昭和45年から平成29年7月まで、私たちの生活を支えてくれた思い出深い寄宿舎棟も、今は新たなスタートに向けて解体、準備が進められています。
先日執り行われた閉舎式に続き、たくさんの方々から思い出話や感謝の言葉、名残惜しい声が、メールやFAX、手紙等を通じて寄せられました。
一部ではありますが、こちらで紹介させていただくと共に、熊本県立盲学校寄宿舎の歴史や伝統、思い出を語り継いでいきたいと思います。
御寄稿いただきましたみなさま、ありがとうございました。
M様より 「双葉会のことども」
桜の花と いさぎよく もみじの色と 麗しく
明るく強く 伸び揃う 若き命に 光あり
熊本県立盲学校寮歌の3番の歌詞です。由来は、出水町937(現在の熊本テルサの場所)の男子寮の周りには桜があり「桜寮」、女子寮の前には紅葉の植え込みがあったそうで「紅葉寮」と言ったことから、その中で暮らしている生徒たちの自治寮を「双葉寮」、学期の終わりに催される演芸会を「双葉会」と呼びました。
戦時中で、学校では流行歌を歌うなどもってのほかの時代でしたが、この会には寮生の良識を信頼していたのか、舎監の先生もノータッチで、ありとあらゆる芸が繰り出されていました。そして、そこから鍼灸あん摩師、ほか有能な先輩方が巣立って行かれました。
今回、寄宿舎が新設されるとお聞きしました。寮歌の4番に、
情けに睦み 自治に生く 寮の集いに 栄あれ とあります。
熊本県立盲学校、そして、創立以来、学校に付属している寄宿舎ではありますが、時代の変遷に伴い、その役割も変わっていきますが、その時在籍する生徒にとって本当に適合した寄宿舎ができることを心より願っております。
M様より
私が小学生の1、2年生の時は毎週月曜日、親と別れる時に泣いていました。
寄宿舎の部屋は、畳の部屋が8人、ベッドの部屋が4人で満室状態でした。卒業の時は、ベッド付の畳の4人部屋が2人の状態でした。
寄宿舎の行事を紹介します。
4月 新入生歓迎会 6月 寄宿舎まつり
7月 双葉会総会 9月 つきみ野綱引き
10月 寄宿舎スポーツ大会 12月 年忘れ会、双葉会総会
2月 節分豆まき 3月 双葉会総会、送別会
毎月 誕生会 毎週日曜日 ラジオ体操、ゴミ拾い
そんな中での私の思い出は、ピンクレディーのUFOを踊ったり、英語劇をしたりした事で、今でも覚えています。
最後に思い出を言うと、私は野球バカで、女性には全然モテませんでしたが、他の方は自習後の食堂の机を挟んで、男女交際が6組ほどいらっしゃいました。私は横目で見て、インスタントラーメンを作って食べていたことを思い出します。
皆様に言いたいことは、いろんなことを寄宿舎でやっていろんな思い出を作ってください。それが卒業してからの大きな思い出になります。それと、ぜひ寄宿舎の歌や校歌を長く長く続けてください。
いろんなことを言いたいのですが、これ以上書くと泣いてしまいそうです。熊本県立盲学校寄宿舎ありがとう、さようなら。
I様より
中学校を卒業し初めて親元を離れての生活だったので、最初の頃は不安と寂しさでいっぱいでした。その頃は、ほとんどの人がまだ携帯電話を持っていない時代で、みんな事務室の前の公衆電話を利用していました。私も、テレホンカードを使って家族と話すことが日課になっていました。
今まで、家族以外に「いってきます」、「ただいま」を言ったことがなかったため、少し恥ずかしい気持ちがありましたが、日が経つにつれて寄宿舎生活にも慣れ、先生にも違和感なく挨拶できるようになりました。当時、親と同じぐらいの年齢の先生が多く、学校生活や部活動のことをいつも親身になって聞いてくれ、安心感がありました。
寄宿舎といえば、冬になると暖房機が「カタン、カタン」と大きな音を立てながら、部屋がじわじわと暖まってくるのがとても珍しくて記憶に残っています。行事も誕生会にマンドリン演奏会、夏祭り、もちつきなどたくさんありました。特に誕生会は、食いしん坊の私にとって毎月違う種類のケーキを食べられるのがとても楽しみでした。それから、果物や飲み物、和菓子、洋菓子などなど学校から帰ると曜日によって変わるおやつがあったのも楽しみの一つでした。
夜は、自習時間が終わるとみんなで食堂に集まり消灯になるまでおしゃべりしました。共同生活は規則を守ったり、思い通りにいかないこともありましたが、寄宿舎で過ごした3年間はとても充実していました。
そして、私は夢を叶えるため、普通科を卒業すると同時に寄宿舎を離れました。8年後、私は盲学校で針・灸・按摩マッサージ指圧の免許を取得するためまた寄宿舎に入ることになりました。久しぶりの寄宿舎は、以前と変わりなくすごく懐かしいなぁと思ったら、事務室の前にあった2台の公衆電話がなくなり、「カタン、カタン」と音を鳴らしていた暖房機の姿もなく、その代わり部屋にはエアコンが設置されていました。普通科を卒業して8年。その間、私は保育士として働き一児の母になりました。それと同じように寄宿舎も少しずつ変化してきたんだなぁと時の流れを感じました。
以前お世話になったほとんどの先生は、定年退職をされていました。私も年を重ね、寄宿舎の先生と年齢が近くなったことで、育児の話をしたりすることもありました。
寄宿舎の建物も私も変化していっていますが、変わっていないところもありました。それは、毎月の誕生会にマンドリン演奏会、夏祭り、カラオケ大会やもちつきなどの行事です。夏祭りやもちつきには息子も一緒に参加して楽しかったのを覚えています。
理療科を卒業し、寄宿舎を離れてもう5年。私は開業しました。寄宿舎もこれからまたどんどん変化していくでしょう。これから新しく変わる寄宿舎への期待と、6年間お世話になった現在の寄宿舎に感謝の気持ちを込めて。
後輩のみなさんへ。今、みなさんは夢や目標に向かって毎日勉強を頑張られていると思います。迷ったり不安になったときは、一人で悩まず、寄宿舎の先生や舎監の先生方に話してたまには息抜きしてくださいね。応援しています。
K様より
私は、普通科と専攻科理療科の計6年間寄宿舎にお世話になりました。
最初の頃は専攻科の大人さんが多いことに驚き、どうやって接していったらいいか全くわかりませんでした。
しかし、どの先輩方も自分を弟や息子のように大事にしてくださったおかげで寄宿舎にも慣れ、楽しく過ごすことができました。
また、私は普通科の頃から専攻科に進むことを決めていましたが、先輩方からの専攻科の勉強の難しさや卒業後の選択肢などのアドバイスも頂き、改めて進路について考えるきっかけになりました。専攻科に入ってからもより良い用語の覚え方、施術の指導、治療院の見学に行かせて頂けるなど多くの場面で助けて頂きました。
今、私は、熊本市内の治療院で働いています。そこも卒業生の紹介で働いています。せっかく寄宿舎にいるのですから、いろんな方との良い関係を築いてください。在学中、そして卒業してからもきっと助けになりますから。後で後悔したって、今のこの時間は今だけです。大事に楽しく過ごしてください。
H様より 「寄宿舎の思い出」
中学3年の1学期で出水町の寄宿舎生活を終え、2学期から新しい寄宿舎に入った。
中学の卒業式が終わって部屋に戻り、帰宅の準備をしていた時、誰かが「ベランダに何かが落ちてるよ」と言ったので外を見ようとしてサッシの窓を割った記憶がある。
高校時代は2段ベッドになった。壁にフックを取り付け、上段ベッドのフレームとの間にナイロンテープを張って布団棚を作った。枕元には20Wの蛍光灯を取り付け明るくした。ベッドの内側には暗室用カーテンを取り付けて、夜中に電気をつけても目立たないようにした。
この3つは私が始めたことである。2階のベランダから屋根に上ってFMアンテナを取り付けたり(夏休みに台風で飛ばされました)、UHFアンテナをベランダの手摺に取り付けて、コンバータとラジオでテレビ番組を聴いたり等、楽しい思い出がいっぱいです。
A様より 「ありがとう寄宿舎」
私の寄宿舎での一番の思い出は、高校生のM君に、近くのコンビニまで規則を破っておやつを買いに行かせていたことです。私とM君は柔道部の練習で疲れ果て、勉強時間が終わる夜9時過ぎには、共に甘い物を食べなくては暴れだしそうでした。
「M君、行けるか?」
「はい、もちろんです」
気持ちはいつも通じ合い、寄宿舎を抜け出して、コンビニまでほぼ毎日買いに行かせていました。
しかし、悪いことは続かないもので、寄宿舎の先生に見つかり、熱いお灸を据えていただきました。自分でも、心の中で鍼10本くらい飲みました。
それ以来、私は改心し、勉強にも真面目に取り組み、柔道でも結果が残せ、おまけに15年経った今、盲学校の先生として生徒の指導にあたっています。寄宿舎での経験を大いに活かしています。ありがとう、寄宿舎のみんな。ありがとう、寄宿舎の先生。
Y様より 「熊盲寄宿舎、お世話になりました」
二人の息子を小学部よりお世話になりました。
週始め週末、寄宿舎に送迎して仕事をつづけ、高等部を終えました。入学したての頃は、自宅から送り出す時、「地域の小学校に通ってたら、こんなに寂しい思いもしなくてよかったものを」と、切なく自責の念にかられました。連れて帰る車中で、「今日は〇〇君が遊びに来るかなあ」と幼稚園の友達を心待ちにするものの、来ないことが増えました。「きっと用事があったんだよ」と言って紛らしていました。
一方、学校に慣れてくると、盲学校のできごと、舎でのことが多く聞かれるようになりほっとしたものです。舎では、一年生の時から自分の物の洗濯もして、片づけることも教えてもらいました。家にいたらきっと私がしていました。長じての一人暮らしに困らない力をつけていただき、感謝しています。
その頃は、同年代の子どもさんが多く、毎日が修学旅行のようで、家が恋しくなる間もなく、にぎやかだったようです。
舎の行事は、もちつきやたこあげなどたくさんありましたが、今も心に残っているのは、熊本マンドリン協会の演奏会です。仕事を終え、山鹿から参加しました。子どもたちとのコラボも楽しみでした。長男は笛吹を職業としていますが、この体験はとても大きな影響を受けたのではないかと思います。
子どもたちの成長を見守り続けてくれた思い出の舎が閉じるとのこと、愛情の念でいっぱいです。