。

 「絵のお医者さん」とは絵画保存修復家のことを指し、我が国の第一人者である岩井希久子さんがいらっしゃいました。岩井さんは熊本県出身で、これまでゴッホ、モネ、セザンヌなど数々の名画の修復を手がけてこられました。そして、今回、岩井さんが修復に取り組まれるのは、旧制御船中学校(現 御船高校)出身の画家である田中憲一氏(1926~1994)の作品群です。

 田中画伯は、この「校長室からの風」で既に紹介した旧制御船中学校の伝説の美術教師、冨田至誠の教え子の一人です。中学校卒業後は絵の道ではない進路を目指していた田中氏でしたが、「田中、君の色彩(いろ)は良かったがね」との冨田先生の一言が重く心に響き、後に美術教師、画家となり、絵の道に傾斜していきました。そして、晩年は故郷御船町で「くまもとミフネ美術工芸倶楽部」を結成し、地域の文化活動発展に寄与されました。

 平成28年の熊本地震は、震源地(益城町)に隣接する御船町に大きな被害をもたらしました。すでに田中画伯は故人となっておられましたが、御船町滝川の田中画伯の旧アトリエは全壊し、そこにあった作品群は大きなダメージを受けました。そこで、「くまもとミフネ美術工芸倶楽部」の会員をはじめ有志の方達が一か月後に現場に駆けつけ、屋根の瓦をはぎ隙間をつくって作品を一点ずつ搬出されたのでした。このことは、田中憲一画伯がいかに地域の方々に慕われていたか、そしてその作品は地域のかけがえのない文化財と認識されていたかを示すものだと思います。その後、救出された絵画は、御船町の協力も得て筑波大学(芸術系)及び絵画保存修復家の岩井希久子さんの手によって修復が始められたのです。

 今回の「絵のお医者さんがやってきた ~ 岩井希久子・熊本地震被災作品公開修復展」は、田中憲一画伯の甦った絵が披露されると共に、岩井希久子さんによって実際に絵画が修復されている様子を会場で見学することができます。岩井さんに御挨拶したところ、「絵画に関心がある高校生の皆さんに見に来て欲しい」と私に言われました。誠に有り難い機会と思います。

 御船高校芸術コース美術・デザイン専攻では、10月30日に2年生、11月1日に1年生と3年生が授業の一環として展覧会を見学することにしました。岩井希久子さんのプロフェッショナルのお仕事ぶりに生徒達は感銘を受けることでしょう。